第1話 父と稽古と、妹と


 クシェルの出産から十年後。

 朝焼けに呑まれる大地、地平線より顔を出した太陽が空を白く染め、満天を濁して夜を西へと押し上げた。


 雲一つない澄んだ空に響くのは、目覚めた鳥たちの心地よい囀り――……などではない。

 天高く鳴り響くは鍛鉄にも似た剣戟の音。

 冷え、渇いた大気に激しく打ち鳴らされ、凄まじい速度にて剣は交わり炸裂していた。


 衝撃の中心にあるのは二つの人影。

 その人影の正体は、父と俺だ。向かい合う互いの手には木剣が一振り。

 これは稽古だ、俺たちはほぼ毎朝日の出に合わせて家を出ては、村から離れた平地でこうして剣を合わせていた。

 有事の際に備えてと物心ついてすぐに始まった朝稽古は、十年以上も途切れずに続いている。初めこそ渋っていたが、今では欠かせぬ習慣となった。


「はああああ!」


 雄叫びと共に、暴風雨さながらの乱撃を父へと浴びせるが、父はたった一本の腕を鞭の如くしならせその全てを相殺する。瞬く間の攻防は衝撃となって周囲に爆ぜた。


「どうした! そんなものか、ヴォルフ!」


 数合の交わりを経て、父から叱責ともとれる喝が放たれた。


「まだまだっ」父の言葉に応えるべく、強く握りしめた木剣を上段より激しく打ちおろす。

 速度と腕力、そして体重を乗せた、文字通りの全身全霊。

 実の父親といえ手心は一切ない。父はまだ余力を残しているのだろうが、少なくとも俺は全力で剣を振るっている。

 ……振るってはいるのだが。


「いいぞ、ヴォルフ! 次だ!」


 父は俺の渾身の一撃を難なくいなし、涼しい表情で反撃した。

 予想しない返礼に反応が遅れ父の突きが首筋を掠める。いかに角を潰した木剣でも、剣先に宿る殺気は本物だった。仮に直撃したらどうなることか。隻腕でこれかと、冷や汗が額に滲む。


「臆したのか」


 じりじりと後退する姿を見て、父は俺が気圧されているのだと感じたようだ。あるいはこちらの思惑を見抜いた上での挑発なのか。

 どちらにせよやることは同じだ。先ずは距離を取り、呼吸を整えて父の出方を窺う。


 父と自分、一回り以上の体格差もそうだが、それ以上に技量が違い過ぎた。

 鍔迫り合うのは悪手と理解していた。父の全身を視界に収め、機微を観察する。

 筋骨隆々とまではいかずとも鍛え抜かれた父の肉体は鋼そのもの。

 極限まで無駄をそぎ落とした肢体。戦うために最適化されたしか思えない肉体は恐ろしい圧力を放っていた。 


 ……どうやって切り崩したものかな。

 

 付け入る隙はあると言えばある。

 父の唯一の弱点、それは構えの右側面に生まれる空間。つまりは、失われた右腕にある。

 隻腕である父の構えにはどうしても偏りが生じてしまう。

 父は最大限均衡を保って鍛えてはいるが、如何なる矯正を行おうと隻腕の事実は揺るがない。

 だが信じ難い事に本来ある筈のその不利を、父は高い技量で補填していた。


 やりにくいことに父は無理に距離を詰めようとはしない。

 ゆらりと構えを崩し、脱力する様は余裕に満ち満ちている。

 汗一つない姿に思わず舌打ちが漏れた。

 改めて見れば父の動きは非常に緩やかであると分かる。

 例えるならば嵐が過ぎた後の鎮まった海のよう。見れば見るほどに、美しい動きだった。

 だが緩慢にも思えるその動作にこそ、途方もない威力が込められていた。

 こちらの如何なる攻めにも動じず、ただ一撃を以て盤面を覆してくる。


「もう万策尽きたのか」


「まさか、度肝を抜いてやるさ」


 凍てる大気が手足といった末端の感覚を奪おうとする。灰で固めたように動作が重たい。

 深呼吸を一つ。

 春を迎えたといえ冬の気配は色濃く残っていて、吐き出した息は白く煙った。

 意識を開き全神経を父の挙動、その一点に絞り込む。

 視界がぼやけ、父の輪郭のみが縁取られる。

 雑音が身を潜め、耳の奥では無音が鳴いた。

 感覚が尖っていくのをはっきり感じる。時は圧縮され、思考のみが際限なく拡がっていく。


「っっふ」父が息を吐いた瞬間、ついに俺は駆けだした。


 先手必勝、左膝下を狙って容赦なく木剣を振るう。

 反応が遅れた父は身を逸らして距離を作ると、寸でのところで俺の攻撃を防いだ。


「素晴らしい剣速だな、踏み込みが鋭くなった」


 父の感嘆も束の間に、俺は尽かさず次の攻撃に移った。今度は右の脛を目掛け踵を突き出す。


「懲りないやつだな」父はどっしりと構え、見事に蹴りを受け切った。やはりダメージはほとんど無い。まるで大木か岩でも蹴っている気分になる。


「いい狙いだが、軽すぎるな」


 堅牢さをアピールするように父が笑う。


「そりゃあ、ね」


 全力で打ち込んでも決定打には至らない。

 父と俺では文字通り、大人と子供の戦力差があるのだから。

 であればつまらない読み合いは不毛。探り合いは性に合わない、だから戦法は極めて単純明快。ひたすらに攻め続ける、これだけだ。

 

 大きく息を吸い込んで突貫する。

 今度は頭部へ、次は腹部、背面、足払いを仕掛けて、再び頭部を狙う。時には持ち手を変え、フェイントを混ぜてタイミングをずらす。有効打とは言えずとも、切っ先が微かに擦れる感触があった。もう半歩、距離が遠い。


「はは、やるじゃないか」


「まだ、こんなもんじゃない!」


 俺の方が小柄な分、瞬間的な速度では優位を取っている。

 ならば最大最高の剣速で、常に死角を取り続ければいい。単純故に最も有効な戦法。

 いわゆるヒットアンドアウェイ。ただし攻撃と後退のサイクルは極めて速い。最高速度を維持することで、互いの剣界を支配する。父の間合いを熟知すればこその戦法。


 流石の父もやりにくいのか笑みはいつしか消え失せ、微かに目尻が歪み始める。

 ――――ぐらり、と視界の端が白く霞んだ。ほぼ無呼吸での最速攻撃。確かに有効な手段ではあるが、当然の如く長くは続かない。いわば諸刃の剣だ、一度でも間を置けば、大きな反動に見舞われるだろう。


「一気に決める!」


 己に喝を入れ、回転をさらに加速させる。

 父の上半身にまとめて攻撃を繰り出し、意識を散らしたタイミングを狙って勝負に出た。

 体勢は低く、地面に這いつくばる様な格好から、怒涛の剣撃を伴って上昇する。


「うお」


 圧倒的な速度に物を言わせた飽和攻撃がやがて父の技量を上回る。

 愚直なまでの攻勢がついに父の上体と得物を押し上げるに至った。

 ここだ。

 初めて感じる父の焦燥に好機を捉える。

 千載一遇、やっと手にした間隙を縫って強襲する。


 上体を父の懐に一気に滑り込ませれば、開いた脇下に従うべき軌跡が視えた。

 父は仰け反った上体をそのまま後方へ逃がそうとしたが、少し遅い。

 軌跡を辿って木剣を振るう。

 直撃の確信があった。


「惜しいなぁ」父の身体に木剣が到達しようという刹那、そんな台詞が聞こえた。

 直後、父の膝が俺の鳩尾を深く抉る。

 接近するあまり置かれた膝が見えていなかった。勢いがそのまま跳ね返ってくる。


 臓腑は押し上がり、肋骨がしなる。

 激痛と不快感が一気に喉奥へとせり上がった。

 今にも口から溢れそうになる物を無理やり飲み込んで、もう一度攻めに入る。

 僅かに間合いが生まれたが、未だ父は己の剣界。本能が木剣を奔らせる。

 しかし改めて振られた俺の攻撃が父に届くことはない。

 辛うじて鼻先を掠めはしたが、ほとんど空振りに終わった。


 詰められない距離では無かった。

 あと半歩、たったそれだけでも、踏み込めていたら。

 足が前に出なかった。

 結果、上半身だけで父を追う羽目になったのだ。

 妙な圧迫感をつま先に覚え、下を向く。


「なるほど、そういう」


 気付かぬ間に父に爪先を踏まれていた。

 だから踏み込めなかったのだ。全く気付かなかった……父の隙を作ったつもりが、誘われていたのはこちらの方。

 俺の首筋には木剣が添えられていた。

 足を止めた途端、耐え難い息苦しさが襲ってくる。全力で動き続けた反動だ。

 対する父は額に汗こそ滲んでいたものの、息一つ乱れていなかった。


「参りました」


 力無く膝をついた俺の手から、木剣がするりと落ちる。

 緊張から解放された肉体は休息を求めているのか、重い疲労感が舞い込んでくる。

 もう一歩だって歩けそうにない、足腰がガタガタだ。籠った熱を開放せんと、全身からは湯気が立っている。


「かなり良かったぞ、ずいぶんと腕を上げた」


「そうかな。そうは、思えないんだけど」


「ああ、特に最後の攻めは気迫があった。久しぶりにひやりとしたよ。ただ強いて言えば、繋ぎの動作がまだ固い。あれでは急な攻勢に反応できないだろうから、もう少し重心を意識して動くといい」


 ありがたい助言も素直に聞く気にはなれない。

 勝てるとまでは思っていなかったが、それでも多少の手応えは感じていたのに。

 呼吸の度に骨の髄が軋む。

 先程の膝蹴り、折れてはいないだろうが容赦がない。


 父は沈んだ俺を「気に病むなよ」と慰めるが、そう簡単に割り切れそうはない。

 齢四十に迫る父の動きは全盛期に遠く及ばないはずなのに、一向に追い付く気配が無い。いつか父に勝てる日は来るのだろうかと弱気になる。


「ヴォルフ、お姫様のお出迎えだ」


 しばらく塞ぎ込んでいた俺の肩を父がそっと揺する。

 鬱陶しく思いながら顔を上げれば、逆光を背に小さな天使が立っていた。


「おはようございます」


 大きな革の水筒と布切れを抱えて現れたのはヴォルフよりも頭一つ分は小さな女の子。


 陽光を浴びた白髪は光を纏い、淡雪のような輪郭が背景に溶けている。

 静脈が浮くほどまっさらな玉の肌。

 一際目立つ翡翠の瞳は果ての無い深さを覗かせる。

 何処となく現実離れした雰囲気を漂わせる少女――クシェル。


 この世界でたった一人しかいない、俺だけの妹。


「兄さん、雨に降られたみたい」


 くすり、とクシェルが奥ゆかしく微笑んだ。

 はにかむ彼女を見るだけで、全身を襲う疲労が嘘みたいに去ってゆく。


「身体が冷えてしまいますから、どうぞ使って下さい」


 クシェルは抱えた荷物を俺に手渡すや否や、すぐ隣へとしゃがみ込む。彼女の動きに光が追従して残滓を散らした。まるで、クシェル自身が白光を放っているようだ。


「ありがとう」クシェルから受け取った手拭いを使い、汗でずぶ濡れの身体をくまなく拭く。


「しかし兄さん、朝から精が出ますね」


「まあ、いや、たった今打ち拉がれていたとこなんだけど」


 意気消沈した俺の手をクシェルは強く握ると、いつの間にか水筒に口を付けている父を睨み付けた。視線を感じ取った父はぎょっと目を見開いて、ばつが悪い顔でそっぽを向く。


「父さん? 兄さんを痛めつけるのは止めてください」


「おいクシェル、それじゃまるで、父さんがヴォルフをいじめているみたいじゃないか」


「違うのですか」


 ぴょん、と立ち上がり、クシェルは狼狽する父へ詰め寄った。

 凄い眼力だ、あの父がすっかり委縮していた。

 剣を交えていた時の剛勇さはかけらも感じられない、まるで別人のよう。待望の愛娘が相手となれば、流石の父も分が悪い。


「クシェル、大丈夫だよ。嫌々やっているわけじゃないんだから」


「兄さんは、ぶたれるのが好きなのですか?」


「そういうわけじゃないけど。この稽古は俺にとって大切な事なんだ。だから、な?」


 父のフォローに入るも、どうにも納得できない様子の彼女は「むうぅ」と頬を膨らませた。クシェルは俺と父の稽古には否定的で、どうにも俺が傷つくのをよく思っていないようだった。


「あ、そうだクシェル、今日の朝食は何かな? 腹ペコでさ」


 まだ父へと恨みがましく視線を送る妹の気を逸らすべく、多少わざとらしくもあったが話題を切り替える。実際に腹は空いているのだ。何せ夜明け前から起きて全力で剣を振るっているのだから、喉も渇けば腹も減るというもの。


「では早く戻らないと。せっかくのシチューが冷めてしまいます」


「シチューか、そりゃあいいね。大好物だよ」


「ふふん、そう思って、いっぱい用意しました!」


 陽気を帯びて赤く染まった頬が、これでもかと吊り上がる。

 底抜けに明るいクシェルの姿は、背後に重なった朝日と混じって彼女そのものが太陽であるかに錯覚させた。いや、もしかすると本当にそうなのかもしれない。


「ほら兄さん、早く立って。置いていきますよ」


 クシェルに袖を引っ張られ、半ば無理やり立たされる。踏ん張りが効かずにあわや転びそうになった。「小鹿みたいですね」と感想を残したクシェルはひらりと身を翻して鼻歌交じりにスキップを踏んだ。

 だんだんと光の影に呑まれるクシェルの背を、遅れないように父と追いかける。

 クシェルの足取りは軽く、見る見るうちに距離は開いていった。

 父はクシェルに冷たくされたのが余程堪えたらしい。あからさまに落ち込んで、頻りに溜息を吐いていた。


「父上、情けないよ」


「クシェルはどうにも、母さんに似てきたなぁ」


「それなら、とびっきりの美人になるね」


 もっともクシェルは今でも充分に美人なのだが。いや、まだ美人というよりは綺麗や可憐という方が適切か。幼さこそ残るが、自分と同じ年の頃には目も眩む美女となっているに違いない。


「なにも性根まで似なくてもいいんだけどなあ」


 軽口で応じる俺に反して、父の口調は鬱屈としていた。


「兄さーん、早く早く!」先を行くクシェルがこちらに向け手を振った。「すぐ行くよ」と返事をしたものの、父と俺の歩みは鈍い。縮まらぬ差に痺れを切らしたクシェルは踵を返して戻ってくる。


「二人とも遅いですよ」腰に手を当ててむくれる彼女へ「クシェルが早いんだよ」と苦笑い。


「兄さんは軟弱者ですね」


 辛辣な一言が胸を抉る。多分、悪気はないのだろうけれど。冷気と相まって鋭さを増しているようだった。

 ぼやいたクシェルは何を思ったのか、隣に並び身を寄せてくる。汗で湿り、べたついた俺の肌とクシェルの柔肌が接触する。いつものことだが、随分と距離が近い。


「汗臭くないか?」


「そんなことありません、落ち着きます」


「いや、だからって嗅ぐなよ」


「えへへ」寄りかかるクシェルが、俺の空いた右手を捕まえた。


 クシェルは手を繋ぐのが好きなのか、隙があると指を絡めてくる。同年代の友達もおらず寂しい思いをしているから、その影響なのだろう。


「クシェルの手は冷たいなあ」彼女の薄い肌はその見た目に違わずひんやりとしていて、心地いい。

 彼女は基本的に体温が低いのだ。

 きっと、冬に生まれたからだな。

 冷え込んだ冬の朝などは指先がかじかんで、彼女はまともにナイフも扱えない。余さずに温めてやらないと。

 握られた手をしっかりと包み込めば、クシェルは呼応して力を強めてくる。


「兄さん、あったかいね」やや甘ったるく、耳障りのいいクシェルの音色。ふと視線を落とせば、顔を隠すほどの白息が、彼女の睫毛を濡らしていた。


「いいなあ、ヴォルフ」


 ふと背後からそんな声が聞こえた気がしたが、俺はあえて反応せず歩を進めるのだった。

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