破滅の旅路を征く者よ
霜月 ひでり
第一章 ~復讐編~
prologue: 妹の生まれた日
――――あれは、寒い冬の夜だった。
父であるラグナルと母のウェスタ、家族三人で夕食を取っている最中だ。
向かいに座る母が前触れもなく、苦悶の表情で呻き声を漏らした。
何事かと席を立って母の隣に寄るが、母は膨れた腹を抱えてその場に蹲ってしまった。
突然の出来事。どうすればよいか見当もつかずに一人たじろいでいれば、大きな手が頭をそっと撫でる。
「すぐに寝台に連れて行こう。ヴォルフ、手伝ってくれ」
焦る息子と苦しむ母を前にしても父は至って冷静だった。
母は荒く息を震わせながらも父の肩を借りて何とか立ち上がり、父にもたれ掛かったような体勢のまま、ゆっくりと隣の寝室に向かう。
「灯りを頼むよ。転ばないように足元を照らすんだ」
「わかりました」
なるべく母に負担が掛からぬように、父は最大限の注意を払って歩を進めた。
俺は父の言葉に従って、燭台を片手に二人を誘導する。
切迫した気配から、これが余程の大事だと感じ取る。
「さあウェスタ、横になって。ヴォルフは暖炉にありったけの薪を焚べておくれ」
寝台で仰向けになった母の顔面は真っ青だった。
額には脂汗が滲み、ぐったりとした様子で頻りに腹部を気にしている。
大きく膨らんだ腹には、新しい子が宿っているのだと母から聞かされていた。
「ははうえ、おなかがいたむのですか?」訊ねるも、思案気な俺を気遣ってか母は無理に笑顔を作ろうとした。只事ではない事態に泣き出してしまいそうになったが、堪えて母の手を握る。手を握れば母の苦しげな表情が和らぐ気がしたのだ。
「そのまま手を握ってあげなさい。ずっとだ、けして離してはいけないよ」
父の言葉に頷いて、精一杯に母の手を握り締める。ほんの少しでも、母の苦しみを緩和できれば良いが。
「ヴォルフ。お前、もうすぐお兄ちゃんになるぞ」
「もしかして、きょうだいがうまれるのですか」
前々から弟か妹が産まれるという話は聞いていたが、それがいつになるのか、また実際にそれが何を意味するのか、この時は分かっていなかった。
「でも、ははうえはだいじょうぶでしょうか?」出産のことは何も分からないが、しかし母の身体が強くないことを俺はよく知っていた。そして母が寝込む姿を何度か目にしていたが、こうまで苦しむ母はかつて見たことが無い。
「大丈夫さ。母さんは強いから」父のその返答は、まるで父が自分自身に言い聞かせているようでもあった。「お腹の子も、きっとお前に会いたがっているよ」
目の前の状況をほとんど理解出来ぬまま出産は始まった。
当時、俺はまだ五歳だった。
◇
何時間経ったのか、いつの間にか窓の外は白んで光の影が何層にも空を分けている。
依然として母の具合は悪く、途切れ途切れに圧し潰すような唸りを上げていた。
父はずっと母の傍で声を掛け続け、俺もまた手を握り続けていた。
母と自分の手は互いの汗でふやけ、時折に母がとてつもない力で握るものだから痺れてしまっている。しかしそんなことよりも耐え難いのは肌を刺すような、厳しく凍てた冷気だった。
暖炉の火はとうに燃え尽き、青く薄暗い室内は強く冷え込んでいる。蝋燭は若干の予備があったので燭台の火だけは辛うじて保持しているが、その熱は余さず母へと注がれている。母はかなり疲弊しているようで、呼吸を整えては力無く力んでいた。
「もうちょっとだから、頑張っておくれ」父がふいにそんなことを言った気がした。母か自分か、どちらに対して放った言葉であっただろうか。その時の俺は朦朧としていて、父の言葉をはっきりと聞く余裕などなかった。
眠らずに夜を越すのは初めての経験だった。ほんの少し気を弛めれば、冷気は一瞬で意識を攫いに来る。
眠ってはいけないと、何度も自分の頬を叩く。
苦しむ母に寄り添ってあげなければならない。もう少しの辛抱だ。もう少しだけ、起きていなければ……。
あわや眠りに落ちそうになる、その直前だった。
鉄を打つよりもずっと高くて、笛の音よりも大きな音が鼓膜を貫いのだ。
朦朧とした意識が一瞬にして現実へ引き戻される。しな垂れた頭を跳ねるように上げて、俺は音の発生源へと顔を向けた。
目に写ったのは父の手によって今まさに取り上げられる、想像よりもずっと小さな赤子。
その赤子の弾けた泣き声は寝室に蔓延った闇を一掃すると、溢れんばかりの光で寝室を埋め尽くした。
膨大な陽光が瞬く間に暖気を運んでくる。
次第に冷気は中和され、やがて室内はほんのりとした温もりに満ちた。
ふと視線を父に流せば、感極まった瞳が静かに潤んでいた。
「ちちうえ、ないているのですか」
「そうだな、つい、嬉しくて」
父の涙を見たのは、多分これが初めてだった。
父は赤子を布に包んで母の胸元へ運ぶと、二人を纏めて抱き締め「ありがとう」と幾度も溢した。母は生まれた我が子を確認するや否や、大粒の涙をこさえて微笑む。
「クシェル。やっと会えたね」
産まれたその子はクシェルと名付けられた。
クシェルは母の語り掛ける声に気付いたのか、一瞬だけ泣くのを止めると、まだ座っていない首をやや傾けて疑問符を伴う仕草を見せた。
「そう、そうよクシェル。貴方の名前。貴方だけの名前なの」クシェルの反応に大層喜んだ母は頬に口付けをしたが、それに驚いたのかクシェルは再び泣き出してしまう。
「あらあら、まあ」
「元気な子だ。顔つきはウェスタ……君にそっくりだな」
「ひょっとしたら、貴方に似てやんちゃになるのかも」
クシェルの泣き声はけたたましくも、不思議と不快感は無い。それどころか俺は泣きじゃくるこの子を、どうにかあやしてやらねばという、妙な使命感に追われていた。
「ヴォルフ。もっと近くで見てごらん。お前の妹だよ」
「ぼくの、いもうと」
「ああ、そうだ。お前は今日から、この子の、クシェルのお兄ちゃんになるんだよ」
実感は無かった。当然だが、今まで妹の兄になどなったことはない、これが初めてだ。クシェルは俺の初めての妹で、また俺もクシェルにとって初めての兄となるのか。
「クシェル……」
近寄って手を差し出せば、小さな掌が俺の指を力一杯に握った。
クシェルの手は新雪のように柔らかく、しかし暖炉の火のようにも温かかった。その温もりを逃がさないように両手を重ねれば、頬が微かに吊り上がって見えた。
「抱いてあげなさい」父か母、どちらかがそう言った。俺は反射的に断ったが、父はお構いなしにとクシェルを預けてきた。恐る恐る、渡された小さな妹を抱きかかえる。
父は「ちょっと軽いだろう」と冗談っぽく笑ったが、まだ子供の自分には十分すぎる重さだった。落とさないように強く、でも潰してしまわないように、出来る限り優しく包み込む。陽光を宿した翡翠の瞳は真っ直ぐに自分を捉えていた。
「――――よろしく、クシェル。これからはずっとおにいちゃんといっしょだよ」
初めて妹を抱いたこの日、こう思ったのだ。
この子の事は自分がずっと守っていくのだと。
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