20.

カシャッ、ジージジジ。


 いよいよ明日が、この家の最後の日だ。家具も全部運び出して、がらんどうになった部屋のひとつひとつを、俺は丁寧に見ている。


カシャッ、ジージジジ。


 何も置かれていない空間というのは、なんて寒々しいんだろう。ここで確かに生活していたはずなのに、幻だったように感じる。


カシャッ、ジージジジ。


 大きな家具のあったところと、なかったところでは壁や畳の色が違う。妙に色が鮮やかな壁や畳と、日に焼けて使われて褪せた壁や畳のコントラスト。


カシャッ、ジージジジ。


 家の中央の柱には、父さんや叔母さんが子供の頃に刻んだ跡がある。年々高いところへ上がって行く横棒に、成長の軌跡を感じた。


カシャッ、ジージジジ。


 こうして歩かなければ、軋むことはない床や階段。もう二度と、誰からも踏まれないことを知っているのか、家の中に響く音はひと際大きく聞こえた。


カシャッ、ジージジジ。


カシャッ、ジージジジ。


カシャッ、ジージジジ―――。



―――――



「じゃあ、お願いします」


 俺は工事のおっちゃんたちに頭を下げた。


 途端に、庭に置かれた重機が動き出した。


 俺は声も知らないじいちゃんの遺影を持って、門のところからこれから起きることを眺めていた。

ガシャン。


 大きな音を立てて、玄関や縁側の庇が崩されていく。あの玄関をくぐったのは、もう半年以上前だった。縁側では、ばあちゃんと日向ぼっこをしたり、賢三さんと煙草を吸ったりした。夏は夕涼みに、冬は暖を取るのに、家の温かさを象徴している場所だった。


ガシャン、ガシャン。


 どんどん壊されて、壁がなくなっていく。その奥に見える階段。俺にあてがわれたのは二階だった。あそこから眺める景色が、実は好きだった。視界に広がる家々に、あれこれ想像したりした。


 バキバキと木の砕ける音も聞こえてきた。軋む床も階段もどんどんなくなって、ただのゴミになっていく。


 ばあちゃんと一緒に過ごした茶の間。このじいちゃんの遺影も飾ってあった。ご先祖様の遺影も飾ってあった。なんだかんだ、ほとんど毎日仏壇に線香を立て、手を合わせていた気がする。ドライフラワーも飾ったし、色んな人がここへお茶を飲みに来た。話し声や笑い声がいつもする場所だったっけ。


 その奥のキッチンは、二階の自室より長く居た場所かもしれない。量の多い朝食も、糠床を初めて見たのも、水の冷たさを知ったのもここだった。煙草を吸うのに、よくそこの勝手口から外に出入りしていたし、ばあちゃんの手伝いをするのにも、この場所を起点としていた気がする。


 瓦礫の煙が時折、風でこちらに流れて来る。古くなった板や土壁の匂いや、瓦やカビのような臭いもしている。壊されていくこの家が、まるで悲鳴を上げているように見えた。


 風呂や、トイレや、階段下の物置、ばあちゃんの部屋、順番に壊されていく。どんどん家の形がなくなっていく。


 まるで、なにもかも、なかったことにされていくみたいだ。


「いやあ、いっそ清々しいねえ」


 ギョッとして後ろを振り返ると、ばあちゃんが運転手さんに手伝ってもらいながらタクシーから降りて来るところだった。


「すまなかったね。はい、これお金」


「はい、ありがとうございました」


「ばあちゃん、何してんの」


 俺は慌てて目頭を拭って、ばあちゃんに聞いた。


「うちの最期の姿を見ないとさ、いけないなあって思って病院抜け出してきたんだよ」


「不良ババアめ」


「なんとでも言いな」


 鼻で笑うばあちゃんの乗った車いすを押して、家がよく見えるところに動かした。


「じいちゃんを連れて来てくれたのかい?」


 俺の手に握られていた遺影をちらりと見て、ばあちゃんは言った。


「美咲のばあちゃんが、『ちーちゃんが立ち会えないのなら、せめて誠さんに見せてあげて』って言うから持って来たんだ」


 そう言って、遺影をばあちゃんに手渡した。


「じいちゃん、見えるかい? うちも綺麗に更地になるんだ。そのあとはいい道になる。……ここを作るのは時間がかかったけど、壊されるのはあっという間だね」


 しみじみと言うばあちゃんが薄着なことに、今更気がついて俺は自分のコートをばあちゃんにかけた。


「寝巻のまま飛び出してくるなんて、ばあちゃんらしくないじゃん」


「きちんと着替えたりなんかしたら、看護師さんらに気づかれちまうじゃないか。これでも考えてんだよ。……自分のうちがなくなるんだ。なりふり構ってられないさ」


「じゃあなんで反対しなかったのさ。そんなこと、わかりきってたじゃないか」


「前にも病院で言ったろう?」


「こんなふうに、大切な思い出とか、今まで大事にしてきたものを目の前で壊されて、それじゃあなんのために、ここまでやってきたんだよ」


「優斗」


「俺はここに来た時、絶対こんな田舎なんか嫌だって思ったよ。なんにもない。こんな田舎で、暮らしていくのなんか無理だって。何もかも中途半端で、面倒くさくて、やってらんねえって言ってればよかった東京から離されて、どうしようもないこんな場所でどうすんだって、俺、思ったよ」


 ガラガラと屋根の瓦が落ちて行く。


「ばあちゃんの付き人だとか、わけわかんないこと言われてさ、朝は早いし、朝飯は食いきれないし、煙草も家の中で吸えないし。友達も居ない。年寄りしか居ない。遊ぶところもない。こんな場所に置いていかれて、財布の金も姉ちゃんに抜かれて東京に帰れなくて、どうすりゃいいんだよって」


 家の悲鳴を吸って、俺は少し咳き込んだ。


「そう思ってたのに、ばあちゃんは俺のこと考えてくれるし、周りに住んでる人とかも、俺のことちゃんと見てくれるし。美咲に話しかけてたのだって、必死で東京での俺を守りたかっただけなのに、いつの間にかそうじゃなくなっていくし。みんな、俺の名前をちゃんと呼んでくれて、俺の目を見て話そうとしてくるから」


 鼻水が垂れてくる。ばあちゃんは黙って俺の話を聞いている。


「俺ってここに居て良いのかもって、俺の居場所は、ここにあるんだって、やっと思ったのに。思ったのに、こんなふうに全部なかったことにされるなんて、やっぱり無駄なんじゃねえの。そういうふうに感じるのも、思うのも、全部無駄で、どうせやっぱり面倒くせえよって、逃げてる方が、よっぽど、いいじゃんか」


 視界の隅に美咲が居たけど、俺の視線は小さくなっていく家から離せない。


「みんな、ここに居た人たちは新しい生活で、俺たちのことなんて忘れるに決まってる。ここで、ばあちゃんが一生懸命生きてたことも、一生懸命町の人を説得していい道ができたことも、そのおかげで未来の奴らが豊かになったことも、全部忘れちまうだろ。なんか意味あんのかよ、このことに」


「そんなこと、言わないで」


 美咲がそう言って俺の手を握った。隣を見ると、美咲は大粒の涙を流して俺を見ていた。


 その大きな瞳に映る俺も、泣いていた。


「意味、ない、だろ。どうせ、やっぱり、面倒くせえよ」


 袖で涙を拭く。なのにすぐに滲む目線の先の家。拭いても拭いても、家はどんどん滲んでいくだけだった。


「まったく、馬鹿だねえあんたは」


 それまで黙っていたばあちゃんが俺を見上げて、優しく言った。


「そういうのは、『寂しい』とか『悲しい』って言うんだよ。一生懸命頑張って来たのに、なくなっちまうのが寂しい。色んな人と関われたのに、また取り残されちまうようで悲しい。そういうふうに言うんだよ」


「誰が、そんなこと」


「そうだろう? 優斗、あんたはあたしの分まで、この家がなくなることをしっかり悲しんでくれたんだよ。なくなることを寂しがってくれたんだよ。あたしが入院しちまったばっかりに、優斗につらい思いをさせて悪かったね。引っ越しの準備から、この家とのお別れまで、優斗一人に背負わせて悪かったよ。ありがとうね」


 ばあちゃんが俺の手を握った。とても温かくて、小さな手だった。


「そんでそのことを優斗は悔しく思っているんだね。寂しいことや悲しいことが、回避できたんじゃないかって悔しく思っているんだ」


 ばあちゃんが俺を握る手に力を込めた。


「だけどね、それを他の言葉で誤魔化しちゃだめだ。寂しい、悲しいって気持ちを、面倒くさいだなんて言葉で誤魔化してはいけないよ。だるいとか、やってらんないって言葉で誤魔化してはいけないよ」


「……っ、…」


 俺の口から漏れるのは、言葉にならない嗚咽だけだった。


「ほら、もう家がなくなるよ。優斗、寂しかったね、悲しかったね。でも最期だからよく見てやるんだよ」


 滲んだ視界の先には瓦礫の山が広がっていた。この瓦礫のひとつひとつに、様々な気持ちが宿っている。俺には知り得ない思い出が宿っている。俺よりこの家や土地のことをよくわかっている人たちの記憶が宿っている。


 俺は、寂しかったのか。悲しかったのか。


 寂しかったと、悲しかったと、素直に言っていいのか。はっきりと認めていいのか。そうなんだと見つめていいのか。


「それだけ一生懸命、優斗はここであたしと、あたしらと一緒に暮らしてくれたんだね。あたしゃこんなに嬉しいことはないよ」


 俺は止まることのない涙に、立っていられずその場に座り込んだ。どうしてこんなに涙が出続けるのかわからない。どうしてこんな気持ちになるのか。


「頑張った頑張った。ありがとうね。ありがとう」


 ばあちゃんはそう言って、子供をあやすように俺の頭を撫でた。その手はやっぱり温かくて優しかった。


 隣に居る美咲も、俺をぎゅっと抱きしめてくれた。でも美咲も泣いていた。俺たち、もう大人なのにこんなに泣いて馬鹿みたいだな。


 瓦礫がどんどん運び出されていく。


 俺たちの家だったものが、どんどん消えてなくなっていく。それを見ていたら、寂しくて寂しくて、悲しくて悲しくて。


「ばあちゃん、寂しい、悲しいよ」


「そうだなぁ。だけどね、今日のことは寂しくて悲しくて、とても苦しいかもしれないけど、これまでのこと全部がなくなるわけじゃないんだよ。かたちのあるものはなくなっても、かたちのないものはなくならないからね」


 かたちのあるもの。家や、家具や、街並みや、写真や、服や、煙草や、酒や。


 かたちのないもの。記憶や、思い出や、気持ちや、見聞きしたものや、感じたことや、太陽の熱や、潮風の冷たさや、湿った風の匂いや。


「優斗の胸に、残っているものがあるだろう? 確かに刻まれたものが、あるだろう? それがなくならないもんだ。それがあれば、それがあるから、また一生懸命生きられるんだ」


 この場所で、俺が知ったこと。見たこと。聞いたこと。変わったこと。触れたこと。味わったこと。それらが脈絡なく頭に浮かんでは消えていく。


 家がなくなる。たったこれだけのことが、こんなに涙を溢れさせるのは、俺がちゃんとしていた証拠として認めてもいいだろうか。しっかり生きれたと胸を張っていいだろうか。


 冬の冷たい風が、うちの匂いと共に俺たちを包んだ。さようなら、と言っている気がした。

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