21.
「忘れもんねえか?」
「あったら戻って来るよ。それか送ってくれたら嬉しい」
うちが解体された日、ばあちゃんはこっそり病院を抜け出したことをこっぴどく怒られた。当然だ。医者にも看護師にも怒られたけど、ばあちゃんは満足そうだった。その後、ばあちゃんは驚異の回復力で一ヶ月足らずで退院した。
そこからばあちゃんと一緒に、新しい家に帰った。手狭になった新しい家での生活は勝手が違って戸惑うこともあったけど、不便さも違和感も笑いに変えてしまうばあちゃんだからなんとかなったんだ。
年を越し、冬が終わろうという今日、俺は東京に帰ることにした。
大学に通い直して、俺ができることをもう一度見つめ直すために。自分や毎日の時間と向き合って、きちんと生きていくために。この町で暮らし、過ごし、生きたことをなかったことにしないために。
「優斗、またすぐ遊びに来いな」
「うん、次来るときは俺が運転する車に乗せてあげるね」
「おう、そりゃ楽しみだな」
にこにこと笑う賢三さん。賢三さんにはとてもお世話になった。軽トラに何度も乗せてもらったし、引っ越しとか、色々手伝ってもらった。今日も、駅までの道のりをばあちゃんが歩くのは大変だからって、乗せて来てくれたんだ。
「いつでも遊びに帰っておいで。うちは狭くなったけど、優斗一人くらいならなんとでもなっからね」
「うん」
ばあちゃんが俺の手を握ってそう言った。
口にはしないけど、ばあちゃんは寂しがってるんだ。俺が東京に帰ってしまうことを。俺だって寂しいけど、でも帰らないといけない。ばあちゃんを置いていくのは少し心配だけど、俺は俺のやるべきことを背負わないと。
「優斗くん」
美咲が俺のことを見ていた。
「気をつけて帰ってね」
「うん。……あのさ」
「なに?」
ばあちゃんと賢三さんが俺たちを見てニヤニヤしているのが視界に入る。だけど、構うもんか。
「ずっと言えなかったけど、俺、美咲のことが好きだ。ここに来た時から。こんな俺と話してくれてありがとう」
「……私こそ、たくさん話しかけてくれてありがとう。優斗くんが居たから、楽しいって思えたよ」
「うん。東京に帰ることがあったら連絡して。俺もここに戻る時は必ず連絡する。ずっと、多分ずっと、美咲のことが好きだから」
「うん、私も。ありがとう」
美咲は笑いながら泣いていた。それが可愛くて、切なくて、俺は思わず美咲を抱きしめた。
華奢な身体は俺にすっぽりと包まれて、少し震えていた。花の香りのような、いい匂いがふわりと鼻をかすめた。
「若いっちゃいいなあ、な、ちよさん」
「この子はまったく、もっとシャンとしなさいよ」
ばあちゃんと賢三さんが茶化してくるけど知ったことか。大切な人には大切と言わないと。そう教えてくれたのはばあちゃんなんだから。
「気をつけて、帰ってね」
「うん。ありがとう」
そして俺は駅からの景色を眺めながら、この町で過ごした風景を見ていた。
色鮮やかによみがえる毎日の出来事。空の色や空気の匂いも一緒に思い出される。たくさんのことを経験したこの場所は、俺にとってかけがえのないものだ。
「じゃあ、またね。行ってきます」
別れを告げて、俺は電車に乗った。
―――――
「ただいま」
一年ぶりの東京。俺は疲れて玄関のドアを開けた。
田舎暮らしで人が居ない生活に慣れていたせいか、人混みに疲れ、音に疲れ、ぐったりだ。まったく気がつかなかったけど、東京という場所はこんなに刺激があるところだったのか。
「おかえり」
母さんが俺に声をかけてきた。
「今日は、お父さんも居るの」
「えっ、仕事は?」
「優斗が帰って来るんだから、休むさ」
母さんの後ろから、父さんが顔を出した。
「わざわざありがとう。あの、話があるんだけどいいかな」
「うん。でも、まずは荷物を下ろしてきなさい」
「あ、うん。わかった」
勝手知ったる我が家だ。二階に上がって自室を開ける。ばあちゃんちから送った段ボールが置かれている。乱雑だった部屋は綺麗に片付けられて、自分の部屋じゃないみたいだ。
とにかく、机の上にカバンを置いて階段を下りた。
「コーヒーでも飲む?」
リビングへ入ると、母さんが聞いて来た。
「うん、ありがとう」
そう言って俺は父さんの向かいに座った。父さんは読んでいた本から顔を上げて俺を見た。そしてパタンと本を閉じ、机の上に置いた。
「はい」
「ありがとう」
母さんがコーヒーを持ってきてくれた。父さんの隣に座る母さん。
俺は一口飲んで、深呼吸をひとつした。
「父さん、母さん、今までごめんなさい。自分勝手に、適当なことばかりやってて、迷惑や心配ばかりかけて、すみませんでした」
「うん、そうだな」
二人は俺を見ていた。
「俺、ばあちゃんのところで暮らして、色んなことを経験した。田舎だって馬鹿にしてたけど、実際は面白くて、楽しくて、あっという間に時間が過ぎてった感じだった」
「そうか」
「ばあちゃんのうちがなくなる時、すごく悔しかった。自分が居ていい場所がなくなるみたいで悲しくて寂しくてつらかった。でも、ばあちゃんは、いや、ばあちゃんだけじゃなくて、あの立ち退きエリアになっていた人たちはみんな、未来のことを見てたんだ」
父さんがコーヒーをすする音がする。
「自分のことしか考えてない自分が、俺は恥ずかしかった。自分のこともまともにできない自分が、俺は恥ずかしかった。だから、ちゃんとしようって思って、東京に帰ってくることにしたんだ」
「うん」
「それで、虫のいい話だってわかってるけど、俺、もう一度大学に通いたい。ばあちゃんが住んでるところみたいな、田舎の人たちにとって役に立つことを、俺はしたいんだ。だけどそれは何ができて、何ができないのか、学ばないとわからない」
「そうだな」
「だから、お願いします。大学に、もう一度通わせてください」
俺はそう言って頭を下げた。沈黙しか聞こえない。耳の内側では心臓が鳴る音だけがしていた。
「優斗」
沈黙の声をたっぷり聴いた後、父さんがそれを破った。
「ばあちゃんのところで本当に色々なことを学んで来たんだな。まず、そこが父さんは嬉しい」
俺は顔を上げた。
「次に大学のことだが、優斗はまだ大学に在籍していることになっている。休学扱いになっているから、申請書類を出せばすぐに復学できるだろう」
「ほんとに? 俺、また通えるの?」
「何年か遅れて卒業することにはなりそうだけどね」
「ありがとう、父さん」
「お礼はさくらに言いなさい。優斗が帰ってきた時に大学へ行きたいっていうかもしれないから選択肢を残してあげてと言ったのはさくらだ。その言葉がなければ、父さんも母さんも自主退学の手続きをするつもりだったんだから」
あの姉ちゃんが。俺のためになるようにと、姉ちゃんが両親を説得してくれたなんて。そういや、ばあちゃんちに連れて行くと計画したのも姉ちゃんだったっけ。やっぱり姉ちゃんには頭が上がらない。
「うん、わかった。ありがとうございます」
「うん。ばあちゃんとこで、本当に変わったんだな。だけど、これから大変だぞ」
「うん、わかってる。でも、頑張るよ、俺。やってみる」
「ああ、そうだな」
何度も頷く父さんと、隣で目に涙をいっぱい溜めている母さん。俺は二人にどれだけの迷惑と心配をかけたのだろう。
もしかしたら、これからももっとかけるかもしれない。だけど今までみたいに自堕落なダメ人間には絶対にならない。それだけは、ハッキリと決めたんだ。
ふとポケットの中でスマホが震えていることに気がついた。取り出して見てみると、着信はタクマからだった。こいつ、いつの間に着拒を解除したんだ。
そのまま見つめていると、着信は切れた。そしてすぐメッセージが飛んでくる。
『よう、帰って来たのか? ハヤトが見かけたって言ってたから。いつものとこで待ってんぜ』
そんなメッセージが表示される。既読もつけずに、俺はタクマの連絡先をブロックした。
「俺、大学に復学申請の書類、何が必要か聞いてくるよ」
「今日くらいゆっくりしたら? 疲れてるんじゃない?」
「疲れてる。けど、もう、動きたいんだ」
「そう……気をつけてね」
「うん」
実際疲れていた。ばあちゃんちから東京のうちまで、そこそこの距離があるし、久しぶりの環境にまだ馴染めてない自覚がある。
それでも、何かをしていたかった。俺は俺のために、誰かのために、できることをしたかった。
「いってきます」
そういって俺は、玄関から一歩、足を踏み出した。
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