5.

「それじゃ、出発しようかね」


 一服していた俺に、よそ行きの服装に着替えたばあちゃんがそう声をかけてきた。


 藍染のゆったりとした上着にクリーム色っぽいゆったりとしたズボンを履いて、グレーのつば広の帽子をちょいっと上げて俺を見ている。


「まだ着替えてなかったんかい? 早く着替えといで。ああそうそう、明日からは着替えてから朝ご飯にしなね」


 あの段ボールから着替えを引っ張り出さなくちゃいけないのか。面倒くさいなぁ。


「これに上、羽織るだけじゃだめ?」


「何言ってんの。外出ってのは他人様に見られて恥ずかしくない格好をするもんだ。家の中にいたって、寝間着と普段着は別にするもんなんだから」


 ばあちゃんにピシャリと言われて、俺は溜息と共に階段を上がった。


 無造作にめくられた布団に、このままダイブして二度寝したい。布団に後ろ髪引かれながら、押し入れの前に押し付けた段ボールを開く。夏物、冬物、生活用品等がわけて入れてあった。冬物までしっかり準備されているということは、俺は本当に帰れないのかもしれない。


 夏物の中には、タグがついたままになっている新品のパーカーやパンツもあった。俺のクローゼットに大した服がなくて、母さんが買って来たんだろうな。


「優斗ー! いつまでかかってんだい!?」


 急かす声が階下から響いて来た。俺はタグのついていない服を引っ張り出して適当に着替えると、急いで階段を下りた。


 玄関の前には準備万端といった様子でばあちゃんが鍵を手に待っていた。玄関の向こうに広がる見慣れない景色と、家の中からでもわかる空の広さに、俺は田舎に居るんだと改めて実感した。


「そんなにたくさん服を持って来たのかい?」


 不思議そうに聞きながら玄関を施錠するばあちゃんの声は聞こえないことにした。


「まずは、スーパーを目指そうかね」


 そう言って歩き出したばあちゃんはどこか楽し気だった。


 家の前の路地を右に歩いて行く。昨日に来た時は左から来た気がするけど。


「ここが荻野さんだよ」


 すぐに丁字路に差し掛かり、真っすぐな道と右手に折れていく道。その角の所を指差してばあちゃんは言った。


「あの人も朝の散歩を日課にしているからね。これからも会うことが多いだろうよ」


「……はぁ」


 俺の溜息をよそに、ばあちゃんは右に曲がって突き進んでいく。


 細い路地がいくつも枝分かれしていて、これは民家に続く道なのか、それとも道としての道なのか、俺には全く見分けがつかなかった。


「そうだ、お参りしておくかね」


 道の先に大通りが見え始めた頃、ばあちゃんは左を指して言った。


 そこには小さな鳥居があって、狛犬が並んでいる。こじんまりとした神社が俺のことを斜めに見ていた。


「おはようございます。孫の優斗がうちに来たんで、ご挨拶に来ましたよ。よろしくお願いしますね」


 ばあちゃんはそう言うと拝み始めた。突っ立っていると横目でじろりと睨まれたので、見様見真似で俺も頭を下げた。


「神様仏様ご先祖様は大事にしなさいよ。その人たちが、今あたしらに何かしてくれることはないかもしれないけど、その人たちのおかげであたしらは生きてんだからね」


 ばあちゃんがそう言うと、さわりと風が吹いた。ばあちゃんの、短く切り揃えた白髪が風になびいた。


「さ、その角の左手がスーパーだ。ここらじゃこのスーパーが一番大きいからね」


 健脚とは、きっとばあちゃんみたいな人のことを言うんだろうな。しっかりとした足取りで、杖もなしに歩いて行く後ろ姿は力強く見えた。


 スーパーの外観はあちこち錆びていて、古ぼけて見えた。滑りの悪そうな自動ドアに吸い込まれていく人たちも年寄りばかりで、この街を象徴しているみたいだ。


「あら、ちよさんこんにちは。こちらはお孫さん?」


「こんにちは。そうなんだよ、東京からちょっと修行に来ててね、しばらくうちで預かってんだ」


「お孫さんが帰って来るなんていいわね~。うちは全然ダメよ、息子だって滅多に帰って来やしないのに」


「何言ってんの、息子さん大都会東京に一軒家建てたんでしょ? 大したもんだよ」


「全然大したことないわよ、まったく盆暮れくらい来てほしいもんだわ」


「そうだねぇ、ま、あとでお茶飲みに来なよ。今は孫と散歩の途中だから」


「あらごめんなさいね、じゃあまたあとで」


「……優斗、挨拶ぐらいしな。こんにちはって頭下げるくらい、誰だってできるでしょう?」


 にっこり顔で別れてすぐ、ばあちゃんは俺に小言を言ってきた。


「例えなーんにもできなくたってね、大きな声でハッキリと挨拶さえできれば、それだけで立派だってなるのよ、年寄りは」


「はいはい」


「はいは一回」


「はーい」


「こりゃ先が思いやられるね……」


 大袈裟な溜息をつくばあちゃん。俺だって溜息をつきたい。なんでこんな面倒くさいことになってしまったのか、嘆きたい気持ちでいっぱいだ。


「やぁちよさん、散歩かい?」


「そうなんだよ、孫が東京から来たもんで案内がてら散歩してるとこさ」


「おお~孫が来たなんてそりゃ嬉しいべ」


「いやどうだかねえ。さ、優斗、挨拶しな」


「……こんにちは」


「声が小さいねえまったく」


「緊張してんだべ、これから慣れるだろ」


「色々迷惑かけると思うけど、よろしく頼むよ」


「もちろんだ、優斗くん、うちにも買い物に来てくれよ」


 大通りを右手に折れてスーパーを背にして歩いてきた最初の交差点には八百屋と肉屋があった。話しかけてきたのは八百屋の方。どちらの建物も雨風に曝されて塗装は剥げ、年季が入っていることがよくわかる。


「この通りは商店街さ、ここから八百屋、肉屋、蕎麦屋に中華料理屋、間に駐車場スペースがあって、コインランドリーと煙草屋が一番向こうの交差点のところさ」


「ふうん」


「あんたは煙草を吸うだろう? 煙草屋の場所は分かってた方が良いと思ってさ」


 別にコンビニがあればいいんだけど。


「コンビニとかないの?」


「そんな便利なもんは近くにないよ。スーパーのところ、右に曲がって来ないで左に行って、その先の交差点を右に曲がってから、信号二つ目のところにあるよ」


「遠っ」


「田舎だからね、しょうがないさ」


 蕎麦屋の出汁の匂いや、中華料理屋の油の匂い、コインランドリーの匂いを通り過ぎて、ようやく次の交差点が見えてきた。


「こんにちは、おばあちゃん、いるかい?」


 そこの角にあった、いかにもな煙草屋で足を止め、ばあちゃんは話しかけた。


 透明なプラスチックには所狭しと煙草が並び、小さく切り取られた小窓の向こうには俺と同じくらいの女の子が座っていた。こんな田舎に、若い子もいるのか。


「ああ、みーちゃんおはよう。孫をね、ちょっと預かることになったんだけど、一丁前に煙草なんか吸うんだ。まったく誰に似たんだか」


「あらあら、それじゃあちーちゃんも嬉しいでしょう」


「どうだかね。そら、優斗、挨拶しな」


「……こんにちは」


「はい、こんにちは。若いねえ、うちの孫と同じくらいかい?」


「うちの優斗は今年二十歳だ」


「あれ、じゃあ美咲と同い年だね。仲良くしてやってね」


「は、はあ」


「しっかり返事をしなって、まったく」


「ちーちゃんとこじゃ大変だろうけど、ここはのんびりした街だからね、都会とは違ってなんにもないけど、ゆっくりしていきなね」


「あ、はい」


「わざわざ出て来させて悪かったよ。それじゃ、また」


「はいよ、気をつけて帰んなね」


 俺がばあちゃんに圧倒されて返事をしたりしてる間、美咲と呼ばれた女の子はカウンターの向こうでぼーっとしているだけだった。俺も面倒くさいことから解放されて、ぼーっとしたい。


「この交差点をあっちに曲がるとうちだよ」


「え、まだ帰らないの?」


「近所を一周しただけでこの街を知った気になったのかい?」


「いや、別にそういうわけじゃないけど」


「一時間くらい歩かないと散歩の意味がないだろう?」


「え、そんなに歩くの?」


「あたしはいつ歩けなくなるかわからないんだから、今のうちに運動しなくちゃね。ほら、今度は海側を歩くよ」


「まじかよ……」


 ばあちゃんは、二十歳の俺より、どうしてこんなに元気なんだろう。


 疲れてはないけど帰りたい。でも帰ったところで家事手伝いさせられるなら、散歩に付き合ってる方がまだマシかもしれない。


 面倒くさいなと思いつつ、俺はばあちゃんの後ろをついて歩いた。

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