4.

「優斗ー! いつまで寝てんの!」


 階段下から声が聞こえる。うるさいなぁ、何時だと思ってんだよ。無意識にスマホを手繰り寄せ、確認すると七時十三分。はっや。


 ごろんと仰向けになる。ぼんやりとした目に映るのは、年季の入った白っぽい板張りの天井と、同じく年を経た四角い電球の傘。どこだ、ここ。


「お、は、よ、う!」


 驚くほどのボリュームで俺を起こそうとしている声。少ししゃがれた、でもよく通る声。


 そうだ、俺はばあちゃんちにいるんだっけ。


 眠い目をこすりながら、昨日のことが思い出されていく。面倒くさいな。なんで俺がこんなこと。つか、昨日の夜、こんな早くに起きるなんて言ってなかったよな?


「ご飯が冷めるから!」


 俺が起きて来るまで、叫ぶのをやめるつもりはなさそうだ。七十を超えたばあちゃんの小さな体から発せられているなんて、とても思えない声量。バケモノか? 妖怪か?


 仕方がないので俺はなんとか布団を押しやり、階下のキッチンへとのそのそ進んだ。


「顔洗ってきなさい」


 席に着こうと思ったらピシャリと言われ、すごすごと洗面所へ向かった。顔を洗い、歯を磨き、寝癖を手櫛で直してみるが好き勝手に伸びた髪は言うことを聞かない。


 諦めて食卓へと戻ると、ばあちゃんはもう席に座って俺を待っていた。


「冬眠から目覚めた熊だって、もっとマシな顔してんべ」


 なぜだか楽しそうに言うばあちゃん。意味わからん。


「いただきます」


「……いただきます」


 ご飯にみそ汁、焼シャケ、焼き海苔、納豆、卵焼きに漬物と、旅館の朝ごはんみたいなラインナップ。普段、朝食べない俺には負担すぎる。こんな朝飯、学生の時だって食ったことない。俺は元々朝が弱いんだ。こんなに食える訳もない。


「よく食えるね、ばあちゃん。てか、朝早すぎない?」


「一日の始まりはきちんとした朝食からだ。しっかり食べて、一日元気に動かなきゃね」


「俺、こんなに食えないよ」


「規則正しい生活をすりゃ、食べれるようになるさ」


 見ていて気持ちがいいほどに、順番にお皿が空になっていく。俺も渋々箸を取って手を付けた。


「こんなに用意するの、大変じゃね?」


「もうずっとそうしてきたから、今更なんとも思わないね。でも今日は優斗がいるから、少し品数多くはしたよ」


 孫は可愛いからねぇと、うふふと笑うばあちゃん。


「今日は優斗が起きなかったから遅くなったけど、毎日七時には朝ご飯だよ。何はなくとも早起きはするもんさ」


「まじ?」


「まじまじ、大マジ」


 俺は頭を抱えた。そして姉ちゃんを心底恨んだ。なんでこんなところに俺を連れてきたんだよ。


「そうねえ、今日はとりあえずご飯食べたらまずは食器洗いかね。あと玄関の掃除」


「え? ……俺がやるの?」


「優斗はあたしの付き人として来たんだろう? だからね、自由なんてないと思いな。やることは山積みだよ。終わったら、あたしに聞いてちょうだい」


 付き人だって? 姉ちゃんはそういうふうに言って俺を置いてったのか? ただこの家で過ごせばいいと思ってたのに。ふざけんなよ。なんでこんな面倒なことを俺に押し付けたんだ。血も涙もない鬼姉め。


「……はぁ」


「返事は『はい』」


「……はいはい」


「一回でいいの。どうしてそんな簡単なことができないかねえ」


 怒ってるわけでもなく、呆れているわけでもなく、ただただ純粋に不思議がっている様子でばあちゃん言った。


 俺が四苦八苦しながら食事を終える頃、ばあちゃんは早々と片付けてゆっくりお茶を飲んでいた。こうして眺めていると、やっぱり七十を超えたババアだと感じる。どうして年を取ると、こんなに湯飲みと急須が似合うのだろう。


 俺は想像もつかない。シワシワのヨボヨボに衰えた自分の姿なんて。俺でもお茶なんかを飲むようになるのだろうか。


「ごちそうさま、は?」


「ごちそうさまでした」


 ばあちゃんに促されて声を出す。


「ばあちゃん、煙草吸ってからでもいい?」


「うちは禁煙だよ。吸うなら外行きな」


 キッチンにある勝手口から外へ出ると、まだ早い時間の日の光が淡く注いでいる。


 煙草に火を点けて、ふうっと吐き出すと日の光が当たって綺麗だった。


 俺、なんでこんなとこいるんだろ。いつもだったらぬくぬくの布団でまだ寝てるよな。


 っていうか付き人ってなんだよ。姉ちゃん、そんなこと一言も言ってなかったじゃん。朝七時って話でもうすごく嫌なんだけど。面倒くさすぎ。


 でも帰る足がない。ここには車も原付もない。電車は金がないから使えない。せめて電子決済ができれば、スマホでいけるのに。


 空き缶に煙草を落として、俺は盛大にため息をついた。こうでもしなくちゃやってられない。面倒くさいことこの上ない。


 ところで、付き人というからにはバイト代とか、出るんだろうか。でもこんなババアの手伝いをしたところで、小遣い程度のもんだよな。


 俺、いつになったら帰れるんだろう。


 そんなことをグダグダと考えながら空き缶に煙草を落として家に引っ込んだ。


 流しにはさっきまで玉子焼きやら焼シャケやらが乗っていた、大小さまざまな皿が積み重なっている。まるでミニチュアみたいだ。〇〇焼きとかどういう種類の食器なのかは分からないけれど、使い込まれていることが感じられる。いや、案外その辺で最近買った食器なのかもしれないけど、この家の中にあっては、長い時間をばあちゃんと共にしてきたような、そんな雰囲気がある。


 家事手伝いなんて、いつぶりにやったのか。水が冷たかった。ああ、面倒くさい。


「おはようございます」


 自分の境遇を嘆きながら玄関の掃き掃除をしていたら、誰かに挨拶をされた。


「あら、千代乃さんは……」


「あ、中に」


「そうなの。お孫さん?」


「えと、はい」


「いつも千代乃さんが掃き掃除してるのに、違う人だったからびっくりしちゃったわ」


「あ、はぁ、すいません」


「お孫さんが来てくれるなんて、千代乃さん、きっと嬉しいわね」


「……ですかね」


「嬉しいに決まってるわよ」


 口元に手を当てて楽しそうに笑うばあちゃんと同じくらいの年のマダム。会釈をして去っていった時、俺は心底ホッとした。知らない土地で、知らない人と話をするのは面倒くさかった。ばあちゃんは毎日、あの人と会話をしているんだろうか。


「終わったよ。知らない人に話しかけられた」


「ああ、荻野さんだね。隣の隣に住んでる人だよ」


「ふうん」


 どこの誰でも、別に俺には関係がない。覚えることが面倒くさいし、覚えている意味なんてない。


「あの人ね、この前のレクリエーション会で、輪投げで一番をとったんだよ」


「何、レクリエーション会って」


「あんたたちで言うところの、老人会だね。年寄りが集まって、わいわいがやがやするんだ。これがなかなか楽しいんだから」


「ふうん」


 ばあちゃんでも、自分たちのこと『老人』とか言うんだ。


「さ、あとは家中を掃除機かけて。それが終わったら近所の散歩をしようか」


「え、散歩とか、別に」


「あんた、この土地のことなんにも知らないだろう? ちょっと買い物行ってきてくれとか頼めないじゃないか。それに年寄りはね、積極的に身体を動かさないといけないんだから付き合いな」


「…………」


 面倒くさい、という言葉が出かかったけど、なんとか飲み込むことに成功した。


 ここはばあちゃんの家で、俺はばあちゃんの言葉に従うしかない。つまり拒否権なんて、ないわけだ。この日本で人権がないなんて、ひどすぎる。……なんて自分を茶化してみたところで、空しいだけだった。


 黒光りする大きくて重い、年季の入った掃除機をかけながら(これはまた物凄く大きな音がした)、俺は盛大にため息をつくことでなんとか自分を宥めた。

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