3.
「優斗、なにか食べる?」
高速のサービスエリアの喫煙所で、ぼーっと煙草を吸っていた俺は姉ちゃんの言葉で我に返った。全然気がつかなかった。
「朝、食べてないでしょ?」
確かに言われてみれば朝食を摂っていない。それ自体はいつものことだけど、今朝はバタバタと慌ただしかった。
『早く積んで』
と叩き起こされた俺は、昨夜の姉ちゃんの言葉が本気だったことをようやく理解した。ばあちゃんの家に行くための荷造りなんか、俺はいっこもしてないのに玄関には段ボールが数個、ちゃんと置かれていた。
どうせ俺のことだから、と、母さんが荷造りをしてくれたらしい。ってか、俺がばあちゃんちに行くっていう話は、突然の話じゃなかったわけだ。姉ちゃんの計画的犯行……実行?ってことだ。
それで姉ちゃんが借りてきたレンタカーに荷物を積んだら、何か言いたげな両親を残してさっさと出発。俺はされるがままで、今、ここにいる。
「姉ちゃんの奢り?」
「うん、いいよ」
弟を叩き出す罪悪感からか。なんて頭をかすめたけど、うちの姉ちゃんに限ってそんなことはない。でも奢ってくれるというなら、まあ、いいか。煙草をもみ消し、スマホをしまってフラフラと姉ちゃんの後ろをついて歩く。
それにしても人が多い。外の売店には、家族連れや、数人のグループがあちこちで塊になっていて賑わいを見せている。外でこれじゃあ、中はもっと混んでるんだろうな。
「メロンパン、それとホットコーヒーを。あ、ブラックで大丈夫です」
あんたはと姉ちゃんに目で聞かれる。
「からあげとたこ焼き、ロールピザとコーラ」
何そのチョイス、と変な顔をする姉ちゃんと目が合った。俺は別にいいだろと思いながら目線を返した。
店頭に並ぶホットショーケースから、次々と取り出される商品たち。パンパンに詰まっているけど、この混雑じゃお昼時には空っぽになるんだろうな。
それらをテキパキと袋詰めしていく店員の動きは無駄なところなんて一つもない。そして早い。俺が受け取り、姉ちゃんが支払いをする。サービスエリアだから、こんなメニューでもそこそこの値段になる。姉ちゃんの奢りだから関係ないけど。
「いい? ソースとか色々こぼさないでね?」
「子供じゃないんだから」
車に乗り込むなり、姉ちゃんが注意してきた。俺は三歳児か。
「じゃあ出るよ」
姉ちゃんの言葉に頷きつつ、俺はたこ焼きを食べ始めた。カーステレオからは相変わらず、姉ちゃんの好きなマイナーロックバンドの演奏がガチャガチャと鳴っている。思い出したように喋るナビの声以外は、そのうるさい音楽と、車の走行音で車内は満ちている。
「なんで、ばあちゃんちなの?」
たこ焼きとロールピザをあっという間にたいらげた俺は、ふと姉ちゃんに聞いてみた。景色は大都会の高層ビル群から、田舎らしい田園風景に変わってしばらく経つ。同じような景色ばかりで、いい加減俺も飽きていた。
「最後に行ったの、多分小学生くらいだし、ばあちゃんとの思い出だってあやふやなんだけど」
道中、俺は考えていた。ばあちゃんとの思い出を。でも思い出されるのは、挨拶をちゃんとしろとか、靴は揃えろとか、箸をちゃんと持てとか、早く寝ろとか、そういうことばかりだった。肝心の、ばあちゃんがどんな人だったかとか、そういうのをあんまり覚えていない。遠い昔のことで記憶は朧気だ。
「ばあちゃんね、一人暮らししてんのよ」
はぁ? なんの話だよ。俺の質問の答えになってない。俺はささやかな抗議として、コーラの音を立てて飲んだ。
「七十越えてんのに一人で暮らしてんのよ。うちは土地があるから、そこにアパート建てて、そこからの収入があるから大丈夫だって言って聞かないんだって」
「……ふうん」
「今、ばあちゃんが住んでる家は、父さんや叔母さんが育った家でもあるでしょ? 思い入れが強いんだと思う。でも道路作るからそこから立ち退かなくちゃいけないんだって」
「……へえ」
「ばあちゃんは大丈夫だっていうけど心配だし、あんた暇そうだし、ちょうどいいでしょ」
「……そうつながるわけか」
つまり、俺は都合よく使われたわけだ。ばあちゃんが心配だけど父さんと姉ちゃんは仕事があるし、母さんは義理の家だし。
いや、俺にとっては全然よくないから。なんだよそれ。
介護?とか、よくわかんねーし。ばあちゃんとすごく仲良かったとかじゃないし、正直困る。すごく面倒くさい。
ここまでわざわざ運転してくれた姉ちゃんには悪いけど、すぐに帰ろう。出費は痛いが、小旅行したと思えばいい。全然嬉しくない旅行だけど。
「ばあちゃんと生活すれば、あんたも少しはまともになるだろうしね」
「意味わかんね」
年寄りと過ごして何がまともになるだ。俺はまともだって。
「あ、海」
姉ちゃんが声を上げる。高速道路を降りてすぐの、まっすぐ伸びた下り坂。その正面に青い海がどっかりと居座っていた。
潮の、しょっぱい、磯臭い、生っぽい臭い。全開にした窓から、俺にまとわりつくように湿っぽい風が入って来る。通りに人なんか、ほとんど歩いていない。いても小さい買い物カートのようなものを押している年寄りぐらい。あれの名前はなんというのだろう。
道路を走る車も、そう多くない。人も車もなく、あるのは海とこの生臭さだけで。ほんの数時間前の大都会にいた自分がもう恋しい。
「よっと」
道幅の狭い道路沿いにある、古めかしい二階建て。広々とした庭に丁寧に駐車する姉ちゃん。ピーピーという車のバック音が、俺のこれから先のことについて急き立てているような錯覚を覚える。妙に居心地が悪かった。
「よく来たね、道、混んでただろ?」
ばあちゃんが車の音を聞きつけて出迎えてくれた。
ばあちゃんは想像していたよりもずっと小さかった。
「やっぱ週末だから混んでたよ~」
久しぶりすぎてどう接していいかわからない俺をよそに、姉ちゃんは親し気に話していく。手持ち無沙汰な俺は、仕方なく荷物を下ろすことしにした。
「優斗も大きくなって。久しぶりだね」
「……うん」
「こんなに大きくなったのに、挨拶の仕方もわからないのかい? こりゃ、大変だねぇ」
「お世話になります、でしょ。ごめんね、急に押しかけて」
「楽しみだね、これから。さて、荷物はひとまず縁側に置いてくれ。今開けっから」
姉ちゃんに肘で小突かれた。
「よろしく、お願いします」
仕方なく頭を下げる。ばあちゃんは笑って家の中に入って行った。と、すぐに縁側にまわって来て鍵を開け、サッシをからりと開けた。
「線香でも立ててやって。じいちゃんも、孫が来たんだし喜ぶだろ」
「うん、お邪魔します」
「……お邪魔します」
玄関入って左手の茶の間へ入り仏壇の前に座れば、線香の匂いと一緒に、会ったこともない人たちの目にさらされた。先祖代々の写真というやつだ。仏壇のところに立てかけられている写真には、今の父さんより少し上くらいの会ったこともないじいちゃんが笑って俺を見ていた。
姉ちゃんが火を点けた白いろうそくに線香をかざす。煙草よりずっと細い煙の出るそれを立て、手を合わせて目を瞑る。こんな形ばかりの真似事で、先祖を弔うことができるのかちょっと疑問に思う。
「優斗の部屋は二階だよ」
タイミングよくばあちゃんが俺に言った。
俺は無言で、縁側に置いた段ボールを移動することにした。他にやることもないし。どうせすぐに帰るんだけど、縁側に置きっぱなしだと怒られそうだし。
玄関に入ってすぐの階段を登り、正面の部屋へと足を踏み入れる。家具もなんにもない、がらんとした畳敷きの部屋。古くなったイグサと日に当たった埃の匂いが微かに感じられる。押入れには、三段チェストとふかふかの布団が一組あるけど、それ以外は空っぽだ。
物に溢れていた自分の部屋より狭いはずなのに、ここは空白だらけで、どこまでも広がっているような錯覚を覚えた。
年季が入って元の色が何色かわからないカーテンは窓の両端で行儀よく収まっている。額縁のように見える窓へ近寄れば、ぽつぽつと立ち並ぶ家々が妙に馴れ馴れしい。家々の庭先には物干し竿が置かれ、色褪せた洗濯物がはためいているし、二階の窓枠からは、年季の入った布団がだらりとぶら下がっている。
都会にはない、お節介な雰囲気を感じるのは、こういう光景のせいかもしれない。こういうの、なんていうんだっけ。生活感、かな。
一階と二階を何回か往復して、ようやく荷物を部屋に運んだ。もう帰りたい。なんで俺はこんな面倒なことをしてるんだろう。姉ちゃんは手伝ってくれなかったし。
「じゃ、帰るね」
ため息をつきながら階下へ降りると、姉ちゃんは玄関に立って俺を見ていた。
「もうちょっとゆっくりしていけばいいのに」
「ごめんね、明日は仕事があるから早く帰らなくちゃいけないんだ。ばあちゃん、どうしようもない弟だけど、よろしくお願いします」
深々と頭を下げる姉ちゃん。俺はどんな顔をしていたらいいんだろう。
「優斗、ちゃんとやんなよ」
すっと俺に視線を合わせた姉ちゃんは、そう凄んだ。姉ちゃんの昔からの口癖だ。主に俺に言うための。面と向かって言われたのはいつぶりだろう。
「今日は荷解きして、少しゆっくりしな。夕飯ができたら呼ぶよ」
姉ちゃんを見送ると、ばあちゃんはそう言ってどこかへ出かけてしまった。
ごめん、ばあちゃん。俺、荷解きする気ないんだ。ここへ来るのだって不本意だったし、面倒だけど勝手に帰るから。
縁側に置きっぱなしになっているサコッシュから、スマホと財布を取り出し、帰る電車を調べる。一時間に一本も走っていないことに驚いた。それどころか電子決済できないって書いてある。このご時世に、そんなことってあるんだろうか。
次に財布を確認する。そんなに金額は入れてなかったけど……。
…………。
財布には、現金千円と、保険証と、ノリで取った原付の免許証しか入ってなかった。Suicaも、クレカも、銀行のカードもない。
やられた。
俺は姉ちゃんの手によって、この田舎に閉じ込められた。
ばあちゃんと暮らすしか、ないのか……。
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