三話 -幾年-
今日もまた来た。体感的にはここに通うようになって随分の年月が経った気がする。
「いらっしゃい、ダンくん」
いつも通りツムグが出迎える。彼女は最初に会った頃よりもとても大きくなった。髪型も作業しやすいからと後ろで束ねるようになっていた。
「相変わらず小さいね」
「君が大きいだけだよ」
彼女はふふっと笑うと、ぼくが注文するまでもなくコーヒーを淹れ始めた。
今や彼女はこの店を自分でやりくりしている。彼女の母親は定年で引退。この店を彼女に継がせた後は毎日ゆったりと過ごしているそうだ。たまに顔を見せに来ることもある。
ツムグはこの店を継いでから大人びた。あのころの騒がしい雰囲気はもう昔のものだ。彼女の母親が来ていた緑色のエプロンをツムグも着ているが妙に親和している。
「そうだ、お母さんからこんなの貰ったんだ」
コーヒーを差し出すと、思い出したように切り出した。すると棚の中から、とても年季のある色褪せた雑誌を取り出した。
「これって、昔のこの街の?」
「うん。まだ湖だったころのガイドブックだって。お母さんよりもずっと前から家にあった、この街の大切な、始まりの記録だって」
ページをめくる。古いためにところどころ文字がかすれていたが、写真の池の美しさは伝わってきた。とても広大。これがぼくたちのご先祖さまが作り出した遺産。
「お母さんすっごく憧れてたんだ。私がまだ小さいころに毎日この湖の話しててさ。私がこの湖が気になってたのも、それが影響してるのかも」
「今も気になってるの?」
彼女がこの店を継いでからすっかり忙しくなって、池の話は長い間できていなかった。
「気になってはいる。うん。でも、今はそれよりもこの店の方が大事かな」
「そうなんだ」
ほんの少し、寂しい感じがした。彼女を作り上げていたものの一つが、こうして薄まってしまっている。なんとかして、この池のことをずっと思っていておいてほしい。もうすぐぼくたちの計画は実行される。
ぼくは今日、あることを伝えにきた。もしかしすると、この店に行くことが少なくなってしまうかもしれないから。
「しばらく、来れなくなるかも」
「……」
「みんなから一回戻ってきなさいって言われてね」
「そうなんだ」
「コーヒー飲めなくなるのは残念、だけど」
「うん。私も残念」
大人びた彼女はひそかに笑った。その笑みの真意は、昔の素直な笑顔しか見せなかったころと比べて読み取りづらくなっていた。いつだかみんなが言っていた。ニンゲンは大人になっていくと、子どものころみたいに正直な気持ちを見せるのは、気恥ずかしくなってしまうんだよ、と。
「ちょっと待ってて」
彼女が奥に行く。しばらくすると、袋を持って戻ってきた。
「これは?」
「コーヒー豆。コーヒーの淹れ方書いてる紙も一緒に入れてるから」
「ぼくにもできるかな」
「いつも私が目の前で淹れてるでしょ。その通りにやればいいの」
ぼくは残りのコーヒーを一滴まで飲み干した。
「……もう一杯だけ、頼もうかな」
「いいよ」
ぼくが新しいコーヒーを飲み終わるまで沈黙が続いた。
袋を持って椅子を降りる。
「じゃあ、また」
「うん」
「しばらくと言っても少しだけだから、またすぐに来れると思う」
「もう一回くらいは来てね」
「何度も来るよ。あ、それと、ぼく、あの池の仕事してるんだ。それがちゃんと決まったら、君にも教えてあげるね」
そしてぼくは店を出た。ガラス越しに店を覗く。彼女もまた、同じようにぼくを見ていた。
そのまま街を出た。最後までガラス越しのツムグの悲しそうな笑みが頭から離れなかった。
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