銀の悪霊 金の悪霊

畑中雷造の墓場

銀の悪霊 金の除霊師

 セミの声がうるさくなってきた。おまけに太陽の光も眩しい。暑いとは感じないが、この季節はあまり好きではない。

 俺はここ五年ほど毎日通っている、いつもの家についた。安言(あいう)家だ。趣味であるドラマ鑑賞をしに来たのだ。

 今日も一時半から始まる『棒の誘惑』という、専業主婦が泥棒に入られ犯されたがその泥棒の逞しい棒に心酔してしまったところから始まる、禁断の恋物語を見る予定だ。昼ドラとは思えない過激な内容が、世間から注目を浴びている。

 俺はレンガでできた外壁を通り抜けようとした。だがその時、視界の端に輝く赤黄色が映った。顔を上げると、二階の窓——あれは高校生の息子の部屋だな——から、炎が見えた。住人の叫び声が聞こえてくる。

 二階のその窓は豪快に割れ、下にいる俺の元に降って来る。だが俺には当たらない。砕け散った破片は、俺をすり抜けて足元の白黒の庭砂利の上に落下する。同時に、勢いの増した炎がゴウ、と窓のあった場所から飛び出してきた。

 火事か。別に住人や家のことは心配ではないが、テレビがどうなっているかは気になる。俺は一縷の望みをかけて外壁から顔を突っ込み中の様子を窺う。

 炎は一階のキッチン、リビング、寝室と、すべての部屋を覆いつくしていた。当然テレビももう黒焦げになっている。

「マジかよ……」

 もしかすると二階から出火していて、まだ一階のテレビには燃え移っていないかもしれないと希望を抱いたが、そんなに都合がいいわけはなかった。

「ぎゃあああ! 火事だああ!」

 二階に続く階段から男が転がってきた。黒縁眼鏡をかけたマッシュヘアーの男。ドラマ視聴しに来る度に見かけていた顔。この家の住人だ。

 男は叫びながら玄関に走っていった。尻や肩には炎がくっついている。

その光景に、俺は疑問を感じた。なぜすぐに火事に気づかなかったのだろうか。こんなに火が回っているのなら誰かが通報して、もうそろそろ消防車がきてもいいはずだ。一度外の様子を窺ってみよう。

 熱気と外壁を潜り抜け(俺には熱い寒いの感覚はないが)外に出ると、そこには火のついたこの家の住人と、もう一人、知らない男がいた。この家の住人は庭のホースから水を出して体にかけており、知らない男は斜め上空を見上げながら尻もちをついて、口早に大声で叫んでいた。

「うわ! マジでヤバいってそれは!」

 何を一人でやっているんだ? 俺は疑問に思い、その男の視線を無意識に追った。と、そこには、頭や足、腕から炎をメラメラと出している、禿げた中年の悪霊がいた。

 宙に浮くその悪霊は、二メートルほどの炎のやりを右手に持ち、それを下の男に向かって投げつけようとしている。ギリギリと肩を引き、今にも発射しそうな雰囲気だ。

「あいつか、テレビを燃やした犯人は……」

消防車がまだ来ていないのも納得した。自然に起こる火事とは違い、この悪霊が家のあちこちに火を放った。だから短時間でこの家は全焼したのだ。

 テレビの恨みを晴らすため、俺は火事悪霊を殺すことにした。空を蹴り、炎のやりを投げつけようとした火事悪霊の横に瞬時にたどり着く。右手の人差し指をピンと立て、そのがら空きの右わき腹に突き刺す。 

「邪指——壱」

「——っ⁉」

 火事悪霊は何が起きたか理解していないようだった。手から炎のやりが滑り落ちる。ゆっくりと下の男の元に落下していく。

 突き刺した人差し指から毒を注入する。毒と言っても悪霊にしか効かない特殊な毒。黒々とした邪悪なものが火事悪霊の体に侵入していく。

 と同時に、俺の脳内に火事悪霊の記憶が流れ込んでくる。

 悪霊を殺すと毎回こうなる。人間が死の間際になって見るといわれる走馬灯。それが悪霊でも同じで、自らの記憶から死を回避する材料を探し始めるようだ。

 ——視界を奪う炎。倒れてきた洋服ダンスに押しつぶされる両足。畳から頭に燃え移る火。叫んでも叫んでも変わることのない眼前の赤黄色の景色。閉じていくまぶた。ただれ落ちていく手の甲の皮膚。

 消防署から出てくる男。道路に出る車の後ろ姿。帰り着いた家。手の平に浮かぶ炎。燃え盛る男の家。玄関から脱出する男と女と子供。投げつける炎のやり。口と心臓から血を垂れ流す三人の家族……。

 仮面の女。見せられる安言の写真。

 

相変わらず悪霊の走馬灯にはろくなものがない。だが、最後の安言の写真と仮面の女のことは少し気にかかった。

 人差し指を引き抜くと、火事悪霊の体は、既に灰のように上空に舞っていくところだった。

 後に残った光る魂を手に取り、口に入れる。それから俺は、未だ燃え続ける家を眺めた。ため息が自然と出る。悪霊を殺してもその影響は止まないのだ。

 あと十分ほどで『棒の誘惑』が始まってしまうので、俺は予備のドラマ家に移動することにした。少し遠いが仕方がない、急いで向かおう。そう思っていたのだが、 

「あ、あの!」

 下で尻もちをついていた男が俺に声をかけてきた。汗だくになりながら真っすぐこちらを見ている。

「助けてくれてありがとうございます! えと、ギンさんですよね?」

「ん? ……ああ、そうだが」

 俺はこう見えて悪霊の中では有名なので、知っていても無理はない。悪霊を唯一殺すことのできる悪霊として、除霊師たちからは重宝されているのだ。

 ということはこいつ、除霊師ということか。ごまのような坊主頭と妙にごつい体を持つ除霊師が、上空に佇む俺に言ってきた。

「なにかお礼をさせてもらえませんか? 命を救ってもらったので」

「お礼?」

 ただ俺は貴重なドラマ家を燃やされた腹いせに悪霊を殺しただけだ。結果的にこの筋肉坊主除霊師を救ったことになってしまったが、どうしたものか……。

 俺はそいつの元に降りていき、目線を合わせて返答した。

「別に礼はいらないぞ。必要ない」

「いやでも……ぼく、命を救ってもらったんで! こういうときぼくはお返ししないと気が済まないタチなんですよ!」

 真剣な眼差しで俺を見つめてくる。強引にこの場を後にするのは簡単なことだが、そこまで礼がしたいのならさせてやってもいいか。俺は今欲しいものを口にした。

「礼がしたいんなら、ちょうどいい。お前の家でこれから昼ドラを見せてくれ」


 ボディービルダーをはるかに超える筋肉量を持つごま坊主の除霊師についていくこと五分。そいつの住んでいるというボロアパートについた。ドアをすり抜けて中に入ると、早速コバエが「おかえり」と挨拶してきた。まったく、汚い家だ。

 それだけではなかった。安言家の大型テレビに慣れていた俺は、こいつの部屋の隅にちょこんと置いてある独り暮らしサイズの小さいテレビを見て、落胆した。

「テレビをつけてくれ。五チャンだ」

 壁には百均で買ったと思われるミニ時計が画鋲で留められていた。時刻は一時二十六分。

 はい! と威勢よく返事した筋肉はリモコンを操作し、テレビをつけた。

 昼ドラが始まるまでまだ三分半ほどあるので、少し探ってみることにした。

「お前、名前はなんていうんだ」

「玉丸金次です! 高校一年生で、除霊師をやってます!」

 高校一年生か。それにしても、と俺は部屋を見渡す。どうみても家族と住んでいるようには見えない。

「高校生なのに一人暮らししてるのか?」

「はい、一人暮らしです」

 少し暗い表情をして床を見つめる玉丸。何か事情があるのだろう。

 部屋を見渡すと、勉強机の上に写真立てが見えた。よく見ると、四人の家族が写っている。それを説明するように、玉丸は続けた。

「両親と妹は、ぼくが六歳の頃に『ある悪霊』に殺されました」

 家族が悪霊に殺された、か。

「ぼくはその時札幌に住んでいたんですが、家族を失ったので旭川の祖父母に引き取られました。でも家族を殺した悪霊への復讐心や憎悪は当然なくなりませんでした。だからぼくは高校生になって一人暮らしをする許可を得て、札幌に戻ってきました。あいつを祓うためです」

 なるほど。中々辛い思いをしてきたってことか。

気になったことがもう一つあったので、俺は聞いてみた。

「この新聞のタワーは?」

「ぼくの家族を殺した悪霊が他にも同じような事件を起こしていないか、これまでずっと調べてきたんです。新聞の記事を切り抜いて、事件の起きた場所や時間、どんな人が狙われたのかを調べました」

それでこの家には新聞が山のように積まれているわけか。勉強机に目を向けると、ノートが開いており、そこに新聞の記事などがびっしりと張られているのが見えた。

「そうか、ま、頑張れよ」

 小さいテレビに映るコマーシャルが終わり、『棒の誘惑』が始まった。俺は神経を研ぎ澄ませ、一シーンたりとも見逃さないよう集中する。うむ、エロい。

 何か言いたげだった玉丸は口を噤んだ。正解だ。ドラマを見ているときだけは俺に話しかけてはいけない。

 一時間弱の昼ドラを見終わった俺は、ふぅ、と息を吐いた。

「あの、もう大丈夫ですか」

「ああ、いいぞ。なんだ?」

「さっきの話には続きがあってですね……」

 なにやら言いにくそうだな。どういうことだろうか。

「家族を殺した悪霊を祓おうとしているんですが、その悪霊が全然見つからないんです」

「ほう」

「問題はそれだけじゃなくて……。正直言って、ぼくはめちゃくちゃ弱いんです。肉体は強いんですが、どうにも除霊師の才能が無いようで。旭川にいるときから除霊師として活動していたんですが、周りからも『辞めたほうがいいよ』と言われていました」

 除霊師の才能がないとはどういうことだろうか。見たところ筋肉は一流以上に見えるが。

 玉丸は膝の上で握りこぶしを固め、絞り出すように言った。

「その……ぼくには霊力がないんです!」

「……は?」

 思わず声が出てしまった。除霊師なのに霊力を持っていない? 霊力が無いということは、霊視能力のみを持った一般人と同等だということだ。

「それで……ここからが本題なんですけど……」

 膝をもじもじさせた玉丸が俺のことを上目遣いで見る。

「なんだ」

「その、……パートナーになってほしいんです、悪霊退治の」

パートナー。その言葉を聞き、思い出したくもない過去が勝手に頭の中に浮かんでくる。今思い出しても腹が立つ。

 俺は無意識のうちに、精神が作り出した自分の学ランの、腹のあたりをさする。

「ダメでしょうか?」

「ああダメだ。パートナーにはなれない。じゃあな」

 ドラマを見せてくれたことはありがたかったが、それ以上に嫌なことを思い出してしまった。俺は立ち上がり、新聞紙が積まれた横の壁から外に出ようとした。だが——、

「ぼくの力じゃズヂボウを倒せないんです!」

 悲痛な声を出した玉丸が、俺の腕を掴んできた。立ち止まってしまった俺は、振り返って玉丸の顔を見る。

 今にも泣きだしそうな表情。真剣そのもの。唇を噛みしめ、俺の目を真っすぐに見つめてくる。

よほど家族の仇を取りたいんだろう。そりゃそうだ、悪霊に家族の命を奪われたんだから。

気持ちは痛いほどわかる。わかるが、無理なんだ。パートナーになることはできない。薄々わかっていたが、その悪霊の名前を聞いた瞬間に昔の記憶が一瞬フラッシュバックした。

ズヂボウが怖いわけではない。ただ、誰かをまた信じてしまうのが怖いのだ。信じた末に待っている裏切りが怖くて怖くて仕方がない。

 この状況がもし初めてだったなら、俺は玉丸とパートナーになっただろう。そして全力でかたき討ちを手伝ったはずだ。いや、もしなんていうのは違うな。表現として正しくない。

……実際そうだったのだ。前回はそうだった。そして俺はそのパートナーに裏切られ、傷を負い、死にかけ、——そして殺した。

 もうあんな思いはしたくない。

俺は掴まれていた玉丸の腕を引きはがして、壁をすり抜けて外に出た。


俺が人を信用できなくなったのは、なにも悪霊になってからのことではない。

小学校、中学校、高校、と歳を重ねるごとにそうなっていったのだ。

玉丸のボロアパートを出た俺は、どこへ行くでもなくなんとなく空中を移動し始めた。しばらくすると、近くの中学校の校庭が見えてきた。

玄関から体育ジャージを着た学生たちが元気に飛び出してくる。白いTシャツを着て嬉しそうにはしゃぐ男子と、反対に長袖長ズボンを着たやる気のない女子たちが見える。

 それを見て俺は思う。

ああ、そういえばこんな楽しい頃があったな、と。俺は空中で体を止め、人間だった頃の遠い過去を思い出し始めた。


——俺には中学三年まで、兄がいた。名前は島鳴金。勉強も運動もできない俺と違って、兄は成績優秀、スポーツ万能、友人も多く人気者、そして何より、弟想い。つまり非の打ちどころのない存在だった。

だが悲劇は突然引き起こされるものだ。俺が中学三年になってすぐの時だった。高校生の兄が部活の帰り道に、赤信号を突っ込んできたトラックにはねられて、あっけなく命を落としてしまった。

両親も俺も、いきなりのことにショックを隠し切れなかった。

 しかし、悲劇は終わらなかった。そう、俺にとっては。

兄の死から一週間が経ったころ、俺は夜中にリビングで話す両親の言葉を偶然聞いてしまった。トイレに行く途中で話し声が聞こえてきたので、ドアの細い隙間からこっそり話を聞いていたのだ。

「なんで、なんで……。なんで金が死ななきゃならなかったの?」

「事故だったんだ。仕方ないだろう」

「でもさ、神様がもしいるんだったら、事故で死ぬのは金じゃなかったと思うんだ、わたし」

「おい、それ以上は言うなって言っただろ。銀がもし聞いたらまずいだろ」

「大丈夫よ、あの子、眠り深いんだから」

 テーブルに肘をついて額に手を当てて喋る母の手元には、飲み終わったのであろう二本の缶ビールの空き缶が転がっていた。母の飲酒した姿なんて、見たことがなかった。

「優秀な金が死んで、無能な銀が生き残った。……これって、神様がいないってことでしょ?」

「おいもうやめとけって」

 廊下で聞いている俺は、首の後ろがゾワゾワしてたまらなかった。だが、逃げ出すこともできず、その場で聞いてしまった。

「あなただって言ってたでしょ! 金じゃなくて銀が死ねばよかったのにって」

「た、たしかにあのときは言っちゃったけどさ。……それは言葉のあやっていうか、そういうのだよ」

「追い詰められたときに人の本性は出るのよ。つまり、言わないようにしてても、心の奥底ではあなたもそう思ってたってことよ」

 そこから先の話はあまり覚えていない。きっと耳がシャットアウトしたんだろう。あまりのショックに俺は動けなくなった。

 体に電気ショックを与えられたかと思った。心臓はバクバクし出すし、足は金縛りのように床にくっついて離れない。

俺なりに両親からは愛情を受けて育ってきたと思っていたのに、それはすべて偽りの愛だったということなのか。

しばらくして体が動くようになった俺は、気づかれないように部屋に戻った。尿意はどこかに消え去っていた。

心臓がうるさく鳴り響く中、布団に入った。さっき聞いた嫌なセリフ、聞きたくないセリフが俺の頭の中で反響する。『銀が死ねばよかったのに』


 それからの日々は、本当に辛かった。何も知らない両親は、いつも通りに俺に接してくる。学校はどうだった? 勉強にはついていけているか? 友達はできたか? そんな上っ面だけの質問に嫌気がさしていた。本当は死ねばいいと思っているくせに。

 なぜか俺はあの晩以降、人の本性を知る機会が極端に増えた。

 学校で一番仲の良かった親友が、ほかの友達と遊んでいるときに俺の悪口を言いふらしていた。そのことを信頼していた担任の先生に相談したら、その先生も職員用のトイレで俺のことをネタにして、隣のクラスの先生と笑いあっていたのを聞いた。

 中学の時の友人たちも、高校に入ってからは俺とつるむ機会が減っていった。特にいじめられたわけではない。なんとなく距離が遠くなっていっただけだ。

 俺は気づいた。ただ、今まで気にしていなかった、他人の俺への評価を意識するようになっただけのことだったのだ。兄が死んで両親からああいう風に思われていたことを知ったから、他の人も俺をそんな目で見ているんじゃないか、そう自然に考えるようになったのだろう。

 とにかく俺は、人は裏で何を考えているかわからないし、表と裏の顔を使い分けているのが人間だということを学んだ。

 そして、俺が死んだ日。高校二年の夏。

とくに何もない普通の日だった。父が仕事から帰ってきて、家族三人で晩御飯を食べた。その後は部屋にこもって本を読んでいた。

 布団の上で読書していると、うとうとしてきた。そろそろ寝る準備でもするかと思って立ち上がった時、遠くから母の叫び声が聞こえてきた。

俺は驚いて部屋のドアを少し開けて廊下の様子をうかがってみた。すると、ドサっと何かが倒れる音が聞こえた。リビングのほうからだ。おそるおそる廊下に出てリビングに続くドアを開けると、——そこには血の池に溺れる母がいた。うつぶせになって、ぴくぴくと痙攣していた。

 俺は驚きのあまり喉が凍った。気づくと後ろに倒れていた。

 そこから目を離せないでいるのに、視界の右側にはこっちに向かってくる影が映った。そしてその影は俺の横にしゃがみ込んだ。俺はゆっくりと首を横に動かし、それを見た。

変わり果ててはいたが、それは父だった。見たことのない悪魔のような表情で俺の顔を覗き込んでいた。と思ったら、俺の視界は真っ赤に染まった。臭くてあったかいドロドロしたものが俺の顔面と服に飛び散って、首から血を流した父が母の隣に倒れた。

「う、うぅわあああ!」

 俺はその場にいるのが耐えられなくなり、廊下を走ってトイレに駆け込んだ。さっき食べた晩御飯が滝のように排出される。気持ち悪くて、もうそれだけで死にそうだった。でも、悪夢はそれだけでは終わらなかった。

 便器に向かってえずいていると、ふと誰かに見られていると感じたのだ。それも後ろではなく、前から。おかしいと思いながらも俺は頭を持ち上げた。

直後、トイレのタンクからぬっと出てきた目と、俺の目が合った。

「ひっ——」

「……あたしが見えるのね。でも怖がる必要はないわ。あなたもすぐに楽にしてあげるから」

 その後一瞬意識が飛んだと思ったら、俺は自分の腕や足、首の骨をバキバキと折っていた。感じたことのない痛みが俺の脳天を突き抜けた。すぐに、もう俺は死ぬんだと自覚した。

俺は遅れて気が付いた。さっきのあいつがいない、と。息も絶え絶えで探そうとすると、俺の口が勝手に動き出した。

「あたしを探してるの? あたしはここ、あなたの中にいるのよ」

 俺は直感で理解した。この世ならざる者、すなわち幽霊が俺に取り憑いたんだと。体の中にそいつを感じた。

さっき殺された両親もこいつに取り憑かれて死んだのか……。最後の力を振り絞り、俺は自らの命を繋ぎ留めながら話す。もう声は出なくなっていたが。

『お前は幽霊なのか』

『しぶといわねあなた。……そう、あたしは幽霊。幽霊って言っても悪霊だけどね』

『悪霊……。……なんで俺を殺した』

『別に理由なんてないわ。あたしは通り魔みたいなもんだから』

 そんな適当な理由で殺されたのか、俺たちは。ムカつくなあ。

 もう意識が飛びそうだ。死が目前に迫ってきているのを感じる。

『悪霊にはどうやってなれるんだ』

『……は? あなた何言ってんの?』

『いいから答えろ。それと、お前の名前も』

『……あは、そういうことね。……いいわ、教えてあげる。悪霊になるにはこの世に未練を残さないといけないの。それも抱えきれないほどの憎悪をね。ただしなれるかどうかはその人間の運次第。といっても自ら悪霊になろうとする人間なんてあたし見たことも聞いたこともないけどね。……それからあたしの名前はズヂボウよ。もし復讐に来るのなら歓迎してあげるわ、坊や——』

 その声を最後に、俺の人間としての生涯は終わった。


 目が覚めると俺は深い泥の中に沈んでいた。これは……死んだ後の世界なのか。

 ずんずんずんずん沈んでいく。泥が口の中に入ってきても不思議と呼吸は苦しくない。

 ふと、死ぬ前のことを思い出した。悪霊、ズヂボウ。

 なぜ俺があんな通りすがりの悪霊に殺されなければならなかったのか。納得いかない。

 俺の人生、正直あまり良いことなかったけど、殺されるのはやっぱり違う。死ぬなら自分の意志で死にたかった。

 大好きだった兄。本性を知るまでの父と母。その愛情を思い出す。

 同時に辛い記憶——『銀が死ねばよかったのに』と両親が言っていたことや、親友や先生に悪口を言われていたことなども思い出した。愛情と憎悪。俺の中でそれらが混ざり合っていく。

 そして、結果それは『憎い』という一つの感情に収まった。

 憎悪の感情が膨れ上がっていく。

 最初は両親の顔、死んだ兄の顔、親友、先生の顔が浮かんだ。

 だが、それらはぐるぐるに混ざり合い、溶けあい、やがて一つの顔になった。

 最終的に俺の脳内に浮かび上がったのは、あのトイレで見たズヂボウの顔だった。

 肩まで伸ばした黒髪に真っ白い肌。裂けるほど横に広い口に殺人鬼特有の危ない目つき。

 あの時は恐ろしいと感じた。だが時間が経った今は、それよりも俺を殺したこと、両親を殺したことに対する憎悪の方が何倍も強い。

あの悪霊はこの世にいてはならない。あんな殺人鬼は誰かが殺さなくてはならない。思考が一つの方向にまとまっていく。

「ズヂボウを殺す」

 そうはっきりと言葉にしたとき、俺の中の何かが泥と交じり合ったのを感じた。それが外に出ていく。いや、外に出ているのは俺のほうだった。俺の肉体はそのまま泥に沈んでいき、精神だけが泥とまじりあって上昇していく。その間に、ズヂボウへの復讐心がますます膨らみ、どす黒く心を覆っていくのがわかった。

 泥を抜けだしたと思ったら、そこには自宅のトイレで壊れた人形みたいに転がっている自分の姿があった。俺は自分が浮いていることにすぐ気づいた。体を見ると、半透明だった。


 悪霊になった俺は、膨らんだズヂボウへの復讐心を糧に行動した。自分に悪霊を殺す力があると分かった俺は、ズヂボウを探すために片っ端から悪霊を狩っていった。

 だがいくら狩り続けても、ズヂボウを知っているという悪霊は現れなかった。それほど隠れるのが上手い相手だということを俺は知った。

 ——それから九十年の月日が過ぎ、俺は今の除霊塾の塾長、飽馬圭護とその親友万田広治、そしてつっ立ちという名の悪霊と出会うことになる。

 飽馬と万田は高校一年生で、まだ除霊師になりたてのガキだった。つっ立ちは、飽馬の死んだ弟だと言っていた。飽馬の教えのおかげで、悪霊ながらも殺人などの悪事をすることなく育っていたつっ立ちは、俺と同じく除霊師から狙われない存在として扱われた。その頃俺はズヂボウを殺すという目的を持ちながらも、つっ立ちや飽馬、万田と共に行動することが徐々に増えていった。

 つっ立ちは小学五年生の時に交通事故で死んだので、高二で死んだ俺にとってはまるで弟みたいな存在だった。よく一緒に遊んだ。自分で言うのも恥ずかしいが、仲が良かったと思う。

 一緒にいるうちに、俺は飽馬と万田にズヂボウを狙っていることを話すようになった。

そしてそれから少し経ったとき、万田が俺に、『パートナーを組まないか』という提案を持ち掛けてきた。どうやら万田もズヂボウに友達を殺されたらしく、憎んでいるようだった。

正直俺は他人を信用する気にはなれなかった。だから最初はその提案を断ろうと思った。

だが九十年も探し続けて一度もかすったことのないのがズヂボウという悪霊だ。一人で探すのには限界を感じていたのも事実。

迷った結果、ズヂボウが起こしたと思われる事件について何個か知っているという万田の話を聞いた俺は、しぶしぶながら手を組むことにした。

万田は除霊師としての才能があったから、俺とパートナーを組んだらどんな相手でも祓うことができた。

 それでも相変わらずズヂボウへの手がかりは見つからなかったが、万田との絆は日に日に深くなっていった。いつしか俺は万田に心を許すようになり、信頼して背中を預けるようにまでなっていった。

 だが、それがいけなかったのだ。それこそが万田広治とズヂボウの策略だったのだ。

 ある夏の夜、俺はいつものように万田と共に悪霊狩りに出かけていた。暗い森で、あたりには悪霊の気配が多数。複数の悪霊を相手にすることも過去に何度もあったが、さすがに今回は数が多すぎる気がしていた。

俺と万田は背中を互いに預け合い、正面に来る悪霊だけを祓い続ける戦略をとった。

殺しても殺しても湧いてくる悪霊たち。一時間くらい戦闘していただろうか。

 やがて俺は、さすがに多すぎる悪霊と、妙に強い個体がそろっていることを変に思ったので、後ろにいる万田に尋ねた。

「なあ広治、なんか今日の悪霊たち、妙に強くないか? 数も多いし……」

「そうだね。もしかして僕たちの行動が読まれてて、待ち伏せされていたのかも」

「待ち伏せ? だが悪霊ってのはそんな作戦を立てたり、集団行動する性質じゃないはずだろ」

「もしかして、こんな作戦を立てられる存在っていったら……」

 背後の万田の推測に思い当たった俺は、先にその存在の名を口にする。

「ズヂボウ、か」

「そう、ズヂボウだよ、この作戦を立てたのは」

 妙に確信を持った言い方をするな。どういうことだ?

 俺は不審に思ってそのことを追求しようと万田のほうを振り返ろうとした。

 だがその瞬間、ぐさ、という不快な音と、俺の腹から突き出た万田の短剣が視界に入った。

「おいこれ……なんだよ、どういうことだ?」

 一瞬自分の身に起きていることだと理解できなかった。

それほど突然で、無警戒のところからの一撃。当然悪霊は精神体なので痛みは感じない。だが背中から突き刺さっているこの短剣には霊力が込められていた。じわじわと俺の体は蝕まれ始めていく。

 振り返ると、いつもと違う笑みを浮かべた万田が、悪霊たちに背を向けて立っていた。悪霊たちは万田に攻撃を仕掛けるそぶりも見せないで俺のほうを眺めていた。

「おい、説明しやがれ」

「説明? そんなもの必要ないだろ、僕とギンとの仲だ、わかるだろ?」

 少し離れたところにいる万田が手をひらひらさせて俺に言った。

「ふざけんな! ——お前、俺を狙ってたのか⁉」

「そうだよ。僕は最初からお前を祓うためにお前とパートナーを組んだ。——ズヂボウの策略だよ」

「ふざけんじゃねぇ!」

 怒りで頭が真っ白になった。同時に、心は真っ黒に染まるのを感じた。あの死んだ世界、泥の世界で膨らんだ憎悪のことを思い出す。

 俺は除霊術により侵食し始めた腹の周りに自ら邪指を突き刺した。無論、自害ではない。生きるため、そして、目の前の裏切り者を殺すためだ。

「おいおい死ぬなら自分で、てか?」

 見たことのない嘲笑をしてくる。

許せない。俺はお前を信じていたのに。

 自らの毒が短剣からの侵食よりも速く体を灰に変えてゆく。胸もへそもなくなった。短剣が地に落ち、効果がなくなる。

 己の毒が鎖骨と股間にたどり着きそうなギリギリのタイミングで、俺は試したことのなかった奥の手を初めて使用した。

「邪指——反」

 十本の指を首と股関節に打ち込む。普段の毒を消す毒を自らの体で作り出した。初めての試みだったが、うまくいった。毒の勢いが弱まり、鎖骨の手前、股間節の上、横っ腹の皮一枚のところでなんとか侵食を止めることに成功した。

「ハア、ハア……まさかこれをやるとは思わなかった」

 体力が著しく低下した。毒で毒を制すのは、体力を消耗する。

「そ、そんな!」

 息をのむ万田と、その後ろにいる悪霊たち。全員処刑することが決定した。

 一時間後。俺は処刑が済んだあと、万田と同期で親友でもある飽馬の元へ向かった。

説明すると、最初は信じられないと突っぱねていた飽馬だったが、俺の風穴の空いた上半身を見せると、驚きと共にだが信じてくれた。

「そんな傷、ギンが他の誰かにつけられるわけがない」

 当時から敵なしだった俺の強さを知る飽馬は、俺の傷を見て理解したようだった。これが信じていたパートナーからの不意打ちで受けた傷だということを。

 後日つっ立ちのところに行き、万田を手にかけたことを伝えようとしたが、

「ギン、広治兄ちゃんはどうしたの」

「俺が殺した。だが——」

「——っ! ……最低だ。もう話しかけないで」

 つっ立ちは俺との会話を完全に拒否する姿勢を見せた。

 おそらく飽馬から話を聞いたのだろう。つっ立ちは万田が死んだことを知っていた。

 万田が俺を殺そうとしてきたという話も聞いたはずだが、理屈じゃないんだろう。つっ立ちにとって万田はもう一人の兄貴みたいな存在だったからな。殺したほうが悪いと言われても仕方がない。それに、つっ立ちはまだ幼い。受け入れられないのも無理はない。

 俺はつっ立ちと飽馬から距離を取り、再び一人でズヂボウを追うことになった。

 しばらくは前と変わらず悪霊を狩りながらズヂボウへの手がかりを探し続けていた。

しかしある時から俺は、ズヂボウを探すことをやめた。気持ちが切れたのだ。まだ憎悪の気持ちは持っているが、探し始めてちょうど百年目だったこともあり、いったん休憩することにしたのだ。

 それから今に至る十年間、俺はドラマにはまり、ドラマを観続ける生活をしてきた。

 次第にズヂボウへの憎しみや怒りは薄れていき、最近ではもう悪霊になったその目的さえも忘れかけてきていた。

 だが、悪霊になって百十年目の今日。ズヂボウを倒したいという除霊師が俺の前に再び現れた。

 


 ——気づくと体育の授業は終わっており、生徒たちは制服姿で帰路につき始めていた。自分がグラウンドの上空にいたことを忘れるほど、長く深く回想していたということか。

 万田につけられてぽっかり空いた上半身を、俺は学ランの上から擦った。

「もう裏切られるのはこりごりだ」

 ふと、今何時だろうと思った。学校の外壁に取り付けられている大きなアナログ時計に目を向けた。カラスが留まっていた。

 三時四十分……。

 嘘だろ。あと五分で夕方の再放送のドラマが始まってしまう。

 俺は安言家に向かって移動し始めた。空を蹴り、加速する。街並みが溶けるように後ろに遠ざかっていく。

三秒ほど経ったあたりで、俺は致命的なミスに気がついた。

 ……そういえばさっき燃えたんだった、俺のドラマ家。

 本当に大したことをしてくれたもんだ、あの火事悪霊は。俺は腹を立てながらも、方向転換して再び空を蹴った。ここからは少し遠い予備の家に向かって移動しよう。

 前に当たりをつけておいたマンションの前に到着した。鉄筋コンクリートでできた灰色の壁と、オートロックの黒色の共同玄関という、どこにでもある普通のマンションだ。

 そこで俺は『アワビの子』というドラマを観た。

 外に出ると、あたりは橙色に包まれていた。今は七月。夏なのでまだまだ太陽は落ちない。

 俺はこれからどうするかを考え始めた。

頭を悩ませていると、ふと、今回のラストのシーンで主人公の女の子が言っていた言葉を思い出した。

『今回でケリをつけるわよ』

 採れたてのアワビを両手に持って漁業組合の会長に向かって言ったあの言葉。良いセリフだったなあ。次回は対決編か、楽しみだ。じゃなくて——

「今回でケリをつける、か」

 俺は普段から、身の回りで起こったことを単なる偶然とは捉えないようにしている。

 神を信じているわけでもないが、なんとなく身の回りで起こったことは自分に対してのお告げのようなものだと思っている。特に気になったセリフというだけで終わらせるだけではもったいない。俺自身にも当てはまるんじゃないか?

 そう考えると、やはりぴったりと当てはまることがあった。『今回でケリをつける』というのは、そういうことなのだろう。つまり、ズヂボウとの決着をつけろという世界からのお告げなのだ。そう思うことにした。

 だがどうやってケリをつけるか。

俺は元パートナー万田のことを思い出す。万田は俺にパートナーになってくれと頼みこんできた。だがそれはズヂボウからの指示だった。信頼しあえる関係になってから俺を背後から刺すという作戦。

つまり、ズヂボウも俺を消したいと思っているということだ。

俺がズヂボウを殺したいと思っているように、向こうも俺を厄介な存在だと認識していて、隙あらば殺したいと思っているのだ。

そして今回。玉丸金次という除霊師が俺とパートナーを組みたいと言ってきた。

俺は思う。あいつもズヂボウの刺客なんじゃないだろうか。

さっき起こったことをもう一度思い出してみる。すると、よく考えれば怪しいところだらけだったことに気づいた。

まず一つ目は、俺が毎日通っていたドラマ家の前にあいつがいたこと。

ズヂボウの能力の異常な点は、一般人にも憑依できるという所。だから、通行人などに憑依して俺の行動パターンを調べ、俺が来る時間に火事悪霊に火事を起こさせることも可能だ。さらに玉丸を家の前に行かせて、俺に助けさせた。そう考えられる。

そして二つ目。それは玉丸が『命の恩人だから礼をさせてくれ』としつこく言ってきたこと。俺は一度断ったのに、あいつは是が非でも、と引かなかった。ズヂボウが俺の考えをある程度掴んでいるとしたら、俺がお礼として「ドラマを見せてくれ」ということは予想できたんじゃないだろうか。

三つ目は、初対面の俺に自分の過去をぺらぺらと話してきたこと。普通そんなことできるだろうか。いきなり偶然に出会った俺に対して、家族の仇を取りたいから一緒にズヂボウを倒してください、と言えるか? うーん。

これらの点を踏まえて考えると、やはりあいつはズヂボウからの刺客である可能性が高いと俺は判断した。

流れる雲のごとく体を移動させていると、俺の頭に一つの作戦が思い浮かんだ。

『今回でケリをつける』。その作戦を。

実にいい作戦を思いついてしまった。これならズヂボウを引きずり出せるかもしれない。

そうと決まれば善は急げだ。俺は玉丸のボロアパートに向かうことにした。蚊が、「プ~ン」と俺の目の前を横切った。


ボロアパートについた。二階の天井からお邪魔することにした。

屋根を通り玉丸の部屋に入る。心なしかむわっとした空気が充満しているように感じられた。

 玉丸は玉の汗を浮かべながら、片手の小指一本だけで腕立て伏せをしていた。なんという筋力だ。

「よう」

 手を挙げて声をかける。驚いた様子で俺を振り返る玉丸。

「実は考えが変わってな。お前とパートナーを組んでやることにした」

「え⁉」

 俺の考えが正しければ、こいつはズヂボウからの刺客。なら、それを逆手に取ってやろう。

「お前の過去は聞いた。どれだけズヂボウを恨んでいるのかも。この部屋の新聞の量や、お前が熱心に事件の切り抜きをノートにまとめているのも素直に感心する。その筋肉だって、並大抵の目標がないとそこまでにはなれない。時間をかけて考えてわかったんだ。そんなにズヂボウを祓いたい人間がいるなら、手を貸してあげないとなってな」

 もちろんこれは表向きの理由だ。たしかに玉丸の努力や過去の話は本当のことのように感じる。だが前回万田を使ったズヂボウが俺を殺しきれなかったことを考えると、ここまで用意周到にしてきてもおかしくないと俺は思っている。

万田を送ってきてから十年。その期間、ズヂボウから俺の元に刺客が送られてくることは無かった。つまりその間、俺を殺す作戦として玉丸という除霊師を教育した可能性は十分にある。

俺が他人を信用できないことをズヂボウに見抜かれているのなら、徹底して信用させられる人材を育て、送り込んできた可能性は否定できない。

『今回でケリをつける』作戦の内容は、玉丸というスパイを逆に利用して、ズヂボウの居場所を突き止める、というものだ。居場所が分かりさえすればあとは俺が単身乗り込んで殺すだけ。たとえ百対一だろうが俺は絶対に勝てるという自信がある。ズヂボウもそれが分かっているからこそ俺を恐れて隠れている。

「いいな、今日からお前とはパートナーだ」

「え、本当にいいんですか⁉」

「ああ」

「やったー!」

 喜び、飛び跳ねる玉丸。わーいわーいと楽し気な表情で部屋の中をぐるぐると走り回っている。笑いすぎたのか、目尻には光るものが見えた。

 こいつ、涙まで出せるのか。天才役者だな。

 ひとしきりはしゃいだ玉丸は、やがて薄汚れた青いカーペットの上に腰を下ろした。座卓の反対側に俺も腰を下ろした。これからどうやってズヂボウを見つけ出すのか、話し合いを始める。

「ズヂボウを見つけ出す案、お前は持ってるのか?」

「それは、一応考えてあるよ」

「言ってみろ。というか、なんでいきなりため口になってるんだ」

「いいじゃん、パートナーなんだし、仲良くしようよ!」

 早速信頼を深めようとしてきたか。これもズヂボウの作戦の一つかもな。

「まあいい」

「うん。……で、ズヂボウを探す作戦だったね。ぼくが考えてるのは、悪霊を倒しながら聞いて回るっていう作戦。あとは、ほかの除霊師にも聞いたり、かな」

 やはりそれか。唯一の方法みたいなものだからな。だがその方法は百年続けたが意味がなかった。それをおくびにも出さずに俺は首肯する。

「ってか、それくらいしか方法なくない? ずっと昔から除霊師たちも追っているけど、未だに捕まってないっていうしさ」

「ああ。方法は限られている。やつは憑依の達人だ。簡単に見つかるとは思わないほうがいい」

 地道に聞いて回る。それが現段階でできる最善の一手だろう。表向きはその作戦でいい。

 玉丸との話し合いに一区切りがついた。俺は立ち上がり、横の壁から外に出ようとした。が、そこの壁に顔を洗っているハエがいたので、天井から出た。玉丸のアパートに来たときよりも、西日が眩しくなっていた。

少し気分を変えた後、再び部屋に戻る。安物の壁掛け時計に目をやると、時刻は午後五時ちょうどだった。今日は九時からのドラマだけではなく、八時からの刑事ドラマもやっている。もちろん見逃せない。

いつもならこの時間は適当に散歩したり予備のドラマ家を探したりしているのだが、どうしようか。今からの三時間をどうやってつぶすか考えていると、トイレに行っていた玉丸のスマホがピロリン、と鳴ったのが聞こえた。なぜ聞こえたかというと、扉を全開にしていたからだ。

「お前、扉を閉めてトイレしろよ」

「え、別にいいじゃん。——それより、見てよこれ!」

 ズボンを上げながら出てくる玉丸が、スマホの画面を俺に向けてきた。

 除霊師のスマホにはEPS機能がついており、その名の通り、Evil(悪霊)の位置を知らせてくれる。

 俺は玉丸のスマホを覗き込んだ。

「そこの公園か」

「パートナー組んでからの初退治、ワクワクしてきた!」

 前に霊力が無いと言っていたのだが、どうやって悪霊を祓うのだろうか。

 俺たちは近所の公園に足を向けた。

公園の入り口付近に差し掛かると、もうすでに悪霊の姿が見えた。

 汚らしい恰好をした、還暦近いじじいだった。そいつは薄汚れた緑色のジャンバーからたばこを取り出し、ライターで火をつけた。一口吸っては地面に捨て、一口吸っては放り投げる。その謎の行動をひたすらに繰り返していた。公園の地面の半分はもうたばこで埋め尽くされていた。

「なにやってるのかな? あの悪霊」

「生前たばこのポイ捨てを絶対に許せなかったのかもな」

 悪霊は、自分の身からあふれ出るほどの恨みを抱えた人間が死ぬことによって生まれる。

 おそらくあいつはたばこのポイ捨てが許せなくていつもゴミ拾いをしていた人間だったのだろう。だが悪霊になると、逆にポイ捨てする側になってしまうこともある。憎悪が裏返ってしまうこともあるのだ。

「まずはお前の力を俺に見せてくれ」

「ん? いいよ、任せておいて!」

 お手並み拝見だな。霊力が無いということは除霊術を使えないということ。どういう戦闘スタイルなんだろうか。

「うおおおお!」

 たばこ悪霊に突っ込んでいく玉丸。大声を出したので、当然気づかれる。なぜ声を張り上げたのか。相手は火のついたたばこを連続で投擲してくる。

 それを意外なほどに身軽にかわして接近する玉丸。

あいつ、動ける筋肉とは思っていたが、想像以上に小回りも効くようだ。

 距離が一メートルほどになったとき、玉丸は左右の腰につけた巾着に両手を突っ込んだ。何かを取り出すのかと思ったが、そうではなかった。一瞬で両の手を引き抜き、相手に殴り掛かった。

「塩——殴りぃ!」

 ドッ、という鈍い音が聞こえると同時に、たばこ悪霊がぶっとばされる。さすがの筋肉だけあって、威力もすごい。

 玉丸の手は白くなっている。塩殴りと言っていたので、あの巾着の中には塩が入っていたんだろう。

 霊力が無い人間でも、霊視能力を持つ人間なら悪霊に触ることはできる。だが塩を付着させることですり抜け能力を無効化したり、単純に弱らせることもできるのだ。

 強烈な一撃が入ったが悪霊はそれだけでは倒せない。精神体なので痛みを感じることがないのだ。そして精神体が故に、再生もしてしまう。倒すにはお札を貼り付けるか、除霊術で一気に灰にするしかない。

 殴り飛ばされたたばこ悪霊の頬の凹みが、すぐさま元通りになる。

「玉丸、早くお札を貼れ」

 俺は少し声を張って、敵を警戒している玉丸に言った。

「あ、ごめん、ぼくお札持ってないんだ。お札を作れる人がすごく少なくなったから、今は一枚一万円もするんだよ。貧乏なぼくには買えないんだ!」

 そうなのか。一枚一万円は確かに高校生には手が届かない代物だ。だがそれでは悪霊を祓えないということではないか。

 その考えに応えるように玉丸が言った。

「そうだよ、ぼくは悪霊を祓えないんだ」

 マジかよ……。悪霊を祓えない除霊師なんて聞いたことがないぞ。それでズヂボウを探そうとしていたなんて、どうかしてやがる。そもそも入学してからの三か月間はどうやってズヂボウ探しをしていたんだ?

「これまでお前はズヂボウ探ししてたんじゃなかったのか」

「あ、最初のほうはしてたよ! 初心者に支給されたお札があったから、それを使って悪霊を祓いながら、ズヂボウについて聞いて回ってたんだ」

 なるほどな。一応祓えてはいたのか。

 公園の砂場あたりに吹っ飛ばされていたたばこ悪霊が起き上がって玉丸のほうへ駆け出した。

 いつの間にか握られていた大量のたばこを一気に口に含み、煙を勢いよく放出する。煙幕のようにその煙で玉丸は包み込まれた。

 緑のジャンバーが煙幕の中に消え、鈍い音が公園に響く。

 煙幕が消えると、顔がところどころ膨らんだ玉丸が姿を現した。

「あぇ、痛ぁい」

「お前、クソ雑魚じゃねえか」

 つい思ったことを口に出してしまった。だが文句を言いたくなるのは仕方のないことだ。なぜならこれから出会う悪霊すべてを俺が相手しなければならないことが確定したからだ。

 もしかしたらこれもズヂボウの作戦なのかもしれない。あえて霊力のない人間を選び、俺を除霊術で祓えないから安心して背中を預けろということなのか?

 もしくは本当は除霊術を使えるのに隠している可能性もあるか……。

 とにかく今すべきことは理解した。

「邪指——壱」

 一本分で足りるだろう。俺は人差し指を構えてたばこ悪霊のいる位置まで一瞬で移動した。

いきなり視界が暗くなって驚いている様子の悪霊の胸に、人差し指を突き立てこう言った。

「お前、ズヂボウの居場所を知ってるか?」

「ずぢぼう?」

 知らない様子のたばこ悪霊の体内に、俺は毒を注ぎ込む。ジワジワと侵食していく黒い毒は、まるでたばこに侵された肺のようにも見えた。

 たばこ悪霊の走馬灯が流れてくる。どうやらこいつは生前たばこをよく拾うボランティアの人間だったようだ。たまには胸糞悪くない普通の記憶もいいな。

「……ズヂボウは知らない、か」

 生前の記憶と、悪霊になってからの記憶の両方を凄まじい速度で見終えた俺は、消えたたばこ悪霊の中心に残った魂を手に取り食べた。

「あ! なんで食べちゃうの⁉」

「ん? ダメなのか」

「ダメだよ! 魂は除霊塾で換金するんだからっ!」

 そうか、そうだったな。除霊師は悪霊の魂を換金して生活しているのだ。もちろん除霊師一本で食べていけるやつは限られるので、大半の除霊師は兼業している。

 次回からは気を付けよう。だが、やはり除霊できない除霊師は次回からも使えないだろう。結局俺が仕事するはめになるのか。嫌だな。

 俺はボコボコにされた玉丸を振り返る。

「この調子でズヂボウが見つけられると思うか?」

「見つけるさ絶対に! 家族の仇はぼくが絶対にとる!」

「いや、お前は役に立たないから仇をとるのは俺になるんだが」

「まあまあ、細かいことは気にしない気にしない! それより、今度から魂は食べないで、ぼくにきちんと渡してね!」

 少々腹立たしい物言いだが、これもズヂボウからの指示なのであろうか。信頼を得るためには距離を詰める必要があるからな。……もし素の性格がこれならぶん殴って調教しているところだった。

 これからこの筋肉ダルマと一緒に行動することを考えると、早くも頭痛がしてきた。なるべく早めにズヂボウにたどり着きたいものだ。

 その後家に帰ると、玉丸は買い出しに行ってくると言って外出した。俺はもしかしたらズヂボウかズヂボウの協力者(除霊師)に接触しに行くかと思って尾行した。

 だが初日からそんな尻尾を出すような真似はしないようで、玉丸は普通に近所のスーパーで買い物をして、寄り道せずに帰ってきた。

 毎日自炊しているようで、野菜や鶏肉を中心に買い込んできた。

「お前、意外と料理とかするんだな」

「うん。筋肉を育てるには効率的に栄養を摂る必要があるからね」

 手際よく台所で調理している玉丸の後ろ姿を見て、思わずニヤケそうになる。筋肉男には似合わないな。

 出来上がったのは鶏肉の入った鍋だった。普通においしそうだ。

 悪霊は精神体が故に、ほかの精神、つまり他の生き物の魂を体に取り入れて生きている。俺は例外中の例外なので悪霊の魂を食べてエネルギー補給しているが、ほかの悪霊は違う。悪霊の魂は死ぬほどまずいらしく、口に入れるのも無理だと耳にしたことがある。大体の悪霊は主に屠殺場や病院などで魂を補給しているらしい。

 そんなわけでたまには人間の食べ物が恋しくなることもあるのだ。俺は玉丸に憑依してもいいか聞いてみた。

「飯を食いたいから憑依させてくれ」

「いいけど、憑依ってどんな感じなの?」

「どんな感じかは実際憑依して感じたほうがいい。それと、憑依するには基本的に相手の許可が必要だから、拒否しないでくれるとありがたい」

「おーけー!」

 憑依はある程度の実力を手に入れたらできるようになる。ただし相手は霊視できるやつか除霊師に限られる。意外と好き勝手に誰にでも憑依できるわけでもないのだ。

 鍋を前にあぐらをかいている玉丸の背後に回り、俺は背中に手を突っ込んだ。肘、肩、頭、足を順番に入れていく。

「おほぉ」

 変な声が聞こえたが気のせいだろう。体を乗っ取った俺は久々に食べる人間の食べ物に感動しながら鍋をつついた。うん、おいしい。


 翌朝七時半に目覚めた玉丸は、まず玄関前に大量に積まれた朝刊を家の中に持ってきた。それから洗顔、朝食を簡単に済ませ、紺色のブレザーに着替えた。身長は百六十センチ半ばと小さめだが、ガタイが良すぎてパツパツだ。今にも破けそうな気がする。

 歯磨きをして、いつもなら八時を少し過ぎたあたりで家を出るらしいが、今日からは違う。俺に合わせて一緒に登校してくれるようだ。これも信頼関係を築くための策略なのかもしれない。

 俺は八時から八時十五分まで朝ドラを見るのが習慣なので、朝ドラ『俺の穴』をしっかりと堪能した。それから遅れて学校に向かった。

 学校に行く理由は、周りの除霊師がどんなやつかを知るためだ。もしかしたらズヂボウの息のかかった除霊師が玉丸の近くに潜んでいて、そいつから指示が飛んできているかもしれない。まあ期待はあまりしていない。簡単に尻尾を出すような相手じゃないことはもう十分わかっている。

 そのため、俺から動く必要がある。なるべく早く玉丸に俺との信頼関係が深まったと思ってもらい、早期に仕掛けさせたい。信頼しきっていた万田のように後ろから刺しに来い。今度は殺さずに生きたまま捕らえて、ズヂボウの情報を吐かせてやる。そのためにも積極的に会話して仲良くならなければいけない。

「なあ玉丸。お前ドラマには興味ないのか」

「ないなー」

「じゃあ何になら興味あるんだ」

「筋肉かな!」

 鼻の穴を膨らませてフン、と息を出す玉丸。そんなにドヤ顔されてもなあ。

 ドラマの話で盛り上がろうとしたのだが、興味がないなら仕方がないな。筋肉がどうとかっていう話は俺が興味ないし。信頼関係ってどうやったらすぐに深まるんだろうか。

「ギンはドラマの話がしたかったの?」

「……まあ、それくらいしか話せないからな」

「そっかあ」

 会話もそこそこに歩いていると、白い校舎が見えてきた。

 校門には、『札幌市立維美流高等学校』と書かれていた。

 玉丸は玄関を通って階段を昇っていく。四階にある一年一組の教室に入っていった。

「おはよー!」

 玉丸が挨拶をすると、意外にも友達が多いようであちこちから挨拶が返って来る。教室を見渡すも、知っている除霊師はいなさそうだ。

 だが、包帯を体中に撒いている男子生徒はいた。もしかしたら昨日の火事のやつか。

「安言くん⁉ 来て大丈夫なの?」

 玉丸が驚いて声をかける。

「まあね。昨日はびっくりしたけど、火傷自体は大したことないんだ。医者が大げさに巻いてるだけなんだよ」

「そうか、ならよかったよ!」

 皆勤賞を狙っているのか知らないが、大したやつだ。俺は素直に感心した。

 玉丸は席に着くなりカバンから新聞を取り出して読み始めた。しかし周囲の反応は皆無だった。

「おい、お前いつもそうやってんのか?」

「うん、そうだよ」

 どうやらいつもこの調子らしい。高校生が教室で新聞を読むなんて珍しいと思うのだが、周りの生徒ももう気にしなくなったのか。

「今誰と喋った?」

 後ろの席の安言が玉丸に聞いた。

「あ、そっか。そうだよね、忘れてたよ。……じゃなくて、今のはひとり言。忘れて!」

 怪しむ態度だったが、安言もそれ以上追及することは無かった。玉丸はズボンの中に手を突っ込んでなにやらモゾモゾ動かしている。

「お前、しこっ——」

「ち、違うよ! 捏造パンツだよっ!」

 距離を縮めるために下ネタを言おうとしたが、予想以上にいい反応だった。そうか、男同士打ち解けあうには下ネタが有効だったのか。これからも続けよう。

「ああ、そういうことか」

 除霊師には避けて通れないことがある。それは、悪霊と戦ったりする時に一般人から見られてしまうということだ。除霊師は人間なので一般人から見えるが、悪霊は一般人からは見えない。一般人が見た映像を捏造しないと、一人で喋ったり何もないところに殴り掛かっていったりする変人に見えてしまい、通報されることもある。

よって、どこかのすごい発明家が捏造パンツを作り出したのだ。スイッチをオンにすると脱げないようになっているため不埒なことはできないが、他の犯罪行為に対しては対策されていない欠陥品でもある。ま、そこは除霊師の道徳心を信じるしかないな。

「いちいちスイッチをオンにしたりオフにしたりするの面倒なんだから、学校ではあんまり会話できないからね!」

「そうか、わかった」

 再びズボンの内側に手を入れて捏造パンツを操作する玉丸。この教室にいても退屈なだけだな。俺は他のクラスにも行ってみることにした。

 隣のクラスの一年二組の教室に入ってみる。教壇の方から見渡すと、一人の少女と目が合った。あ、俺の知り合いだ。

「よう珍田」

 珍田優子。茶髪でショートカット。活気のある瞳と、笑うと愛嬌のある口元を持った小顔美人。こいつが中学生の時から俺は知っている。除霊師として積極的に活動しているようで、外で俺と会うことが多かった人物だ。それに個人的に好みの外見をしていたのでよく覚えていた。特にロリコンというわけではないが。

そんな珍田は突然現れた俺に驚いていた。目を大きく見開いて、周囲の友人たちに「ちょっと……」といい、教壇にいる俺の元に小走りでやってきた。

「ギン、あんたなんでこんなとこいるのさ!」

「優子ちゃん、どうしたのー?」

 友人の一人が、黒板に向かって喋る珍田にはてなマークを浮かべていた。

「おい珍田、動揺するな。まず捏造パンツをオンにしろ」

「あっ」

 スカートの中に大胆にも手を突っ込み、操作する珍田。

「これでよし、と。……で、どういうこと? 珍しくない? ギンがこの学校に来るのって」

「そうだな。初めて来た」

「で、なんで来たの?」

 隠すことでもあるまい。俺は正直に話すことにする。

「隣のクラスの玉丸っていう除霊師に頼まれて、一緒にズヂボウを倒すことにしたんだ」

「あのズヂボウを? 玉丸君もひどい目にあわされたのかな」

「ああ、まあそんなところだ」

 ズヂボウを憎く思う除霊師は数多く存在する。家族や友人を殺されたやつや、単純に人間を意味もなく殺す存在を許せないと思う除霊師もいる。ま、当然だな。

「それより、お前は玉丸が除霊師だってことを知ってんのか?」

「うん。何回か会ったこともあるからお互いに知ってるよ」

 そうか。ならこいつもズヂボウの息のかかった除霊師の可能性があるってことだ。一応警戒しておこう。

 珍田との会話を終えた俺は他のクラス、他の学年、職員室も見て回った。だが収穫はなかった。どうやらこの学校には除霊師はあいつら二人だけのようだった。元々除霊師はそんなに多くない。このくらいの割合は普通だろう。

 一年一組に戻った俺は、退屈な授業を聞き流しながら午前中を終えた。玉丸は意外と勉強できるようで、ノートもきれいに書いていたし、当てられた時もしっかりと答えられていた。脳筋かと思っていたが、偏見だったようだ。

 昼休みになった。生徒たちは教室を出るものがほとんどだった。

「玉丸お前、昼はどうしてんだ」

「学食だよ!」

 学食か。ちょっと興味あるな。昨日玉丸の作った鍋を食べてから、俺の人間食への欲求は知らず知らず高まってきていたらしい。

 玉丸を追って学食についた。いつもは安言と一緒に食べるのだが、今日は火傷してあまり動けないので一人で来ている、という事情があるらしい。

食堂は生徒がごった返していた。券売機の前の列に並び、玉丸はA定食と書かれたボタンを押した。厨房のおばちゃんに食券を渡し少し待つと、注文した料理が出てきた。

「うわあ、うまそう」

 ジュルリ、とよだれを垂らした玉丸がA定食を前にしているが、俺はいただきますをする前に玉丸に命令した。

「おい玉丸。憑依させろ」

「ワッツ?」

 とぼけて肩をすくめる玉丸のことを無視して、俺は憑依を始める。

「たしかぼくが拒否すれば憑依はできないんだよね?」

「残念。一度憑依されたやつにはもう拒否権はない」

「そんなぁ⁉」

 とっさに出た嘘だったが、勝手に信じてくれたようだ。玉丸は観念して体の力を抜いた。

 よし、完全に憑依に成功した。俺は目の前にあるA定食を見てよだれを垂らす。

「いただきます」

 まず半熟の卵がかかったオムライスからいただく。

「うんめえええええ」

 しまった。つい声を荒げてしまった。昨日食べた玉丸の鍋の一万倍は美味い。

 からあげ三つを箸で刺して同時に口に入れる。久しぶりのから揚げの味に、俺は叫ばずにはいられなかった。

「生きててよかった!」

 周りに座る有象無象たちがこっちを見て「やば」とか言って去っていくが、俺には関係ない。その後もバクバク食べ続け、三十秒ほどで完食してしまった。

 全然食べた気がしないから、俺は玉丸のポケットから金を取り出して再び券売機に向かった。一万円もポケットに入っていたので、俺は全部使った。給仕のおばちゃんのところへダッシュし、十枚以上はある食券を手渡した。

 出来上がった至高の料理の数々を俺はその後も食べ続けた。

「うめえ」

 食べ終わるころに、ちょうど昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。

 パンパンになった腹を抱え、俺は憑依を解く。

「ねえちょっと! なにやってんのさ、ギン!」

「なにが? 今幸せな気分なんだから怒鳴ったりすんなよ。台無しになるだろ」

 玉丸が半ギレなのか、鼻の穴全開で迫ってくる。

「みんなから変な目で見られるのはぼくなんだよ! しかも、あと五日分の昼飯代が溶けちゃったし」

「あ? 飯代? 一日一万円じゃなかったのか」

「ちがうよ……。はぁ……」

「あまり気にするな。俺が悪霊を狩りまくって魂換金してやるから」

 俺はへこむごま頭をすりすり撫でながら、一緒に教室に戻った。

 教室では、俺の横にすごい嫌な視線が飛んできていた。

「玉丸、お前どうかしたのか? 教室でさっきから噂になってるぞ」

 安言が話しかけてきた。玉丸の奇行(俺のせいだが)は既に知れ渡っているらしい。すまん。だが料理が想像を超える美味しさだったので仕方ないことだ。

 落ち込む玉丸はため息をつきながら「いや、大丈夫」と答えるだけだった。

 少しすると、五時間目が始まるチャイムが鳴り教師が入ってきた。俺は時計を見た。一時二十五分、か。

——やばい、昼ドラの時間をすっかり忘れてた。

「まあでもまだ間にあうか、俺のスピードなら」

 俺は玉丸に昼ドラを見に行くことを伝え、時速何キロ出ているかわからないが、十秒くらいで家に帰った。

 テレビをつけっぱなしにしてあるので、心配はいらない。それに視聴予約もしっかりと済ませてあるので抜かりはない。

 昼ドラ『棒の誘惑』を集中して見終わった後、俺は再び学校に戻ることにした。

 教室に戻った後は、三時半までの授業を退屈に過ごし、俺は玉丸と一緒に下校した。

「魂集めて、換金しないとなあ」

 玉丸がつぶやいた。

「なに俺に聞こえるように言ってるんだ」

 昼飯の恨みなのか、俺のほうを向いて言った玉丸に俺はボディブローを入れてみた。スキンシップは仲良くなるには手っ取り早い方法だ。

「ふん!」

 中々良い腹筋だ。今度からはもう少し力を入れて殴ろう。

「悪霊狩り行くんだろ? これから」

「行くよ! EPSによると……すぐそこのコンビニだね」

 スマホの画面を俺に見せながら玉丸は言った。隣で歩きながら俺は考える。

 あと十分で夕方のドラマの再放送『アワビの子』、始まるなあ。

「玉丸」俺は真剣な顔を作りパートナーの方を向いた。「俺にはやることがあるので、悪いが帰る」

「なんでだよ! 一緒に戦ってくれるって言ったじゃん! パートナーじゃん!」

「悪いな、なんとか粘っておいてくれ。俺はドラマを観終わったら合流する」

 ぶつくさ文句を言う玉丸の鍛え上げられた尻を蹴っ飛ばし、俺は夕方の再放送のドラマを見に帰った。


 ぼくは、EPSを頼りにコンビニに向かった。

「あんなドラマオタク、いなくてもぼく一人でやっちゃうもんね」

 コンビニが見える位置に来たので、ぼくは制服のズボンに手を突っ込んだ。いや、変態じゃないからね! ただ捏造パンツのスイッチをオンにするだけだからね! ぼくは周りをきょろきょろしながら言い訳した。

 ピポピポピポーン。ありがとうございましたー。

 コンビニから出てきたおばさんの後ろに、おとなしそうな顔をした半透明の女の人——いや、悪霊がついてきている。

 ぼくが悪霊を成敗しに駆け出そうとしたとき、そのおばさんは赤色のボクシーに乗車した。

ぼくはダッシュしながら両腰の巾着に手を突っ込み塩をつける。あと十メートルで悪霊に到達する。こちらに気づいたわけでもなさそうなのに、その女悪霊も車に乗ってしまった。

 そしてあろうことかその車は、急いでいるのか、すぐに猛スピードで駐車場を飛び出して行ってしまった。

「え⁉ 待って!」

 せっかくもう少しで捕まえられるところだったのに。でも、あの車、どこかで見たような気がするんだけどな。

 ぼくは行ってしまった車の後ろ姿を眺めながら考えた。というかものすごいスピードを出している気がする。

 あ! 思い出した! あれは安言くんちの車だ。赤のボクシーって珍しいとは思ったんだけど、悪霊に気を取られて気づかなかった。ってことはあれは安言くんのお母さんだったのか。

「……ということは、ヤバい!」

 前に乗せてもらったとき、安言くんのお母さんはものすごくゆっくり運転していた。車の運転があまり得意ではないとも言っていた。

 つまり、今の急発進とスピードは、悪霊の仕業かもしれないってことだ。車を追わなきゃ!

 赤のボクシーは赤信号になりそうなギリギリの瞬間を、ドリフトしながら急カーブしていった。

 ぼくは走り出した。でも人間の足じゃ絶対に追いつけない。すると同じ方向に車道を突っ走るママチャリが目に入った。ぼくは迷わず引き止める。

「なにすんだい! 危ないじゃないの!」

「すみません、ちょっと借りますよ!」

 ねぎを背中に背負った買い物帰りのおばちゃんに断りを入れ、ぼくはチャリを拝借する。捏造パンツのおかげでおばちゃんも納得してくれるはずだ。

「うおおおおお!」

 風を切り、ぼくはいくつもの車を抜かしていく。大腿四頭筋が喜んでいるのもしっかりと感じる。

 やがて赤のボクシーの後ろをとらえた。横に並び、ぼくは窓をドンドン叩いた。

「大丈夫ですか!」

 中にはハンドルから手を放し、必死にドアを開けようとしているおばさんの姿があった。

「——助けて! 車が勝手に動いてるの!」

 運転席のおばさんのほかに、後部座席にも人の影が見えた。包帯をぐるぐる巻きにした安言くんだ。やっぱりか!

「玉丸ぅ、助けてくれよー!」

 なんという不幸続き。火事悪霊の翌日には、交通事故悪霊に狙われるなんて。とにかくどうにかして暴走するこの車を止めなければ。

「今なんとかする!」

 でも気が付くと前は長い下り坂になっていた。前には幹線道路が横切っている。あと五十メートルほどでぶつかってしまう。

「やばいやばいってこれは!」

 包帯だらけの安言くんが、後部座席で慌てふためいている。

 ぼくは自分の筋肉の頑丈さを信じて、さらにペダルを強く踏んで加速した。

 一瞬両手を離し、腰の巾着に手を入れる。塩をありったけつかみとり、隣を爆走する車にぶっかけた。

「どうだ!」

 悪霊はそれぞれ一つだけ、人間世界に影響を与えることができる。今は車に影響を与え、乗っ取られている状態。車に乗ったはずの女悪霊の姿が見えないということは、車自体に同化しているんじゃないか。ぼくはそう考えた。

 するとぼくの予想通り、車の天井から「うわっ」と女悪霊が出てきた。

「おばさん、ブレーキ、ブレーキ!」

 長い坂の下には車がビュンビュン通っている。止まれなきゃ、確実にお陀仏だ。

 ぼくも必死にブレーキを利かせた。握力計があったら百キロは余裕で超える力でね!

 隣を見ると、車はブレーキをかけられているみたいだ。あと二十メートル、なんとか止まれそうだ。が、ぼくの視界からは消えていく。後ろに。

「ああああああああ!」

 止まらない止まらない、とまれ止まれー! あと十メートル、ぼくの自転車は止まらない。なんでブレーキ効かないんだ⁉

 後ろに感じる悪霊の気配が、ぼくのうなじをそっと撫でた気がした。

——そういうことか。乗り物ならなんでも影響を与えられるのか! あと五メートル、二メートル、右から大型トラックが来る、轢かれ——

「てたまるかあああ!」

 全筋肉をフル稼働させ、ぼくはペダルを全力でひと漕ぎした。

 驚いた顔の運転手がぼくのすぐ後ろを通り過ぎていく。

 と思ったら、対向車線、ぼくの左側から、軽自動車が! 間に合え!

 もうひと漕ぎして、ぼくは前にある林に頭から突っ込んだ。

 ……少し意識が飛んだ気がする。三秒くらいかな。後ろを振り返ると、捏造パンツのせいか、何事もなく車はビュンビュンと走り去っていっていた。

 下り坂の安言くんちの車に目を向けた。さっきまでぼくの自転車に憑いていたはずのあの女悪霊が、安言くんちの車を超えて坂を上っていくのが見えた。

 塩をかけたおかげで安言くんちの車にはもう入れないようだけど、ほかの車なら別だ。やばい!

 ぼくは車が途切れる瞬間を見極め、反対側の道路に向かって走った。今度は大丈夫。ぼくはぼくの肉体ができることを知っているから。

 車の風を通り抜けて安言カーにたどりつく。まだおばさんは放心状態で、後ろの安言くんのズボンはびしょびしょに濡れているようだった。

「早く逃げて!」

 ドアを開けて二人を無理やり逃がす。その間にも坂の上からはスピードを上げた車がものすごい勢いで突っ込んでくる。ぼくは多めの塩を握り、ボールのように投げつけた。

「塩——投げぇ!」

 パァン、とフロントガラスに当たった塩は車から女悪霊を吐き出し、運転手は大声をあげながらブレーキを踏んだ。

 ハンドルを切って縁石にこすりつけながら、その車はぼくたちのすぐ手前で停止した。いざとなったらぼくが直接止めようと思ったけど、大丈夫だった。

 考えている暇はない。逃げようとしているのか、また同じことをしようとしているのか、女悪霊はまたしても坂の上に移動し始めた。

 今度は逃がさないぞ!

 ぼくは坂をダッシュしながら塩の塊を再び投げつけた。振り返る女悪霊の背中に命中した。 そして一瞬ひるんだところに、腹に巻いている霊捕綱を手に取り、女悪霊に向けて放った。左足を縛り取った。

 この霊捕綱は、霊力のない者でも扱える。綱自体に霊力がこもっているから、悪霊の体を捉えることができるのだ。空中や地中に逃げられたら除霊師に勝ち目はないから、持ち歩いている除霊師も多い。

 ぼくは力いっぱいに綱を引き、女悪霊をアスファルトに引きずりながら手繰り寄せる。

 そのままぼくの元に女悪霊がくる。あとは捕まえるだけだ! だが——

 スッポーン、と足に巻いていた霊捕綱が抜けてしまった。しまった、縛りが浅かったか!

「邪魔しないでよ! あそこの男を殺すだけでいいんだから!」

 怒鳴った女悪霊は坂の下の幹線道路に素早く移動していく。ぼくは止めようと走るが、間に合わない。ブウン、という音が聞こえたと思ったら、右から走ってきた大型のバイクに取り憑いた女悪霊が、バイクと一緒に坂を猛スピードで上がってきた。赤のボクシーの横にいる安言くんに向かって一直線に突っ込んでくる。

 ぼくは安言くんの前に立ち、腰を少し落とした。相撲の張り手の要領で腕を引く。

 バイクが突っ込んでくる。乗っていた人はもう飛び降りた。バイクだけが時速百二十キロを超えるスピードでぼくの眼前に突っ込んでくる。

「ハッ!」

 ぼくは手を突き出し、バイクのヘッドライトにぶつける。普通の人なら吹っ飛ばされているはずだが、ぼくはなんとか耐えた。両の手のひらと、強靭な足腰で踏ん張っている。ギャリギャリ、とタイヤがアスファルトをこすって尚も前進しようとしてくる。

 女悪霊が力を強めたのか、どんどんタイヤの回転数が上昇していく。アスファルトとの摩擦で白い煙が出始めた。

ぼくを突破されたら後ろにいる安言くんとおばさんにぶつかってしまう。

けどヤバい、もう耐えられない——!


 夕方のドラマの再放送『アワビの子』を見て満足した俺は、玉丸の元へ向かうことにした。

「まさか島の海女さんたちのアワビを使って漁業組合の親父たちを篭絡するとは思わなかったな」

 毒はあっちか。俺は、学校やコンビニとは違う方向に飛んでいく。昨日寝ている間に玉丸の鼻の奥に指を突っ込んで、俺の指から出る毒をつけておいた。人間には無害だから大丈夫だ。これでズヂボウと密会をするときでもすぐに場所が分かる。

 三十分前に別れたときはコンビニ付近に悪霊がいると言っていたが、今はそこからの反応がしない。

急ぐこともなく移動していくと、学校から少し離れた長い下り坂の頂上についた。車がこんな頻繁に通るところで悪霊と戦っているのか。それとも悪霊退治は諦めたか。

除霊術が使えなくお札も持っていないとなると、己の肉体と塩だけで戦うことになる。悪霊には逃げられただろうな。そう思っていたのだが。

坂の上から見下ろすと、そこには無人の暴走バイクを必死に止める玉丸の姿があった。なぜバイクが無人で動いているのか。この状況では考えるまでもない。悪霊が操作しているのだろう。

玉丸の後ろには赤い車と二人の人間がいた。目を凝らすと見覚えのある二人だった。いつもドラマを一緒に見ている(俺が勝手に居座っているだけだが)安言ママと安言じゃないか。

怯えて腰を抜かす安言と、そんな息子の肩を持つ安言ママが、固唾をのんで玉丸の背中を見つめていた。

バイクはどんどん加速しているようで、玉丸の顔も焦ってきていた。言ってる場合じゃないな、助けてやらないと。

俺はすーっと下り坂に沿って飛んでいき、梅干しみたいに真っ赤になった顔の玉丸の隣に行った。

「よう。やばそうだな」

「——っ! ギン!」

 まるで救世主か勇者が現れたかのような表情で俺を見る玉丸。ったく、俺はもうそんなに頼りにされてるってのか。まあ悪い気はしない。さっさと終わらせるか。

「邪指——弐」

 人差し指と中指を立ててピースの形を作った俺は、暴走するバイクの側面にぶすっと指を突き刺した。そして問う。

「お前、ズヂボウの居場所知ってるか?」

 女悪霊の過去が、走馬灯のように俺に流れ込んでくる。

 ——対向車線をはみ出してきた、缶ビール片手に運転しているおやじ。ぶつかる寸前にはっきりと見えたその赤ら顔。ポタポタと流れ落ちる血。足元に落ちているスマホが映し出すパズルゲームの残り十秒のカウント。

 運良く生き延びたのか病室にいる飲酒親父の姿。駐車場にあった大型のバイク。白い清潔感のある廊下を走り、病室に突っ込むバイク。飲酒親父のつぶれた頭。

飲酒運転をする数々の運転手。慌てふためきブレーキを踏む飲酒ドライバー。電柱にぶつかる車。ガードレールから落ちる車。人を轢く車。

 仮面の女から手渡された安言が写った写真。仮面の女の握る心臓のようななにか……。


「ズヂボウのことは知らないか。だが仮面の女は何者だ?」

走馬灯の中では安言を狙えという風に見えた。それに心臓のようなものを握って脅していたようにも見えた。

 俺は灰になった女悪霊の中から一つの魂を取り出し、横で大の字になっている玉丸に渡す。

「ほらよ」

「あり……が、とう」

 息を切らして仰向けに倒れている玉丸に、安言家の二人は感謝をしきりに述べていた。安言の濡れたズボンに、何匹かアリが集ってきていた。

「あいつ糖尿病なのか……」


 交通事故女悪霊と戦った次の日。悪霊と対峙した玉丸は疲れきっていたため、今日の放課後の悪霊狩りは一旦休止することになった。

 放課後、昨日使い切ってしまった昼飯代を取り戻すために、俺と玉丸は二つの魂を持って除霊塾に向かった。

 道中、俺は信頼を築くために話を振ってみた。ま、ドラマのことくらいしか話題がないのは昨日と変わりないのだが。

「今日見た昼ドラの展開がすごかったんだよ。近未来的でびっくりした。どんな展開だったと思う?」

「うーん」腕を組んで考えている素振りをする玉丸。「わかんない」

 絶対に考えていないことだけはわかった。俺は腹を立てながらも正解を教える。

「浮気相手がロボットだったんだ。すごくないか? 意味わかんないだろ」

「え? あー、すごいねー」

 まるで興味なさそうに筋肉が喋る。こいつは昨日もそうだった。ドラマの話にはまるで興味がない。俺との信頼を深めたいんじゃないのか。

ズヂボウは俺と玉丸の信頼関係を深くするのが第一の目的だと思っているのだが。

「お前、少しは話に花を咲かせようって気にはならないのか?」

「うん、ないね! だって空想の話なんかに興味ないし! ぼくが興味あるのは己の筋肉とズヂボウを倒すことだけだよ」

 筋肉と口にしたあたりから上がりだした口角に、思わず「気持ちわる」と言ってしまった。できれば夕方の再放送ドラマについても語り合いたかったのだが、無理そうだ。

 他の話題を振ってみることにした。やはり男同士楽しい会話と言えば下ネタだろう。

「珍田いるだろ? あいつって可愛いけど名前がちょっとかわいそうだよな」

「珍田さん?」

 急に声が高くなった。

「なんだお前、筋肉とズヂボウにしか興味なかったんじゃないのかよ」

「あ、い、いやそうだよ? た、ただ珍田さんの下の名前って何だったのかなって思ってさ」

「優子だよ。珍田優子。略してちん——」

「——あー! あー! だめだよ、そんなこと言ったら!」

 遮られてしまった。笑わせようと思ったのだが、慌てて俺に抗議してくる玉丸は少し怒っている様子だった。

「人の名前をいじっちゃいけないよ絶対!」

「悪い悪い。そうだよな、お前も玉丸金次。略して玉金だからな」

 ちょっとニヤケながら言うと、これには怒りもせずハハハと笑っただけだった。

「なんだお前、自分のことはバカにされても怒らないのか」

「まあね。ぼくはあだ名に慣れちゃってるから。でも珍田さんは女の子だし、絶対目の前で言っちゃだめだからね!」

「……お前もしかして珍田のこと好きなのか?」

 妙に肩を持つし珍田の名前を出すと緊張するから、もしかして、と聞いてみた。すると顔を赤くして、

「す、す、好きとかそういうんじゃないしっ」

 と中二っぽいセリフを吐いてきた。うわあ、こいつ珍田のことが好きなのか。というか正直すぎるなこいつ。

「そ、そういえばさ、換金する魂って二つでいいのかなあ」

 急な話題そらしだな。まあこれから行く除霊塾についての話なら付き合ってやるか。

「俺も詳しくは知らないな。大体一つ何円で買い取ってくれるんだ? というかお前は知らないのか?」

「前に何回か換金しに行ったけど、その時は十個で一万円だったよ」

「なんだ、知ってるじゃないか」

「違うって。ぼくが言いたいのは、二つだけだったら足りないよねってこと。学食をバカみたいに食べる人がいるから、どうするのかなって考えてたのさ」

 ああ、なるほど。俺が学食で一万円を使い切ったことをまだ根に持っているってことか。つまり悪霊をもっと狩ってこい、と。苦し紛れの話題そらしだと思ったが、してやられたな。しっかり意趣返しされてしまった。

「仕方ないな。俺自身そう言ったしな」

 俺は除霊塾に行く間に、少しでも昼飯代を稼ぐことにした。

 悪霊には第六感が備わっている。しかも俺はそれが強い。俺の第六感にかかれば、地中に隠れている奴も、周囲一キロ範囲以内の悪霊の気配もなんとなく感じられる。

 玉丸の元を離れ、そこら辺に隠れている悪霊たちを殺していく。

「邪指、邪指、邪指……」

 俺は一応ズヂボウの居場所を知っているか、と質問してから殺したが、どの悪霊も知らなかった。

「余計な過去ばかり見てしまった」

 二十体ほどの悪霊を狩って玉丸の元に合流する。わずか十分のことだ。自分で言うのもなんだが、やっぱり俺最強だな。

「うわあ、すごいねその量!」

 両腕に抱えて持ってきた二十個の魂を見て、玉丸は大げさに喜んだ。

「これは俺の昼飯代だからな」

 わかってるって、と笑う玉丸。よしよし、この調子だ。心を開いていると思わせられてきたんじゃないか? いつでも罠にはめてきていいぞ?

 夕日がきれいに見えるこの時間。もう少しで除霊塾が見えてくるというところで、玉丸は指をさして言った。

「あのさ、ずっと聞こうと思ってたんだけど、あそこにいるのって悪霊だよね?」

 指さした方向の先には、テレビ塔があった。そしてその隣には巨大な半透明の二本の足がある。

 俺はあいつのことを懐かしく思いながらも、「知らん」とだけ言っておいた。あいつとは喧嘩別れみたいになってるからな。

 さらに数分歩くと、除霊塾の看板が見えてきた。

『占い! 浄霊! 無秒即再』と書かれている。相変わらず胡散臭い。除霊師からは除霊塾と呼ばれているが、一般人からするとここはただの占い屋だ。占いや浄霊など、幽霊に悩まされている人が訪れる胡散臭い場所である。

 ビルとビルに挟まれていて常に日が当たらない掘っ立て小屋のような建物に、俺と玉丸は入っていく。

 扉を開けると正面に受付がある。そこにはいかにも占いをしそうな老婆が一人番をしていた。

 だがそこはスルーだ。一般人はそこで占いや相談をするが、除霊師用の入り口は他にある。

 俺たちはトイレに入り、入り口から二番目の個室に入る。壁のある位置を三か所触ると、壁が上にスライドされて中に入れる。

 年季の入った木でできた廊下を進むと、塾長と書かれたプレートが見える。そのドアをノックして、俺たちは換金所兼塾長室に足を踏み入れた。

「あらいらっしゃ~い」

 左右に分けて染められているピンクと金色の髪をツインテールにした、サングラスをかけた筋骨隆々の中年が出迎えてくれる。首をやや斜めにしてウインクを飛ばしてくる。気色悪いので勘弁してほしい。相変わらず気持ちわるいが、こいつが塾長だ。

「塾長! お久しぶりです!」

「よう」

「玉ちゃんに、……ギンちゃんじゃな~い。珍しいわね、二人とも」

 市内を映す大きいモニターを前に、塾長——飽馬圭護は言った。

「塾長、これ換金してください」

「換金ね……って、えぇっ!」

 玉丸の太すぎる腕に抱かれた色とりどりの魂を見て、飽馬は驚いた。

「どうしたのこれ? あ、わかった~。ギンちゃんの仕業ね?」

「そうだが、その相変わらずのきもさはどうにかならないのか?」

「無理よ~。これはあたしのアイデンティティなんだからぁ」

 きもいことは置いといて、換金額はいくらかが気になる。玉丸が前に換金したときは魂十個で一万円だった。今回は二十二個だから、単純に計算しても二万二千円になる。

 飽馬は裏に魂を持って行った。しばらくしてから戻ってきて、はいこれ、と現金を渡してくる。

「二万五千円か」

 大金を受け取った玉丸はまじまじと手元の諭吉たちを眺める。支給されたお札を使い切ってから玉丸は悪霊を祓えていない。今回も全てが俺の手柄なので、嬉しいような嬉しくないような微妙な表情をしている。

 雑魚を二十体狩るだけで昼飯二日分以上になるとは。一体なんで金に代わるのかは謎だが、そんなことはどうでもいい。とにかく腹いっぱい学食が食える。

「にしてもあんたたちといい、優子ちゃんといい、すごいわね、新人のくせに」

「え、珍田さんもこんなに換金するんですか?」

 優子という名前に鼻息荒く反応した玉丸が聞いた。

「いや、数じゃなくてね。あの子の場合は質がいいのよ。名有りの悪霊の魂ばっかり狩ってくるの。まったく、どうやってあんな化け物たちを倒してるんだか」

 名有りとは、俺のように幾年も除霊できずにいる悪霊に、除霊師側が勝手に名前をつけた悪霊たちの総称だ。強さはもちろん、ズヂボウのように隠れるのがうまいからこそ長年生き続けていられるのだが、一体どうやってそいつらを除霊しているのか。

「あ、だから今回は二十二個の魂でも二万五千円だったんですね」

「そうなのよ。『モグラ』っていう地中で暮らしてる悪霊の魂が四千円だったの」

「ああ、さっきのあいつか」

 なんか地面の中で一匹殺したな。

「さっすがギンちゃんね。まさに強靭! 無敵! 最強! って感じ」

「それはダメだろ」

 どこかで聞いたことのあるフレーズを注意したところで次の換金者が来た。俺たちは特に長居するつもりもなかったので、飽馬に別れを告げた。

「ありがとうございましたー!」

「……あの伝説、あの二人ならもしかして——」

 ドアをすり抜ける間際、そんな意味深な飽馬のセリフが俺の耳に届いた。

 トイレを通って除霊塾を出た。空はまだ赤とんぼのような色をしていた。

 帰路の途中で、玉丸から質問が飛んできた。

「ねえギン。塾長っていつも大きいモニターを眺めてるけど、一体なにやってるのかなぁ?」

 そうか、こいつはまだ飽馬の仕事を知らないのか。説明しておくか。

「飽馬はな、除霊術を使って札幌の悪霊を監視してるんだ。お前のスマホに来るEPS情報はあいつが送ってるんだぞ」

「え⁉ そうなの⁉」

「あいつは動物の目を借りることができるんだ。鳥や猫なんかを使って悪霊のいる位置をつかんでいる。ま、大体があそこにつっ立ってる悪霊が空から見渡してるんだけどな。それを視覚共有して飽馬が除霊師たちに教えてくれるってわけだ」

「そうなんだ。知らなかった。てかギン、塾長とも知り合いみたいだったし、あのテレビ塔の横の巨大な悪霊のことも知ってたんだね。さっきは知らんって言ってたのに」

 あ、ついつい言ってしまった。まあ別にいい。つっ立ちや飽馬と知り合いだったということは別に知られて困ることでもないからな。

帰っているうちに暗くなってきた。玉丸の家に帰りつくときには、あたりは真っ暗になっていた。

 アパートの階段を昇り、玄関の前で玉丸が鍵をポケットから取り出している。俺はとくに待っている必要もないので、いつものようにドアをすり抜け——、

「——なんだ?」

 かすかな違和感が俺を直感的に立ち止まらせる。この玄関の先か? そう思ってもう一度ドアに顔を近づけたとき、それは見えた。

 暗闇に紛れるかのようにドアの外側に、ドアと同色に着色されている大量のお札が張られていたのだ。

「あっぶねぇ」

「どうしたの?」

 玉丸にお札の存在を知らせた。うわ、と驚いて一枚一枚はがしている。危うく除霊されるところだった。

 もうズヂボウから刺客が送られてきたのか。やはりズヂボウの情報収集能力は半端ない。俺と玉丸が動きはじめてまだ三日しか経っていないのに、もう仕掛けてきた。

 俺は余計に神経を尖らせる必要があると悟った。玉丸は依然として俺を襲ってくる気配は微塵も見せないが、それもいつまでかはわからない。急に隠している霊力を使って祓おうとしてくるかもしれないし、このお札を貼らせたのもこいつの指示だってこともあり得る。とにかく気を付けて生活していこう。

 暗くなってきていて何かは見えなかったが、玄関前の柵から、虫の飛び立つ「ブーン」という音が聞こえた。


翌朝、朝早くから新聞を読み漁る玉丸が、眉間にしわを寄せながら言った。

「また一家心中事件だって。これも多分ズヂボウの仕業だ。許せない。一体何が楽しくてこんなことを繰り返すんだ、ズヂボウ!」

 俺もズヂボウに家族とともに殺されたが、コイツの場合は一人だけ生き残ってしまったんだよな。それはそれで、残酷なことかもしれない。

 新聞をたたんだ後、玉丸は勉強机の上に置いてある家族写真に手を合わせていた。目をつぶって数十秒経った後、朝食を食べ始めた。

 俺は朝ドラ『俺の穴』を見て、玉丸と共に学校に向かった。途中でドラマの話をしたかったが、今日はやめておいた。

 玄関をくぐり階段を昇る。教室に入る前の廊下で、たまたま珍田とすれ違った。

「お、おはよう」

「……」

 何かを考えていたのか、玉丸は見事に無視された。そのまま珍田は女子トイレへと入っていった。

「残念だったな筋肉マン」

「う、うるせー!」

 煽ると顔を真っ赤にして怒る。それが楽しくてついついやってしまう。もちろん信頼関係を深めるためだが、純粋に楽しいとも感じるようになってきていた。

 教室に入ると、玉丸は後ろの席の住人がいないことに気づいた。

 先生によると、安言英雄は体調不良で休みのようだ。玉丸はすごく心配していた。

 家が燃えたり、車が勝手に動き出して死にそうになったり、バイクが無人で突っ込んできたりしたんだ。三日も続けば、体調だって悪くなるのも無理はない。


 ——それから一週間ほどが経った。俺と玉丸はほぼ毎日悪霊を狩り続けるも、ズヂボウへの手がかりは未だにつかめていなかった。

 ズヂボウやズヂボウからの刺客がいつ襲ってくるかわからない生活が続くのは精神的にきつい。それに、俺なりに信頼関係を深めて来たとは思うが、パートナーの玉丸が俺を裏切って祓いにくるのもまだ先になりそうな感じがしていた。

 思えば万田が俺とパートナーを組んでから裏切るまでの期間は三か月くらいだった。ズヂボウがまた玉丸というパートナーを使って仕掛けてくるなら、今度は失敗しないように半年、いや下手したら一年以上も何もしてこない可能性はある。そう考えると憂鬱になった。

 今日もいつも通り、放課後になって玉丸が悪霊退治に行った。俺は三時四十五分からの夕ドラを観に一旦帰った。

帰りながら、俺は考える。これからのことを。そろそろ玉丸には尻尾を出してもらう必要がある。

作戦と呼べるものではないが、いい案を一つ思いついた。次に悪霊を狩ったあとで実行するとしよう。


 夕ドラを観るといったギンを見送ったあと、ぼくはスマホのEPS反応を見ながら移動していた。割と学校から近くの住宅街の中に、その反応はあった。

 一軒家が連なる中、あと三軒先だな、と目星をつけたとき、悪霊がこちらの気配に気づいたのか、急に移動してしまった。

「あ、待て!」

 追いかけるも、EPS反応は消えてしまった。地中に潜ったのかもしれない。前にギンが言っていた通り、あの巨大な悪霊が上空から悪霊を監視していても、地中に逃げられたら見えないからね。

 ついさっきまで悪霊がいたと思われる家の前にたどりついたけど、どうしよう。悪霊が逃げちゃったんなら仕方ない、帰ろうかな。そう思ったとき、視界の端で何かが揺れた。

 ぼくは首を少し上に傾け、その影をしっかりと見た。それは、ドラマとかでたまに見る(ドラマはぼく見ないけど)人が首つりをする瞬間の影だった。輪っかになったロープかなにかに、ぶらぶら揺れる女の子の上半身。自殺か! ヤバい! そう思うや否や、ぼくの足は走り出していた。

 ドアを開けようとしたけど、鍵がかかっていた。躊躇している暇はない。ぼくは五歩下がり、助走をつけて肩からタックルをした。成功! ドアをぶち破り、玄関内に入った。

 それから急いで目の前の階段を上った。二階に上がると、右奥に『あすかのへや』と書かれた部屋があった。

急いでドアノブを下げ部屋に入ると、そこには天井の照明器具から吊るされている女の子がいた。苦しそうにまだもがいていた。

「まだ間に合う!」

足と腰を抱え上げてロープで締まる首を楽にし、息ができるようにした。それからぎりぎり届くところに勉強机があったので、そこの引き出しからはさみを取り出し、天井の照明器具に引っ掛けてあるロープを切った。

気を失っている女の子——あすかちゃんをゆっくりとベッドに寝かした。胸が上下しているから、とりあえず息はあるようだ。よかった。

 ぼくはすぐにスマホで救急車を呼んだ。とりあえず助かったけど、首にものすごい負荷がかかったはずだから早く診てもらいたい。

 少しして救急車が到着した。ぼくも付き添いとして同乗し、病院へ向かった。

 ぼくはしばらくの間待合室の椅子に座って、あすかちゃんの診察が終わるのを待つことにした。自殺しようとしている人を見たのは初めてだったので、まだ心臓がドキドキしていた。

 やがて看護師のお姉さんがやってきて、「診察と処置が終わったので病室に行きましょうか」と言われた。ぼくはあの子の家族ではないけれど、一応行くことにした。家族にはもう連絡がいっているようで、もう少ししたら来ると言っていた。

 病室に入ると、あすかちゃんはベッドの上で仰向けの姿勢をとっていた。首を痛めたためかコルセットのようなものも巻いている。

「もう大丈夫なの?」

 なんて声をかけていいかわからなかったので、とりあえずそんなことを言ってみた。

「あ、はい。助けてくれてありがとうございました」

 かすれた声で礼を言われた。でも浮かない顔をしている。

「なんで助けちゃったんですか。わたし死にたかったのに……」

 その言葉にぼくは何も返すことができなかった。なんて答えればいいか分からなかった。死にたい人の気持ちはぼくには分からないし理解もできないから、返答に困った。

 無言のままでいると重い空気になってしまった。居心地の悪い時間が続くのも悪いし、とりあえずもう大丈夫そうだと判断したぼくは、病室を出ようとした。

だがそこで、病室の壁からぬっと現れたギンと目が合った。

「お前、ここでなにしてんだ?」

「あ! ギン!」

ぼくはギンに話しかける前に、ズボンに手を突っ込んだ。事情を話す。

「悪霊を追ってたらこの子の家についてね。悪霊は逃げちゃったんだけど、この子は自殺しようとしてたんだ。それで、やばいと思って助けて、一緒に救急車に乗ってきたってわけ」

「なるほど。話を聞くに悪霊が関係してそうな雰囲気だが、それについてはちゃんと聞いたのか?」

 ギンも気づいたみたいだった。悪霊がすぐ近くにいたのなら、もしかしたら自殺しようとしたのもその悪霊のせい、という可能性がある。

「いや、まだ聞けてないんだ」

「あ? なんで」

「なんか聞きづらくって」

「よく分からないが分かった。じゃあ、俺が聞いてやる」

 ギンはぼくに近づいてきた。学ランを着た腕が伸びてきて、ぼくの体に入って来る。一瞬ふわっと意識が飛びかけた。

「おい嬢ちゃん、お前、なんで自殺なんてしようとしたんだ? あ?」

『おい! いきなりそんな言葉遣いすんなよ! ビビっちゃうだろ!』

『いいから黙って見てろ。中学生くらいのガキにはお前みたいな筋肉野郎が怖い人オーラ出したら嘘つけないんだよ。ってかお前ついに憑依中に喋れるようになったのか』

「ひっ」

 女の子はぼくを見てびびってしまった。

「おいどうした? 教えろよ早く」

「あ……はい。その、わたし、最近になって急にいじめられるようになって。しかも、頭の中ではいつも『死ね。自殺しろ。お前なんか生きる価値はないんだ』って声がするんです。だ、だから死ぬしかないかなって思っちゃって……」

 あすかちゃんは泣きそうになりながらも話してくれた。ぼくってそんなに怖いかなぁ⁉

「そうか。で、その頭の中の声ってのは、そのいじめてくる奴らの誰かの声なのか? それとも知らないやつの声か? ん?」

 なぜかブレザーの前ボタンを外し、第二ボタンも外したギン(ぼく)は、彼女に詰め寄って聞く。

「ひっ……。あ、はい。そういえば、そうですね。言われてみれば、あの頭にする声は、知っている人の声ではない、気がし……ひぃっ、ます」

 相当ぼくに怯えているあすかちゃんは、もはやおしっこを漏らしてもおかしくないくらい震えている。ぼくってそんなに怖いのぉ⁉ ちょっとショックなんだけど!

『ということだ。このガキをいじめて自殺しようとしたのは、思った通り悪霊の仕業だった』

 ふわっと気持ちよくなったと思ったら、ギンがぼくの中から出てきた。解放されたぼくはあすかちゃんとの距離を開け、ブレザーとワイシャツを元通りにした。そして捏造パンツのスイッチをオフにしてあすかちゃんに言った。

「あすかちゃんがいじめられたのは、あすかちゃんが悪いんじゃないよ」

「え?」

 突然口調が戻ったぼくに驚いている彼女は、言葉の意味が理解できていないようだった。

「信じられないかもしれないけど、あすかちゃんが急にいじめられるようになったのは、悪霊のせいなんだ。ぼくは除霊師っていって悪霊を退治する人だから、あすかちゃんに付きまとおうとする悪霊を祓えるんだ」

「……」

「今は近くにいないから祓えないけど……。とにかく退院したら教えてくれるとありがたいな」

 懐疑的な目線を向けられる。でも少し考えた後、彼女は小さく「わかりました」と言ってくれた。

「ありがとう!」

 そう言ってぼくは右腕を上げたのだが、それを見た彼女は「ひいっ」と声を出して掛け布団で顔を隠してしまった。ぼくが手をあげるとでも思ったのだろうか、まったく……。

信じてもらえたかはわからないけど、とりあえず伝えたいことは伝えられた。

ぼくはあすかちゃんに電話番号だけ教えて、ギンと一緒に病室を後にした。

 家に帰ると、彼女のお母さんから電話がかかってきた。助けてくれたお礼と、破壊されたドアの費用は自分でなんとかします、という旨を伝えられた。すっかり忘れてたけど、ドアの件、ほんとすみません!

 それから数日後、今度はあすかちゃんから電話がかかってきた。

「筋肉のお兄さん、この前はありがとう。幽霊の話はわたし信じてないけど、今日退院したから一応伝えとくね」

 筋肉のおにいちゃんって。……まあいいか、とりあえず退院できてよかった。

「退院おめでとう! 学校はいつから行くの?」

「明日から行くよ」

「そっか! ……ちなみに維美小だよね?」

 たしかあの地域の子供は維美流小学校に通っていたはずだけど、違うかもしれないので一応聞いてみた。しかし——、

「中学校だし! 中二だし!」

 ブツ、と電話が切られた。え、てか中学生だったのか。しかも中二⁉

この前の様子からは想像できないほど元気になってたのは良かったけど、あれで中二かぁ。控えめに言っても小六にしか見えなかった……。

 いじめられていた原因が悪霊のせいだったのか、ちょっと心配になってきた。

 とにかく明日、様子を見に行ってみよう。悪霊がまた憑いてくるようなら退治しなくちゃね。

 

翌朝ぼくは維美流中学校に行くため、いつもより早く家を出た。ちなみに高校は遅刻していくことにした。学校と人の命、比べるまでもないからね。

慣れない道をマップ頼りに歩いていくと、維美流中学校が見えてきた。校門が見える位置で立ち止まり、適当な場所を探す。あの電柱の影がよさそうだな。

 ギンは朝ドラを見てから来ると言っていた。だから、ぼくのミッションはギンが来るまでにこの悪霊を無力化し、ぐるぐるに縛っておくことだ。

お札はないから結局ギンだよりになっちゃうんだけど、そこはしょうがない。ってかよく考えたらギンの学食代じゃなくてお札に使うべきじゃないか⁉ ぼくは致命的なミスに今更気づいてしまった。

 電柱の影からこっそり校門を見張っていると、だんだんと視界に入る制服の数が多くなってきた。

 八時十分を少し過ぎたところで、あすかちゃんが角を曲がって来るのが見えた。彼女の近く前後左右に目を向けるも、悪霊の姿はまだ見えない。

 校門を通過したあすかちゃんを追うため、ぼくは捏造パンツをオンにした。もしかして教室にでもいるのか?

 玄関で靴を履き替えて階段を昇っていくあすかちゃん。上靴を持ってきていないぼくは土足で失礼する。二年三組と書かれた教室の後ろのドアから彼女は入っていった。

 と、その瞬間、教室の前後のドアから禍々しいオーラのようなものが放出された。

「なんだ⁉」

 ぼくは見たことない現象に驚きながらも、廊下を駆けて教室後方のドアに手をかける。中を見ると、席に座ろうとするあすかちゃんの下からおかっぱ頭の少女悪霊が出てくるところだった。

 ぼくはとっさに隠れ、息を整えた。——見つかったらすぐに逃げられてしまう! あれが昨日あすかちゃんを自殺に追い込んだ悪霊なら、相当警戒心が強いはずだ!

 数日ぶりの獲物を目にしたからか、おかっぱ悪霊はまだぼくに気づいていない。黒のブレザーに交じって、一人だけ白地のセーラー服を着ているのが目立つ。

 あすかちゃんの肩にピタッとくっついたおかっぱ悪霊は、彼女の耳元で何かをささやいた。当然彼女は一般人なので悪霊は見えていない。だがあすかちゃんは肩をすくめて耳に手を当て、「——っ! またっ!」と叫んだ。声が聞こえた証拠だ。周囲の生徒たちの目が彼女の方に向く。心なしか今の一瞬で全員の目つきが変わった気がした。

 ぼくはこいつで間違いない、と判断した。あすかちゃんが教室に入った時は気にする様子のなかった周りの生徒たちが、あの悪霊が何か口にした途端に彼女に目をつけ始めたからだ。こうやってあすかちゃんはいじめの被害にあってきたのだろう。

ぼくは腰の巾着から塩を多めにとって、手のひらで野球のボールほどの大きさに丸めた。

「ふぅ」

 息を吐き集中力を高める。右手に握っているこの一球。これを外したらまた逃げられてしまう可能性が高い。

 ドアの影から顔を出し、一度おかっぱ悪霊の位置を確かめる。そしてもう一度塩の球をギュッと握りなおしてから、瞬時に肉体を移動させる。

「塩——投げ!」

 塩の球の外側が回転によって少しずつ飛散していくが、教室内の数メートルでは関係ない。ぼくの直球はおかっぱ悪霊の横っ面に直撃した。塩の球が破裂する。

「いてっ! なんだ⁉」

 手で右頬を押さえながらおかっぱ頭を振ってこっちを振り返った悪霊。けど、ぼくはその間にもう距離を詰めている。自慢じゃないけど、ぼくの筋肉は使える筋肉だ。一歩の爆発力は凄まじい。

「塩——殴り」

 肉薄した状態から繰り出す右ストレート。ぼくの塩のついた拳がおかっぱ悪霊の鼻を正面からとらえる。セーラー服を着た異物がぶっ飛んでいく。

 だが飛ばした方向には窓ガラスがあった。塩がついた悪霊は透過能力が無効化されるため、そのまま窓を割り、外に出てしまった。

「しまった!」

 窓から身を乗り出して下をのぞく。幸いにもぼくのパンチが効いたようで、おかっぱ悪霊は花壇の隣の地面に倒れている。

「……ぐっ」

 しかしまだ完全に仕留めたわけではなさそうだ。四つん這いになり、立ち上がろうとしている。ぼくは二階のその教室から飛び降りると同時に、霊捕綱を腰から取り出した。

 ——今度はしっかりと巻き付ける!

 交通事故悪霊のときのようなヘマをしないよう、しっかりと狙いを定める。

「ハッ!」

 起き上がろうとするおかっぱ悪霊の首がちょうどいい角度でぼくの霊捕綱に巻かれていく。

 成功! 首に四周させてやった! 地上に降り立ったぼくは霊捕綱を手繰り寄せ、おかっぱ悪霊の背中に覆いかぶさった。

「ぐっ」

「捕まえた!」

 やつはもがいたが、ぼくの筋肉の前には無力。塩も体に付着しているので地面にも逃げられない。ただ、頬の傷がもう修復し始めているのが目に入った。やはり悪霊は侮れない。

「なんだお前は!」

 こちらを睨みつけるように首を曲げたおかっぱ悪霊が言った。

「ぼくは玉丸金次! 除霊師だ!」

「——除霊師⁉ ちっ! くそっ! 気づかなかった」

 もがく力は強いが、ぼくはそれ以上の力でこいつをねじ伏せる。もがきながらやつは言った。

「……もしかしてお前か? 昨日近くに来た除霊師は」

「そうだ! もうあすかちゃんは殺させないぞ!」

 ぼくは校舎の外壁に取り付けてある大きい時計をちらっと見た。八時十五分。もう五分押さえておけばギンがきっとくる。

「今朝は驚いた。あのまま自殺したと思ったガキが、普通に登校してきたんだから」

 へっ、と笑みを浮かながら、おかっぱ悪霊は悪びれることなくぼくにぺらぺらと話しかけてくる。なおももがくのをやめようとしない。

「ところでお前、なんでわたしをすぐに除霊しないんだ? 並の除霊師だったらわたしはとっくに昇天してるところだっていうのに」

「——っ」 

 つい動揺してしまったぼくを見たおかっぱ悪霊は、地面に落ちた塩を眺めて更に続けてきた。

「普通除霊師は除霊術を使うから塩を投げつけるなんてことはしてこない。——お前もしかして、除霊師なのに除霊術使えないんじゃないか?」

「う……。そ、そんなわけな、ないだろ! い、今から使う所だよ!」

「嘘つけ。図星だろ」

 ギャー! バレたー!

「ずいぶん正直者なんだな、お前。じゃあ、さっきからチラチラ見てるけど、あとどのくらい待てば除霊できるやつが来るんだ?」

 このおかっぱ悪霊は全てお見通しのようだった。中々頭がきれるやつだ。

 八時十五分に朝ドラを見終えるはずだから、そこからここまで五分かかると仮定すると、あと二分以内にギンは来るはずだ! それまで何とか持ちこたえる必要がある。ぼくはじたばたするいじめ悪霊の腕をしっかりと押さえつける。

 ぼくを動揺させるために喋り続ける悪霊の言葉は無視することにした。抑え続けているけど、おかっぱ頭はじたばたをやめない。

 ——くそぉ! まだ来ないのかギンは!

もう時刻は八時二十分を過ぎた。そろそろギンが来てもいいはずなのに、なかなか来ない。どうしたんだろう。そのまま十分くらい膠着状態が続いていた。ぼくに下敷きにされているおかっぱ悪霊はさすがにもがくのをやめていた。

ぼくは時計を確認するために視線を上に向けたり、額の汗を拭っていた。一体どうしたんだろう、ギンのやつは……。とその時——、

「油断したな」

「あっ!」

集中力が切れ始めたぼくの隙を突き、下にいる悪霊が股下から逃げ出してしまった。いつの間にか首に巻き付けていた霊捕綱もほどいていた。

しまった! 油断した! ぼくってやつは……!

おかっぱ悪霊は高速に移動しながら体についた塩を払い落とす。そして追いかけようとぼくが立ち上がった時には、もう地中に姿をくらましてしまっていた。

「くそぉ!」

 成長しない自身の未熟さと、いつになってもこの場に現れないギンに八つ当たりするように、ぼくは硬い地面に拳を打ちつけた。


 朝ドラ『俺の穴』の最終回がまさか十五分拡大するとは思っていなかった。俺は、めちゃめちゃ興奮した。

「さて、玉丸のところにでも行くか」

 俺は家を出て、玉丸のいる位置(俺のつけた毒の位置)を探る。見つけた。

移動中、俺は自分の立てた作戦を見つめなおす。

これでいいはずだ。これで、ズヂボウへの手がかりを見つけられるはず。

 住宅街を抜け、見知らぬ学校の門の前につく。そこから敷地内に入ろうとするとき、玄関の少し横の方に、地面に座って呆然としている玉丸の姿を見つけた。

「おい、どうした?」

 玉丸は落ち込んでいるようだった。手には霊捕綱が握られていて、土には爪で何度も引っ搔いた跡が残っている。指は土で黒く汚れている。

「お前もしかして、いじめ悪霊と戦ったはいいが、逃げられたのか?」

 俺が聞くと、玉丸は悔しさを滲み出しながらゆっくりと口を開いた。

「逃げられちゃったよ……。ぼくが弱いから……」

 悔しいだろうな、除霊師なのに除霊できないなんてのは。

 だが俺はちょうどいいタイミングだと判断した。理由をつけて追い払おうと思っていたからだ。そういう作戦。自分で弱いことを自覚しているなら、それを理由にしよう。

「そうだな。お前は弱い。いつもお前は一人で悪霊を祓うことができない。結局は俺の力を借りて悪霊を退治するしかないんだ」

 俺はしょげている玉丸から意識を外し、近くにいる悪霊の気配を探した。集中する。

「いた」

 校舎の下に一匹の悪霊の気配を感じる。俺はその気配のもとにビュン、と飛んでいく。

地中は悪霊でも目が見えない。だが魂の気配は地上と同じく感じることができる。俺は悪霊の気配を頼りに近づき、手探りで首をひっとらえた。一秒にも満たない時間で玉丸の正面に戻ってくる。

「ぐあっ! なん、だ?」

 まだ何が起きたのか理解できていないおかっぱ頭が俺の手元でもがいている。必死に首から俺の手を振りほどこうとしているが、俺は間髪入れずにいつもの文言を口にする。

「ズヂボウの居場所を知っているか?」

 俺は足をじたばたさせる悪霊の胸に、左手の人差し指、中指、薬指を一斉に突き刺した。

「邪指——参」

走馬灯が流れてくる。

 ——凶暴な笑みを浮かべる複数の生徒。バケツにいっぱいに入れられた冷水。びしょびしょに濡れた全身とセーラー服。カッターか何かでズタズタにされた机や教科書。帰り道で投げられる石。家の壁にされた落書き。心配する親。クローゼットにかけたロープ。明滅する視界。

 相変わらず凶暴な笑みを浮かべて他の生徒をいじめている複数の生徒たち。その一人一人が逆にいじめられる様子。それぞれの首つり死体。他校のいじめっ子。繰り返すたくさんの死。


「ズヂボウは知らないか。ついでに、仮面の女に頼まれてやったわけでもなさそうだな。……ったく、やはり悪霊ってのはろくな過去を持っていない。まったく理解できない」

 俺は宙に浮いた自分の左手を開き、残った魂を口に入れる。うん、まずい。

「あ、だめだって、食べたら」

 殺すのを近くで見ていた玉丸が弱弱しく言う。魂は換金するから食べちゃダメ。ここ数日はそのルールを守ってきていたが、もう今日からは不要になる。俺は考えていた作戦を実行し始めた。

「いいんだよ。もう」

「え?」

「お前には言っていなかったが、俺はズヂボウに殺されて悪霊になったんだ。復讐のために悪霊をひたすら狩ってズヂボウを探ってきた。百年間ずっとだ」

「そう、なの?」

「ああ。だが、それは何の成果も得られなかった。ズヂボウの姿すら俺は一度も見ることはできなかった。だからここ十年くらいはもう諦めていたんだよ。……だがそんな時に、お前が現れた。俺と同じようにズヂボウを憎んでいるというから俺は手を貸してやった」

 玉丸はこれから何を言われるのか分からないのだろう。黙って俺の話を聞いている。

「なのに、お前のやり方はこれだけ。挙句の果てには、霊力も持ってない弱虫男。事実一匹の悪霊も倒していない。このままたとえ千年悪霊狩りを続けても、ズヂボウにたどり着くことはないと俺は判断した」

 俺は淡々と続けた後、少し間を開けてから、最後の言葉を口にする。

「だから、俺は決めた。お前とのパートナーの関係は、これで終わりだ」

「いや、嫌だよ! なんでそうなっちゃうのさ! 他の方法を考えればいいだけのことじゃん!」

 俺の言葉に対し、拒絶反応を見せてくる玉丸。だが俺は無言で玉丸を見続ける。真剣な目で。

 俺が本気で言っていることを理解したのか、玉丸は泣きそうになる。

「霊力が無いからさ、除霊術を使えないのは仕方ないじゃん! それに、祓えなくても捕まえることはできるよ!」

 立ち上がり、俺のそばに寄ってくる。

 だが俺は無言で首を振る。

「今日だって、もう少しギンが早く来てくれたら悪霊を逃すことなんてなかったのに」

 言い訳をする玉丸。それは俺も分かっている。さっき倒したおかっぱ悪霊が今までの奴よりも強かったことも分かっている。玉丸が除霊術を使えないのも分かっている。

 だがそんなことは関係ない。それらはただ俺がここでパートナーを解散するための理由づけにすぎない。

 本当の理由はただ一つ。玉丸を追い込むこと。

俺は背を向けて移動する。玉丸が後ろから走って来る音がする。そこで俺は、作戦の詰めに入ることにした。

「そんなに俺とパートナーが組みたいのか? 普通に考えても、悪霊を狩るなら他の除霊師と組めばいいだけの話だろ」

「ぼくはギンがいいんだ! ギンじゃなきゃダメなんだよ!」

「なんで俺にこだわる? 理由は?」

「そ、それは……あ——」

「いいさ、大体見当はついてる」俺は言葉を遮る。そして今閃いたかのように作戦の肝を伝える。「……あ、じゃあ、お前の覚悟を見せてもらうことにするか」

 俺はゆっくりと振り返り、玉丸の目を見た。

「俺は言葉を信じない。他人のことは、そいつの行動で判断する。だからお前のその、パートナーが俺じゃないといけない理由はどうでもいい。嘘は誰でもつけるからな。それより、本当に俺と一緒にズヂボウを倒したいというのなら、証明してみろ」

「……証明って?」

「そうだな、前にテレビ塔の隣で見た、つっ立ち巨悪霊を一人で祓うことができたなら、もう一度お前とパートナーを組んでやる。ま、お前なら殺されて終わるだろうがな」

 もうここらで終わりにしたい。俺は耐えきれない。ズヂボウの刺客か、刺客じゃないか。いつ仕掛けてくるか、いつまで仕掛けてこないのか。そういう駆け引きを、終わらせたい。

しばらくその場で考えていた玉丸は、何も言わずに俺の前から姿を消した。

去っていく後ろ姿を見ながら、俺は思う。これで玉丸の本性がわかるはずだ。あいつがズヂボウの指示で俺の元に送られてきたなら、この状況は『失敗』になるはず。そして信頼関係は築けそうにないと判断して、このことをズヂボウに報告しに行く。またはズヂボウの協力者と接触するはずだ。俺はそれを見逃さない。そしてズヂボウを見つけ出し、百年続いた『かくれんぼ』を終わらせる。

 俺は脳裏に焼き付けた憎いズヂボウの顔面を再び思い出す。父と母、そしてなにより俺の人生を奪っていった最悪な悪霊の顔を。

「終わりにするか、ズヂボウ」

 俺の殺意が漏れ出たのか、近くにいた野良猫が毛を逆立てて走って逃げていった。

 

俺は気づかれないように玉丸を尾行する。途中で雑魚悪霊が俺の感知範囲内に入ってきたので、憂さ晴らしにそいつらをぶち殺しながら移動する。

 玉丸が自宅アパートについた。玄関を開け、中に入っていく。俺は気配を消して天井から目だけを出す。玉丸の様子を観察する。

「……」

 写真立てを無言で持ち上げ、中にいる過去の家族を見つめている。一分間くらいそうしていた。

 その後、私服に着替えたと思ったら、家にある食糧をなぜかありったけバッグに詰め始めた。そして玄関の鍵を閉めて玉丸は家を出た。

 後を追う俺は、周りに気を張り巡らせながら進む。ズヂボウ本人が出てくる可能性は低いが、協力者が出てくる可能性は十分にある。俺が尾行していることを悟られたくない。

 ところが玉丸が向かったのは、大通り公園のテレビ塔がある場所だった。正確に言えば、つっ立ちの真ん前である。

「あいつ、マジか」

 玉丸金次という人間は、もしやズヂボウの刺客じゃないのか? そんな考えが一瞬俺の頭をよぎる。

 俺の正面三十メートルにいる玉丸は、ズボンに手を突っ込んだ後、つっ立ち巨悪霊に向かって大声を出した。

「つっ立ちいぃ!」

 息を大きく吸い、叫ぶ。

「わけあってお前を倒さないといけなくなった! でもぼくは、お前が悪い悪霊なのか知らない! 聞くけど、つっ立ちって悪いことしたのかぁ⁉」

 つっ立ちがわざわざお前なんかに返答するかよ。……と思ったのだが、

「わるいことならした」

 巨体特有のゆっくりとした喋り方でつっ立ちは空気を震わせた。

「なら、祓われても文句は言えないね!」

 玉丸のポリシーなのかわからないが、悪霊に悪いことをしたのかを聞くとは。

 それにしても、あいつは本気なのか? てっきりズヂボウに任務の失敗を報告しに行くとばかり思っていた。『つっ立ちを倒せ』なんてのは、遠回しに死ねと伝えられればと思ったから言ったのに、それを本気にとらえたとのかあいつは。

 なんにしても、あの玉丸がつっ立ちを祓えるとは到底思えない。

 俺は木の陰から玉丸の後ろ姿を見る。屈伸などのストレッチをして、戦う気満々のようだ。怖がるそぶりは微塵も見えない。

「まさかな」

その姿を見て俺は一つの可能性に思い当たった。もしかしたら霊力が無く除霊術が使えないのはフェイクなのではないか。本当は実力を隠していて、いざ俺を葬るときに除霊術を行使してくるのではないか、と。

俺は固唾を飲んで玉丸を見つめる。

 準備が整ったのか、玉丸はテレビ塔の隣にいるつっ立ちの足もとに突っ走っていく。まさか出るのか、除霊術が⁉ そう思ったのだが、

「塩——殴り!」

 塩をまとっただけの拳が、つっ立ちのすねの下のあたりに炸裂するのが遠目に見えた。

「いや、いつも通りかい」

 ドン、という音が周りに木霊する。だがつっ立ちは反応すらしない。おそらくあの程度の攻撃ではかゆいとも感じていないだろう。

「塩——蹴り! 殴り! 頭突き!」

 塩を全身に被った肉の塊が突進するも、巨悪霊は微動だにしない。

 すぐに諦めるだろうと思った俺は、玉丸とつっ立ちの足から一旦視線を外す。

ここ大通り公園の周りには、ビルが立ち並んでいる。そのビルの一つには、壁面にテレビが埋め込まれている。最近になって、広告やニュースをよく映し出すようになったらしい。前にここらを散歩していた時に誰かが噂していたのを耳にした。

 画面には各企業のコマーシャルが連続して映し出されていた。公園内にいる人や信号待ちしているサラリーマンたちが、音と光につられて画面を見ている。

やがて広告が終わると、ニュースキャスターが映し出された。

 昨日の事件やら、政治の動向、為替と株の値動きなど、普通の内容がしばらく報道される。だが次に入ってきた速報の内容を目にした俺は、すぐにそれと、玉丸の動向を見続けること

の二つを、天秤にかけて考えてしまっていた。

「マジかよ……。これは大事件だ」

 考えるついでに再び玉丸の方を向くが、状況は変わっていなかった。

「塩——」「塩——」「塩——!」

 つっ立ちからの反撃がないところを見ると、まだつっ立ちは攻撃されていることに気づいていないのかもしれない。

「——と、それよりもこっちだ」

 さっき見た速報の内容を反芻する。

 ニュースによると、今芸能事務所からの発表で、女優の成仁優女(なるにゆめ)が体調不良のため活動を休止してしまったという。成仁優女は、俺が唯一推している女優だ。まだまだ主役は取れてないが、ここ数年ずっと応援してきた。なんといっても、顔がタイプだ。

 今放送されている水曜九時からのドラマ『じじいの仇』にも、主人公の友人役として出演している。活動休止するということは、そのドラマはどうなってしまうのか。もう撮り終わっているのか、それとも、三話にして死んだことにされて、成仁優女をもう画面で拝むことはできなくなるのか?

 俺は気が気ではなくなった。すぐそばでは玉丸が猛攻をしかけているのだが、正直どうでもよくなってしまった。この調子なら反撃されて死ぬのも時間の問題だろう。

俺は念のため、もう一度ズヂボウと推し女優を天秤にかけた。

結論はすぐに出た。

「成仁優女を救う」

 ズヂボウを倒すために生きてるんじゃない、俺はドラマを見るために生きてるんだ!

 頭の中ではいつもの倍のスピードで、これから何をどうやって行動していくのかの指針が組み立てられていく。

 まず俺は、成仁優女の家を知らない。当然だ。知るためには、どうしたらいい? そうだ、所属事務所ならわかるかもしれない。となれば……。

 玉丸の通う維美流高校に全速力で移動した。俺は窓から一年二組に入り、授業を真剣に聞いている珍田に一切の躊躇なく話しかけた。

「珍田、ちょっと調べてほしいことがあるんだが」

「うわっ、びっくりした!」

飛び跳ねた珍田は、教師とクラスの生徒から好奇の視線を浴びせられてしまった。

「先生、ちょっとトイレに行ってきます」

 珍田はちょっと怒り気味に、席を立って廊下に行った。俺もついていく。

「ちょっとギン! いきなり何なの⁉ 変人だと思われたらどうするのさ!」

「悪い、急いでたんだ。成仁優女って女優のこと調べられるか?」

「へ? どうしていきなりそんなこと私に——」

「さっき成仁優女が活動休止したって聞いたんだ。俺、その原因に心当たりがあるから、行って確かめてみようと思ってるんだ。だから、自宅の住所か所属事務所のある場所を調べてくれ」

 俺は頭を九十度下げて頼み込む。顔を上げると、ショートの茶髪が揺れた。

「んー? ……ま、いいか。ギンは悪いことしないと思うしね。うん、調べてあげる」

 早速スマホで調べてくれた珍田。可愛いし優しいし頼りになるなぁコイツは。と、都合のいい俺は脳内で珍田を褒めちぎっておく。

 珍田の話によると、東京の丸尻マンションが怪しいとか、六本木で見た、という目撃情報があったりするらしい。所属事務所も東京にあるらしい。その場所を頭に入れた俺は珍田に礼を言い、即座に東京に向けて飛び立った。

 空をミサイル並みの速度で飛行すること三分。俺は東京の上空にたどり着いた。

「所属事務所は……と。あ、あそこか」

 珍田に見せてもらった建物の画像を思い出し、その建物の屋上から中へと侵入する。

 六階、五階と天井を通過していくと、部屋の壁や社員の持つ資料の中に、女優らしきポスターや写真などを確認することができた。ここは間違いなく芸能事務所だ。

 俺が推しの匂いを嗅ぎ分けて四階のとある部屋に行くと、「成仁」というワードが聞こえてきた。そこには電話をしている人間がたくさんいた。

乱雑なデスクの上を見ていくと、成仁優女に関わる資料を見つけた。俺はそれに目を通す。それによると、やはりネットで噂されていたあの丸尻マンション四階の、四〇二号室に彼女は住んでいることが分かった。

 俺はすぐに飛んで行った。

 マンションの前にたどり着いた。ここで間違いないだろう。

「ん……?」

俺の右後方に、ばれていないと思っているのか一匹の悪霊が電柱に隠れてマンションの入り口を見張っていた。もしかしてあいつか? 俺はひとまずその悪霊を無視し、成仁優女の部屋に向かった。

ドアを素通りし、俺は部屋の中に足を踏み入れる。室内はまだ午前中なのに暗い。カーテンを閉め切っている。

少し嫌な感じがするなと思った俺は、部屋の隅を観察しに行った。すると除霊師用のではないお札が壁に貼られていた。おそらく知人か占い師にでももらったのだろう。この部屋全体を囲うように貼ってある。

俺にこの程度のお札は効かないが、さっきの雑魚悪霊には効き目があっただろう。だからあそこにいたのか。

 キッチンを通り抜けた俺は、気配のする部屋に侵入した。すると、ベッドに座ってぼーっとしていた成仁優女といきなり目が合った。やはりな。

「初めまして、自分、悪霊のギンと言います」

 俺はいつ身につけたのか覚えていないが、久しぶりに敬う姿勢で自己紹介した。

 だが一瞬合った目はすぐにそらされてしまい、俺の自己紹介は部屋の空気に霧散してしまった。

 本来なら、人間と悪霊の目が合うことはあり得ない。なぜなら、人間からは悪霊が見えていないからだ。

 つまり、俺の危惧していた通りだったということ。成仁優女は悪霊の存在を認知している。

「いつもあなたのドラマを拝見させてもらっています。自分は悪霊を唯一殺せる悪霊です。なにか力になれるのではないかと思い、参じ馳せさせていただきました」

 慣れない敬語を使い、俺は彼女の警戒心を解きほぐしていく。

「成仁さんが体調不良で活動を休止したというのを知って、自分はもしかして、と思いました。前にドラマのワンシーンで、すごく小さくですが、悪霊らしきものがちらっと映っていたんです。自分はそれが原因で体調を崩したのかと思って来たのですが……」

 成仁優女がゆっくりと視線をこちらに持ってくる。ピタッと合ったその大きな瞳は、今度はしっかりと俺の目を捉えて離さない。

「——まさか、わたしを助けてくれるんですか?」

「はい。自分、成仁優女さんの大ファンなもので」

 それから俺と彼女は、ドラマについてしばらく語り合った。最初は元気がなかったが、徐々にいつもの(プライベートのことは知らないが)成仁優女に戻っていった。そして、彼女を困らせている悪霊、ストーカ―悪霊のことについても聞いた。

「ちょっと前から、頻繁にわたしの目の前に現れるようになって。最初は家の前だけだったんですけど、最近はもう撮影現場まで来てしまって。わたし、気味が悪くて……。悪霊が見える、と誰かに相談するわけにもいかず我慢してきたのですが、ちょっともう限界で。ずっと見られてると思うと具合が悪くなることもありました。そのうち演技にも支障をきたしてきたので」

 俺の予想は的中した。

「そのストーカー悪霊はどんな見た目ですか?」

「白いスーツに紫のネクタイで、髪は肩くらいまで伸ばしたオレンジ髪です」

なるほど。そのストーカー悪霊の見た目は、さっきマンションの近くにいた悪霊と同じだった。きっと玄関から成仁優女が出てくるのを待っているんだろう。気持ち悪いな。あと、格好も気持ち悪かったな。

 戦ったら絶対勝てる相手だと思ったので、俺はある提案をした。

「憑依、ですか?」

「はい。自分が成仁さんの後ろについていたら、ストーカー悪霊は警戒して追いかけてはこないでしょう。でも、憑依すれば自分の存在は悟られないので、近づいてきたところで憑依を解除して、ひっとらえます」

「大丈夫、かな?」

「任せてください。自分こう見えて最強ですので」

 少し不安そうな成仁優女を説得した俺は、彼女に憑依した。そして、マンションの入り口から外に出た。全く気付いていないフリをしながら歩いていく。

 百メートルくらい先にコンビニが見えたので、そこに向かうフリをする。が、早くも後ろから尾行されている気配がしてきた。気づかれないように角を曲がるときに確認すると、

「え?」

 なんと、ストーカー悪霊のほかにも、人間のストーカーが一人ついてきていた。その男はこちらをさりげなく確認しながら、誰かと通話しているようだった。

 どんだけ人気だよ、この人は……。

俺は次の角を曲がったところで待伏せしようと決めた。

 悪霊と人間、二人のストーカーに気づいていないふりをしながら普通に歩く。角がもうすぐだ。俺は角を曲がった。しかし——、

 もう一人の仲間とみられる男が俺(成仁優女)の口に何か布のようなものを当ててきた。いきなりなんだと思って抵抗しようとするも、そこで意識が途切れてしまった。


「う……」

 目を覚ました俺は、まだ成仁優女に憑依している状態だった。体を起こそうとするも、それができないことに気づく。知らない部屋の知らないベッドの上に、俺(成仁優女)の体は仰向けになっていて、腕は手錠でつながれている。いわゆるバンザイの格好だ。

 周りに男たちはいなかったが、この状態はどう考えても監禁されたとしか思えない。俺は一旦憑依を解除し、この建物を探ってみることにした。

 壁をすり抜けると、隣には先ほど襲ってきたと思われる男二人組がいた。男たちは大人のおもちゃを手にして、興奮している様子だった。

「まだ起きねえかな? おまえ、ちょっと見て来いよ!」

「ばっかやろ、おまえさっき見に行ったばっかだろ! 起きたら物音がするからすぐわかるだろうが」

 どうやらこいつらはここで成仁優女を性的な意味でいじめたいらしい。今時こんなことするやつがいるとは正直思わなかった。

 俺は外の様子が知りたかったので、家から出てみた。外には、男たちが乗ってきたと思われるバンが一台、生い茂る草木の中に停められていた。

 周りは森に囲まれていて、ここがどこかもわかりそうにない。上から見てみるか。と、俺が上空に向かおうとした時だった。

「キャー!」

 女の甲高い声。

しまった、成仁優女がもう起きてしまったか。俺は急いで中に戻り、彼女に声をかける。

「落ち着いて、大丈夫だから。——成仁さん⁉」

 視線は合っているが、彼女の興奮と不安は止まらない。恐怖でパニックになってしまっている。

 声を聞きつけた男たちが扉を開けてこの部屋に入ってきた。

「お目覚めだな、優女ちゃん」

「おはよう、俺たちの優女ちゃん」

 彼女が二人を見てまた大声を上げる。が、男たちは慌てふためく様子を見せない。

「いいよいいよ、その悲鳴。ここは森のど真ん中だから、いくら叫んでも大丈夫なんだよ」

 男の一人が「じゃ早速」と言いながら、成仁優女の両足を抑える。

「やめてえぇぇっ!」

 さっきから憑依を試みているが、うまくいかない。パニック状態だと憑依ができないのか。落ち着かせようにも、男たちのゲスな目的がわかったようで、成仁優女はますます取り乱していく。

 もちろん俺が直接攻撃できるわけでもない。一般人には触れないからだ。

 ——ただの人間相手には無力だな俺は。

 男たちは下半身を露わにし、成仁優女のズボンを下げて興奮している。大人のおもちゃを稼働させた男が下着に手を伸ばした。やばい、今にも脱がされてしまう。とその時——、

「僕の優女さんになにすんだー!」

 と、オレンジ髪のストーカー悪霊が突如現れた。叫ぶと同時に、下着に手を伸ばしていた男の横っ面に一撃をくらわせた。

「ええっ⁉」

 驚きのあまり声が出てしまった。こいつ、今、ただの人間を殴ったぞ!

 悪霊は基本、人間界に影響を与えられる能力を一つは持っている。火、車、いじめなど、最近殺した悪霊たちもそうだ。だが、霊視能力も持たない一般人を殴り飛ばすような悪霊には、今まで会ったことがなかった。

 ストーカー悪霊はもう一人の男も殴り飛ばし、成仁優女の周りに暖かい色をしたバリアを張った。

「大丈夫ですか優女さん!」

 声をかけるも、決して成仁優女のほうを向かないストーカー悪霊。それはまるで、あられもない姿を見られたくないという、彼女の気持ちを考えているように見えた。

「おいお前、ストーカーじゃないのか?」

「うわ、なんなんですかあなた!」

 俺の存在に気づいていなかったようで、すごく警戒された。標的しか見えていないストーカーならではの視野の狭さだ。

倒れていた二人の男たちが立ち上がる。二人して頬を押さえて「なんだ?」と困惑している。

 不可視の存在に殴られたのだ。それはそうなるよな。

 男たちは何が起こったのかわからないままの様子だったが、目の前の性欲には勝てない。花柄のパンティーを履いている成仁優女に再び触手を伸ばしてきた。

だが、その汚らわしい手はそこで止まる。まるで見えないガラスに触れているように。ストーカー悪霊のバリアは見事に彼女を守っている。

「お前、すごいな。人間に影響を与えられるのか?」

「人間というより、ストーカー限定ですけどね。……ってか、あなたは何者なんですか?」

ストーカー限定って……。弱そうな能力だったのでなんとなく憐れんでしまった。

 ともかくまだ自己紹介をしていなかった俺は、ここまでの経緯と俺のことを軽くストーカー悪霊に話した。

「なんだ、そういうことだったんですか。って、ええ⁉ そのストーカー悪霊ってもしかして僕のことですか⁉」

 信じられない、という顔を向けるストーカー悪霊。どうやら自覚がないらしい。相当やばいタイプのストーカーだ。もうストーキングを日常から無意識にやっているんだろう、こういう奴は。

「あ、ありがとうございます、助けてくれて」

 ベッドの上に捕らえられている成仁優女が、パニックが収まったのか礼を言ってきた。主にストーカー悪霊のほうに。

「いえいえ、僕はあなたを守るために見張っていたんですから、当然ですよ!」

「そうだったんですか」

 はあ、と息を吐き、ほっとする様子の成仁優女。バリアが張っていることで安心したようだ。

 だがなぜか頬がほんのり赤くなった気がした。気のせいか? 視線はずっとストーカー悪霊の方を向いている。俺は少し怪訝に思いながらも、状況を打破する行動を始めた。

「成仁さん、落ち着きましたか?」

「あ、はい、さっきは取り乱してしまってすみません」

「じゃあ、自分はもう一度憑依するので、リラックスしててくださいね」

「はい」

 俺は成仁優女の体に入っていく。憑依が完了すると、手首に痛みを感じた。

 まずはこの手錠をなんとかしなくては。俺はパンツ丸出しのまま、開脚後転の要領で足を繋がれた両手のところへ持っていく。

『ちょっと、なにやってるんですか!』

『お、喋れるようになりましたか? ま、見ててくださいよ』

『やめて、恥ずかしい!』 

 心の中で会話できるのは、相手が憑依に慣れたからだ。恥ずかしがる成仁優女も可愛いなと思いながら、俺は手錠とベッドの柱をつなぐ金属の鎖を、足の親指と人差し指の間に挟み込んだ。

「よっ」

憑依した俺のパワーで、ベッドの柱と繋がっていた鎖をちぎり取ることに成功した。

 男たちは手錠を外した怪力女を見て、一気に表情が変化していった。恐れ慄いているようだ。

「やるか」

 急に人外のパワーを発揮した俺(成仁優女)を見て固まる二人の頭を二本の腕でつかみ、思いっきりゴチン、とぶつけあう。男たちはその強烈な衝撃に目を回す。

 倒れた男たちのポケットからスマホを取り出し、ひとまずこの場所を調べる。どうやらここは千葉県のある山奥のようだった。それから俺は警察に電話をかけた。

 憑依を解いた俺に、成仁優女は「ありがとうございました!」を連呼してくる。そんなに言われると、俺、照れちゃうな。

 いつもテレビで見ている女優が生でお礼を言ってくるのだ。誰だって照れてしまうだろう。安心して可愛い笑顔を見せてくれる成仁優女に夢中になっていると、横からストーカー悪霊が話しかけてきた。

「なああんた、名前はたしかさっき、ギンっていってたか?」

「ああ、そうだけど?」

「そっか、あんたがギンか……」

 悪霊を唯一殺せる悪霊として、俺の名は知れ渡っている。が、なにか考え込む様子が少し気になった。

「どうした?」

「いや、この前仮面をつけた女除霊師が僕の横に突然現れて、『ギンを恨んでないか?』って聞いてきたんですよ」

「仮面の女?」

「はい」

 仮面の女といえば、火事悪霊や交通事故悪霊の記憶で見たことがある。どちらの悪霊もなぜか安言を狙っていた。

「そいつ、どんな感じの女だった?」

「いや、どんな感じって言われても。一瞬でしたからね」

「なんでもいいんだ、何か覚えてないか?」

「身長百六十七センチ、体重は五十キロ前後、足がまっすぐ細くて、胸はEかF、髪は腰のあたりまで、でしたかね。あと、ふわっとフローラルの香りがしました。多分柔軟剤ですかね」

「お前、すごいけどそこまでいくと気持ち悪いな」

 一瞬で女の特徴を見て記憶する能力、気持ち悪すぎる。さすがストーカー悪霊。というか身長はともかく体重まで分かるのはおかしいだろ。

 それにしても、「ギンを恨んでないか」とはどういう意味なのだろう。俺に恨みがあるのか? 

 その後も警察が来るまで三人で話をしたが、思ったよりストーカー悪霊(女尾追真といった)はいい奴そうだ。成仁優女も、助けてもらったからか、この女尾というやつの顔が好みなのかは知らないが、普通に、いや、普通以上に話している。もはや俺のことなど忘れているようだ。ストーキングされてた奴だぞ。助けてもらったからって態度変わりすぎじゃないか?

パトカーが二台到着した。事情聴取を受け、のびている男たちは逮捕された。

成仁優女はパトカーに乗って自宅まで送ってもらうようだ。俺は成仁優女と、ついでについていった女尾を見送り、家に帰ることにした。

札幌まで帰る途中で、様々な景観を見た。行きは三分で来てしまった空を、今度はゆっくり二時間かけて帰った。

札幌につくころには、もう夕方になっていた。ちょうどいい時間だったので、俺はいつものように玉丸の家に行って、三時四十五分からの夕ドラを観た。

観終わった後、これからどうしようか、と考えていた時に気づいた。

「あっ、玉丸を監視しないと」

 女優監禁事件に巻き込まれてしまったことで、朝に開始した作戦のことをすっかり忘れてしまっていた。

玉丸とつっ立ちが戦い始めて、かれこれ半日ほどが経ったか。さすがに諦めてそろそろ自宅に戻ってくるか。それともまだ戦っているか。いや、ズヂボウの元に行った可能性もあるな。

 様々な憶測が頭の中で飛び交っていたが、待っていても何も分からない。そう最終的に判断した俺は、つっ立ちのいる大通公園に向かうことにした。だが部屋の壁から外に出ようとしたとき、鍵を差し込む音が聞こえてきた。

「お、帰ってきたか」

 俺は隠れて玉丸の様子を窺うことにした。天井の隅っこから目だけを出して待機する。

 ところが、靴を脱いだ玉丸はドタドタと入ってくるなり、開口一番に言った。

「ギン、隠れててもわかってるんだからね! ぼくと話をしよう!」

 なぜか俺がいることがバレてしまっていた。俺はしょうがないな、と口の中で言いながら玉丸の前に出て行った。

 服がボロボロで、顔も汚い。そんな満身創痍の玉丸があぐらをかいて話し始めた。

「ぼくにつっ立ちは倒せない。少し戦ってみたけど、全然歯が立たなかったよ。正直他の誰がやっても倒せるとは思えないけどね。……でも、約束は約束だ。ギンとのパートナーは解消するよ。これからはぼく一人でズヂボウを狙うことにする」

 決意の眼差しで俺を見てくる。己の力量がはっきり分かったということか。だがそれならズヂボウを一人で倒せないことくらい分かりそうなものなんだが。

これもズヂボウの指示、次なる一手であるという可能性もあるか。

「ああ、わかった。邪魔したな」

 なんにせよひとまずここは話に乗っておくか。あとで玉丸を尾行すればズヂボウや協力者と接触するかもしれないしな。

パートナー解消ということは、俺がこの家でテレビを見る資格も同時に失われたということ。俺は潔く部屋を出ようとする。

 癖でわざわざ玄関から出ようとした俺の背中に、玉丸が「待って!」と追いかけてきた。なんだ? 振り返ると、淡い青色が俺の目の端に映り込んだ。

「うぉ!」

 俺は反射でその色から逃げた。だが、それは正解だった。なぜなら、目の前には霊力を拳にまとった玉丸がいたからだ。振り切った右腕が俺のすぐ横にある。

やはり、どうにかして霊力を隠していたのか。薄々そうじゃないかと思っていたからこそ、俺は冷静さを保つことができていた。

 除霊術には大別して三つの段階がある。体、武器、放出。才能のあるやつや熟練の除霊師は放出までの三つをすべて扱うことができるが、玉丸はそもそも霊力がないはずだった。拳にまとった淡い光は、紛れもない霊力。体にまとうタイプの除霊術だった。

 ニヤッと笑う玉丸。だがその表情に俺は違和感を覚える。なにかが違う。

俺の直感が、こいつは玉丸じゃない、と告げている気がした。

「お前誰だ?」

 確かめるため、俺は玉丸の右腕をつかんだ。すると、目の前にある玉丸の顔が、ドロドロと溶け始めた。いや、顔だけじゃない、服も、つかんでいる太い腕さえも、すべてが溶けていった。泥のように落ちていく。その中から出てきたのは、長髪の仮面の女だった。

「あっ!」

 仮面の女だ。

 俺は驚いて一瞬硬直していたらしい。つかんでいた太い腕が女の細腕に変わっていることにすら気づかなかった。仮面の女の腕が俺の手から抜け出ていく。

 女は一瞬のうちに数枚のお札を宙に撒き、玄関から飛び出ていった。追いかけようとするも、お札が邪魔で出遅れる。

 ——だが外に逃げたところで無駄だ。

俺は空中にあるお札を避ける間も惜しいため、床をすり抜けた。そして一階の壁から外に出ようとした。

「ぶ——」

 が、鼻から盛大に壁に激突した。

「いてっ」

……なるほど、してやられたな。

 正確には壁ではなく、結界に激突した。おそらく俺が集中してドラマを観ている間にでもお札を貼ったのだろう。試してみると、このアパート全体がお札によって囲まれていることがわかった。

「やられたな」

 玉丸に変化して俺を狙ってくるとは。ズヂボウからの刺客か。俺は部屋に戻って床にバラ撒かれているお札を見ながら考えた。

 変化能力を持つ除霊師、か。厄介だな。身近な誰かに変化されたら、油断しているところを後ろから刺されかねない。

いや、でも問題はそこじゃない。俺はさっきの会話を思い出した。

あの仮面女、俺と玉丸がパートナーを解消しようとしていることを知っていなかったか?  なぜだ? パートナー解消の話をしたのは維美流中学校の玄関前。そこで偶然その話を耳にした? それともズヂボウが憑依した人間に聞かれていたか?

いや……。あの場には誰もいなかった。この話は俺と玉丸しか聞いていないはずだ。

俺はいくつもの可能性を考え、結論に至った。

「玉丸があの仮面女に言ったんだ」

 それが今、一番しっくりくる答えだった。玉丸はやはりズヂボウからの刺客で、ズヂボウとその協力者であるあの仮面の女に事情を話した。そして、帰ってきた俺にだまし討ちするという作戦を立てた。鍵だって持っていたし。

 九割方そうだろうと思った。本心からだ。そのはずなのに、俺の心はなぜかズキズキと痛んでいるように感じた。

 その原因が何なのか俺には分からなかった。だがとりあえず、この家にいるのはやめよう。横壁から外に出た。俺はやけに圧迫感のある眩しい夕陽の中、散歩に出かけた。

「あ、この家は」

 俺は安言家の前に拠点としていたある一軒家のそばで止まった。懐かしいと感じ、屋内の様子を窺ってみることにした。

 太ったパーマのおばさんが、ソファにだらしなく座りながらテレビを見ている。相変わらずだな。この家では、テレビがつけっぱなしなのである。寝ているときも、外出する時もだ。

 俺はテレビの前に着座し、なんとなく画面を流し見し始めた。

 すると、俺の推し女優、成仁優女が、塾の夏期講習のコマーシャルに出てきた。俺は思わず前のめりになって画面に食い入った。

「お、マジか。すごいな」

ものの十秒ほどだったが、受験に向けて頑張る生徒役として出演していた。

 セリフは一言だけ。

「私は絶対に受かってみせる!」

 その時ちょうど、太ったおばさんが「ぷっ」と屁をこいた。せっかくの貴重なシーンだったのに。俺は腹が立っておばさんの顔面をパンチした。まあ、すり抜けるんだが。

「絶対に受かってみせる、か——」

 なんとなくひっかかる言葉を口の中で呟いた俺は、おばさんの家を出る。

 思わぬ収穫(成仁優女を見れたこと)をした俺は、夜九時からのドラマまでの時間を、新しいドラマ家探しでつぶした。

 しばらく移動していると、足が自然とそこに向かったのか単なる偶然なのか、俺はいつの間にか大通り公園の近くに来ていた。

「まさかな……」

 玉丸に変化した仮面女が玉丸とズヂボウの指示で襲って来たなら、絶対にそんな訳ないはずなのだが、俺は残りの一割の可能性のことを考え始めていた。そう、玉丸が敵ではなく、単身あの仮面女が乗り込んできたという可能性を。

 今は夕方六時。まだ戦っているなんてことはないだろうが、近くに来たんだ。一応見に行ってみるか。

 俺は玉丸がズヂボウとグルだったと決めつけたはずなのに、まだつっ立ちと終わらない戦いをしている玉丸の姿も想像できた。

 つっ立ちの後ろ姿が見えてきた。つっ立ちの巨大な足がなにかを蹴とばしたのが見えた。おい、まさか本当に——。

 そこにはボロボロになりながらも、まだ諦めていない男の姿があった。穴だらけの短パンに、もう着ているとはいえないTシャツ。ところどころに赤い生々しい傷跡があり、目や顔、腕、足、その全てが腫れて青くなってもいた。

 何やってるんだ、あいつ。

 よれよれになった玉丸が、左右に揺れながら立ち上がる。つっ立ちのほうへ重そうな足を動かす。

「ぼく……は、ギンと約、束したん……だ。ズヂボウ、は一緒に倒すって……」

 か細い声でそう言った玉丸は、つっ立ちの足元へ歩いていく。そして巨大な足に、塩のついた手でパンチをした。が、もう大した威力ではない。

「なんで……あいつ……」

 俺はいつのまにか歩を進めていた。どうしてそこまでして俺の約束を守りたいのか、理解できなかった。

 玉丸が立っていられないのか、頭と体をつっ立ちのくるぶしに寄りかかり、右、左、と連打のつもりか、パンチを打っている。昨日見たあの重そうなパンチは見る影もない。よくハエが止まると表現されることがあるが、まさにそれだ。

 効いているはずもないのだが、つっ立ちは無造作に足を払い玉丸を吹っ飛ばす。公園の周りを囲む木の一つにぶつかってずり落ちる。

「おい、もういい……やめろ」

 俺は死にそうになるパートナーに、声をかけていた。

「あ、あれ……? おかしい、な……。ギンが見えるや」

 ズタボロの雑巾みたいになった玉丸が、顔だけを起こして俺を見てきた。そうだ、俺だよ、ギンだ。

「でも、そんなわけない。ぼくがつっ立ちを倒すまで……強くなるまで、アパートで待ってくれてるはずなんだ……。もうぼくやばいかも、幻覚まで見えてきちゃったよ……。ははっ」

 玉丸は時間をかけて立ち上がり、もう一度つっ立ちに立ち向かって歩いていく。

「もう……もういい! やめろ!」

 俺は叫んだ。あの傷じゃ、もういつ死んでしまってもおかしくない。

だが玉丸は止まらない。一歩一歩フラフラしながら前へ進む。

俺の手で直接止めないともう死んでしまう。行かなければ! そう思ったのだが、俺の中の闇が俺の足を引き止める。『あいつはまだ信用できない』と。

「くそ! 臆病者が!」

 太ももを叩くが、足は動き出さない。金縛りにあったあの日のように、俺はただ目の前の光景を眺めることしかできないのか。

そのうちに、玉丸はまたつっ立ちの足元にたどりついてしまった。巨大な足の甲に体重を預けるようにして、再び意味のない打撃を繰り出し始めた。

「倒して……、強くなって……、ギンに認められるんだ」

 かすれた声で、もう力の入らない腕で、殴る。

「それで、一緒にズヂボウをたお——」

 ヒュッ、という風切り音がしたと思えば、つっ立ちの足元にいた玉丸が、さっきの勢いの倍くらいの速度で、俺の視界の端から端まで飛んでいった。

 バゴォン。木の幹にぶち当たる玉丸。

「しつこいんだよ」

 上空からつっ立ちの声が聞こえた。見ると、つっ立ちの右足は振り子のように左右に大きく振られていた。

今のはつっ立ちがやったのか。俺は遅れて理解する。

もう死にかかっている人間に与える威力ではなかった。木の前にくずおれた玉丸は完全に気を失っている。

俺は臆病な己をしまい込み、ぐったり倒れて動かない玉丸の元へ急ぐ。うつぶせになった玉丸を抱え起こし、体の状態を見る。

今の一撃であばらの何本かは折れてしまっていた。頭部からの出血量も少なくない。今すぐ病院に連れて行かなければ!

「お前やりすぎだろ! 殺す気なのか!」

 つっ立ち巨悪霊に言った。

「死にはしない。そいつは並大抵じゃ死なないよ。それに、お前と同じ殺人犯になる気はないからね」

万田のことか。つっ立ちはまだ俺に恨みを持っているのか。

いや、だが今は関係ない。

 俺は急いで玉丸の体に憑依した。猛烈な痛みが襲い掛かってくる。一歩進むごとに、全身が軋む。

自然と、目から涙がこぼれ落ちてきた。

 こいつ、こんなになってまで……。

 俺は玉丸の体を引きずって、近くの病院に向かった。


 細いチューブが何本も繋がれている。集中治療室で処置を施される玉丸を前に、俺は自分がいかにバカだったかを痛感していた。こいつが嘘一つまともにつけない正直者で、本気でズヂボウを倒したいことなんて、客観的に見たらすぐに分かることだっただろ、と。

それを俺は、ズヂボウからの刺客じゃないかと疑って、命を懸けさせるような真似までした。

つっ立ちが手加減しなければ、こいつはあの時点で確実に死んでいた。つまりそこまでするということは、もう刺客でもなんでもない。こいつはただの命知らずのバカだということだ。

俺は結論付ける。こいつは『白』だ。ズヂボウとは繋がっていない。

 治療が終わると、玉丸は担架で個室に運ばれていった。俺もついていく。医者の話している会話を聞くと、手術は成功したようで命に別状はないという。祖父母にもすでに連絡したようだった。

ベッドに寝かされている玉丸をなんとなく見ていると、額に薄っすらと汗が浮かんできたのに気づく。この部屋のクーラーは故障中のようで、さっき来た看護師が「暑いわね」と言って窓を開けていったのだが、あまり意味はなかったようだ。

おかげでうるさく鳴くセミの声が鮮明に聞こえてくるようになってしまい、俺はつい舌打ちしてしまった。

その舌打ちが聞こえたのか、玉丸が目を覚ました。手術してから約一日経って、今は昼だ。

「あ……ギン」

「よう。……すまなかったな、玉丸」

「なにが?」

「なにがって……」

 そういえばこいつにとっては、謝られる意味が分からないのも当然だった。俺は表向きの理由として、玉丸にこういう風に伝えたんだった。弱虫とはやっていられない。

 玉丸は、弱いから俺がパートナーを解消したのだと思っているんだ。

「俺が嘘をついたことだ」

「嘘?」

「ああ」

 俺は、もう白だと判断した玉丸に正直に気持ちを打ち明けることにした。

「実は俺、お前がズヂボウから送られてきた刺客だと思ってたんだ。本当はパートナーなんて組みたくなかったけど、俺はお前を逆に利用して、ズヂボウを見つけ出そうとしていた。お前がいつか俺の見ていないところでズヂボウや協力者と密会をするんじゃないかってな」

 まだ腫れたままの玉丸の両目が、大きく見開かれる。

「驚くよな、そりゃ。だが、事実だ。俺はいつ仕掛けてくるか分からない不安に駆られて、お前をズヂボウの元に行かせるか、つっ立ちに殺されるかの二択を迫った。それを謝ったんだ」

 頭が追い付かないのか、玉丸からの返事はない。しばらくしてから、口を開いた。

「ぼくがズヂボウと本当は裏で繋がってて、ギンを祓うためにパートナーを組んだと思ってたの?」

 俺は頷く。

「悪かった。だが今回のことで、お前は白だと分かった。お前はズヂボウの刺客じゃない。ただ家族を殺された復讐をしたい筋肉だった」

「筋肉は余計だよ!」

 玉丸が空元気を出してツッコんでくれる。

「でも、なんでぼくがズヂボウの刺客だと勘違いしてたのさ」

 ま、話さないわけにはいかないか。俺はズヂボウに殺されたことや万田のことについて詳しく話し始めた。あまり他人に聞かせたい過去ではないため、小声で喋る。周囲にも人の気配はしなかった。

 話が終わると、というか話の途中から玉丸は「ひっぐ」と泣いていた。こいつ、涙もろいんだな意外と。

 最後まで話を終えると、玉丸はしきりに頷いてこう言った。

「今の話を聞いて、それなら人間不信になってもしょうがないな、って思えたよ。あと、つっ立ちの言ってた『人殺し』っていうのもそういうことだったんだね」

「お前あの時聞いてたのか。まあ、そうだ。万田広治を殺したのは紛れもない事実。人殺しと言われても仕方がない」

 その後も俺の過去についていくつか質問されたので、理解できるようにしっかりと話した。疑って命まで張らせたんだ。このくらいはしなくちゃな。

 俺の過去話や思いを聞いた玉丸は納得したようで、最終的には俺を許してくれた。

 俺は礼を言った。そして今度はこっちがずっと疑問に思っていたことを質問してみた。

「ところで玉丸。お前、なんで俺と組んでズヂボウを倒すことにこだわってたんだ? 前にも言ったが、別にズヂボウを倒すためだったら、他の除霊師と組めばよかったんじゃないか?」

 維美流中でおかっぱいじめ悪霊を殺した時にも同じことを聞いた。この疑問がずっとくすぶっていたことも、俺が玉丸を刺客だと勘違いしていた理由の一つだ。

「それは……。そうだね、もう、意地を張っている場合じゃないね」

 玉丸はゆっくりと話し始めた。意地とはなんのことだろうか。

「ぼくは昔、ギンに命を救われたことがあったんだ」

「……そんなことあったか?」

「やっぱり覚えてない、か。はあ、だから言いたくなかったんだよね、こっちも今更言うのは恥ずかしいし」

 それから玉丸は過去のことを話してくれた。


 ——ぼくの家庭は、いたって普通だった。父さんはサラリーマンで、母さんはパート。共働きで、ぼくと妹の結衣を養ってくれていた。休日には家族四人でどこかへ出かけたし、どんなに仕事が忙しくても、必ず授業参観や運動会など、学校でのぼくや結衣のことを見に来てくれていた。

そんなどこにでもある普通の幸せな家族が、ある日突然、何の前触れもなく壊れてしまった。ぼくが六歳のときのことだった。

 ある夜。晩御飯を食べ終えたぼくと結衣は、共同部屋で一緒に遊んでいた。父さんは帰ってきてビールを飲みながらテレビを。母さんはそんな父さんを横目に、一緒にお酒を楽しんでいた。

 ぼくと結衣のいる部屋からは、リビングの様子が見えるようになっていた。だから、異変にはすぐに気が付いた。

 まず父さんがくつくつと変な笑い方をしだした。それから、椅子に座っている母さんのことをいきなり押し倒して、馬乗りになった。どうしたんだろう、と思ったのも束の間、父さんは変に笑いながら母さんの顔面に拳を叩きつけ始めた。

ぼくは必死にやめて、と父さんを母さんから引きはがそうとしたけど、父さんの力はものすごくて、母さんが息絶えるまでそれを続けた。

母さんの死を確認した父さんは今度は台所に行って、包丁を取り出した。ぼくのほうへ向かって来たから、ぼくはテーブルの向こう側にまわって、父さんから逃げようとした。でも、父さんは自分の首に刃先を当てて、笑いながら腕を引き、血を噴き出して倒れてしまった。

 ぼくはパニックになって、泣き叫んだ。結衣も部屋から出てきていて隣にいたのは、その時に気づいた。結衣も泣いていた。でも、二人は何が起こったのかを理解できていなかったと思う。

 二人で泣き続けていると、ふいに横の結衣が泣き止んだ。ぼくは最初、ぼくが泣きすぎたから、結衣はしっかりしなくちゃ、と思って泣き止んだかと思った。でも違った。結衣は見たことのない醜悪な顔をして、ぼくの目の前で言った。

「お兄ちゃん、今から死ぬから、ちゃんと見ててね」

かかとを床につけ、膝が曲がらない方向にバキッ、と音を鳴らしてへし折れた。「いったぁい」と笑いながら言った結衣は、次に両腕を折った。肘から下はあり得ない方向にねじ曲がっていた。血を出し骨を突き出して、なお笑っている結衣を見たぼくは、絶叫した。意味が分からない。おかしい。すると、

「そうそう、その声とその表情が見たかった」と結衣が言った。そして、「じゃあね、お兄ちゃん」

そう言ったかと思うと、歩いて窓のほうに向かい、窓を開けてそのまま落下した。ぼくはなにもできないまま立ち尽くしていた。

しばらくすると、窓の外からなにか白いものがぼくに近づいてきたのが分かった。ぼくは目の端でとらえたその白いものに目を向けた。

それは半透明の人間だった。

でもそんなことはおかしい、と気づいたぼくは、こいつは幽霊なんだと直感した。そしてその幽霊の言った一言で、ぼくは家族がなぜ死んだのかを理解した。いや、理解させられた。

「おかしいと思ったわよね。だって、あたしが殺したんだもの」

 ぼくは一拍おいてからその言葉の意味を理解し、気づけば殴り掛かっていた。しかし幽霊なので、実体はなく、いくら殴っても腕は虚しく空気を揺らすだけだった。

「その反応もまたいいわね。ありがとう、楽しませてくれて」

そう言った幽霊はぼくの中に入り込んできた。ふっと意識が飛びかけるような感覚がした。そうか、こうやって父さんや結衣を操ったのか。ぼくも結衣みたいに体を折られて死ぬのかな。そう諦めたときだった。

「ちっ、邪魔しやがって」

ぼくの口が勝手に喋ったと思ったら、その悪霊はぼくの体から出て行ってしまった。

なぜか助かったことに安堵しつつ、はやく救急車を呼ばなくちゃと思って固定電話のところへ向かった。そしたら、また目の端のほうで白いものが見えた。

 ぼくはやっぱり戻ってきたのかと思ったけど、そいつはさっきのやつとは違った幽霊だった。「おいお前、ズヂボウがここに来なかったか」

その幽霊は部屋の惨状を目にしながら言った。ぼくはずぢぼうがなにか分からなかったけど、「幽霊なら今出て行ったよ」と教えてあげた。

すると驚いたのか幽霊は目をパッチリ開けて、「お前、俺が見えるのか?」と聞いてきた。自分で聞いてきたくせに何言ってるんだ? ぼくは疑問に思ったけど、答えてあげた。

「うん見えるよ」

「じゃあ、どっちに逃げてった?」

ぼくはその方向を指さした。その幽霊は一瞬で壁をすり抜けて行ってしまった。

でもすぐに戻ってきた。

「お前が生き残ってるってことは、またあいつが殺しに戻ってくるかもしれない。だからここで待ち伏せさせてもらう」

そう言って、幽霊はリビングに居座った。テレビがつけっぱなしになっていたからか、幽霊はテレビを見ていた。

 ぼくは病院に電話をした。幽霊がやったと言っても信じてはもらえなかったけど、救急車は十分くらいで到着した。下に人が集まってきていたから、結衣を見た人が通報してくれたのかもしれない。

 やがて部屋に救急隊が駆け込んできて、動かなくなった父さんと母さんの様子を確認した。その後遅れて警察の人もやってきた。警察にも色々聞かれたけど、幽霊がやったと言っても

信じてもらえなかった。

その時リビングではテレビがつけっぱなしになっていた。そしてそこでは幽霊が食い入るように画面を見つめていた。ドラマを観ているようだった。

でも警察の人が、テレビを消すように部下に言った。もう一人の警察の人がテレビの電源を切ろうとした。

「おいやめろ」

その幽霊は抵抗するように大声を出したけど、警察の人は止まろうとしなかった。ぼくは警察の人には聞こえていないんだ、と分かった。だから、

「テレビはつけっぱなしにしておいてください」と言った。「今見てるので」そう付け足したら、大人たちは表情を変えて何か話し合い始めた。

 そんなことがあったけど、ぼくはその後もしばらくその家に住んだ。警察の人が頼んだのか、食事を作ったり洗濯掃除をしたりする人が家に来た。テレビの前から動かない幽霊もいた。

 ぼくは家族がいなくなったことを、日に日に強く意識するようになった。そしてそれは、みんなあの幽霊のせいなんだ、という怒りも沸々とわいてきた。そこでぼくは、あの悪い幽霊を追っている感じだったテレビ幽霊に向かって言った。

「ぼくも将来あの幽霊をどうにかして倒すから、その時は一緒に戦おうね、約束だよ」

テレビから目を離さない幽霊は、「おう」と気のない返事をした。

 それからぼくは旭川のおじいちゃんちに引き取られるようになって、その幽霊と別れた。中学に入って、ぼくは除霊師の存在を知り、目指すようになった。筋トレも始めた。少しでも強くなって、あのズヂボウを倒すために。

新聞もその頃から読み始め、いつしかズヂボウが絡んでいそうな記事はスクラップするようになった。


「——ということがあったんだけど、覚えてる?」

 長い昔語りを終えた玉丸に聞かれたが——、

「いや、全く覚えてない。悪い」

 実際、そんなことがあったのかも覚えていない。まあ、十年前くらいからテレビを見始めたのはなんとなくそうだと思うし、俺のことが見える子供と喋ったのも、たしか十年前くらいだったな、と思うくらい。

「除霊師になって札幌に戻ってきて、約束したギンに偶然出会ったとき、ぼくは感動したんだ。これが運命か! ってね。だから自分からは言い出さなかった。もしかしたら覚えてくれてて、ギンのほうから言ってくれるんじゃないかって思ったんだ……なのに!」

「いや無理だろ。こんな筋肉ムキムキのやつなんか会ったことなかったからな」

 話の流れから玉丸が怒りたいのも無理はないとも思うが、さすがに十年たって筋肉マシンになってたら同一人物だとは思えない。まあそもそもそんな約束のこと自体覚えていなかったのだが。

「そうだけどさ。……なんかその後も自分から昔のことを言い出すのが恥ずかしくて、言えなかった。それに、十年前の約束を覚えてる上であえて言わないのかとも思ったし。『もう俺たち出会ったんだから、それでいいじゃないか、キリッ』ってね」

「いや、それはさすがに意味がわからん。大体、約束したってお前は言うけどな、それ絶対俺は適当に返事しただけだろ」

「今思えば、それもそうだよね。テレビ、すっごく熱中してたみたいだったから」

「というかそんな大事な過去の話、もっと前に話してくれてたらこんなことにはならなかったんじゃないか?」

 俺は至極当然のことを質問した。

だが出会ったばかりの俺が今の玉丸の話を聞いても、ただ信じさせるための作り話だとしか思わなかったかもしれないな。俺は、行動でしか人を信用できないのだから。

「いやいや、ぼくも言おうとしたんだよ⁉ 維美流中学校でおかっぱ悪霊と戦ったとき」

「そうだったか?」

「そうだよ! 全く……。ギンが、『俺とパートナーを組みたい理由はなんだ?』って聞いてきたから答えようとしたら、『いい、大体わかる』って言って遮ったんだよ!」

「あ」

 確かにそんなこともあったかもしれない。とりあえず謝っておこう。

「それはすまなかった」

「ま、もういいけどね」

 互いに聞きたいことを聞いた俺たちは、その後、どうでもいいことを話し合って過ごした。

夕ドラの再放送の時間になったので、俺は個室にある小さなテレビを玉丸につけてもらい、静かに『アワビの子』に見入った。

 見終わるとテンションが上がり、つい玉丸に話しかけてしまった。

「見たかおい、あの丹澤の名演技。あんなのもらい泣きしちゃうよな」

「いやごめん。ぼく、病室の背景としか認識してなかったわ、今のドラマ」

「はぁ、お前ってやつは、ほんと脳筋だな。ドラマ観ろよ、もったいない」

 そんないつも通りの会話をしていた俺たちの空間に、来訪者が現れた。個室のドアがノックされ、制服を着た女子がプリントを手に持って入ってきた。

「玉丸君、大丈夫?」

「あ、委員長! お見舞いに来てくれたんだね、ありがとう!」

「いえ、お見舞いというか、私はただプリントを届けに来ただけなので。というかこの部屋暑いですね」

 委員長と呼ばれる女子は、玉丸に興味など微塵も無さそうだった。

 その女子が、ドアの向こうに向かって手招きをした。

「優子がどうしてもお見舞いに行きたいって言うから……」

「え⁉」

 玉丸の目の色が変わる。

「じゃじゃーん! 玉丸君、元気ー⁉」

 ドアの陰からひょっこり顔を出して茶髪を揺らしたのは、珍田優子だった。手からビニール袋を提げている。相変わらず人懐っこそうだし、可愛いな。俺のほうに一瞬視線が来る。一般人の委員長がいるから、目だけでの挨拶ということだろう。

「ち、珍田さん⁉」

「元気? って聞くのも変かぁ。とにかく、命に別状がなさそうでよかったよ!」

「ありがとう! いやー、嬉しいなあ! でも、なんで来てくれたの?」

「友達だからに決まってるじゃない! 学校も二日も休んでさ。ついさっき先生から病院にいることや、生死の境をさまよったって聞かされた時は、びっくりしちゃったんだから!」

「と、友達……。ぼく、友達認定されてたんだ。やったあ!」

 玉丸は吊られた両腕の先にある拳を丸め、小さくガッツポーズを作った。

 おいおい、俺と出会えた時も嬉しかったって言ってたよな。それより全然嬉しそうじゃないか?

「それにしても、体中傷だらけですね。何があったのですか? 詳しいことは学校からも説明が無かったので」

 委員長と呼ばれたおさげの眼鏡っ子が言った。

「あ、そうなんだね。えーっと……、実は交通事故にあっちゃってね、へへ」

「そうなんですか。で、プリントなんですけど、これとこれが——」

 本当にそっけないなこの委員長は。ケガの理由にも興味がなかったのか、学校のプリントの説明をし始めてしまった。

 俺は珍田のほうを見てニッコリする。珍田にはあとでちゃんと話さないとな。

 プリントを渡し終えた委員長は、最後に一つ大切なことをお話しします、と真剣な表情で口を開いた。

「クラスメイトの安言英雄くんが、先日亡くなりました。もう葬儀はクラスでやったのですることはないですが、報告しておかなければならないことなので。それに、玉丸君は安言くんの友人のようでしたし」

「——は?」

 玉丸はひどく驚いている。俺も驚いた。なんせ火事や交通事故やらで狙われていた人間が、とうとう死んだと聞いたからだ。これは間違いなく悪霊の仕業だろう。かわいそうに。狙われていた理由は分からないが。

 委員長も玉丸も悲しそうな顔をしている。横にいる珍田は、表情を変えることはなかった。

 しばらく重い空気が続いた。無理もない、玉丸にとっては仲の良い友人だったからな。

 数分後、「ごめん、空気重くしちゃって」と玉丸が言ったことで、少し空気が元に戻った。

「いえ。要件は伝え終わりましたので、私は帰ります。優子はどうするの?」

「もう少し玉丸君と一緒にいるよ!」

 友達が死んだことにショックを受けている様子の玉丸だったが、少し明るくなった気がした。

「ありがとう」

 委員長が帰った後、珍田が俺に詰め寄ってきた。

「で? ギン、本当はなにがあったの⁉ 説明してもらうよ! 玉丸君がこんなになっちゃったのと関係がないわけないよね⁉」

「うっ、やっぱばれてたか……」

 隠そうとしていたわけではなかったが、やはり鋭い。交通事故などという玉丸の咄嗟の噓はやはり通用しなかった。とはいえ、俺の内情まで話す気にはなれないので、適当に思いついた表向きの理由を伝えることにした。

「ズヂボウを倒すためにパートナーを組んだが、こいつは弱すぎてな。いつも俺ばっかり悪霊を殺さなきゃならなかった。それがムカついたんでパートナーなんてやっぱり解消しよう、と言ったんだ。だがこいつが食い下がるから、つっ立ちを倒せばまたパートナーを組んでやると提案した。俺は譲歩のつもりじゃなくて、諦めろと言ったつもりだったんだがな。こいつはマジでつっ立ちを倒そうとして、ボコボコにされたってわけだ」

 美少女がすぐ近くで眉間にしわを寄せて睨んでくる。口はムッとして、今にも噴火しそうだ。

「バカじゃないの! そんなことして、玉丸君が死んだらどうするつもりだったの⁉」

「すみません……」

 俺はとりあえず謝っておく。

「安言くんのことは残念だったけど……」それから珍田は、ベッドにいる玉丸のほうを見て言った。「玉丸君もだよ! いくら素直だからって、自分の命をかけてまですることじゃないよ! もっと命は大切にしなきゃダメ!」

「は、はい……ごめんなさい」

「もう、二人ともどうしようもないんだから……」

 ゴン、と俺の頭に衝撃が飛んできた。

「セリフと合ってなくないか? 今の流れだと、やれやれ、で終わってそうだったんだけどな」

「わたしはバカには容赦しないようにしてるからいいの!」

「おい、じゃあ玉丸はどうなんだよ」

「玉丸君を今ぶつわけないでしょ? バカなの?」

 ゴン、とまた俺の頭が鳴る。いてぇ。

「珍田さん、その辺にしておいてあげて。悪いのはぼくもなんだし」

「うん、わかってるよ。とにかく、もう無茶はしないことね!」

 珍田は時計を見て、「じゃあ行くね、わたしそろそろ」と、置いていた鞄を手に取った。

「うん、今日はありがとう、珍田さん。……あっ、そうだ、ちょっと帰る前に相談があるんだけど、いいかな?」

「え? いいよ、なにかな?」

「ギンはちょっと外してて。盗み聞きはダメだよ」

「俺はいちゃダメなのか? まあいいけど」

 どうやら二人で話がしたいらしい。告白するような雰囲気じゃないから、何か俺に聞かれたくない相談だろうか。もしや……と俺の奥底にある闇がまた何か言おうとしているのを感じたが、俺はそれを振り払う。こいつは白だ。ズヂボウとは繋がってないから変な疑りはするな。

 俺は言われた通り病室を出て、適当に散歩することにした。

 十分後くらいに玉丸の個室に戻ると、もうすでに話は終わっているようだった。珍田が病室のドアに寄りかかっていた。

「もう話は終わったのか?」

「うん! ふふっ、楽しみだね!」

 と、謎の笑顔と意味深な言葉を残し、珍田は去っていった。

 ドアをすり抜ける。夕陽に照らされている玉丸の顔は、少し赤く見えた。

「お前、まさか両手が使えないからって抜いてもらっ——」

「違うよ! バカっ!」

「悪い悪い」

 からかったらすごく面白いやつだ、全く。

「で、何話してたんだ?」

「……秘密、かな」

 秘密か、まあいいだろう。

 今は密室に二人きり。女の子に言われたらドキッとするセリフだったが、このごま坊主に言われても鳥肌が立って鳥になるだけだ。

 病室の窓は開いており、カーテンがひらひらと舞っている。うるさく鳴くセミの声がまだ聞こえてくる。

 いつ頃からいたのか分からないが、セミが一匹窓の内側にとまっているのを見つけた。ジイ、と室内でもお構いなしにひと鳴きしたセミは、暑い外界に出勤していった。


 二週間の時が経過し、ボロボロだった玉丸の退院の日がやってきた。医者からは全治二か月と言われたのだが、レントゲンを撮ると骨のほとんどはもう治っていた。肉体の強さは常軌を逸しているとしか言いようがない。医者も「まさかこんなに早く良くなるなんて!」と心底驚いていた。

 久々の自宅についた俺と玉丸は、まず近くのファミレスに行き、ステーキ、ハンバーグなど、シャバの飯を堪能した。かわいそうなので、半分くらいは憑依を解いてあげた。俺、優しい。

 その後新しい(火事で無くなったため)安言の家に行き、玉丸は安言英雄の仏壇に線香をあげた。残された両親はまだ立ち直れていない様子だった。

 

翌日から夏休みが始まった。玉丸は死別した家族の写真の前で手を合わせていた。

「今年こそはお盆にちゃんと戻ってこれるようにしなきゃね」

 一人呟く玉丸の言葉の意味が分からず、俺は聞いた。

「それ、どういう意味だ?」

「お盆には、先祖が現世に帰ってくるって言われてるでしょ? でも、ぼくの家族はズヂボウに殺された。ズヂボウが現世にいる間は、怖くて帰ってこれないと思うんだ。だから、ズヂボウを倒せば安心して家族と話ができるってこと」

「なるほどな」

 言いたいことはなんとなく分かるも、悪霊以外の霊は見かけたことがないからな。本当に先祖が帰ってくるのかは疑問だ。ま、悪霊には良い霊が見えないだけかもしれないな。

「悪霊が見えるようになってからかな、よりそういうのを信じ始めたのは」

 除霊師になって迎えた初めての年。玉丸はこれまでずっと、家族と話せない悔しさと戦ってきたのだろうか。

「お墓参りには行ってもさ、話しかけたりするのはできなかったよ。もし父さんや母さん、結衣が帰ってきてくれたとしても、ズヂボウにまた殺されちゃうんじゃないかって思って。考えすぎかもしれないけど、生き残ったぼくには使命があると思ってるんだ。だから、安心して家族が帰ってこられるように、あの最悪な悪霊を祓うって決めた。ぼくが途中で挫けないように、祓うまでは家族に話しかけないっていう風にも決めたんだ」

 玉丸の後ろ姿からは、並々ならぬ覚悟と気迫を感じた。こいつはすごい。自分の復讐のためだけではなく、天国にいる家族が安心して帰ってこられるように、ズヂボウを祓おうとしている。

「絶対に祓うぞ、金次!」

「うん! って、え⁉ 名前……」

「いいだろ、そう呼ぶことにした」

「いや、いいけど、ちょっと照れちゃうな……」

 頭をかく金次。その姿を見て、俺は心の温度が少し上がった気がした。

俺は前にも増して、こいつを信じてきていると感じていた。だから名前を呼ぶことにした。

「お! そう言ってたら、近くでEPS反応が!」

「どこだ?」

 スマホを傾けた金次が、両手で拡大したり縮小したりしている。

「豊平川だ!」

 早速準備をして、二人で豊平川に向かった。

 到着すると、今日から夏休み、そして土曜日ということもあって、家族で川遊びをしている人間が結構いた。

 うーん、と金次が眉間にしわを寄せている。

「どうした?」

「いや、今目の前にあるこの川にEPS反応が出てるんだけどさ、悪霊いるかなって思って」

「本当にここで合ってるのか? 全然気配しないぞ」

「川の中に潜ってるのかもしれないから、ぼく、ちょっと見てくる!」

 水着を履いてきていた金次が、その筋肉を照りつける太陽の元にさらす。川に歩いて入っていくと、周りの家族連れが少しざわつく。

「きんにくまんだ」「すごいな、あの体」「ゴリラだね」

 ゴーグルを装着して、ザバ、と飛び込んだ金次が水中を泳いでいく。しばらくキョロキョロしていたが、川から上がり、「いないね」と首を横に振った。

 EPSはつっ立ちや飽馬が見ているはずだから、間違いようがないんだがな。

 そう思って俺たちが場所を移動しようと考え始めた矢先、

「たすけて——!」

という少女の声が遠くから聞こえてきた。

「おい、金次」

「うん、怪しいね!」

 俺と金次は急いでその場に駆け付ける。父親と母親で、必死に娘の腕を引っ張っているが、子供は何かに足が引っ張られているように水中から出てこない。

 金次が少し離れたところの水中に顔を沈め、様子を窺う。

「いた! 悪霊だ!」

 捏造海水パンツのスイッチをオンにした金次は、子供の足元で足を引っ張っている川悪霊の元に泳いでいく。もう子供は溺れる寸前だ。

「塩——掴み!」

 金次は海水パンツのポケットに入った塩を手に取り、その手で悪霊の実体をつかんだ。

 溺れかけていた女の子は両親の腕の中に引っ張りあげられた。俺は近づいてその子供の足首を確認してみると、しっかりと手で握られた跡ができていた。

 俺はすかさず川の中に入り、金次がつかんだ悪霊めがけて飛んでいく。

「邪指——壱」

「あっ——!」

 だが、腕をつかんでいた金次の手元から川悪霊が逃げ出してしまった。掴んでいた腕が水になり、川の中に姿をくらましてしまったのだ。俺の突き出した一本の指は、間抜けにも液体に一瞬触れただけだった。

 と、ここで俺は疑問を抱く。いくら水になれる悪霊とはいえ、俺の邪指が通用しないわけがない。たとえ液化できる悪霊だとしても、毒は効くはずだ。俺の指は一瞬、あの悪霊の体にたしかに触れ、そして毒を出した。なのに、悪霊が消えていく様は見えてこない。

「どういうことだ?」

「どうしたの?」

 隣の金次が聞いてくる。思えば、川悪霊は塩のついた手をすり抜けた。やはり、何かしらのからくりがあるのだろう。

 俺はビショビショに濡れた学ランと自分の顔にかかった水を鬱陶しく思い——、

「ん?」

 と、そこでおかしいと思った。俺は悪霊、つまり精神体だから水もすり抜けるはずだ。だから、学ランや俺の髪、顔に水がかかって濡れることは、ありえないのだ。

 しかし濡れるということは……。

 俺は試しに、玉丸が持ってきていたペットボトルの中身に触れようとしてみた。だが、やはりその液体には触れなかった。 

ということは、つまりこの『川』自体が悪霊ということ。珍しいケースだが、地縛霊ということだ。

正解にたどりついた俺は久々に濡れた髪をかき上げ、霊技を繰り出した。

「邪指——廿(にじゅう)」

 さっきの接触では足りなかった毒の量を、足も含めすべての指から放出することで、川全体に行き渡らせるようにした。除霊師と悪霊にしか見えないだろうが、三十秒ほどで川全体がどす黒く濁っていった。

「うわあああああ!」

 すると少し横のほうで、川悪霊の悲鳴が聞こえた。痛くはないはずなんだがな。自身の体が灰になっていくのに驚いたか。

 まだ幼い顔をした川悪霊が、水面からひょっこり出てきた。俺は久々に泳いで移動し、人差し指、中指、薬指、小指の四本をそいつの胸に当てて聞いた。

「ズヂボウの居場所を知っているか?」

 俺の毒に蝕まれている川悪霊が、消える前に過去を見せてくれる。

 ——三年二組と書かれた教室。水筒やお弁当を持つ周りの子供たち。遠足と書かれた黒板。川の周りで遊ぶ子供と先生たち。入ってはいけないよ、と注意をする先生の姿。無視して飛び込む水面に反射した悪ガキの顔。水中に生える木に引っ掛かる服。口に入ってくる汚い川の水。岸にぼんやり見える先生と子供たち。だんだん遠ざかっていく声と意識。

 ときおり投げ入れられる石。楽し気な雰囲気で入ってくる裸足の人間たち。川に入ってくる小学生くらいの女の子。その足を引っ張る水のような腕。口から空気を吐き出し、もがく少女。ついに力を使い果たして水中に引きずり込まれる少女。溺死した顔。


「——知らないみたいだな」

 それにしても、悪霊にはやはりろくなやつがいない。自分が勝手に溺死しただけなのに、それをなんの落ち度もない人間にやってしまう。なんで悪霊はそうなってしまうのだろうか。

 もやもやした心をよそに、俺は出てきた魂を金次に放り投げる。

「ズヂボウのことは、やっぱり知らないんだね」

「ああ」

 やはり俺たちの方法では、ズヂボウの居場所を見つけるのは難しい。俺が百年も探して一度もかすったことがない為、今更な話ではあるが。

 川から上がった俺は、濡れた学ランを脱いだ。久々の絞るという動作に少し感動していると、俺の正面に立った金次が唖然とした様子で言った。口が『あ』の形になっている。

「実際に見るとやばいねそれ。ドーナツくらいかと思ってたんだけど、予想のはるか上を行く風穴っぷりだよ」

「まあな。おかげで急所が減ったともいえるけどな」

 俺の、穴が開いたというより元からそうだったような上半身は、万田広治にやられたときの傷跡だ。例えるならダイ〇ンの加湿空気清浄機みたいな感じ。

 金次は隣でバスタオルを腰に巻いて、海水パンツを脱ぎ始めた。とそこで、脱ぎ捨てていたズボンのポケットから着信音が聞こえてきた。

 慌ててパンツをはいた金次がスマホを手に取った。

「おい、ちゃんとズボン履いてからにしろよ、みっともない」

「だってさ、見てよ、珍田さんからだよ! 出ないともったいないじゃん!」

 スマホの画面を見せてくるブリーフ姿の肉塊。ここが川のそばじゃなかったら通報されてたぞ。

 もしもし、と電話に出た金次は、屈託のない笑顔で会話している。内容は想像するしかないが、前に病室で二人きりで相談した話の続きだろうか。

「うん、わかった! 仕度出来たら急いでいくね!」

 スマホを川原の石の上に置いた金次は、急いでズボンをはき、海水パンツを絞った。

「ぼく、今から早めのランチに行くから。ついてきちゃだめだよ!」

「お、おう」

 珍田との時間を邪魔されたくないのか、金次は分厚い手のひらをこちらに向けてくる。しょうがない、本当は尾行したいところだが、今日のところはやめてやろう。

 俺は帰って昼ドラを見ることにした。


 やった! ぼくは電話で珍田さんからの返事があったとき、思わず心の中で叫んでしまった。ギンには悟られなかったと思うけど、ぼくはこれから珍田さんと、もう一人の友達候補さんとランチを共にする予定だ。ギンと別れた後、ぼくは待ち合わせ場所へと向かった。

 学校からちょっと遠い、あまり馴染みのないファミレスにぼくは入った。

 席を見渡すと、窓際の席で珍田さんが立って手を振ってくれた。か、かわいい!

 隣にはこれまた美少女がおとなしく座っていて、ぼくが思っていた友達候補とは性別が真逆だった。もっと楽しそうな男子だと思ってた。まあでも、嬉しい誤算だ!

「こんにちは、珍田さん」

「こんにちは玉丸君。……えと、彼女は、柿久恵子ちゃん。今日の主役だね!」

「初めまして、玉丸さん」

「は、初めまして柿久さん!」

 つい美少女を前にするとどもってしまう。ぼくは二人の正面に腰を下ろし、とりあえず水を一口飲んだ。

 珍田さんと雑談をするが、どうしても隣の柿久さんの胸に目がひきつけられてしまう。珍田さんも中々のものを持っているが、柿久さんは更に上。凶悪だ。

 質量のある物が重力に逆らえないように、ぼくの目も柿久さんのおっぱいの前では無力。万有引力によってどうしても引き寄せられてしまい、制御できない。

「玉丸君、さっきから目が泳いでるけど、どうかしたの?」

「い、いや、なんでもないよ!」

珍田さんに怪しまれてきたので、ぼくは本題を切り出すことにした。柿久さんに話を振る。

「あの、柿久さんは、ドラマとかよく見るんですか?」

「はい」

「どんなのを?」

「朝ドラ、昼ドラ、夕方の再放送、夜のドラマまで、ほぼすべてですね」

 おお、それはすごい! こんな美しく可愛い女の子が、寝る間も惜しんでドラマに夢中になっているのか! これなら、ギンと話が弾むかもしれない!

「恵ちゃんはね、すごいんだよ!」

 珍田さんがなぜか前かがみになってぼくの耳元に口を寄せてきた。よ、よせ、寄せてきたのはお、おっぱいもだった! 白地のシャツブラウスから谷間が挨拶をしてくる。ここ、こんにちは!

「恵ちゃんはドラマの話をすると止まらなくなるの。だからあんまり突っ込んだことを聞くと面倒なことになるから、気をつけてね」

「な、なるほど」

「優ちゃん、なに話したの今?」

「う、ううん、何でもないよ!」

 なんとかごまかしている珍田さんの慌てようから察するに、相当語り尽くすタイプなのだろう。オタクといってもドラマオタクか、なかなか珍しいタイプの人もいるもんだ。

 ぼくはドラマのことはよしとして、もう一つの条件について聞いてみた。

「ちなみにその、悪霊は見えるんですよね?」

「はい」

「除霊師ではなくて、ただ霊視できる人ってことでいいんですよね?」

「そそ! 恵ちゃんは、除霊師ではないんだけど、霊感が生まれた時から強くて、霊が見える体質らしいの! ね、ピッタリでしょ⁉」

 ピッタリというのは、友達としてピッタリだということだ。もちろんぼくの友達ではない。ギンの友達として、だ。

前々から思っていたけど、ギンはドラマのことを話すとき、とても目がキラキラしているのだ。だけどぼくがドラマに興味がないから、いつも不完全燃焼、という感じで会話が終わってしまっていた。

 だから珍田さんに相談して、友達になってくれそうな人を探してもらっていたんだ。

「うん、ギンの友達にピッタリだと思うよ柿久さんは! さすがは珍田さん、すごいね! ありがとう!」

「ううん、そんなことないよ。でも、恵ちゃん人見知りなところがあるから、前から趣味の合う友達を作ってあげたいと思ってたんだよね。だから、玉丸君からの提案を受けたとき、すごい、ちょうどいいタイミングだ、って思ったもん! こっちこそありがとね!」

「……ありがとうございます」

 柿久さんも友達が少なかったようで、お互いの利益が一致したみたいだ。それにしても、頭を下げた柿久さんの重そうな胸が、テーブルにずっしりのしかかって、ブハッ!

「どうしたの玉丸君?」

「いや、なんでもないよ! こちらこそありがとうって思ってた!」

「よだれなんか垂らして柿久さんのこと見てたから私びっくりしちゃった」

「ご、ごめんなさい柿久さん、そんなぼく見てたかな珍田さん?」

「見てたよ、ちょっといやらしい目で」

「いや、違うんだよ珍田さん。ぼくお腹がすいちゃってさ! いつもぼくごはん前になるとよだれが出て変な目になっちゃうんだよね! アハハ!」

 珍田さんのじと目と柿久さんのキョトンとした目がぼくの心に突き刺さる。片方は追及する目、もう片方は何にも気づいていない純粋な目。ああ、なんてやましいことを考えてたんだぼくは! ぼくの変態筋肉バカ野郎!

 ぼくが内心自分を反省させていると、二人はメニューを注文し始めていた。今時はもうタブレット端末から注文するのが普通らしい。あんまりファミレスに行くことがないから知らなかった。

 ぼくもメニューを頼んだ。たくさん食べるんだね、と珍田さんに言われた。女の子の前で食べる量じゃなかったかな。ちょっと引かせてしまった。

 やがて料理が運ばれてきた。ウエイトレスではなく、配膳専用のロボットに乗せられて運ばれてきた。

「大変お待たせいたしましたニャ。お食事をお持ちしましたのニャ!」

 耳もついていなければ青色でもないロボが、なぜか語尾を猫のようにしていた。

 トレーをとると、「ごゆっくりどうぞなのニャ!」と言って帰っていった。

「面白いですね。今時のファミレスは」

 はにかんだ柿久さんの笑顔は、脳内保存しておこうと決めた。

 食事を済ませたぼくたち三人は、会計を済ませて外に出た。

「じゃあ、明日の十二時に札幌駅でね!」

「うん、じゃあね」

 柿久さんは別の学校ということもあり、ぼくと珍田さんとは別の方向に帰っていった。

 打ち合わせの結果、明日はぼくとギン、珍田さんと柿久さんの四人で映画を観て、その後遅めのランチを食べに行くことになっていた。

 ぼくも珍田さんと別れる道に差し掛かった時、珍田さんがぼくの袖をつかんだ。

「ねえ、明日さ。私やっぱり、玉丸君と二人でどこか行きたいな」

「え?」

 上目遣いの珍田さんは、いつにも増して妖艶な雰囲気を漂わせていた。その小さく整った顔を近づけてくる。

「ギンってああいう可愛い子好きそうだし、せっかくなら二人きりにしてあげようと思って。ドラマの話も、私たち二人がいないほうが盛り上がりそうじゃない?」

 た、たしかに。いやでも、うまくいくだろうか。

「そうかもしれないけどさ、初対面で二人きりって大丈夫かな? ほら、柿久さんも人見知りって言ってたしさ」

「大丈夫だよあの二人なら」

「そ、そうかな?」

 いつもは見せない珍田さんの少し強引な誘いに、正直ぼくは困惑していた。体を寄せてくる。お、おお、この感触は!

「そんなに心配? それとも、私とのデート、そんなに嫌なの?」

 いつの間にか手まで握ってきている! ああ、そんなに近づいて可愛いとか、反則だよ!

「嫌なわけないじゃん! 行く、行くよ、俺! 珍田さんと二人きりのデート!」

「ありがと、玉丸君!」

 ごめん、ギン。そして、天国の父さん母さん、結衣。好きな子とデートする日が一日くらいあってもいいよね! ズヂボウ探しは明後日から再開します! 燃えてきたああああ!


 夕方の再放送のドラマを見ていると、目をトロンとさせて口がふやけた筋肉が帰ってきた。

「ただいまぁ」

「どうしたそのニヤケ面。きもいぞ」

「ん? そう? ……ああ、そうそう。ギン、明日ね、サプライズプレゼントがあるから」

「サプライズプレゼント?」

「昼の十二時に、札幌駅の変な石のところで待ってて」

「あ?」

 サプライズプレゼント? それに札幌駅の変な石? 一体どういうことだ?

 何か企んでいる、ようには見えないな。金次の顔を見ると、五秒に一回の頻度でニヤケ顔になっているのが窺える。

こいつが今更俺を陥れるようなことをするとは思わないが、悪霊の俺にプレゼントを贈るなんてことができるのか? 物には触れないぞ。

「プレゼントってなんだよ」

「それは明日になってのお・た・の・し・み!」

 きめえ。素直にきめえ。

「大丈夫、ギンが日ごろから欲しがってるものだから、絶対」

「そんなもんあるか?」

 考えてみるも、特に思い浮かばない。強いて言うならズヂボウの首だが。

 まあいい、あいつが用意したものなら信用できる。というか、欲しいものか、なんだろう。

 俺はこれ以上追及せず、ワクワクしながら明日を迎えることにした。

 

翌日。今日から始まる朝ドラ『アレはナニ?』を見た後、今日の昼ドラを録画するよう玉丸に指示をした。わかった、と言いつつ、金次もなぜか外出する仕度を整えていた。

 珍しくジーパンに襟のついたシャツを着て、どこから引っ張り出してきたのか、ベースボールキャップまで被ってきた金次。何度も鏡の前でポージングを決めている。そのマッスルポーズは外でしないでくれよ恥ずかしいから。

「お前も外行くのか?」

「え? うん、行くよ。ま、場所は違うけどね」

「一瞬おしゃれしたお前が俺へのサプライズプレゼントかと思った。そうなったら地の果てまでぶっ飛ばすことになってたけどな」

「違うよ! ギンにはちゃんと嬉しいプレゼントが用意されてるから、心配しなくていいよ!」

 そんなに念を押されると、逆に心配になってしまう。

 十一時を回ったところで、俺と金次は同時に家を出る。金次は俺と反対方向に歩いて行った。

 地下鉄には乗らないから、俺は適当なスピードで札幌駅に向かった。ゆっくり向かったとはいえ、予定より三十分も早く来てしまった。

 それより、なんであいつはあの変な石の前で待てなんて言ったんだ? すでに待ち合わせしている若い人間たちが大勢いる。俺は駅の入り口のところからそれらを見てうんざりしていた。どうせならもっと人がいないところで待ちたかった。

 というか、待つって、なにをだ? 自分で言って疑問を感じた。

いや、待つといったら人だろ。人が来るのか? それとも、悪霊? 考えてもそれくらいしかなかった。

 ま、あいつがここを待ち合わせの場所に決めたんだから、俺がそこにいなかったら相手も困るだろうしな。

 俺はおとなしく変な白い石の前、ではなくその石の上に浮かぶことにした。ちなみにこのオブジェの正式名称は妙夢(みょうむ)とかいったか。

 待つこと十五分。入り口のほうから歩いてくる有象無象の中から、ひときわ俺の目を惹く女が現れる。サラサラの黒髪を腰のあたりまで伸ばした清楚女子が、遠目から歩いてくるのが見えた。

「めっちゃ可愛いなおい」

 もしかしてあれが俺へのプレゼントかな。だったら後であの坊主を死ぬほどなでなでしてやろう。そんな妄想をしていると、

「ギンさんですか?」

 と近づいてきたその女が声をかけてきた。

 周りの人間は、上を見てひとりごとを言う美人に戸惑って俺のほうを見てくるが、当然何も見えないので首をかしげている。しかし、その俺の心を鷲掴みにした美人は、俺のほうを——いや、目をしっかりと見ている。目が合っている。

 まさか、本当にこの美女が俺へのプレゼントなのか。

「お、おう、俺はギンだ」

 急激に脈拍が上昇(脈も血もないが)した俺は、ドキドキしながらその子の前に降りて行った。

「よかった。一瞬人違いかと思いましたよ。あ、悪霊違いですかね」

 目を細めて口角を上げる。その笑顔の所作が、いちいち俺のハートを射抜いてくる。か、完全に堕ちた、俺はこの子に。今この瞬間。

「じゃ、行きましょうか」

「は、はい」

 成仁優女と会話したとき以来の敬語が出てきた。だが今日の敬語は意識して出したものではなかった。純粋に緊張してでた敬語だった。

今の俺は、俺が死んだ高校二年生の頃の心に戻っている。思わず手を心臓のあったところに持っていってしまう。もうないはずの心臓が、バクバク音を立てている気がした。

 しばらく緊張しながら歩いたなと思っていたが、いつの間にかマックの店内にいた。注文をする彼女の後ろ姿、いや、そのむき出しにされた足に見とれてしまっていた。美脚にもほどがある。

 商品を受け取って微笑みかけてくる彼女の後についていく。席に座ると、彼女はその小さな口を開いた。

「ギンさん、大丈夫ですか」

「え? は、はい。何がでしょうか?」

「あ、ギンさん、やっと聞こえたみたいですね」

「え?」

「歩いている途中に自己紹介やドラマの話をしたのですが、全然聞こえていなかったみたいなので」

「え⁉ そ、それはすみませんでした。感動して緊張して、なんにも考えられなかったんだと思います!」

 そんなに俺は緊張していたのか、恥ずかしい。

「じゃあ、もう一度お話ししますね」

 ニコ、と笑う彼女に、俺はもうメロメロだった。目が離れない。引力を感じる。

「私は、柿久恵子といいます——」

 彼女は喧騒の中でも透き通って聞こえるその綺麗な声で、自己紹介をしてくれた。

 話によると、彼女はドラマ友達が欲しかったらしい。そこに、友人の珍田から、悪霊でもいいなら、と言う話が来たそうだ。霊視ができたので条件に合うと思い、今日俺に会いに来たという。

 そしてその珍田からの話はどうやら金次が提案したものらしい。ナイス金次、珍田。お前ら大好きだ。俺は心の中でガッツポーズを作る。

「なるほど。たしかに自分もドラマをよく観ています。玉丸君に、あのシーンはこうだったよね、とか振るんですが、彼からの返事はいつも適当で、困っていました。ドラマのことを語り合える友人が欲しかったのは自分も同じです」

「やっぱりそうなんですね。わたしもそうなんです。家族にも友人にもドラマ好きの人があまりいなくて……。だから今回、ドラマ好きのギンさんと会えて本当に嬉しいです」

 それから俺は、マックのハンバーガーを口いっぱいに頬張る恵子さんのことをずっと見ていた。たまに視線を下にずらすと、大きなメロンが二つ熟しているので、思わず収穫したくなってしまった。

 昼食の後は、映画館に向かった。道中のドラマ話も、ものすごく合った。お互いに見ているドラマが同じにもかかわらず、恵子さんの考え方と俺の考え方が違うところもあって、すごく新鮮な気分だった。

 ドラマのことになると情熱的になる恵子さんも、やはり超絶可愛すぎてやばかった。語彙力が女子高生になってしまう。マジ半端ない。神。

 見る映画はもちろん今話題の映画などではなく、過去の月九のドラマの映画版だ。恵子さんも迷わずそのチケットを選んだ。

 席もしっかり二人分とってもらい、俺は久々の映画を堪能した。隣の恵子さんを何度もチラ見したのはここだけの秘密だ。

 本当に金次には感謝しかない。俺は映画館の赤いカーペットを歩く恵子さんの横顔を見てそう思った。可愛いし、綺麗だし、スタイルもいいし、声も好きだし、なによりドラマの話ができる。こんな素晴らしい相手を見つけてくれた珍田にも感謝だ。ありがとう。

 映画を観終わった後は、二人とも外の空気が吸いたくなって、札幌駅から出た。散歩することになったのだ。空は橙色に染まっており、真夏にしてはなんとも心地よい風が吹いていた。

 とはいってもここはコンクリートジャングル。灰色が支配する街は、歩いても歩いても人や車だらけで、恵子さんは少し疲れてきたようだった。

「ちょっとあそこの公園で休みたいのですが……」

 申し訳なさそうに言う恵子さんも、可愛い。水でも買ってあげたい。

「行きましょう」

 俺と恵子さんは暗くなり始めた、都会にしては大きめの公園に二人で入っていった。雰囲気も良い。カップルもちらほらいる。まさか目を閉じてもらってもいいですか、という展開になってしまうこともありえるのか⁉

 俺は自分が、好みの女を前にするとこんなにテンションが高くなるという事実を、今日初めて知った。


 ぼくは今、幸せの真っ只中にいる。なぜなら、隣にいるのが天使だからだ。

 ギンを送った後ぼくは珍田さんとの初デート(付き合ってもいないのだが)の待ち合わせ場所、すすきのに向かった。

 女の子とのデートは初めてで、何をすればいいのか、どこに行けばいいのか全く分からなかったけど、珍田さんはぼくを何気なくリードしてくれた。

 最初に入ったのがラーメン屋さんだったのはびっくりした。しかもけっこう匂いの強いラーメン屋さんだ。

 ぼくはラーメンが大好物だったけど、珍田さんもおいしそうに食べていたからきっとラーメン通なんだろう。

「珍田さんもラーメン好きなの?」

「うん、大好きなの!」

 大好き、というワードがラーメンに向けられているのにもかかわらず、ぼくは思わずニヤケてしまった。ラーメンを啜る珍田さんの横顔は、なんというか官能的だった。

 ラーメン屋の後は『極安の殿堂』と銘打った店に行った。普段すすきのに来ることはないから、この店も噂でしか聞いたことがなかった。

 各階には本当に何から何まで、いろんなものが売られていた。珍田さんは前から欲しかったという、ミニ扇風機を購入していた。ぼくはといえば、何も思い浮かばず、適当にマッスルと書かれた力こぶの形のストラップを購入した。

「なにそれー!」

 と珍田さんが笑ってくれたので、買った意味があったんじゃないかと思った。

 夕方になると、ぼくたちはカフェに入った。カフェなんて入ったことないのに、初めてでこんなに可愛い女の子と一緒に来ることができるなんて! 

ぼくはつい周りの様子を見ながら席についてしまった。みんなやっぱり珍田さんのことを気にかけているようだ。一つでも視線を外せればと思って、ぼくはさりげなく椅子の位置をずらして背中で珍田さんを隠した。すると、

「ありがと。気になってたんだ」

 と耳打ちしてくれた。ボフッ、と頭が爆発した気がした。

 コーヒーを飲みながら、学校の話や普段の何気ない話に花を咲かせていると、窓から見える外の景色が少しずつ暗くなってきていることに気づいた。

「そろそろ帰ろうか」

「うん」

 カフェを出た後、珍田さんは急に口数が減った。どうしたんだろうと思い隣を盗み見ると、両手の人差し指をモジモジさせていた。心なしか耳まで赤くなっている気がした。すると、

「玉丸君。……あのさ、ちょっと二人きりになれるところに行きたいんだけど」

 キャ―! つ、ついに⁉ いや、まだぼくたち高校一年生ですけど、しかも付き合ってないよね⁉ え、え? いいのか——⁉

 ぼくはぎこちない作り笑いで「うん」とだけ言った。


 恵子さんが公園の蛇口から水を飲んでいる。CMに出てきそうなくらいサラサラな髪を耳にかける仕草に、俺は思わず口を開けていた。そうしないと呼吸が止まりそうだったからだ。

 それから恵子さんがベンチに座ろうと言ってきた。移動して二人で座る。

 何も喋らない、ちょっと気まずい空気が続いた。俺はどうしたんだろうと思って、視線だけを横にずらした。

 恵子さんは深呼吸したり、指をモジモジさせたりしていた。心なしか、頬から耳にかけて赤く火照っているような気がした。恵子さんは緊張しているみたいだった。

 その時間が一分ほど経ったとき、いきなり恵子さんがベンチから立ち上がった。そして座っていた俺の顔をしっかり見据えてきた。

何か話そうと口を開きかけたと思ったら、目線をすぐに外してしまう。その動作を二回ほど繰り返す恵子さん。

か、かわいい。なんでそんなことできるんだ? 天才役者なのか?

「ギンさん。……あ、あの」

「は、はい」

 こちらまで緊張してしまう。何を言われるのか。

「ちょっとの間、目をつぶっててもらえないですか?」

 手のひらで顔を隠しながら言う恵子さん。指の隙間から見える顔色は、今にも火が吹き出そうなくらい真っ赤になっていた。

 そ、そういうことなのか⁉ ついに俺にも来てしまったのか⁉ モテ期というやつが!

「わ、わか、わかりまし、ました」

 あまりの緊張に俺まで噛んでしまった。やばい、これはやばい。今までは人間とそういうことをするなんて考えたことがなかったけど、たしかに霊視できる人ならあれもできるんじゃないか。そうだ、さっき肩が触れ合ったり、手と手が一瞬触れあったりしたぞ。ということはそういうことなのか。 

 俺は鼻の穴が膨らんでしまったのをごまかすため鼻をいったんつまみ、それからゆっくり立ちあがる。頬を赤らめる恵子さんのほうを見て目を閉じた。

 深呼吸する音。そして、ザッ、という公園の砂を踏みしめる音。俺の目の前にいるであろう恵子さんの息遣いが聞こえてくる。両肩に手が置かれる。や、やばすぎる!

「——死ね」

「え?」

 唇に柔らかい感触が来ると思っていたのに、ところがどっこい。俺の眼前にいるはずの恵子さんの位置から、聞いたことのない女の低い声がした。と同時に、俺の穴の開いた上半身になにかが貫通した感触がした。

 恵子さんが通り魔にでもやられたのか⁉ 慌てて目を開けると、そこにいたのは犯人でも恵子さんでもなく、仮面の女だった。

 そして俺の胸を貫いているのは仮面女の膝だった。膝を覆っているのは見覚えのあるお札。

 じゃあ恵子さんはどこへ行ったのか。その答えは、両肩に置かれた手が一度も離れていない

ことからすぐに明らかになった。

「私は柿久恵子。ギン、あんたを倒すために雇われた刺客だよ」

「……そうか。はぁ、そうだよな。こんないい話あり得ないと思ったよ」

 俺は飛び退り、仮面女と距離をとる。

 せっかくの超ど級美人が台無しじゃないか。好みだったのに……。俺はだいぶ悲しい気持ちになったが、俺の命を狙う相手ならと、頭を切り替えていく。

俺は仮面女のことを思い出す。

 最初に見たのは、交通事故悪霊を殺した時の走馬灯。次に見たのは、金次に化けて襲撃してきたときだった。そして最後は、ストーカー悪霊との会話の中で耳にした。お面をつけている除霊師が、俺に恨みがないか聞いて回っていたと言っていた。そういえばあのストーカーが言っていた特徴ともピッタリ合うな。

「あんた、その体はどうしたんだ? 驚いたよ」

 声色がまるで違う。さっきまでデートしていた恵子さんとは別人みたいだ。

「色々あってな。突貫工事したんだ。それよりお前、本当に恵子さんなのか?」

 フ、と笑った彼女がお面を少し外す。さっきまで見とれていた顔が露わになる。が、表情も作っていたようだ。さっきまでの可愛さが嘘のように消えている。……こっちが本来の柿久恵子というわけか。

「あんたは絶対に許さないと決めていた。だからこの場と、絶対に祓える状況を作り出させてもらった」

 なんだ? 俺は首の後ろがゾワゾワした。公園内を見回すと、なるほど、悪霊の気配が多数存在している。後ろ側に十匹、左右に五匹ずつ、そして正面にも十体。それにどの個体も強いのが分かる。よく集めたものだ。

「あんたに恨みを持つ悪霊たちだよ。ここにいる誰もがあんたを憎んでいる。私も含めてね」

「お前とは会ったことないぞ」

「たしかにあんたには面識がないかもな。私が一方的に見ただけだから。……あの、私の親友だったキーチを殺したのは絶対に忘れない」

「キーチ? 誰だ?」

「無理もない。あんたは無差別に悪霊を殺しまくっていたんだからね。私にとっての親友は今も昔も悪霊だけだったのに。それをあんたは意味もなく殺戮した」

 腹が立ってきているのが伝わってくるが、俺は別に悪いことはしていない。悪霊は総じて悪いことをしているから悪霊なのだ。例えまだ悪事を働く前の悪霊でも、将来的に悪いことをする可能性があるなら、殺して然るべき存在なのは変わらない。

他の悪霊はおそらく、仲の良い悪霊が俺に殺されたとか、出会った瞬間殺されるかもしれない恐怖を俺に常に感じていたとか、そんなくだらない理由だろう。実にくだらない。人を殺している悪霊が、敵討ちだとか死にたくないだとかほざかないでほしい。

「全くの逆恨みってやつだな」

 俺はあえて挑発する。すると、仮面越しにも聞こえてくる女の歯ぎしりの音が聞こえてきた。悪霊たちの表情も変わる。

 相当俺を憎んで生きてきたのかもしれない。だが関係ない。俺にかかってくる奴は容赦せず殺すだけだ。

「ギンを殺せ——!」

 柿久の指示により、憎悪が四方八方から押し寄せてくる。

後ろに退いた柿久はまだ仕掛けてくる様子がない。悪霊たちで俺を弱らせて、最後に祓おうって肚だな。万田のときと似ているやり方だな。まあいいか、とりあえず久々に暴れることにしよう。


——俺の周りに飛び交うハエどものレベルは、いつも道端で殺すやつらとは比べ物にならなかった。一匹一匹が相当強い。しかも数も多い。殴り掛かってくる拳の数も多く、霊技で遠距離攻撃を仕掛けてくるものもいた。火、水、雷、酸などが降って来る。

だが俺は全員の力量を見るために攻撃を食らい続けていた。ハエどもからすると、あたかもダメージが蓄積されているように見えたかもしれない。

全員の分析を終えた俺は、結論付けた。

「所詮俺以下だな」

束になっても勝てる相手じゃないということを教えてやろう。俺は悪霊たちに囲まれていた地上から、空中へと瞬時に移動する。眼下のハエどもは俺を見失ったのか、右、左、と首を回している。

「邪指——飛」

逆さになり、両手の十本の指を胸の前に構える。同時に体を捻じり、高速で回転する。そしてデコピンの要領で、連続で毒を弾き飛ばしていく。

悪霊たちの眉間に寸分違わず毒が命中する。

ジュ、ジュ、と毒が付着して、悪霊たちはどんどん灰になっていく。

全員の眉間に毒が当たったことを確認した俺は、回転を緩め、地上に降り立った。

「ふぅ」

 三十匹いたハエどもを、数秒で片づけた。そこら辺の雑魚とは違い、こちらの動きに反応して避けるやつもいたが、それはそれで面白かった。

「このサプライズプレゼントは誰が考えたと思う?」

 遠くで今の攻防を見ていた柿久が、急に唐突な質問を投げかけてきた。

「あ? そんなもん、お前かズヂボウに決まってるだろ」

 今更そんな質問をされても、わかりきっていることだ。ここまで仕組めるのはズヂボウだけだ。それに、万田のときのシチュエーションとほぼ同じ。大勢の悪霊で俺を囲い、弱ったところで俺を除霊師が倒す。そういう作戦。だが前回も今回も、俺を手こずらせるような強敵は一匹もいなかった。そういう意味では、ズヂボウも間抜けだといえる。

「ズヂボウも詰めが甘いよな、前回も今回も。結局俺を倒しきることができないんだから」

「違うよ。この作戦を考えたのは……ああ、そうか」

 身振り手振りを大きく使い、柿久がゆっくりと近づいてくる。

「分からないのも無理はないね。だって自分の過去の話をするくらい信用してるんだもの」

「あ? どういう意味だ?」

「このサプライズプレゼントを考えたのは、玉丸金次だってことだよ」

 ……は? 何を言ってるんだこいつは。馬鹿じゃないのか? 作戦が失敗した腹いせなのかは知らないが、負け惜しみにもほどがある。

「寝言は寝てるときに言うものだって知らないのか? ——金次が俺を嵌めるわけないだろうが」

「アハハ、ここまで信じ切ってるってすごいな。さすが玉丸さんだ」柿久は続ける。「玉丸さんは本当に演技がお上手だ」

 は? こいつは何を言ってるんだ? 玉丸さん? それに演技? バカバカしい。

それなら、あのつっ立ちとの命がけのバトルは演技だったというのか? あいつは死ぬ寸前までいったんだぞ。それに、あんな脳筋が俺を騙せるとも思えない。家族を殺された話だってとても作り話だとは思えない。

「残念だったな。その作戦には乗らないぞ。どうせそれもズヂボウの作戦なんだろ。これが金次の考えた策だ、と俺に聞かせて動揺させる気だろうが、そんなものは俺には効かない。あいつはズヂボウとは繋がっていない」

「動揺させる作戦? そんなことしてあんたを倒せるか? 違う、違うよギン。本当にこれは玉丸さんが考えたことなんだよ。もっと言えば、お前と出会ったときから玉丸さんはお前の命を狙っていたのさ、ズヂボウの差し金で」

 柿久がもう俺から二メートルの位置まで来た。不用意に棒立ちしている。戦う姿勢すらしていない。動揺させて祓おうってことでもないのか? なら、どういうことだ? 

ここで嘘をつく理由を俺は考える。だが、何も思いつかない。やはりただの負け惜しみなのか。

「信じないなら、証拠もあるよ。例えば万田広治との過去の話とか、あんたの死ぬ間際の話とかな。玉丸さんは面白おかしく話してくれたよ」

「ふざけんな!」

 玉丸金次という男のことを何も知らないくせに、勝手なことを言うな。

 パートナーを侮辱されて腹が立った俺は、仮面をつけた柿久の胸倉をつかんだ。

「あいつが俺の過去を言いふらすわけないだろ! 大体、そんな話はズヂボウだったら知っていて当然だ! 万田のことも、俺を殺したときも、あいつが関わってたんだからな!」

「フッ。……じゃあ、これはどうかな? 『銀が死ねばよかったのに』」

 ……なん、だと……。なぜその話をお前が知っているんだ?

 俺は驚きのあまり、柿久の胸倉から手を離してしまった。地面に降り立ち、服を払う女。

「驚くのも無理はないか。お前の兄貴が死んだとき、両親が夜中にこっそりしていた話らしいからな。この話は両親とお前、そして玉丸さんしか知らない話だ。だろ?」

 そんな……そんなはずはない……。金次が俺の過去を敵に言いふらすなんてあり得ない。きっと誰かが聞いていたんだ。……そうだ、病室で俺の過去を金次に話したときに誰かがこっそり聞いてたんだ。そうだ、それしかあり得ない、きっとドアの近くで誰かが盗み聞きして——

『絶対にあり得ない』

俺の腹の底で、闇が勝手に口を開く。

「……なんでそんなことがいえる……」

『お前は本当は分かっているはずだ』

「……やめろって……」

『病室では、俺の過去の話を誰にも聞かれないよう、細心の注意を払った。小声で、しかも周りに人の気配がしないときに、玉丸だけに話を聞かせた。だから誰かに聞かれたというのはあり得ない。玉丸が裏切ったんだ』

「違う、俺はそんな注意なんてし——」

『玉丸金次は裏切り者だ。ズヂボウからの刺客だ。お前を祓うために雇われたんだよ。最初からお前を灰にするためだけにな。それに、お前だって疑っていただろう?』

「……そんなことない……」

「何を一人で喋っているんだ?」

 柿久が口を挟んできた。

「……うるせえ。黙ってろ」

 俺は考えた。あの最悪な言葉と兄貴の死。そして両親と俺がズヂボウに殺された話を、誰かに聞かれる隙があったんじゃないか、と。

 考えろ、考えろ。あるはずだ、金次以外にも俺の過去の話を聞かれた瞬間が。

……あっ。あった。……もう一つ可能性があった。安心だ、これで金次が裏切り者じゃないということが証明できる。

「ズヂボウが聞いてたんだ。兄貴が死んだとき——俺の両親が愚痴を漏らしていた時に、偶然ズヂボウが俺の家で話を聞いたんだよ」

「フッ。まあ可能性はゼロではないな。たしかに話をズヂボウがたまたま聞いていた、ということも、あんたの頭の中ではあり得る話だ。だがそう反論してくると思って、あらかじめ決定的な証拠を用意しておいた」

 そう言った柿久は、スマホでどこかに電話をかけた。女の声が出たと思ったら、柿久はスマホの画面を俺に向けてきた。ビデオ通話だった。

「あら久しぶり、ギン。何年ぶりかしら」

「……。……。……は?」

 その画面に映っていたのは、まぎれもなくズヂボウだった。俺を殺した張本人。百年探し続けて一度も姿を見せたことのない最悪の悪霊、ズヂボウだった。

「じつはあなたに報告したいことがあるの」

 画面の向こうのズヂボウが、憎たらしい顔で俺の全身を舐るように見てくる。

「あなたのパートナーの玉丸くん。アレね、あたしのだから」

「何言ってるんだお前」

「あれ? 恵子に聞かされたんじゃないの? 玉丸君はあたしが雇った刺客だってこと」

「聞いた。……だから何だ。そうやって俺を動揺させる気か? 俺は自分の目で見たものだけを信じる。お前らが口で何を言っても無駄だ」

「そう。じゃあ、見てもらおうかしら」

 そう言ったズヂボウは「おいで、玉丸」と画面外に向かって手招きをした。

 嘘だ。金次がズヂボウと一緒にそこにいるわけがない。

 そう思ったのも束の間、画面外から歩いてくる影が一つ。

「ギン、悪いね、こういうことだよ」

 そこには正真正銘、玉丸金次がいた。隣にはズヂボウがいる。仲睦まじそうな視線を交わす二人が、画面の中に映っていた。

 ズヂボウがいるということは、金次が憑依されて操られているわけでもないということ。

 開いた口が塞がらなかった。

「ズヂボウにはちっちゃい頃お世話になってね。恩を借りたままなのは嫌だったんだ。だから、ギン、お前を祓えば一番の恩返しになる。そう思ったんだ。だからぼくはお前を祓う、何があっても。……あ、その顔、裏切ったぼくが憎いんでしょ。なら、殺しにでもくる? 万田広治のようにぼくも殺す? 来たいなら来なよ。それともぼくとズヂボウに負けるのが怖くて逃げる? まあ逃げてもぼくが追いかけて殺してやるけどね。アハハハハハ」

「上等だ。ぶっ殺しに行ってやるよ。首洗って待ってろ」

「それは手間が省けて嬉しいよ! じゃ、また後でね。逃げるなよ?」

 そこで画面が消え、電話が切れた。

 体が熱くなってくる。怒りのあまり、爆発しそうだ。殺す、殺す、絶対に殺す。俺を裏切りやがった! 絶対に許さない! ぶっ殺して後悔させてやる!

 俺はすぐに玉丸を殺しに行こうと公園から出ようとしたが、柿久が立ちはだかった。

「行かせると思った? 私は私であんたが憎いのよ。悪いけどここであんたを祓わせてもらうわ」

 柿久は距離を取り、懐から数枚のお札を取り出した。そして、

「影——あっ!」

「おまえごときに俺が倒せるとでも思ったのか?」

 俺は、仮面から覗く女の瞬きを見逃さなかった。目を閉じたその瞬間に距離を詰めた。お札を持っている両腕を強く握り、強制的に手を開かせお札を落とさせる。女の細い首を絞めながら持ち上げる。

「殺したい気分だが、人を殺すのは本来好きじゃないんだ。——眠ってろ」

持ち上げた手と逆の拳で、柿久のみぞおちを殴って気絶させた。俺は女を公園の地面に置き去りにし、玉丸のところへ向かうことにした。

「裏切り者は躊躇なく殺せるがな」

 怒りのままに上空を高速移動していると、大通公園のつっ立ちが見えてきた。ちょうど直線上にいた。 

 気にせず俺は横を通り過ぎようとしたのだが、つっ立ちに声をかけられた。

「ギン」

 思わず止まってしまった。こいつから話しかけてくるなんて思っていなかったからだ。

「お前、玉丸と一緒にズヂボウを倒すんじゃなかったのか?」

 まるで今から俺が玉丸を処刑しに行くことを知っているかのように感じた。

「あいつは裏切った。だから殺すことにした」

「そんなことだろうと思ったよ」

「やはり上空から見てたか。じゃあ、止めるなよ。俺は今最高に頭にきてるんだ。それにあの場にはズヂボウもいた。二人まとめて殺せば何もかも終わりだ」

 じゃあな、俺はそう言ってその場を後にしようとした。だが、

「待て!」

 巨大な手のひらが俺の進行方向を遮った。ズシン、と周囲を揺らすような大きな音が起こり、つっ立ちが座った。久々に見た顔が、俺と同じ目線にあった。

「玉丸が本当に裏切ったのか?」

「あ? そうだ。というかお前には関係ないだろ。どけよ」

「あの玉丸が裏切るとは思えない。あいつはズヂボウを本気で倒したがってた」

「なんだよお前。わかった口を聞くなよ。部外者だろ」

 俺は構わず行こうとするが、つっ立ちの腕が邪魔をする。

「部外者じゃない! ……僕も玉丸を知ってる。だから言える、玉丸が裏切ったなんてあり得ない。お前の勘違いだ」

「何をもってそんなこと言えるのかは知らないが、こっちには明確な根拠があんだよ!」

 事情を少しも知らないくせに、つっ立ちがしゃしゃり出てくるので、俺はさすがに腹が立った。それでもつっ立ちはなぜか引かなかった。

「明確な根拠? 言ってみろよ!」

 なんで関係のないつっ立ちが怒っているのかが理解できなかったが、俺は俺の考えをつっ立ちにぶつけた。

「あいつは俺の過去、秘密にしていたことを敵にバラしたんだぞ! そして俺を悪霊と刺客に襲わせた! ……それだけじゃない。さっきビデオ通話で、あいつがズヂボウと一緒にいるところを確認した。あいつは最初から俺を祓うために送られてきた刺客だったんだよ!」

「なにが刺客だ! 玉丸のことを何も知らないくせに!」

「あ? お前が玉丸の何を知ってるんだよ!」

「知ってるさ! 散々玉丸と戦ったからね!」

 戦った? ……どういう意味だ?

 ……ああ、たしかにあった。俺が玉丸とのパートナーを解消したときの話だ。俺は玉丸に二択を迫り、あいつはつっ立ちと戦うことを選んだ。

だがその時になにか言葉を交わしたということだろうか。俺が成仁優女とストーカーの事件に巻き込まれていた、あの半日の間で。

「あの半日だけであいつの何が分かったっていうんだ?」

 俺は一応聞いておくことにした。普段つっ立ちがこんなに感情を露わにすることがなかったからだ。こうまでさせるようなことがあったのか。

 つっ立ちは語りだした。

「……玉丸はあの日、僕に何度も殴り掛かってきた。もちろん痛くも痒くもなかったから、最初は相手にしなかったさ。でも、だんだんうざったくなってきたから、僕も反撃した。ダメージを与えて心を折れば、帰ってくれると思ったからね。でも、玉丸は帰らなかった。それどころか何度も何度も攻撃を仕掛けてきた。あんな攻撃じゃ僕を倒せないなんて分かっているはずなのに」

 塩で殴る、というのはたしかに雑魚悪霊には効く。だがつっ立ちや俺のような強い悪霊には効かない。それはあいつも知っているはずだ。

「夕方になるにつれ、僕はイライラが限界になってきた。いい加減に気絶させようと思って、何度も強めに蹴ったよ。でも何度やっても、どれだけボロボロになっても、玉丸は僕を倒そうと向かってきた」

 つっ立ちはなぜだか声を震わせていた。

「僕は死にかけの玉丸を何度も、これで終わりだ、と思って気絶させる威力で蹴った。でも、その度に、玉丸の記憶や思いが僕の中に入り込んできたんだ」

「お前も走馬灯が見えたってのか⁉」

「走馬灯かは知らないけど、とにかく玉丸の強い思いが伝わってきたんだ。必死にお前とパートナーを組みたがってることや、家族を殺された復讐のため、家族が安心して帰ってこられるように、ズヂボウを倒さなくちゃいけないこと。玉丸の過去のことも、お前をどれだけ信頼してるかも伝わってきた」

 つっ立ちは目に大粒の涙を浮かべていた。

「だから、そんな玉丸が……! お前を裏切るわけないだろう——!」

 話を聞いているうちに、さっきまで俺の頭を支配していた憎悪がどんどん薄まっていくのを感じた。俺を嫌っているはずのつっ立ちが、こんなに感情をむき出しにしてまで伝えようとしてくれた。

 それに、走馬灯——つまり記憶を見たという話にも、信じざるを得ないところがある。俺自身、人の心というのは、一番偽れないところだと思っているからだ。

「お前の話は分かった。人の内面の想いってのはそう簡単に他人がいじれるもんじゃないからな。信じよう」

 だがつっ立ちの話を信用できるといっても、それはそれ。こっちも強い自信があって玉丸を疑っている。どこまで行っても俺は、自分で信じたものしか信じられないのだ。だが、と続けた。

「玉丸しか知らないはずの俺の過去の秘密が、敵に知られていたのはどう説明できる」

「知らないよそんなの! 誰かが盗み聞きしてたんじゃないの⁉」

「……そんなヘマ俺がするわけないだろ。それにビデオ通話でズヂボウと一緒にいた玉丸のことも、俺はこの目で見てるんだ」

「それはっ……! 直接見たわけじゃないだろ! ビデオ通話なら細工はいくらでもできる!」

 細工、か。その可能性は低いと思うが、もちろんある。だが、そんな感じでもなかったんだよな。俺は俺の感じたものを直感で信じている。あれが嘘や偽装されたものであったとは思えない。

「とにかくお前の話は分かったし、信用した。だが、俺にも確固たる理由があってあいつが俺を裏切ったと思ってるん——」

「いい加減にしろよ!」

 ゴオッ。横から突風が来た。そう思った瞬間、俺は宙に浮いていた。しかし、飛ばされたわけではない。圧迫される感覚。正面にはつっ立ちの怒った顔面。俺は手のひらに握られていることを遅れて理解した。

「何すんだ」

「ふざけんな! お前はいつまで自分の殻に閉じこもってりゃ気が済むんだ!」

「……なに?」

「お前が人を信じられないのは知ってるけど、そろそろ変わるときだろ! 玉丸が広治兄ちゃんみたいな人じゃないって、ほんとは分かってるだろ!」

 握りしめられながらも、俺は言い返す。

「理解できないな。人は必ず裏の顔を持っている。信じていても、それが裏の顔で、表の顔が見えていないってこともある」

「なんにも分かってないんだなお前ってやつは——!」

 つっ立ちはふわっと俺を手のひらから解放した。だが次の瞬間、両手で挟み撃ちにされる。圧死しそうな威力。顔を真っ赤にしたつっ立ちが俺をにらみつける。

「いいか、よく聞けよ! 『信じあえる関係になるためには、まず自分からとことんまで信じぬかなければならない』んだぞ!」

「……は? 誰の言葉だよ」

「お前、知らないのかよ! チャミえもんの名ゼリフだろうが——!」

チャミえもんの名ゼリフだろうがチャミえもんの名ゼリフだろうがチャミえもんの名ゼリフだろうが——!

大通公園に木霊するその謎のセリフ。俺はその久しぶりに聞いた『チャミえもん』というワードと、眼前の一生懸命なつっ立ちの表情とのギャップを目の当たりにして、「ぷっ」と思い切り吹き出してしまった。

「なに笑ってんだ!」

 本気で怒っているつっ立ちが、俺にもう一度攻撃しそうになったので、俺は「わかったわかった」と言った。

「まず自分からとことん信じぬく、ね」

 俺は目の前のつっ立ちを見ながら、考えた。信じぬく、か。それは、『たとえ死んでも』ということなのか。

——そんなことが俺にできるだろうか。俺は兄貴が死んだあの日から、他人を信じられなくなった。それに悪霊になってからも、裏切られてきた。そんな俺が、誰かを信じぬくなんてこと、できるとは思えない。

 いや、違う。違うな。そうじゃないんだ。できるかじゃない、やるんだ。

 今変わらないと、きっと俺は、一生人を心から信じることができないまま終わってしまう。

これまでの人生、俺は自分で信じていると思っていても、必ずどこかで相手が裏切るんじゃないかと疑っていた。……そんなの、俺だって嫌だったんだ。

 本当は、俺だって、信じ合える人が欲しかったんだ。

 それが、玉丸金次であればいいと思ったはずだ。

今、俺はつっ立ちに言われてそれに気づけた。つっ立ちの言葉は、思ったよりも俺に染みた。

「分かった。お前がそこまで真剣に言うなら、やってやる。死ぬまで信じぬいてやるよ!」

 鼻をすすったつっ立ちが、樹齢一万年の木のような太い腕で目元をゴシゴシと拭いた。

「うん、分かったならいい。……ごめん、やりすぎた」

 握った指の跡がついた俺の体を見て、つっ立ちは謝った。

 それにしても、と俺は思う。つっ立ちのこんな姿は初めて見た。万田を殺したときもこんなに泣いてはいなかった。

それだけ玉丸の想いに共感したってことなんだろうな。そして、俺にも強く言ってくれた。

「ありがとうな」

 俺の口から、するりとそんな言葉が流れ落ちてきた。

 その勢いのまま、万田広治を殺してしまったことを、もう一度つっ立ちに謝った。

「いいんだ。僕も本当は広治兄ちゃんが悪いって分かってるんだ。ただ、あのときの僕はもっと子供だったから、殺したっていう事実だけが僕の中でぐるぐる消化できずにいて、それでギンに当たっちゃったんだと思う。僕こそ、ずっと無視してきてごめん」

 ずっと口をきいてなかったのに、喋り始めると今までの時間が嘘だったかのように会話できた。

 まだまだ話したい事が山ほどあったが、俺は行かなければならなかった。

「金次、待ってろよ。俺はお前を絶対に疑わない。お前を死ぬまで信じぬく、そう決めた」


 金次の鼻の中につけた俺の毒を頼りに、俺は金次の場所を特定し、その場所に向かった。そう遠くないところに、その廃工場はあった。

 近づくと、中から異様な雰囲気がするのを感じた。俺を祓うための用意が整っている、ということだろうか。

だが俺は決めた。金次が本当にズヂボウの仲間だったとしても、俺はあいつを信じる。信じぬく。脅されて仕方なかった、生きるためだった、家族のためだった。なんでもいい。理由なんかなくてもいい。でも、俺はあいつを信じる。そう決めた。

 雲がかかって、より一層暗い空。

俺は一度空を見上げた後、深呼吸した。そして不気味な雰囲気が漂う廃工場の入り口を、俺はすり抜けていった。

 屋内に入ると、廃工場内は明りに包まれていた。正面には、久しぶりに見る顔と、いつも見ていた顔が混じっていた。予想していなかった人物もいたので、正直驚いた。

 ズヂボウ、金次、そして珍田の姿もあった。珍田もズヂボウの仲間だったとはな。……ともかくズヂボウがいるってことは、やはり金次は憑依されているわけでもなさそうだ。

 俺はズヂボウと珍田には目も向けず、金次に話しかけた。

「おい金次、サプライズプレゼント、受け取ったぞ。ありがとうな、まさかあんな美少女とデートできるとは思ってなかったからよ」

「それはよかった。じゃあ、ちゃんとドラマ友達になれたってことだね?」

「いや、それが、ちょっと気が合わないところがあって、だめだった」

 話をする金次は、いつも通りの金次だった。だが少し素ではない気もした。こっちが素だったってことか。

「ギン。ぼくがこっち側にいること、指摘しないみたいだけどいいのかい? それに、僕の裏切りに対してもっと『ぶっ殺してやる!』って怒って来るかと思ってたよ」

 たしかにつっ立ちと会う前までの俺は、金次への殺意で満ち溢れていた。だが、今は違う。

「べつにお前に対してはもう怒ってない。——俺はお前を信じることにしたからだ」

「……は? 信じる? バカじゃないの?」

 そう言って笑う金次。

「ぼくはギンを殺すために送られた刺客なんだよ? それを信じる? バカなの?」

「バカじゃない。俺は本気で言ってるんだ。お前はどんな理由があるかは知らないが、そっちにいたくているんじゃない。本当は俺と一緒にズヂボウを倒したいんだ」

「まだこの状況が見えてないんだね、ギン」

「ああ見えないね。お前が本心からそっちにいたい、そう思ってないことだけはお見通しだけどな」

 そんな俺の挑発めいたセリフに、金次の雰囲気が変わった。

「じゃあ、思い知らせてやるよ」

 ズヂボウ、珍田は動かない。玉丸本人が祓え、というのが向こうの方針なのだろう。金次が勢いよく突っ込んでくる。

「塩——殴り」

 巾着袋に手を突っ込んだ金次の右拳が、俺の左頬にクリーンヒットする。やはり筋肉は伊達じゃない。俺は少しの間宙に浮いた。

「なんで抵抗しない……?」

 怒っている様子の金次が、当たった拳を見ながら言った。

「俺がお前を信じてるからだ」

「ちっ——」

 再び金次が俺のほうへ突進してくる。痛くはないが、ダメージは体に蓄積されてゆく。正直あまり食らいたくないんだが。

「塩——蹴り!」

「うっ——」

 左わき腹にもろに食らう。凄まじいスピードで繰り出された横薙ぎの蹴りは、俺の皮一枚で繋がるわき腹を分断するかと思うほどの威力だった。勢いあまって廃工場から飛び出てしまった。

「おいおい、お前飛ばしすぎだろ。というか、金次お前、めちゃくちゃ強いな」

 廃工場内にすぐに戻った俺は、金次に対して率直に思ったことを告げる。ガードしていないとはいえ、俺をここまで吹っ飛ばせる人間など、なかなかいない。左わき腹を見ると、半透明の体にひびが入っていた。修復は始まっているが。

「うるさい! ぼくはお前を祓うんだ! 反撃して来いよ! この負け犬が! 塩——連打ぁ!」

 猛烈なパンチが俺を襲う。これが他の誰かからの攻撃だったら、完全にブチギレて反撃していたところだったが、不思議と金次相手だと怒りが沸いてこない。それよりも一撃を食らう度に、こいつの今までの頑張りを褒めたくなってくる。

 ラッシュは続く。こいつの鍛え上げた体から繰り出されるパンチは重い。それをズヂボウに向けたかったに違いないのに、こいつはズヂボウに利用されて……。

 殴り続けるのも疲れたのか、拳が飛んでくるのが止んだ。肩で息をしている。俺の視界は既にほぼ塞がれている。

「お前、そのパンチ、本当はズヂボウに入れたかったんだろ? なんで俺なんかを殴ってんだ」

「そこまでやられて……まだそんな口が利けるのか?」

「なあ金次、俺はお前を信じてる。お前はズヂボウなんかに負けちゃだめだ。あそこにいる、あいつこそがお前の仇だろ?」

 指をさす先にはニタっと笑うズヂボウ。金次を自分の駒みたいに扱いやがって。

「はぁ、もういいよ、ギン。そんなにぼくを信じたいんなら、信じたままあの世に行けばいい。ぼくは正真正銘、ズヂボウの仲間なんだよ」

 優子、と呼んだ金次の元に、珍田がスタスタ歩いてきた。そして禍々しいお札を手渡した。『滅』と書かれたそのお札は、俺にも効く強力なやつだった。でも悔いはない。俺は今初めて、誰かを信じぬいている。

 金次がなんの躊躇いもなく、俺の首にそのお札を貼る。

「じゃあな、ギン」

「死ぬ前にもう一度言わせてくれ」

 ジジジ、と俺の首から音がしてきた。もう喋れるのも時間の問題かもしれない。焼けるような感覚がしてきた。

「——俺はお前を信じてる。ズヂボウを必ず倒せ。お前なら絶対できる」

 最期に言いたかったことを言えた。前の俺なら絶対にこんなことは言えなかったし、思いもしなかった。首が焼けていく感覚の中、俺は目を閉じて考えた。

 人を信じられない俺だったなら、きっと裏切った金次を殺していた。そしてズヂボウには逃げられ、送られてくる刺客と戦う疑心暗鬼の日々が続いていただろう。本当に、つっ立ちの一言がなかったら、俺はどうしようもないやつのままだった。

『信じあえる関係になるためには、まず自分からとことんまで信じぬかなければならない』だったな。少し遅かったかもしれないけど、俺は金次を信じることができた。信じ切った。だからもう悔いはない。俺はお前がズヂボウを絶対に倒すってこと、信じてるからな——。

 死ぬ前のひとときというのだろうか。それを味わった俺は、金次が今どんな顔をしているか気になって目を少し開けた。最期にお前の顔を焼き付けて逝きたい。

「うおおおおお——!」

 涙を浮かべた金次が、俺の首に手を当てていた。ベリっという音を立て、首からお札をはがす。その時、驚いた表情のズヂボウが、金次の中から出てきた。背中からするっと上空に出ていった。

「ギン! ギン!」

「な、なんて子なの、あたしの憑依を破るなんて」

 泣きじゃくる金次が必死に俺からお札をはがしてくれた。何が何だかわからないが、とにかく命は助かったらしい。金次が正気に戻った、ということか?

 首に手を当てると、みるみる再生していく。お札は除霊術と違って一旦はがすと効力を失うようだ。悪霊には剝がせないから、知らなかった。

「ギン! ギン! よかった生きてて!」

「あ、ああ。……どうなってんだ、一体」

 俺の視界には金次、珍田、そしてなぜかズヂボウが二人いる。

「ぼくは……ズヂボウに憑依されていたんだ……」


——話は一時間前、ぼくが珍田さんとのデートの終わりに、『二人きりになれるところに行こう』と誘われたところに遡る。


ぼくはてっきりピンク色の街の中を歩くことを想像していたけど、歩いている方向からして違った。珍田さんに案内された場所は、すすきのから少し離れた所にある廃工場だった。見た目もボロボロで、数年は使われていなさそうだった。

二人きりになれるところって、もしかしてここなのか? ……そう考えると妄想がムクムクと成長してきた。

「さ、入ろ」

「う、うん」

 珍田さんはまるで、勝手知ったる廃工場とでもいうように、すんなりと入り口の錆びた扉を開けた。ギギギ、とドアが鳴く。錆の臭いが漏れ出てきた。

ここがピンクのホテルだったら、入ろ、と言われた時点でぼくの頭は熱でショートしていただろうけど、正直ちょっと怖い気持ちも出てきた。

 不気味だ。先に入っていった珍田さんが何をするのか、ぼくは注視しながら足を踏み入れた。

 中は真っ暗で、人の気配一つない。しいて言うなら錆の臭いに混じって少し獣臭がするくらいだった。

「ごめん玉丸君、ずっと騙してたことがあるの」

「え?」

そう言った珍田さんは、後ろ手に扉を閉めると同時に、パチ、とどこかのスイッチを押した。電気だけはまだ通っているのか、廃工場の室内がだんだん明るくなっていく。

「多分今しかチャンスないと思うから、言っておくね。……私なんだよ、安言くんを殺したのは」

 ……は? アイウクンヲコロシタノハワタシ……って、どういう意味だ? 今、なんて言ったんだ?

「私のことを陰でバカにしてたみたいなんだよね、安言くん。私、自分の名前のことをからかわれるのは我慢ならないの、昔から。だから悪霊を脅して安言くんを殺したの。今までと同じようにね。……ごめんね、玉丸君。友達だったみたいだし」

「な、なに言ってるんだよ珍田さん……」

「そうだよね、何言ってるか理解できないよね。それに、こんなこと誰かに話したら、私殺人犯として逮捕されちゃうかもしれないしね。ま、その点は大丈夫。玉丸君にも死んでもらうからさ」

 いつの間に取り出した仮面を、珍田さんは放り投げた。

「もういらないよね、これ。今回でケリをつけるんだから。ね、ズヂボウ?」

ず、ぢ……。凍っていたぼくの喉がその言葉にだけは反応した。そしてゆっくりと、珍田さんの視線のその先に目を向けた。

「そんな……どうして、珍田さん」

 珍田さんは答える代わりに、ぼくが見ている相手のところへ歩いていく。そして肩をすくめるように手のひらを上に向けて嗤った。

「こういうこと」

「あら久しぶりじゃない、玉丸金次くん」

 歪んだ笑みを浮かべた珍田さんの隣にいたのは、ぼくが長年探し続けてきた家族の仇、ズヂボウだった。ズヂボウ、ズヂボウ、ズヂボウ、ズヂボウ——!

「ズヂボウォォゥッ!」

 いきなり現れた宿敵を前に、ぼくは怒りで我を忘れてしまう。左右の巾着に両手を突っ込みながら突進していく。

「あらら、あたしってこんなに嫌われてたのね」

「塩——殴りぃ!」

 ぼくの右拳は空を切る。ズヂボウは最小限の動きでぼくを躱す。もう一度殴り掛かろうとすると、ズヂボウは手を前に出して言った。

「まず話を聞いてちょうだい」

「話? そんなものする必要ないだろ!」

「まあまあ、そういきり立たずに、ね?」

 ぼくは構わず突進していくも、ズヂボウにはかすりもしない。ギリギリのところですべて躱されてしまう。体力が消耗していく。

ズヂボウはやれやれと首を振り、続けた。

「あたしと優子は、家族みたいなものよ。そして、ギンはあたしの天敵。あいつさえいなくなればあたしは自由に生きられるの。でも中々ギンは仕留められない。そういう日々が何年何十年も続いたわ」

「塩——突肩!」

「でもある日、万田広治という男が現れた。ま、この辺の話は聞いたわよね。あたしは万田を利用してギンを襲わせた。でも失敗した。風穴を開けることはできたけど、それじゃあ意味がないのよ。完全に息の根を止めなきゃね」

「塩——蹴り!」

「あたしは万田のような利用しやすい除霊師が出てくるのを待ったわ。でも、中々好都合な奴は現れなかった。基本的に除霊師は悪霊を憎んでいるから、あたしの言うことは聞けないって突っぱねるのよ。もちろんそんな奴らには死を与えたわ。でも、そんなうまくいかない日々を終わらせてくれる存在が出てきたのよ、最近ね」

「塩——頭突き!」

「それがあなた。玉丸金次くんよ。あたしが関わらなくても、あなたはあたしを倒すためにギンとパートナーを組みたがった。そしてギンもそれを受け入れた。これは利用するしかないと思ったわ。あたしが指図しなくてもうまく運んでくれるんじゃないかってね」

「塩——がっ!」

「もういい加減飽きたわ、あなたのその塩なんとかっていう体技は」

 ぼくが次の技を繰り出そうとすると、ズヂボウはぼくのみぞおちに見えないくらい高速のパンチを入れてきた。

 廃工場の汚い壁までぶっ飛ぶ。背中に強い衝撃が走る。背中とみぞおちが痛くてたまらない。

「優子、呼んでちょうだい」

「了解!」

 パンパン、と手を叩いたかと思うと、ズヂボウは物陰に姿を消した。

 そして十秒ほど経った。物陰から、ズヂボウと、知らない少女が出てきた。ぼくは目を皿にして、よくその子を観察した。なぜなら、妹の結衣にそっくりだったからだ。

「お、兄ちゃん?」

「……結衣なのか?」

 声までそっくりだった。というより、ぼくの小さい頃の記憶通りの声だった。その少女はぼくに向かって真っすぐ歩いてくる。

懐かしい顔が、ぼくにどんどん近づいてくる。

「結衣だ。……結衣……本物の、生きてる結衣、だ……」

「お兄ちゃん、大丈夫?」

 信じられない……。だって、あいつはぼくの目の前で足や腕を折って、窓から飛び降りたはずだ……。父さんと母さんとあの日、天国に行ったはずだ。ズヂボウに、殺されたはずだ……!

「ほら、顔汚れてるよお兄ちゃん」

 しゃがみ込み、うつぶせに倒れているぼくの頬を拭いてくれる。そのひまわり柄のハンカチにも、見覚えがある。

「あ、あ……」

 ぼくの視界が、揺らめいて、ぼやけていく。

「もう、お兄ちゃんはいくつになっても泣き虫なんだから」

「ゆ、結衣! 結衣ぃ!」

 その笑顔と、優しさは、紛れもなく結衣本人のものだった。

 ぼくは思わず抱きしめた。結衣は戸惑うも、すぐに受け入れてくれた。懐かしい匂いがする。ぼくの自慢の可愛い妹、結衣が帰ってきてくれたんだ! 本物だ、本物なんだ、結衣は生きていたんだ——!

「あ、れ? ……でも……」

 おかしい、と思ってしまった。結衣のその小さい体に抱きついたせいで、気づいてしまった。ぼくは抱きついていた腕を離し、結衣の全身を見る。

「結衣、——まだ四歳なのか?」

 結衣が生きているなら、こんなに小さいままのはずがない。ぼくと二つ離れているから、中学二年生になっていなきゃおかしい。なのに、目の前の結衣はまるで成長していない。

それによく思い出せば、死んだあの日の服と同じじゃないか。そう気づいたとき、結衣の体に異変が起こった。

「お、にい、ちゃん……い、いた、いたい……よ」

 血がぽたぽたと床に落ちるのが見えた。ぼくは視線を上げる。

結衣の膝から下がギシギシと音を立てて捻じ曲がっていく。バキッ。肘から下もぐるぐると回る。ついには一回転してしまった。

「あ……あぁ……っ! うわあああああぁ!」

 あの日の出来事が、また目の前で実際に起こってしまった。目と鼻と口と耳から血を流す結衣が、倒れこみ、ぼくの肩にあごを乗せてきた。耳元で囁かれる。

「お、兄……ちゃ……、なん、で。なんで助けて……れなかった……の」

「や、やめろ……やめてくれ……」

——あの日の光景が徐々にフラッシュバックしてくる。父の変な笑い声、母が殴られる音、結衣の醜悪な顔……。もうやめてくれ、いやだ、いやだ、いやだ——!

お兄ちゃん助けてお兄ちゃんお兄ちゃんどうしてお兄ちゃん助けてお兄ちゃん見殺しお兄ちゃん助けてお兄ちゃんお兄ちゃん……。

「やめろ、やめろおおおお!」

「あら思ったより壊れるのが早かったわね」


「——まあそんなことがあって、ぼくはズヂボウに憑依され、操られていたんだ」

「そうだったのか」

 金次がズヂボウに憑依されていたことは分かったが、ズヂボウが二人いることの説明にはならない。俺は目をこすってもう一度前を見た。自分が死にかけたせいで幻覚を見ているのかと思ったからだ。だがそこにはしっかりとズヂボウが二人いた。どういうことだ。

 金次から出てきたと思われるズヂボウが珍田に言った。

「優子、もういいわ、そいつ消して」

「わかった」

 珍田がフッと息を吹きかけると、もう一人のズヂボウの姿が変わった。

「誰だあれは?」

 全然知らない悪霊が現れた。もしや、変化能力を持っているやつなのか?

 俺の疑問を拾ったのか、ズヂボウが言った。

「もうバレちゃったから言うけど、あれは恵子のパートナー、変化悪霊よ。あたしが玉丸君に憑依したのがギンにバレないように、もう一人あたしが必要だったの。もう要らないけどね」

 そうか。たしかに俺はビデオ通話の時もここに来たときも、ズヂボウがいたから、玉丸が憑依されているという可能性をハナから消してしまっていた。それにあの悪霊、柿久恵子のパートナーというのも頷ける。俺が玉丸の家で偽玉丸に攻撃を仕掛けられたときも、そいつの能力を使ったんだろう。ズヂボウが続ける。

「それと、今回の作戦では、本当は怒り狂ったギンが玉丸君を殺すはずだったんだけどね。そうしたら憑依していたあたしが出てきて、ネタばらしをする。本当は玉丸君は純粋にあたしを祓いたい人間で、ギンは無実のパートナーを殺してしまったのよ、とね。動揺するギンは必ず隙をさらす。そこで優子が祓う、という予定だったのよ。……なのに、なぜかギンは殺意を完全に喪失していた。邪魔が入ったのかしらね……」

 ズヂボウの作戦は恐ろしいものだった。実際、そうなっていてもおかしくなかった。もし俺がつっ立ちに出会っていなかったら、確実にその作戦にはまっていただろう。

 変化を解かれた柿久の悪霊は、自分が消されることを察知して、地面に潜って逃げようとした。だがそれをズヂボウも珍田も止めようとはしない。落ち着き払って、まるで逃げることを容認しているように見えた。

「優子、早くやりなさい」

「はーい」

 しかし、そうではなかった。

 珍田が半透明の、悪霊の体の一部のようなものを懐から取り出し、それを握りつぶした。

「祓印——遠」

 すると手に握られていた半透明の物質がみるみるうちに灰になっていった。少しすると、逃げた悪霊の気配がさっぱり消えたのが分かった。除霊されたのか。

「はい、完了!」

 笑顔で敬礼のポーズをする珍田。ズヂボウは満足そうにうなずいた。

「さて、邪魔者も消したことだし、さっさとやっちゃいましょうか」

「うん! やっちゃおうー!」

 こちらに向き直り、戦闘態勢をとる二人。ズヂボウも今回で決めるつもりなのだろう。軽い言葉とは裏腹に、俺を射抜く眼光は鋭い。俺は金次の肩を借りて立ち上がる。

「ごめんギン、ぼくのパンチが効きすぎてるみたいだね」

「バカ言え。あんなへなちょこパンチ、なんぼくらっても痛くも痒くもないわ」

「そうだったの⁉ さっきはめちゃくちゃ褒めてくれてたのに⁉」

 今二人に襲い掛かられたらあっさりとやられる状況だというのに、不思議と俺には危機感が生まれなかった。隣に立っている頼もしいパートナーのおかげだろうか。

「ずいぶん余裕そうだけど、状況分かってるわよねえ?」

「こっちは無傷、そして強い二人に対して、そっちはダメージ食らいすぎてろくに動けないバカな悪霊と、パンチを振り回すことしか能のない肉塊だってこと、分かってる?」

 普段の様子からは一変してしまっている珍田が、ズヂボウの言葉をより分かりやすく説明してくれる。

「分かってる、そんなことは」

 それでも、今の俺たちなら負けない気がした。理由はないけど、理屈じゃないんだ。そんな気しかしない。俺たちは負けない。

「やるぞ、金次」

「おお、やろう、ギン!」

 ぼろぼろの二人で立ち上がり、向かって正面に立つ悪霊と悪人との戦闘が始まろうとしている。正直俺はダメージを食らいすぎて、体が思うように動かない状態だ。俺がズヂボウを速攻で倒せば終わると思っていたのだが、そうもいかない。どうやって勝とうか……。

 どっちが仕掛けてくる。そう思った矢先、ズヂボウが動き出した。空を蹴り、一直線にこちらに向かってくる。

「あたしは悪霊を倒せないからね、人間をやるわ」

 隣の金次に向かって凄まじいスピードで突っ込んでいった。

「があああ」

 コンクリートの地面に靴を滑らせながら、金次はズヂボウの攻撃を食い止める。常人なら腕がもげているだろう。それほどズヂボウのタックルは重く、強い。

 後ろの金次の心配をしていると、迸る殺気を背後から感じた。振り向くと、珍田が俺に向かってきていた。いつもの優しい表情はなく、狩人の目をした珍田が襲い掛かって来る。

「私はギンを祓う!」

「なめるなよ。お前に俺を祓えると思ってんのか?」

 両手の人差し指を交差させた珍田は、その指先に霊力を集中し始めた。俺との距離が縮まっていく。

「祓印——刻」

「うあっと!」

 避けるまでもないとギリギリまで動かなかった俺は、その技の危険を直感し、横に飛んで避けた。おそらくあれが当たっていたら、俺の体は一瞬にして灰になっていただろう。

「避けて正解だよ」

 凄まじいエネルギーを発する珍田の指からは、煙のようなものが出ている。

「そんな強力な除霊術を使えるとは知らなかった」

 なめていたとはいえ、避けると判断してからの俺の体の反応速度がいつもよりのろかった。金次に受けたダメージが相当来ているのだろう。あまり逃げ回っている体力はなさそうだ。だが人間を殺すわけにもいかない。

「この状況は相当ヤバいな」

 金次のほうも期待はできない。いくら筋力があっても、ズヂボウの動きにはついていけない。当たらなければ意味がない。逆に、ズヂボウの攻撃で金次が死ぬこともそうそうないだろうが、やはりガードする腕が上がらなくなったら、やられてしまうだろう。あっちも短期決戦に持ち込まないと勝機がない。

「祓印——波」

 相棒の戦況を分析していると、珍田がかかってくる。今度は避けても追って来る放出タイプだ。バッテンの形をした光る霊力が時速二百キロほどで飛んでくる。

「うわ! ほえ! やべ! どぎゃ!」

 かろうじて避けるも、俺の息はどんどん上がっていく。どうやって珍田を無効化して金次のところに応援に行けるかを考えようとするも、思考がまとまらない。それほどまでに珍田の除霊術は強力だ。

「波! 波! 波! 波ァ!」

 徐々にかするようになってきた。髪がジュっと燃え、わき腹からも焦げたにおいがしてきた。痛くはないが、確実に追い詰められてきた。

 だが、急に珍田は動きを止めた。あいつも所詮人間。俺を追いかけ回すので体力を消耗したようだ。肩で息をしている。

「どうした? もう終わりか?」

「はぁ、はぁ……。うるさいな。そんなに終わりたいなら、終わらせてやる」

 また胸の前で指を交差させる珍田。同じ攻撃を繰り返そうとしているのか。とそう思ったのだが、

「祓印——念!」

 ズキッ、と膝の裏に痛みを感じた。思わず膝が落ち、正座の格好になってしまった。何をした? そう思ってそこを見ると、破れたズボンの隙間から、薄っすらとバッテンマークが覗いていることに気づく。

「お前、それはずるいだろ」

 まさかとは思ったが、直接俺の体内に除霊術をかけてきたのか。威力は決して強くはないが、着実に体の内部が削られていく。

 息を切らしていると、珍田の奥で戦う金次とズヂボウの姿が目に映る。ズヂボウが押している。金次は防戦一方か。とにかくズヂボウの手数がすごい。まるで腕が意志を持った蛇のようにしなっている。金次のむき出しの肌から血が滲み始めている。音も痛そうだ。

「よそ見してんじゃねーよ! 祓印——刻!」

 珍田が祓印をまた直接狙ってきた。今度もなんとか避けたが、そろそろ本当に足がついていかない。やばい。肩、太もも、頬にかすりながらも、なんとか致命傷は避け続ける。

俺は後ずさりながら、珍田の攻撃を避けていく。だがだんだんと避けきれなくなってくる。後ろを瞬刻覗き見ると、同じように追い詰められている大きい背中が見えた。ボロボロの俺たちは、猛攻をなんとか凌いでいた。やがてお互いの背中が近づき、金次と背中合わせになった。

「おい金次、大丈夫か」

「いや、正直やばいね、これは」

 珍田の技が飛んでくる。俺はそれを躱し、後ろを盗み見た。すると、笑顔のズヂボウが余裕の表情でラッシュしていた。それをギリギリさばき続けている金次。ズヂボウはきっと遊んでいるに違いない。

 俺のほうもかなりやばい。バッテンを作り向かってくる珍田の攻撃を今度は避けられない。避けたら後ろの金次に当たってしまうからだ。俺は避け続けるのを無理だと悟り、珍田の直接攻撃に合わせて蹴りを入れた。

「祓印——うっ!」

 顔面すれすれを通る珍田の腕。それを仰け反って躱し、右胴に足の甲を入れ込む。珍田は横に吹っ飛んでいく。

 死なないように手加減したが、かなり痛そうだ。壁に激突した。よろよろと珍田はわき腹を抑えながら立ち上がる。

「いってーなぁ」

「ぐあああっ!」

 珍田が呟いたとほぼ同時に、俺の背中から金次の声がした。

「金次!」

 振り向くと金次は力なく寄りかかってきた。俺はそれを受け止める。鼻血を垂らし、ぐったりしている。まだ意識は飛んでいないが、重症だ。ズヂボウの拳の跡がくっきり体中に残っている。

「ギン……ぼく……死ぬのかな……?」

「バカ! 死ぬかよ! ……死なせてたまるか!」

 弱音を吐く金次を鼓舞する。こんなところで死なせてたまるか。できるならこの体、俺と交換してやりたい。悪霊の俺ならどれだけ殴られても痛みを感じることがない。

 それ以前に、俺がダメージを受けていない状態だったなら、すぐにズヂボウをぶっ殺して二対一で珍田を仕留められたんだがな。だがそんなことはできそうにない。まさに満身創痍だ。

 追撃をやめたのか、ズヂボウと珍田は俺たちから少し距離をとった。

「アハッ。あなたたち、もう死にそうじゃない」

「そうね。干からびる寸前のミミズみたいだわ」

「ミミズってあんたね……」

 ワハハハハハ、と爆笑するズヂボウと珍田。

「さ、とどめを刺してあげようじゃない」

「うん」

 二人が悪魔のような顔をしてこちらに近づいてくる。俺は抱きかかえた金次を見て思う。ちくしょう、ここで終わってしまうのか——。

 両手を交差させ大きなバッテンを作った珍田と、憑依体制に入ったズヂボウ。それぞれが技を繰り出した。

「祓印——」

「憑依——」

 俺たち二人の命を今まさに刈り取ろうとしていた——その時、

「なんだ?」

「え? ……すごい……」

 凶悪な面をした二人が目の前で止まった。時間が止まったのか? 一瞬そう思ったが、そうではないとすぐに分かった。なぜなら視界から二人は消え、脳内が走馬灯を映し出し始めたからだ。

「自分の走馬灯は初めて見た」

「これ、ぼくの記憶だ」

 走馬灯のように流れる記憶が、一瞬にして通り過ぎて行った。

 生き残るために見ると言われている走馬灯だが、俺は意味がないと思っていた。毎度悪霊を倒すとき、俺の手から逃げられたやつがいないからだ。だが、俺の場合は違った。一つだけ試してみたいことが見つかった。もしかしたら起死回生の一手になるかもしれない。

「これ、金次の過去か……?」

「これはギンの過去……?」

 俺の過去を見終わったと思ったら、今度はなぜか金次の過去も流れてきた。隣の金次も同じようだ。

 どうやら二人は自分の走馬灯と、相棒の走馬灯の両方を見られているらしい。今、俺には玉丸金次の過去、金次には島鳴銀、そしてギンの過去が見えている。

 瞬きも息をすることも憚られるほどのスピードで流れる過去。それらが流れ去って、今に戻ってきた。絶命するほんのコンマ一秒前。そして——、

「死んでたまるかああ!」

「おらああああ!」

 俺と金次は眼前の脅威に立ち向かっていた。祓印の構えをして突っ込んでくる珍田を金次が、憑依しようとしているズヂボウを俺が抑えた。

「なっ! まだ動けたの⁉」

「しぶといわね!」

 走馬灯を見たことで、俺たちの中に、この状況を脱する可能性を見つけた。だから最後に力を振り絞って二人を止められた。

「ぼく、もう限界だと思ったのに……動けてよかった……もう限界」

「俺もだ。電池切れそうだ……あ、やばい」

 俺たちは互いに寄りかかるようにして座っていた。

「フッ、最後の悪あがきだったみたいね」

「まだ動けるなんて、ちょっとびっくりしちゃった」

 口角を上げて怪しい笑みを浮かべるズヂボウ。全然驚いていない珍田。なんでもいいが、二人が今手を止めた。俺は隣の金次に目配せし、『やるぞ』と合図した。

 金次もうなずいた。伝わったみたいだ。

 走馬灯を見た中で、使えそうな情報があった。昔、飽馬が語っていた伝説のことだった。飽馬の家で、飽馬と万田が酒を飲みながら話していた。

「今から千年前、伝説の除霊師がいたって言われてるわ。その除霊師は悪霊という悪霊を次から次へと祓っていった。敵なしだったらしいわ。でもある時、そんな伝説の除霊師が、何でもない雑魚悪霊を祓えなかったことがあった。周りの除霊師たちはどうしたんだ、と聞いた。その除霊師は答えた。『喧嘩しちゃったから』。これがどういう意味か分かる? その除霊師はね、信頼できる悪霊とパートナーを組んでいたのよ。伝説の除霊師によると、『自分は霊力が無い人間だったから、悪霊をまとうことができた』んだって。どう? 信じる? この話」

「うーん……正直あまり信じられないかな僕は。つまり逆憑依ってことでしょ?」

「うん、そゆこと。その後試す人が当然現れたんだけど、結果は失敗ばかり。霊力のある除霊師には悪霊は入れなかったし、霊力のない除霊師も、結局は人間の体が欲しい悪霊に利用されただけだった」

「利用されたって?」

「うん。そのまま意識を乗っ取られて、体だけ悪霊に奪われることになったそうよ。おー、こわっ」

「なんかそこまで具体的だと、ちょっと本当かなって思っちゃうよ。信頼できる悪霊がいないとできない芸当だったってことね。他にできる除霊師がいなかったから、そいつは伝説の除霊師と言われるようになったんだね」

「そーゆーこと。で、あたしが今それを二人の前で話したのは、もし広治が霊力無かったら、あんたたちも逆憑依できるんじゃないかって思ったからよ。二人とも信頼し合ってるし、ギンも広治の体を乗っ取ったりするとは思えないしね」

「信頼してるのは間違いないな。俺が広治の体を乗っ取るのはあり得ない」

「僕ももしできるんだったら、やってみたいな。ギン以外だとできないと思うけどね」

「んもう! あたしの前でのろけ合うのはやめてって言ったじゃない~」

「「のろけてないわ!」」

 ——その走馬灯を見たとき、俺は確信した。これは今の俺たちならできる、と。そして、きっと金次も分かったのだ。もし今の状況を打破できるとすれば、これしかない、と。

「金次、見たよな」

「うん、あれだけなんか、特別印象に残った」

「ならお前、俺に憑依してみろ。霊力のないお前なら、できるはずだ」

「で、できるかな、ほんとに……。塾長の作り話だってことない?」

 たしかにあの時飽馬は酒を飲んでいた。……もしや作り話、なのか? いや、ここで疑ってどうする。走馬灯は生き残るための活路を切り開くために流れるものだ。信じるしかない。

「大丈夫だ。お前ならやれる。霊力がなかったのも、この時の為だった。俺はそう思うぞ」

 ふぅ、と息を深く吐き出す金次。

「わかった。ギンが信じてくれるなら、ぼく、やってみるよ」

「憑依のコツは相手に覆いかぶさるんじゃなくて、相手の中に入るイメージだ」

「うん、わかった!」

「やるぞ!」

 こちらの会話を律義にも待ってくれている二人の敵は、俺たちの試みをニヤニヤしながら見つめている。

「し、失敗したらどうなっちゃうかな?」

「木っ端みじんだな」

「バ、バカ言うなよ!」

「行くぞ」

「うん」

「なにしてるのかしら」

「さあ? とにかく面白そうじゃない?」

『『逆——憑依!』』

 俺の背中から、金次が体の中に入ってくる。いつも俺から憑依しているときの感じとは違い、くすぐったい感じがした。溶けて混じり合っていく、そんな感じだ。

意識が一瞬遠のく。——そして、目を開いた。

「なんなの⁉」

「まぶしっ!」

 視界には、目を押さえているズヂボウと珍田が映った。

「光ったみたいだね」

『そうだな』

 ん? なんだ?

 金次の声が自分の口からしたことに驚いた。それに、俺の声は喉から出ないことにもだ。本当に逆憑依、ということなんだな。俺は自分の体を見てみる。いつもの学ランに、半透明の手。だが動かそうと思っても指一本動かない。完全に金次の支配下にあるということだ。

「おおー! すげー!」

 俺の意思とは関係なく、俺が小躍りしたり、飛び跳ねたりしている。

『やめろよ金次、恥ずかしいだろ』

「いいじゃん! 力も漲ってるしさ!」

『そうか? ダメージは残ってるだろ』

「ダメージ? ああ、このちょっとだるい感じのこと?」

 金次はその場で肩を回し、準備運動も兼ねてジャンプした。すると、まるで月でジャンプしたかのように高く飛び上がった。ダメージも無さそうだし、何より力が何倍にも膨れ上がっている。

さっきまでの俺と金次は、ボロボロだった。なのに逆憑依した途端、なぜか受けたダメージがほぼ消えてしまった。俺たちが受けたダメージが、ただのだるさ程度になっている。

「あんたたち、何をしたの⁉」

 ズヂボウが声を張る。

「逆憑依さ! ま、ぼくたちにしかできない芸当だろうけどね!」

「逆憑依? なによそれ?」

「いいよズヂ! ただ弱った二人が一人になっただけだよ。さっさと潰しちゃおう?」

「……それもそうね。じゃ、行きましょうか」

 ズヂボウと珍田の顔つきが変わった。再び戦闘が始まる合図だ。

「まず私から行く」

 珍田が両手のすべての指を交差させて、先ほどとは比べ物にならないほどの霊力を手に集中させて走って来る。俺はこのエネルギー量はまずいと思った。さっきまでの珍田の除霊術でさえ、食らったら一発KOという感じだったのに、今の珍田のあれは相当ヤバい。だが、

「今なら受け止められそうな気がするよ」

 この場に似合わない楽観的な声音で、金次が喋る。宣言通り、金次は俺の体を動かそうとはしなかった。ただぼうっとつっ立っているだけだった。

『おい、マズいんじゃないのか⁉』

 金次は無造作に右腕を前に突き出した。

「祓印——凶!」

 計り知れない霊力が詰まった珍田の両の手が、俺の手のひらに当たった。

 だが、シュウ、と音が少し出ただけで、すべての勢いを無効化させてしまった。

「——っ! なんで⁉」

 動揺する珍田。あれだけの霊力だ、よほどの大技だったのだろう。

 だがこちらは何一つ小細工をしていない。ただ、力で止めただけ。

「ごめん珍田さん、ちょっと寝ててね」

 金次は珍田の頬に裏拳をお見舞いした。吹っ飛び、ガン、という衝撃と共に珍田は気を失った。

 俺はその異常なまでの強さを自身で体感して、気づいた。お互いのダメージが消えて、ただのだるさになったカラクリ、そして急激にパワーアップした金次のことについてだ。

 まずダメージがほぼなくなったこと。それは、俺の体——つまり悪霊の体は、痛みを感じないから。金次が抱えていた痛みは、俺の体に憑依したときに消え去った。

そしてパワーアップ。逆憑依したことによって、金次は一時的に肉体を失った。今まであった鎧のような肉体が急に無くなり、精神体——つまり重さがない体になった。重さがある中であれだけの動きができる金次から、重さを取っ払った。つまり、金次は身軽になったことで、肉体があったころの何倍もの速度、力を出せるようになったということだ。 

「フッ。死にぞこないの二匹が合体しただけじゃない。優子は倒せても、あたしには通用しないわよ」

 長髪を垂らしたズヂボウが殴りかかって来る。右、左、右、左。今ならその攻撃がスローに見える。俺は最小限の動きでパンチを躱す。

 お返しとばかりに、自分の目でも残像しか見えないパンチをズヂボウの顔面にお見舞いする。

「ぐえっ!」

 一歩後退したズヂボウは顔を手で押さえている。その目にはまだ鋭い光が存在している。

「……たしかに強くなったみたいね。でもね、あたしにも策はあるわ」

 そう言い、ズヂボウはコンクリートでできた地面を見た。直後、ボコボコと床から何かがでてきた。

「なんだなんだー⁉」

 金次がそう叫ぶのも仕方がない。あたり一面のコンクリートの地面が膨らんだと思ったら、そこから穴をあけて、犬やら猫やら虫やらが、ワラワラと大量に出てきたからだ。

「うわっ!」

 その動物や虫たちの目は異様に赤く光り、こちらに敵意をむき出しにしている。

 ズヂボウはニヤッと笑い、俺たちに向かって一歩距離を詰める。

「これがあたしの真骨頂、憑依——散!」

 動物や虫たちが、俺の体をとり囲むように大きな円を作る。薄っすらとしていた獣臭はこいつらが原因だったのか。

「憑依って分散できるものなの⁉」

 金次が俺の口から言った。

『いや、こんなことができるのはズヂボウだけだ』

 ズヂボウの言葉はハッタリではないだろう。確実に動物たちは操られている。

「行くわよ」

 ズヂボウが指示を出す。よだれを垂らした犬どもが前方から襲い掛かって来る。同時に、足元には凶暴な猫、首元にはスズメバチ、頭上からは大型の鷲が迫って来ようとしている。さらにズヂボウも戦闘態勢でいつ襲ってくるかわからない。

「ヤバくない⁉」

『まあ落ち着け、幸い全員スローに見える』

 どうやら身体能力の他に、動体視力、思考速度などまで強化されたようだ。今にも襲われそうだが、全然そうじゃない気もする、不思議な感覚。

『金次、腰の巾着に手を入れろ!』

「……あっ、なるほどね!」

 俺の口が動き、両腕もその通りに動く。腰に下げている巾着の中に手を入れ、塩を手に染みこませた。

 これなら操られている動物たちを殴ると同時に弱体化させられる。塩がズヂボウの能力から動物たちを解放できるかもしれない。そうなればもう相手はズヂボウ一人に絞られる。

 金次が俺の体を超高速で移動させ始めた。

「邪指——突——塩連」

 蜂一匹一匹の眉間に、塩のついた人差し指をぶち込んでいく。足元の猫、歯をむき出しにしている犬の鼻にも当てていく。最後に上空から俺のつむじを狙っている鷲の腹にも指を突き刺して、地上に降り立つ。

 周りの景色がスローモーションで流れる中、俺たちだけが普通の速度で動けている。

 次第に周りの動物たちはバタバタと気絶し、地面に倒れていった。

 口をあんぐりと開けるズヂボウの間抜けな顔が正面に見えた。何が起こったのか見えていないのだろう。

「終わらせよう」

 金次は空を蹴り、離れていたズヂボウとの距離を一気に詰める。圧倒的スピードについてこれていないのは明らか。これでとどめだ。

「邪指——伍——筋」

 両手の五指すべてに力を込め、金次の身体能力を使う。ズヂボウのがら空きの腹に二発お見舞いさせようとしたが、

「させない!」

 珍田が手を広げて俺とズヂボウとの間に割り込んできた。

「っぶね!」

 俺の体は辛うじて勢いのついた手を引っ込めることに成功した。判断が遅れていたら、珍田の胸を貫いていた。

「優子、いいタイミングだわ」

 俺が突然の事態に驚いていると、ズヂボウが横の壁から抜け出ようとした。こちらに笑みを向けながら退場しようとする。

「待て!」

 だが、ズヂボウは外に行けず、廃工場の汚い壁にぶつかった。いや、違う。悪霊は人間界の物体に弾かれることはない。……ということは。

 誰かがこの建物全体を覆う強力な結界を張ったということだ。それができるのは——。

 ふと視線を感じて後ろを振り返ると、ドアの隙間から見知った顔が見えた。

「塾長!」

『飽馬!』

 手をひらひらと振ってウインクする飽馬が、廃工場の外にいた。あいつが俺たちの戦いに気づき、ズヂボウが逃げられないように結界を張ったのか。さすがはつっ立ちの兄貴。

「な……くそっ! 誰がこんな結界を張りやがったんだぁ!」

 怒るズヂボウ。だがキレてるのはこっちも同じだ。突き刺しそうになった五指を丸めて拳にし、金次はフラフラの珍田のみぞおちに一発入れる。今度こそ気絶した。

 ガクっと膝が折れた珍田を支えわきにそっと避けるとき、「ズヂ……」と小さい声が聞こえた。気絶してもなおズヂボウの身を案じているとは。

「珍田さん……」

 金次が何か思う所があるのか、呟いた。

そして金次はズヂボウを睨みつけ、怒りを露わに吠えた。

「ズヂボウ! お前、今珍田さんを見捨てて逃げるつもりだっただろ!」

「それがどうかしたの?」

「こんなにお前のことを大事に想っている子に、何も感じないのか!」

 腕を組み、少しの間考えている。やがて口を開いた。

「何も感じなくはなかったわ。あたしのために役に立ってくれてありがとう、とは思ったわ」

「ふざけんな——!」

 俺の足は空を蹴った。金次の怒りが俺にも伝わってくる。一瞬のうちにズヂボウの顔が目の前に来る。顔面すれすれ、もう少しでぶつかる距離になったとき、金次はすべての指に力を集中させた。そして巾着に手を突っ込み塩をたっぷりつける。準備は一瞬で整った。

「邪指——拾——滅!」

 ズヂボウの体中が、俺たちの力で穴だらけになっていく。

「父さん、母さん、結衣、そしてギンの分だ! ついでに珍田さんの分も!」

『俺自身と、両親の仇——』

「「うおおおおおっ——!」」

 邪指で毒を流し込むと同時に、塩殴りで除霊させていく。見る見るうちにズヂボウの体積が減っていく。

「こ、これが……死」

 激しいラッシュの中、ズヂボウの魂と俺たちの魂が触れ合った。走馬灯が流れ込んできた。

 ——衝動に震える手。台所の包丁。脅える母。飛び散る血。鉄の檻。臭い飯。

澄んだ空気と青い空。ヘルメットをかぶった男たち。運ぶ木材。怒鳴る禿頭の男。ホームセンター。手ごろなナイフ。禿頭の男に突き刺さったナイフ。ナイフ。ナイフ。駆けつけ、取り押さえようとしてくる男たち。腹、胸、顔に突き刺さったナイフ。血。血。血。

裁判所。鉄の檻。臭い飯。開かれる扉。看守の死刑執行宣告。ロープが垂れ下がる四角い部屋。視界を覆う黒。

下に見える吊られた死体。半透明の自分の手。人。血。人。血。人。血……。

「うわあっ! これ、ズヂボウの記憶……?」

『そうだ。やっぱり胸糞悪いな』

 体が灰になっていく中、ズヂボウの口元が最期、なぜか嬉しそうに笑ったのが見えた。

 最後にその顔面を殴り、消滅させた。俺たちの手で、完全に除霊することができた。


 戦いを終えた俺たちは、外で待っていた飽馬に結界の礼を言った。飽馬によると、つっ立ちがこの場所を教えてくれたらしい。俺はつっ立ちに、後で必ずお礼をすることを決めた。

 珍田のことを含め、事後処理は飽馬が引き受けてくれたので、俺たちはボロアパートに帰ることにした。まだ逆憑依は続いていたので、金次は俺の体を宙に浮かせ、飛んで帰った。

 玄関のドアをすり抜け、狭い部屋にたどり着く。とそこで、逆憑依の効力が切れた。

「うわあ!」

「おお」

 分離する二人。それと、遅れてやってきた疲労、ダメージ、痛みが俺たち二人に襲い掛かってきた。俺たちは倒れこみ、気絶するように眠った。

 

 翌朝になって目を覚ました俺は、隣の金次を見た。金次も今起きたようで、こちらに首を回してきた。その目を見て分かった。きっと同じことを考えていたのだろう。

 そう、俺たちは、仇であるズヂボウを倒した。だから俺も金次も目的を達成したことになる。二人がもうパートナーを組んでいる必要は無くなったわけだ。

「金次、やっととれたな、仇」

「うん」

 声はいつも通り元気だが、少し浮かない顔をしている金次。

「本当にギンのおかげだよ。ギン、ありがとう」

「お、おう」

 目を真っすぐに見つめられて『ギンのおかげ』と言われ、ちょっと恥ずかしくなった。

「でもさ、ぼくもギンも目標を達成しちゃったわけだからさ、これからどうするのかなって……」

 その質問を待っていた。解答は既に決まっている。俺はまじめな顔をして言った。

「これからどうするって? ……まずドラマを見るだろ。で、お前に憑依してうまい飯食べて風呂に入る。明日になったら学校に行って、悪霊を——そうだな、狩っても狩らなくてももういいか。で、帰ってきてドラマをしっかり見る。ま、そんな日常を繰り返したいな」

「え?」

「そうだろ? パートナー」

 横を見ると驚いたような嬉しいようなそんな表情の金次がいる。その子供のような瞳に映る俺の表情も、なかなか良いと思った。

「うん! よろしく! パートナー!」


おわり

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銀の悪霊 金の悪霊 畑中雷造の墓場 @mimichero

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