薔薇を背負った貴女
鍋谷葵
薔薇を背負った貴女
場末な小さなカフェのカウンター席に、貴女は場違いなぱっくりと背中が開いた真っ赤なドレスを着て煙草をふかしていた。美しい偽金髪、真似ようと思っても真似ることの出来なかった白肌、ふっくらとした唇、貴女は差し詰め出来損ないのマネキンの様だった。
贋物で着飾った肉付きの良い貴女は、背中にも造花を携えていた。触れることも出来ず、匂うことも無い一つの静物画は、貴女の所作一つで生き物のように動き、麝香の香りをカフェに漂わせた。
夜か昼か朝か、所属する時間さえ忘れさせる貴女の存在は私に情欲を抱かせた。手元の小説に落としていた視線は、熱を帯びて、貴女の方を否応なく向いた。宙を舞う蝶でも見るかのように、私の目は貴女の薔薇を追った。
「ねえ、マスター。アメリカンコーヒーとキャンディーをちょうだい」
厚い唇から紫煙を吐きながら、貴女は艶やかな笑みを浮かべた。白ひげを蓄えながらも、頭は禿げあがってしまったマスターは労苦の皴が刻まれた顔を緩めながら、小さく頷き、サイフォンよりコーヒーを真っ白なカップに注ぎ、貴女の前に置いた。そして、流れるような所作で背後の戸棚より大粒の甘露飴を二つ取り出して、かぐわしい湯気が上がるカップの傍らに音を立てることなく置いた。
琥珀のような飴は、桜色のしなやかな濡れる筋肉の上に載せられ、私の知らない世界がある口に含まれた。左右に転がされる飴は、貴女の遊び心を私に示してくれているようだった。
思い違いの幻想の中で、私は音を立てずにコーヒーを啜る貴女の喉を見つめた。浮かび上がる血管と鎖骨を見つめた。そして、吐息を漏らす貴女の口を見つめた。
組み合わされば最悪の臭いとなる二つが組み合わさっても、貴女の口から漏れだす息は良い匂いだと感じられた。
「マスター、笑ってたら幸せになれると思う?」
くゆる紫煙の中で首を傾げる貴女は妖艶に問いかけた。
あらゆる男性が誘惑されるであろう魅力的な笑みを向けられても、マスターは平然とコーヒーカップを拭いていた。くたびれた白い布で汚れが付着しているのかどうか分からないほど綺麗なカップを拭き続け、貴女の質問を無視するように沈黙を保っていた。
暫時、沈黙が満たされた
私がわざとらしく小説のページ捲る音、貴女がコーヒーを啜る音、マスターが食器類を片付ける音、モノに依存している音だけが小さな場末のカフェを満たした。
白紙の上に点在する汚れが如き日常的な音は、私をカフェという憩いの空間の一部に溶け込ませてしまったのかと思わせた。煙草の煙を吸って微かな黄ばみを帯びた黒い材木の一つとなりえそうだった私は、そうなりえた場合を考え、静かに瞼を閉じた。
真っ暗な世界の中に飛び込み、私は浮世と別れることを想った。忙しなく、緊張が張り詰めた社会から逃れられることを想うと、私の胸は随分と穏やかになった。波が穏やかな海にたゆう海月のように、ただ居るだけの存在、社会に所属しないという幻想は私を安らげた。
不安を感ずることのない生活への空想は、私を安らげたが、私の心中から取り除かれない現世の執着を顕在化させた。海に移る満月とでも呼べば良いのだろうか、実物から遠く離れており、実像とは形状も温度も異なるただの描写が私を浮世に執着させた。人肌の生々しい温もりを想起させる貴女の肉体は、私の黒々とした世界の中に一点の赤を垂らして、艶めかしい赤の中に浮世を映し出した。私の中に存在しうる情的な観念は、映し出される虚構の浮世の中に現れる貴女に集中した。
一本の紫煙をくゆらせる煙草の臭いとコーヒーの匂いとが立ち込めるカフェの中に、溶け込もうと思っても溶け込めなかった私はゆっくりと瞼を開いた。闇に成れた目は柔らかい仄暗い電灯の明かりにさえ眩さを覚え、私の視界をぼやけさせた。カフェを構成するあらゆる物質の輪郭がぼやけた中で、私は貴女の背中を反射的に見つめた。物音を立てず、煙立つ煙草を咥える貴女の背中に彫られた薔薇は全てが溶解したような世界においても形を崩すことなく、貴方の呼吸と手の動きに従って鮮やかな緑と赤を誇っていた。
徐々に輪郭を取り戻していく世界の中で、唯一ありのままの姿を誇る貴女の薔薇に私は貴女の自我を見出した。我が強く、忙しない世界においても崩れることのない頑強さを私は肉体の艶めかしさを持つ貴女の薔薇に想った。
暫時、貴女の背中に貴女を見つめていると、貴女は煙草を灰皿に置いた。半ばまで吸い終えた煙草に蛍火は寂しく灯っていた。
口寂しくなったであろう貴女は溜息を吐くと、甘露飴を再び口に含んだ。包装紙を解く音は、静寂が保たれた空間に良く響いた。ビニールを解く音、ビニールを丸める音、それらは私の幻想を現実に戻した。
「ねえ、マスター。薔薇がいつ頃枯れるか知ってる?」
「さあ」
「薔薇って夏ごろに枯れるの。黒星病っていうのに罹ってさ」
飴を口の中で転がしながら思い耽る貴女に、マスターは慈愛の微笑を向けた。年輪が刻み込まれた優し気な老人の顔は、古来より立ち続ける巨木の温もりが込められていた。
背中を預けても倒れることのない人の笑みに、貴女も微笑んだ。どこか遠い世界を見つめていた貴女の目は、すぐ近くの人を見つめ、ただ一つの世界に焦点を合わせた。
「その病、薔薇の見てくれを損なわせて、最後には薔薇を枯らせる。しかも、一週間程度で薔薇全体に症状をまき散らす厄介な病」
「それは手入れを怠ってはいけませんね」
「そう。でも、気付いた時には遅かった。そういう時、マスターならどうする?」
虚ろな瞳で貴女はマスターを見つめた。解答に困るような貴女の瞳に、マスターは微かな動揺を覚え、視線を手元のコーヒーカップに逸らした。
「写真を撮って捨てます」
「写真?」
「はい。そこにあったという記録を残して、アルバムに収めます」
「ふふ、変な趣味。けど、確かにそれは良いね。なくなっても手元に残る」
困惑と微笑に感情のすべてを任せた貴女は、すっかり温くなってしまったコーヒーを一気にあおった。生ぬるいコーヒーの温もりは貴女の口から水分を奪い、その代わりに香ばしいコーヒーの匂いを宿らせた。
艶めかしく喉を動かし、食道を通り行く人肌程度のコーヒーを胃に導いた。
外的な物質が体に吸収されたところで、貴女はカウンターに置いていた紙箱から煙草を取り出して柔い唇に咥えて火を付けた。くゆる紫煙と煙草の先に着く蛍火は、貴女の背中に刻まれた肉体的な薔薇の印象をくすませた。散ることのない薔薇は、貴女が発した言葉を体現するように弱って見えた。
手折ることの出来ない印象的に枯れ始める薔薇であっても、私は貴女の背中に見惚れた。紛い物だとしても、徐々に霞んでゆく贋物だとしても、貴女の背中には美しさが宿っていた。
だから、私の双眸は貴女の背中を逸れることなく見続けた。
「マスター。やっぱり、薔薇は枯れないのかも」
「どうしてです?」
頬杖をつきながら紫煙をゆっくりと吐き出す貴女は、得意げに笑った。
「誰かの記憶に残るから」
偽物で身を固めた貴女の口から紡がれた言葉は、紛うこと無き真実であるように感じられた。ただ一言、たった一言、貴女の艶やかな唇から紡がれた言葉は真実のように感じられた。
「そうですか」
突飛のない貴女の言葉に、マスターはまるで興味が無いように手元の汚れたコーヒーカップに目を向けた。そして、小さく頷くと遠望不慮な微笑を浮かべた。寂寞としたマスターの表情は私の胸をざわつかせた。
妙な胸騒ぎを覚えた私は、私自身から目を逸らすために手元の文字の羅列に目を向けた。印字された無数の文字は模様にしか見えず、私はただその中に貴女の薔薇を思い描くことしかできなかった。
「赤い薔薇は咲き続ける。例え内部から朽ちてゆくとしても」
貴女が過ぎ去る予感を覚えた私は、顔を上げて貴女の背中を見た。
「はい」
「それじゃ、お勘定」
「はい」
朴直に言葉を紡いだ貴女は、古めかしい丸椅子の金属音と共に席から立ち上がった。そして、貴女は滞ることのない仕草で財布から千円札を取り出し、マスターに手渡した。
「お釣りは貰っておいてよ」
「……はい」
「それじゃ」
風采に反して媚態を感じられない凛とした別れの挨拶と共に、骨と筋肉と連動するように薔薇を動かしながら貴女はカフェを後にした。
後に残ったのは、灰皿に置かれた蛍火の消えかかった一本の煙草と来客を告げる扉に着けられた鈴の音、そして千円札をレジスタ―に入れ、私に背を向けるマスターだけであった。
寂寞と印象の中に封じられた艶めかしい赤い贋物の薔薇は、私の眼に焼き付いていた。そして、漂う紫煙に貴女の運命を想った。
薔薇を背負った貴女 鍋谷葵 @dondon8989
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