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「ありえない……」
真っ赤な口紅が塗られた口から、吐息交じりにこぼれた言葉だった。
日常生活の中で性別という大きな壁があることに疑問を抱く者がいる。この広い世界で受け入れられる者もいれば、受け入れられず否定する者もいる。そして、一実たちがいるこの場にも、当然言えたことだ。
「そんなこと、あってたまるものですか。だって男同士でしょう? そんなの、ない。信じられない」
波留子の表情から哀れみが消え、異物を見るような目に変わる。それが部屋の空気をがらりと変えた。
「ハハ、まったく……長々と何を語るかと思いきや。いいか? 市籠くんは葉菜子の婚約者だ。それが允典と恋仲だったと? ふざけるのも対外にしたまえ」
「ならこの涙はどう説明するんですか」
「………!」
「允典……?」
「……申し訳、ございません……」
涙で絶え絶えながらも、允典は主人に謝罪をした。崩れていた足と手をそろえて頭を下げる。
「愚息が大変なことを……!」
横に立っていた寿宏が允典に続いて土下座をする。
その姿を一実は理解できなかった。
どうしてそこまでするのだろう。立場上「愚息」というのは避けられなくとも、允典も寿宏も悪いことをしたわけではない。詫びる必要なんて二人にないはずなのに。
「─ハ、アイツの分際で選り好みしていると思っていたが、そういうことか。あの出来損ないが……。やっと婚約者ができたというのに、こんなことになってるとは」
「太央さんあなたねえ、どういう教育したんですか! 葉菜子にとんだハズレを婚約者にさせて!」
「フンッ私は一切関係ない。育児は母親の務めだ、死んだ元妻に言ってくださいよ。まあ言えるものならですけど」
「こんなことなら追悼パーティなんてしなければよかった。やだわあ、世間様になんて説明しようかしら」
人とはこんなにみにくいものなのか。
映画やドラマなどの創作物語じゃない。一実が今、現実として見ているものだ。
目の前に繰り広げられているそれは、市籠を愛した允典と同じ人間と思えないほどひどく汚く、卑しいエゴの塊だった。
これじゃ婚約者だった葉菜子と床に頭をつける允典がかわいそうだ。何より死んでしまった市籠が浮かばれない。恨みを抱いて怨霊になって出てきたとしてもここに居る誰一人文句は言えないだろう。そのまま憑りつかれて事業が失敗してしまえとさえ思う。
こういう時ほど人見の口の悪さが役立つというのに、当の本人は静かに葉菜子と允典を見つめている。やる気をなくしたのか、悪態をつき過ぎてボキャブラリーがもう空なのか。
言わせたまま放っておくのも人見らしくない。何か考えがあるのかと一実は一人で考え始めると、俯いていた葉菜子がゆっくり立ち上がった。
朝食が終わったばかりで片づけが済んでないため、食卓の上には空いた食器がそのままになっている。葉菜子はティーカップを手に取ると、それを親である喜多彦と波留子、そして繁昌がいる場所めがけて思いっきり投げつけた。
ガシャン!と音を立てて粉々になるティーカップ。
驚いた三人は姿勢をそのままに顔だけ葉菜子へ向ける。
「市籠さんと允典さんの愛はここにいる誰よりも尊い愛よ。それを何? ハズレだの出来損ないだの、よくその汚い口で言えたものね。こんな人が親だなんて恥ずかしくてそれこそ世間様に何て説明すればいいかわからないわ」
大人しい葉菜子から人見のようなとげとげしい言葉がつらつらと吐き出された。
「葉菜子、何を言っているんだ」
「そうよ。それにその言い方だと、まるで知ってたみたいじゃない」
「知ってた。けどそれが何? 悪いこと? 違うでしょ。二人が恋人になるまでどれだけの年月と苦労が必要だったか、まったく知りもしないで好き勝手言う方がよっぽど悪よ。人の心がないあなた達には想像がつかないでしょうけどね!」
「何てこと……それじゃ、あなたの気持ちは? 跡継ぎだってどうするつもりだったの」
「二人の子供を私が産めばいい。簡単なことよ。医者にだってもう話をしてあった」
「そんなの、まるで道具じゃない」
葉菜子の容赦ない平手打ちが波留子の頬に打ち込まれた。
「二度とそんなこと言わないで」
実の子供に平手打ちをされるなんて誰も想像できないだろう。波留子は赤くなった頬を押さえて呆然と葉菜子を見上げることしかできない。
「私は今まで色んな方とお会いする機会がありましたけど、どの方も惹かれるものがなかった。同じ業界の人も一般にお勤めの方も海外の方も皆さん同じ。でも市籠さんは違った」
市籠との出会いは決して少女が夢見るおとぎ話でも、手汗握る感動のドラマでもなかったと葉菜子は語る。
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