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 人生初、異性とのお揃いが鷹尾であることに興奮した結果、一実は鼻血を出す失態を犯した。


「わー……」


 せめて涙であってほしかった。


 今後感動した時や驚いた時に何かしら液体を垂らさないといけないのであれば、できれば鼻からではなく目からがいい。


「大丈夫? どうしよう、あっそうだ」


 名案が浮かんだと言わんばかりの言葉を発した鷹尾はおもむろにTシャツを脱いだ。


「た、鷹尾さん!?」


 生物学上女である一実の目の前で服を脱ぐという暴挙は、たとえ国宝認定される顔を持つ刑事の鷹尾であろうと、説明がない限りただの変態に成り下がってしまう。


 ボタボタと血をぶちまけて焦る一実をよそに鷹尾は顔色を一切に変えない。今までの言動から考えるに、この異様な状況に気がついていないこともあり得るが、今回ばかりは違う。この行動には理由がちゃんとある。


 鷹尾は喧嘩を売っていた赤い顔を丸めて一実の鼻に押し当て、後頭部にそっと手を添えた。


「上向いちゃだめだよ、顔下げておこうね」


 これをご褒美と言おうか拷問と言おうか。


 天に昇ろうとする魂を必死に捕まえながら一実は人として超えてはいけない一線が目の前に迫っているのを感じていた。それと同時に鷹尾の体も今まで経験したことがないくらいに近い。


 もし鼻呼吸をしていたらきっと失神していたかもしれない。この状況を作ってくれたことと気を失わないでいられたことに今だけ鼻血に感謝した。


 ただ問題が解決したわけではない。このままだと魂が召されるか人としての理性が逃亡するかのどちらかである。恋が実らないままこの年齢で人生の幕を引きたくはないし、人間的に終わるのも嫌だった。


 これはもう逃亡しかない。


 その結論に至るまで寿命を相当削ったが新たな選択肢を発見したから良しとしよう。


 まず体勢を整えるために背筋を伸そうとしたが驚くことに首から上がびくともしない。鷹尾が後頭部を支えているせいだ。優しさでできているような左手は神の施しかのように思えるが、今の一実からしたら逃げたいものの一つである。


「首辛いかな、ごめんね。でもまだ動かない方がいいと思うんだ」


「ひ~~~~」


 遠慮がちに咲いた薔薇にぶん殴られた。


 普段浴びる花びらの数倍痛いことを遺言に残そう。


 それより誰か助けてほしい。逃走と言う選択肢が消えた今、代わりに生命が逃亡しそうだ。


「変な声が聞こえたが、サムゲタン用に鶏でも絞め殺してるのか?」


 特徴的な暴言を発して人見が扉から顔を出した。


 いつもなら憎たらしいと思う顔が救世主に見える。これは奇跡だ。


 だがしかし人見はこの状況をどう思うだろう。きょろきょろと見渡してその目に映る光景は、鼻血を出してしゃがみ込む少女と向かい合う半裸の男だ。


「何だ何だやめろ! こんなところで襲うな」


 頭の回転が速い人見でもさすがに理解できていないらしく、とりあえずの行動で鷹尾を押し退けて、一実を背中に隠す。


「誤解しないで欲しいな」


「その格好で誤解するなという方が難しいだろ。というかお前やりやがったな、僕に渡した紙袋からこいつが着ている服と同じ物が出て来たぞ。何なんだ全く、毎回思うがこんなのどこで見つけてくるんだ」


「三人でお揃いになれば面白いかなって」


「さんに……」


 はたと人見は振り返る。一実が着ている服と手に持っている物、そして人見が手に持っているのを合わせれば、三人分の赤い顔がそろう。


「お笑い芸人でも目指す気か! お前もスーツ持って来てるだろ、こんなのいつ着るって言うんだ」


「寝間着で使ったよ」


「貸し出された物は」


「サイズがちょっと小さくて」


「無駄にでかい身長を自慢しやがって、いつか寝てるうちに足を切ってやる」


「ふがふが」


 身長も鷹尾の長所である。第三者が来たことで精神的余裕ができた一実は盾になってくれている人見の服を引っ張って意志の主張をした。


「口封じでもしたか」


「鼻血が出たからTシャツで押さえてるだけだよ」


「部屋からティッシュを持ってくればいいだろ。百歩譲って室内だからまだいいが、公共の場でやったら露出狂に間違われるから今後一切するんじゃない」


「そうか、そうだね。ごめんね一実ちゃん、俺が使ったから臭いよね」


「とんでもない、宝物にしたいぐらいです」


「おかしなこと言えるなら鼻血はもう止まったか。お前を犯罪者にしないためにもそれは僕が責任もって処分する」


「はい」


「一応聞くが何もないな? 正直に言えよ? 嘘をつくと取り返しのつかないことになるし、後々嫌な思いをするのはお前だからな。この場合訴えたら絶対に勝てるぞ」


「先生は何かとすぐ訴えようとしますね。でもそんな必要はないので大丈夫です。私が勝手に鼻血出しただけです」


 鼻血が完全に止まっていることを確認して周りに着いた血を拭いながらTシャツを外す。せっかく鷹尾の私物を手に入れるまたとないチャンスだったが、それこそ今後の人生を踏み外す可能性が大いにあるため、大人しく人見に奪われることにする。


「そうか。理由は概ね察することができるから聞かないでおこう」


「いやあ、びっくりしたねえ」


「お前はさっさと服を着ろ! 目の毒だ!」


「えっ朝ごはん食べに行かないの?」


「まさかそのまま行く気だったのか? まったく、どういつもこいつも。僕は幼稚園児の相手をさせられているのか……。いいか、今後の単独行動は許さん。着替え終わったら僕の部屋の前で待ってろ」


「わかった」


 従順な犬だ。頷いて部屋に戻っていく鷹尾にしっぽが見えた気がした。


「お前も着替えるぞ、そんな恰好でうろうろしたくないだろ」


「はあい」


 立ち上がった人見に続いて青い部屋に入った。


「でもどうするんです? 他に服ないですよ。あ、まさか先生に用意されたその顔文字Tシャツですか? やだぁ着替えてるのに着替えてない新手のギャグなんかを披露したくないです」


「そんなわけないだろ。すっかり忘れていたが、こんなこともあろうかと用意してたんだ。お前が着せ替え人形になっていた時間がとても暇だったから、適当に店を巡ったあの時の僕に感謝するんだな」


「先生は天使です」


「代金は給料から差し引かせてもらう」


「やっぱ悪魔です」


「冗談はさておき顔を洗え。外に出てるから済んだら出てこい」


 少々乱暴な手つきでデパートの袋を渡して部屋を出て行った。「こんなこともあろうかと」と一実の服を用意したり着替えるに際し部屋を出てくあたりなど、普段浴びせられる言葉のとげとげしさと相反して憎みきれない優しさがある。


 温度差に戸惑う一実はお礼の言葉を言うタイミングを逃したことに後々気づく。

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