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 身なりを整えて最低限のお泊りセットを詰め込んだバッグを掲げて、一実は事務所に急いだ。


 大学への通学経路の途中に事務所があるため、バイトへ行くには苦労しない。ただこうして出勤日以外にも呼び出されることがあるのは不満だった。休日出勤手当が出るからいいけれど。


 お給料面で言ったら一実は恵まれていると思う。


 研修期間は力量を見てすぐ終わったし、時給も同い年の子と比べたら高い方だ。色々苦労はするが、その分与えてもらっている物は多い。文句を言いつつもこうやってバイトを続けられているのは、いい職場に恵まれたおかげだろう。


 角を曲がると、事務所前にタクシーが止まっているのが見えた。その傍に鷹尾が立っている。


「一実ちゃんおはよー」


 ここは撮影現場だろうか。


 メロドラマのワンシーンに飛び込んだのかと錯覚しそうだった。


 日差しがいい感じに差して花が舞っている。最終回でよくある、感動の再会でもするのかと思われるほど完璧なシチュエーションだが、これはただの朝の挨拶だ。ついつい抱えてた荷物を投げ捨てて鷹尾の胸に飛び込みたくなるが、それをやってしまったらこれからの人生、鷹尾に変な人を見る目で見られることになってしまう。それは命以外全て投げ捨ててでも絶対に避けたい。


「おはようございます。どこかに行かれるんですか?」


「そうそう、さあ乗って」


「え? っていうか鷹尾さん、その格好……」


「さあさあ、いいから」


 荷物を軽々持たれてぎゅうとタクシーに押し込まれる。車内には不機嫌そうな人見がすでにシートベルトを締めていた。


「どういうことですか?」


「僕が知りたい」


「じゃ、谷山デパートまでお願いします」


 長い脚を窮屈そうに折り曲げて後部座席に乗る鷹尾。


 広い助手席が開いているのだからそっちに座ればいいのに、なぜわざわざ後部座席で三人ぎゅむぎゅむになっているのだろう。


 一実は幸せで天にも昇りそうな気持だが、さらに狭くなった人見は歯ぎしりを始めた。


「デパート?」


「ちょっと寄り道だよ」


 一切の説明もなしで移動が始まる。これはいわゆる誘拐や拉致と言ってもいいのではないだろうか。

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