第68話 救われた

 「俺の事を忘れてくれ」


やだ。


「俺の事を嫌いになってくれ」


いやだ。


 何度脳内で考えても否定の答えしか返って来ない。不可能だ。俺が月の心を動かすことなんて出来ない。ましてやネガティブな方向に持って行くなんてもってのほかだ。


「俺って愛されてんなぁ」


「キモ」


「なぁ、千紗。好きな人に嫌ってもらう方法って知ってる?」


「なんで?知らない」


 最近、そっけない気がする。いや、世の中の兄妹みんなこんなもんか。スマホでアニメの7話を見ながら思考にふける。


「そう言えば、お兄宛に手紙が来てたよ」


「え?」


「これ」


 ソファに仰向けで寝転がっていた俺の腹に一通の封筒が落ちて来た。真っ白の封筒には俺の名前と住所、そして送って来た人の名前が書いてあった。


中里 京子。


 糊でくっついている部分を慎重に手で剥がして、中に入っている紙を取り出す。中に入っている手紙は案外簡素なもので文章も短かった。


『今度、美香が退院します。来ていただけませんか。』


 そのすぐ下におそらく退院するであろう日時が記されていた。ちょうど1週間後だ。その日は休日なので特に予定はない。


「……」


 俺はその手紙を丁寧に畳んで、そっと封筒に戻した。





「あっ……」


 病院の入口で待つこと約30分。自動ドアの向こうから女性が二人出て来た。


「何で居んの?わざと連絡しなかったのに……」


「お母さんが……」


 それだけで察したかのように下を向いた。隣にいる女性は少しだけ不安そうに俺たちを見ている。


「はぁ……」


 それは落胆の溜息ではなく、覚悟を決めるかのようなそれだった。


「お母さん。先に車で帰ってて、私……真と一緒に帰るから」


「でも……」


「大丈夫。十分リハビリしたんだから」


「……そう。分かった」


 彼女の母親は一瞬だけ俺の方を見た。そして、了承の言葉だけを残して駐車場の方に向かって行った。


「今日は何で来たの?」


「電車」


「良かった」





「学校、どう?」


「ぼちぼち。そろそろ夏休み」


「そっか」


 電車に揺られること10数分。駅から出て、駅ビルの中を歩いていく。長い廊下と階段を降りていく。少し道をまっすぐ歩いていくと大きな川の堤防の上にある高い道に出る。さっきと同じように美香の方から話が始まる。


「あっ……そう言えば」


「?」


「お母さん、あいつと離婚するらしい」


「やっとか……」


「うん」


 彼女の父親は元々家族間で問題が多発していたため、離婚調停が進んでいたらしい。詳しくは聞いていなかったが、そこまで進んでいたらしい。


「ねぇ……ちょっと競争しよっか」


「はぁ?」


 彼女は今さっき退院してきたばかりの人間だ。走っていい人間じゃないはず。ましてや入院していた理由が足のリハビリなのだから。


「やるわけないだろ……」


「よ~い……ドン!」


 そう言うと思い切り腕を振って道のど真ん中を走っていく。見える限りでは通行人は居ない。


「バカ……待っ……」


「あははは」


「?」


 何故か笑っている。彼女は笑っているのだ。足が自由に動かせなかった反動なのか。案外走るスピードが速い。


「くっそ」


 ギアを一段上げてようやく彼女に追いつく。並走すると彼女は長い髪を後ろに置き去りにしながらただ前を見ている。


「ハハッ」


 いつの間にか彼女の笑顔につられて笑っていた。






「はぁ……はぁ……」


「……すっきりしたか?」


 美香は全力で肩を上下させている。顔には汗が数滴、それを手の甲で拭って一息ついた。


「……うん」


「そりゃよかった。てか……結構走ったな」


「ここって……中学の近くだよね」


「あぁ」


 確かにそうだ。河川敷からちょっと歩いて住宅地を抜けていくとすぐそこに俺たちが通っていた中学校があるはずだ。


「……」


「あんま思い出無いけど……」


「ぁっ……」


 ここしかない。今しかない。逃げるな。


「なぁ……俺……あの時……」


 クソ。言葉が続いてこない。


「ッ!?」


 衝撃。左頬に強い衝撃とぴしゃっという破裂音が響いた。


「……み」


「フンッ」


「ウッ!」


 今度は両手で両頬を叩かれる。両手で挟まれているせいで上手く口が動かせない。


「いい加減にしろ!」


「!?」


「もう……終わったの、真を庇ったのは私の判断、足だって普通に動くようになった」


 何も言葉にできない。鼻が熱くなってきて、何故か涙腺から涙が出てくる。違う。


「私は真に救われた。あの家以外で初めて居場所が出来たし、あいつとも離れられた。だから……」




「自分のせいとか思うな。迷惑」




「あぁ……あ……うん」


 向き合わなきゃいけなかったのは彼女に対してじゃない。自分自身に対してだった。自分の事を何も見ないで、ただ罪悪感をかみ殺していた。


「あと……言い忘れてたけど。別れよう、私達」

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