果て無き

灰崎千尋

搦まる

 同じ街に住んでいるのに、あなたと二人、近所で飲むのはその日が初めてだった。

 揃いの赤ら顔を並べて店を出ると、「家まで送るよ」と、あなたは言った。二人で歩く一本道はいつもよりずっと短くて、家の前で私は、名残惜しそうな顔をしてしまっていたのかもしれない。

 あなたは私のからだを引き寄せて、少し長めのキスをくれた。それからついばむようなキスを二度、三度。

 私は馬鹿だから、未だにその唇を思い出す。

 あの時もし私がひとり暮らしだったなら、あなたは私を抱いてくれたのだろうか、と。



 あなたがこの街に越して来ると聞いたとき、愕然としたのを覚えている。こんなひどい嫌がらせがあるだろうか。何せあなたは、恋人と同棲する場所としてこの街を選んだのだから。全部、全部知っているくせに。

 私はこの街を結構気に入っていた。生まれ育ったというわけではなく、家族の都合で住み始めた街だけれど、整い過ぎていない陽気なカオスをはらんだ空気が心地よかった。お気に入りの店が何件かあって、縄張りを巡回する野良猫のように一人ぶらつくのが好きだった。

 その安寧を、あなたが壊したのだ。

 私が一人歩いているところへあなたに、いいえ、あなた達に出くわしたなら、どんなに惨めだろう。私は急にこの街が恐ろしくなった。だからと言って、私がこの街から逃げるのだって同じくらい惨めだ。


 ある日の夕方、そこそこに賑わう商店街の中にあなた達の姿を見た。ふわふわと笑う女の子と仲良く手を繋ぎ、もう片方の手に買い物袋を持つあなた。嗚呼、本当に二人で住んでいるんだ、という実感。案の定こうなるよな、という諦め。心構えなんて無駄だった、という痛み。それらを一旦はどうにか喉の奥に押し込んで、気付かれないうちにすれ違ってしまおう。そう思った、のに。

 逸らしたはずの目が合った。その瞬間、あなたは悪戯っぽく口の端を歪めたのだった。

 その視線を追って、あなたと肩を並べる女の子が私を見つけてしまう。私は精一杯の笑顔をつくり、首だけの会釈をしてその横を通り過ぎた。

 手のひらに、背中に、腋に、嫌な汗が垂れていく。指さきがすうっと冷える。息の仕方がわからない。それでも足を止めるわけにはいかなかった。あなた達の声を聞きたくなかった。

「ねぇ、今の誰?」

「ああ、ただの友だち」

 そんな風に話されるに違いないのだから。



 私たちは、もう長いこと友人だった。

 出会った時、あなたは大学のゼミで一つ上の先輩だった。研究テーマが似ていて、互いに手伝い、迷惑をかけつつかけられつつ、気付けばほとんど毎日一緒にいた。

 あなたは適当な軽口や私をからかうようなことばかり言って、その度に私がキツめの返しをするのが常だった。ゼミ仲間に「めおと漫才」と呼ばれる程度には、そういう相性は良いのだと思う。時間にルーズで、段取りがびっくりするほど下手で、その尻拭いやサポートを何度もさせられた。それでも研究については本当に頼りになる人で、あなたに何度助けられたか知れない。

 ありふれた恋の始まり。

 それはたぶん、二人きりでフィールドワークに出かけ、帰りの電車で眠ってしまったあなたの頭が、私の肩に乗った時。いや、その頃にはもうとっくに好きになっていたのを自分の中で誤魔化していたのだけれど、いよいよ逃れられなくなったのがその瞬間だった。私は祈るように両手を組んで、まばたき以外にはぴくりとも動くことができずに、ただあなたの寝息を聞いていた。このままずっと目を覚まさなければ良い。電車に座り続けられたら良い。おあつらえ向きにその電車は環状線だった。そんなことばかり覚えている。

 その日からひと月も経たないうちに、あなたに恋人がいるのを知った。


「あなたが好きです」と、言う前に破れてしまった。きっとそれがいけなかった。

 破れた恋の残骸が突き刺さって、今も抜けずにいる。


 私とあなたは、あまりに近過ぎた。忘れられるはずがなかった。

 あの頃のあなたは、恋人よりも私といる時間の方がずっと長かった。私は知っている。あなたがこの研究を大事にしていることを。仲間としての私を必要としていることを。私が困っているときには誰よりも早く手を差し伸べてくれることを。その大きな手を。耳打ちする低くかすれた声を。頼みごとをしてくるとき淹れてくれるコーヒーの味を。血みどろな映画が好きなことを。好きなシーンを顔芸混じりで再現しながらはしゃぐことを。

 会えば溢れる想いに蓋をして、私はあなたの隣にいることを選んだ。


 あなたと二人でスプラッター映画を観るのは、私の特権の一つだった。

 あなたの恋人は三人変わったけれど、いつもおっとりとした柔らかい雰囲気の女の子で、私とは正反対だった。首が飛んだりするのも内臓が出てきたりするのも私は割と平気な方なので、そういう映画が公開されるとあなたは私を誘った。初めはただあなたと一緒にいたかっただけなのだけれど、あなたに布教されて何本か観るうちに面白くなってきてしまった。盛大に血が噴き出すとあなたの顔がよぎるのは、完全にあなたのせいだ。

 そうやって血みどろな映画を、ときどきはそうでない映画も一緒に観るような関係が、大学を卒業した後も続いていた。敬語が抜けたのがいつ頃だったか、もう思い出せない。それくらいの間、私はあなたの“友人”をやっている。



「あなたが好きです」と、言えないままでいる。

 あなたが卒業する時、私が卒業する時、血の流れない映画を観た時、映画の感想を言い合いながら酔っ払った時───何度も言おうとして、言えなかった。あなたはそういう空気にとりわけ敏感で、決して言わせてはくれなかった。いつもの適当な軽口ではぐらかして、私を面白そうに眺めながら笑うのだ。

 あなたは知っている。どんなに胸が締め付けられようと、あなたの“友人”という場所を私が手放せないことを。もはやどこが好きなのかわからないほどに歪んで、拗れて、こごった恋が私の奥底にこびり着いていることを。

 知っていてあなたは、私を繋ぎとめているのだ。



 いい加減あなたにずっと囚われているわけにはいかないと、新しい恋を探してはいた。あなたを忘れることができないなら上書きするしかない。あなたほど好きになれるかわからないけれど、今よりはずっと良いはずだ。

 そんな時だった。あなたが私の住む街に越してくると知ったのは。

 よりによって、どうして。

 しかしただの友人である私が、あなた達の住む場所に意見できるわけもない。幸いにも、あなた達の家は私の家から駅を挟んで反対側にあり、実際に出くわしてしまったのは商店街での一度きりだった。その一回で、私を打ちのめすには充分だったけれど。


 それでもどうにか、あなたの次に好きな人を見つけたのだ。

 あなたと同じくらい頭が良くて、眼鏡が似合って、優しくて、あなたよりもずっと穏やかな。そんな人と縁あって付き合うことになった。

 あなたと同じ街で飲んだのは、その報告の為だった。私はようやくあなたと、本当の意味で友人になれるのだ。私はいつになく上機嫌で酒を飲んだ。あなたも驚いた顔をしたものの、にこにこと酒が進む。その店は料理も酒も美味しい、私のお気に入りの一つだった。そこを人に教えるのは初めてだったけれど、今回は特別だ。私は浮かれていた。浮かれきっていた。

 すっかり満足して、店を出た。火照った顔に風が心地よい夜だった。


「道わかる? 駅まで一緒に行きましょうか」


 あなたの顔を見ながら私は言った。その店は私の家の方に近く、あなたはこの辺りの土地勘がなかっただろうから。


「大丈夫。家まで送るよ」


 そう言ってあなたは、さらりと私の手を取った。

 目を見開く私に、あなたは甘くかすれた声で囁く。

 

「可愛い」


 あなたの指が、私の指に絡んでいく。太く、節くれだった指。厚い手のひら。私よりもずっと熱い。

 私はあらゆる言葉を忘れて、ぎくしゃくと歩き出した。そこから私の家へは、一本道をただ真っ直ぐに歩いていくだけだ。案内というほどのことをしなくて済むことを喜ぶべきかどうか、考える余裕もない。

 あなたと手を繋いでいる。しっかりと指を絡めて。

 私には、私にだけは、そんなことをしてこなかったくせに。一度だってそんなことを言わなかったくせに。今の私には恋人がいるのだ。それなのに私はこの手を振り払えない。だってこんなにも幸福だもの。

 あなたの顔をそっとうかがう。顔が赤らんでいる他は、いつも通りに余裕ぶった笑顔だ。レンズの奥の鋭い目。ほくろのある唇。特別整っているわけでもないのに、私はいつも目が離せない。

 私とあなたは一言も喋ることなく、ときどき目線だけを交わしながらただ歩いた。街灯がジジ、と燃え、自転車が私たちを追い抜いて走り去る。あとは私たちの靴音だけ。

 程なくして、私の家の前まで辿り着いてしまった。やけに眩しいエレベーターホールの灯りが、私とあなたの横顔を照らしていた。


「それじゃあ、ここなので」


 向かい合った私が震えるような声で言っても、あなたは「うん」とだけ言って、私の手を放さない。

 と、まばたきするほどの間に、私は抱きしめられていた。その腕があんまり優しくて、柔らかくて、それだけで泣いてしまいそうな私に、あなたはそっと口付けた。小さなつむじ風が枯れ葉を舞いあげて連れ去るくらいの間、私たちは唇を合わせていた。それから甘く噛むような短いキスを二度、三度。


「じゃあ、おやすみ」


 耳元でそう言って私の頭をひと撫ですると、あなたは何食わぬ顔で踵を返した。

 私は何の言葉も返せないまま、あなたの後ろ姿を見送った。一本道の先にあなたの影が溶けるまで、ずっとずうっと見つめていた。

 あなたは一度も、振り返りはしなかった。



 もうすぐ私はこの街を出る。

 私の恋人と新しい生活を始めるために。

 けれど私は馬鹿だから、未だにあなたの唇を思い出す。

 あの時もし私がひとり暮らしだったなら、あなたは私を抱いてくれたのだろうか、と。


 私が自らの唇を指でなぞっていたとき、スマートフォンにメッセージが届いた。あなたからの映画の誘いだった。

 

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果て無き 灰崎千尋 @chat_gris

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