(3)


 翌日の昼休み、直司は店長にわたされたマニュアルを読みこんでいました。

「明星くうん。それなあに?」

 ユキがそれを目ざとく見つけます。

「うん。アルバイト教育の冊子。きのうの帰りぎわ、店長にもらったんだ」

「見せて見せてー。うわあ、いっぱい書いてある」

 ユキが直司に身を寄せ、覗きこみました。

 ほほにおちた長い髪を耳にかきあげますと、そのしぐさに直司はドキっとします。

「ほうほう、『用語は大きく明瞭な発音で、単語等の間ちがいが無いように。』なるほどなるほど。きのう二人でならんでやってたやつだよねー。いらっしゃいませー。ありがっとございましたー!」

 あはははは。ユキがほがらかに笑います。

 クラス中からむけられる視線が恥ずかしくて、直司はイスふかくに身をちぢめました。



「なんと、もうバイトを決めたのか」

「ええ。駅へむかう途中にある、レイクロです。明星が飛びこみで決めました。ついでなので、ぼくらも社会勉強がてらおなじ職場ではたらくことにしました」

 放課後、被服ひふく準備室にみんなで集まってバイトまでの時間をつぶします。

「ほう。方向性を決めたら行動は早い。明星のそういう所、好きだぞ」

 佐藤アンバーが色っぽくウインクしました。


・危険を感じた直司が顔をそむけて一歩さがる

・リョウジとショーが剣呑な視線を直司にむける

・ユキが物陰から熱烈なラブシーンを期待してうるんだ視線を送ってくる


 以上がほぼ同時におこなわれます。

 激辛カレー屋さんみたいないがらっぽい空気。

 直司はなにか話題をさがします。

「それで、今日は藤野さんと沖浦君が、シフトに入っているんですが」

「ほう、お似合いじゃないか。天然のゆっきーとワイルドなショー、身長差もほどよくつりあいがとれてる。そう思わないか、明星?」

 にたにた笑いながら直司をながめ、佐藤アンバーが楽しそう。

 身長180センチごえのショーと、すらっとしたユキは、ならべば人の目をひくお似あいのカップルに見えましょう。

 たいする直司はユキとほぼおなじ身長。

 ならんでも移動教室でおなじ方向に歩いている同級生にしか見えないでしょう。

「わ、本当ですか? やったうれしいー、私ねえ、ショーちゃんが初恋の人なんですよ! ん? ショーちゃん今、舌うちしなかった?」

「……いや、してない」

「うそお、今ちってしたよ、ちってしたしたーしたもんね! ホントもー、どうしてこんなふうに育っちゃったかなあ。昔はすなおでかわいかったのに!」

「そうなのかい? その仏頂面で生まれてきたのかと思ってたぞ。おもしろいじゃない。その話、聞かせてよ」

「ええー、いっぱいありますよー? んふふ、どれから話そうっかなー」

「ユキてめ、そこでやめねえとひどいぞ」

「おどしても言っちゃうもんねー。これは舌うちのバツなのだ! あ、ショーちゃん何歳までサンタさん信じてたか、知ってますう?」

 ユキが楽しそうに話す内容が、直司にはまるで聞こえていませんでした。

 その顔はモディリアニの描く女性画のように、茫洋ぼうようと間のびしています。

 顔全体にふきでた脂汗は、名画には表現されなかった要素かもしれません。

——沖浦くんが、初恋の、人?

 ショーが、ユキの初恋の人。

 衝撃の新事実をまのあたりにして、モディリアニ顔から一歩も進めなくなってしまっていたのですね。



 直司がショーとユキのトレーニングを店内でみまもると聞いて、

「お前、殺されたいらしいな」

 沖浦ショーの反応は、予想よりほんの2ミリはげしいものでした。

乱暴らんぼうだめー、だよ。私がたのんで来てもらったんだから。ね? 明星君」

「う、ん」

 さっきから、ユキとショーをまっすぐ見れない直司です。

「自分は帰らせてもらうよ。仕事場には新鮮しんせんみをもってのぞみたい」

 リョウジはそう言って、一人さっさと帰っていきました。

「気にしないで。あの人、やりたいこといっぱいある人だから」

 いつもクールに決めているリョウジのやりたいこと、それはなんなのでしょう。

 二人についてお店にゆくと、

「今日も来たのかい!」

 店長はそう言って笑い、

青春アオハルだねえ」

 なにやらしみじみつぶやいたのです。

 コーラのLサイズを注文し、きのう藤野ユキたちがいた席におちつきます。

 しばらくして、控え室からユニフォームに着替えた二人がでてきました。

 ショーはきのう直司たちが着たものとおなじ、パーツごとに色の違うカラフルなシャツと、色をあわせたスラックス。

 ユキも上は同じものを着ていましが、ズボンはキュロットスカートです。

 すらりとのびた足がまぶしすぎて、直司ははじかれたように目をそらします。

 彼女を見ているとよけいなことを考えすぎる直司なのです。

 なのでカバンから教科書とルーズリーフを引っぱりだし、宿題を片づけはじめます。

「いらっしゃいませー」

「いらっしゃいませえー」

 用語というやつの復唱をやっています。

 目線をあげると、ユキと目があいました。

 復唱をつづけながら、腰の高さで小さくかわいく直司に手をふって、店長にたしなめられてました。

 あまりここに長居しないほうがいいかもしれない。

 きのうと同じくレジのトレーニングがはじまり、客席がすこし混みだすと、直司はそっと店をでました。

 二人は店長のトレーニングを熱心に受けていて、直司には気づきませんでした。

 じゃましないように店をでられたというのに、直司は少しさびしくなちました。



「ただいま」

 家に帰ると、玄関に父親の靖重せいじゅうのまっ黒で高そうなブーツが脱ぎすててあります。

 靖重はファッションアイテムを大切にする人間で、こんな横着をふだんはしないのですが。

 自分のスニーカーと一緒にそれをならべ、ダイニングをのぞくと、三人がけソファーで、やっぱり靖重が酔いつぶれていました。

 ほとんど空になったスコッチのビンと、飲みかけのまま放置されているグラス。

 ロックで飲んでいたのでしょう、アイス容器とタンブラーには、ずいぶんとしずくのあとがあります。

 床には母との新婚当時のアルバムなどが散乱しており、幻滅げんめつすることこの上ありません。

 直司はテーブルの上をすべてかたづけ、グラスの中身を流しにすてて、スコッチの壜には麦茶をなみなみと注ぎます。

 知らずに飲めばおどろくでしょう。

 もしかして、気づかないかもしれません。

 酔っぱらいというのは、しまつのわるい生き物なのです。

 母親との離婚が成立していらい、父親は毎日飲みつぶれるようになりました。

 さいしょは同情していた直司も、そろそろあわれむ気持ちもなくなり、だんだん父親を正気にもどす手段があらっぽくなってきています。

 家さがししてアルコール類をかきあつめ、屋上、瓦葺かわらぶきの屋根のうえに作られたもの干し場に、壜の口を全部開けて置いておきました。

 靖重がみつけたら、高い酒の風味をだいなしにしたとさぞなげくでしょう。

 それでもまだ酒びたりをつづけるつもりなら、次は中身を全部すてて麦茶にとっかえです。

 直司が腕をくんで、木製の手すりによりかかります。

 夕焼けがでていました。

 母がでてゆくまで、この家はずっとにぎやかでした。

 今はもうちがいます。

 とおくの空がとても綺麗きれいで、だからさびしい。


——お金がなければ、この生活も維持いじできないのだ。


 ぼくは父さんのようにはならないでいよう。

 靖重がきいたら泣いちゃうようなことを、直司は夕空にちかったのでした。

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