第29話 ヘラルドという男
ヘラルドの人生は、地獄だった。
始めから地獄だったわけじゃない。平凡な家庭に生まれ、兄想いの妹を持って幸せだった。しかし、母親が病で亡くなり、それに絶望した父が蒸発してからは、地獄の始まりだった。
まだ十代前半のヘラルドに九歳の妹の二人だけで生活するには、この世界は厳しすぎる。両親を失い、子供ながらに彼らは生きる術を学んだ。幸いにも、兄ヘラルドの年齢は冒険者の資格を得れるギリギリだった。なけなしの金を手に、彼は冒険者になる。
ヘラルドには才能があった。若くして低位の魔物を軽々と討伐できるほどの才が彼にはあった。おかげで、冒険者になってから二人の生活は安定する。大切な妹に肉を買ってあげられた。
「お兄ちゃんごめんね……私ばっかり楽をして」
そんなある日、いつものように低ランクの依頼をこなして自宅へ帰ったヘラルドを見て、彼の妹は俯きながらそう言った。
ヘラルドの妹はまだ十歳にも満たない。当然、仕事はおろか冒険者にだってなれない。仕方のないことなんだから気にする必要はないのに、と常々ヘラルドは思ってる。だが、兄ばかりが命を懸けている間、安全な自宅でぬくぬくと掃除や洗濯に励む自分が、彼女は嫌だった。本当なら自分だって兄のようにお金を稼ぎたい。兄を少しでも楽にしてあげたい。そう思っていた。
「気にするな。兄ちゃんはな、お前の世話を焼きたいんだ」
「え?」
ヘラルドの伸ばした手が、無遠慮に妹の頭をわしわしと撫でる。
「俺たちはこの世で唯一の家族だ。俺にはもうお前しかいない。お前にだって俺しかいない。だからいっぱい兄ちゃんを頼ってくれ。お前がいるから……お前のためなら、兄ちゃんはいくらだって頑張れる。どんな強い魔物だって倒せる。だから、気にするな。お前はちゃんと役に立ってるよ」
「お兄ちゃん……うん。ありがとう」
「それに!」
バッと勢いよく手を離し、ギュウッと拳を握る。
「兄ちゃんは家事が壊滅的だ! お前がいなきゃ今ごろ家はゴミ屋敷だぜ? マジで助かってる。サンキューな」
「ふふ。お兄ちゃんってば雑だからなぁ」
「ひでっ!? 細かいことは気にしない主義なんだよ」
「同じだよ~」
あはは、ふふふと笑い合う。
両親はいなくなったけど、ヘラルド達は幸せだった。大切な兄がいて、大切な妹がいる。それだけで彼らの日常には薔薇が咲く。特別なものなど必要なかった。家族さえいれば、どんな苦境も乗り越えられる。ずっとずっとこんな日常が続き、必ず妹を幸せにできる。
この時のヘラルドは、子供ながらにそう信じていた。
あの日がくるまで。
▼
「…………は?」
どさりと、手にした買いもの袋が床に落ちる。扉を開けて早々に、ヘラルドは自分の目を疑った。
今日は帰りが遅くなった。仕事が上手くいかず、魔物を討伐するのに時間がかかった。おまけに冒険者ギルドが混んでいて、素材の換金にまで時間をとられた。妹が待つ自宅へ帰る頃には、すっかり世界は紺色に染まっていた。夜空を眺めながら、妹へのお土産を手に自宅へ戻る。
すると、おかしなことに、扉の鍵が開いていた。嫌な予感がしたヘラルドが自宅へ踏み入ると、部屋の中には影がひとつ。見慣れた……しかし見慣れぬ風体の影がひとつ、ぼろ雑巾のように床に倒れていた。
ヘラルドが駆け寄る。間違いなく、倒れているのは彼の妹だった。
「なんで……は? どうして……こんな……」
抱き抱えた妹の体は冷たかった。裸だったからではない。熱を感じないのだ。開かれた絶望に染まる眼には、涙のあとと哀しみに溢れ、体のいたる所に真新しい傷跡が見つかった。すぐにヘラルドは理解する。
妹が陵辱された挙句、殺されたのだと。
「……誰だ?」
ぽつりと呟く。
頭の中で全てを理解した瞬間、ヘラルドの感情は憎悪で満たされた。
誰だ? 誰だ誰だ誰だ? 妹を殺した奴は……妹を辱めた奴は……俺の家族に手を出した奴は……誰だ? と繰り返し自問自答する。
答えは出ない。だが、物的証拠が目の前にあった。ならば、ヘラルドは自分がどうすればいいのかを悟る。
「俺たちは……ただ、静かに生きたかった。誰の目に映ることなく、二人で生きたかった」
妹の目を閉じる。ぷるぷると手が震えた。噛み締めた唇から、憎しみの混ざる血が零れる。
「生きたかっただけなのに!!」
とうとう、ヘラルドの口から絶叫が放たれた。
爪が己の皮膚を裂き、どろどろとした血を流しながらも泣いた。現実を認めるのが怖くて泣いた。変わらぬ世界に泣いた。いつしかヘラルドの泣き声は怨嗟へと変わり、あらゆる思考が復讐の色に染まっていく。
もうどうでもいい。なんでもいい。殺したい。殺す。
それだけを生き甲斐に、ヘラルドの本当の地獄が始まった。
▼
「ふう……」
過去から
もう終わったことだと自分へ言い聞かした。
すでに妹を辱めた奴は殺した。たっぷりと生まれてきた事を後悔するほどの拷問にかけてやった。妹の仇はとった。それからは、ひたすら世界を恨みながらもこうして生きてきた。ひとりでも多くの人間を不幸にするために。
十年経った今でも忘れない。妹が殺された原因。その原因たる貴族の連中を根絶やしにするまで、ヘラルドは死ぬわけにはいかなかった。そういう理由で、今回攫ったミネルヴァの件は幸いだったと言える。サンライト公爵家を敵に回すのは厄介だが、自分の嫌いな貴族に絶望を味合わせられるのは最高だった。
ふふん、と上機嫌に鼻を鳴らして、そばに控える女に命令を下す。
「とっととここを引き上げる準備をしろ」
「了解」
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あとがき。
プロットの時点では、この話もっと掘り下げる予定でした。でも作者が「は?モブの回想だけで何話続ける気だよ!」とキレて無理やり短くしました。
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