怪奇!理工学棟の留年妖怪

みとけん

怪奇!理工学棟の留年妖怪

「私たち、別れよっか」


「え?」


 テーブルに俺のコーヒーが置かれるなり、真島晴美はそう言い置いてさっさと喫茶店の外に出て行ってしまった。


 角砂糖が、音も無くコーヒーに沈んでいく。


 それが夏の終わりの出来事だった。

 

 *

 

「H大学理化学棟には妖怪がいる――木枯らしが吹くような秋の夜に、音も無く廊下を彷徨っては徹夜で研究を仕上げている学生なんかをとっ捕まえて、どこかへ連れ去っちまうんだってよ」


「……」


「……でその妖怪っていうのは、数年前に学内の修論発表で卒業までもう一歩ってところに、陰険な教授から鋭い質問を投げられて……結局卒業を逃しちまった学生の亡霊らしい……おい、怖くないのか?」


「怖いよ。修論発表が」


「そうじゃないだろ!? 俺たちが今、どこ歩いてんのか分かってんのかよ!?」


堂島は「H大学音楽サークル」というテープが貼られた懐中電灯を振り回して怒鳴った。

 

「理化学棟だ。別に怖かないだろう。昼間も歩いてるし……」


 俺と堂島は今年度、難関と言われる受験戦争を死に物狂いで突破し、ようやく入学したこのH大学で肝試しをしているというわけだ。


「しかし、昼と夜とじゃ別モンだぜこれぁ」


 堂島は震える唇から溢れる唾液を舐め取りながら唸った。


「それにしても、この年で肝試しってのものなぁ」


「冷めるようなことばかりを言うなよな。……この肝試しだって、そもそもは傷心中の俺たちへのレクリエーションなんだから」


 夏の終わり――と言ってもほんの二週間程前のこと。俺は同じ音楽系のサークルの真島晴美に突如として振られたのだった。


 と、時を同じくして堂島の方も高校から交際していた彼女に振られたというのだから、こいつとの腐れ縁は結構根深いらしい。当時は「お前が振られたからこっちも振られちゃったじゃないかっ」と涙声で訴えられた。


「余計なお世話と言ったら怒るだろうか」


「よせよ。先輩たちだって善意なんだから……多分」


 不意にすぐ後ろから扉が開く音が聞こえた気がした。振り返ると、不気味な――真っ白い手指が隙間から伸びている。


「どうした?」


 堂島が懐中電灯を向けると、扉の隙間に白い顔がぼうっと浮かんだ。


 俺が仰天すると同時に、堂島の口から「キャン」と子犬のような悲鳴が飛び出て、一目散に逃げ出してしまった。


 俺たちの腐れ縁は――。


「君――」


 取り残されて呆然としている俺に、弱々しい声が掛かる。


「君、エクセル使える……?」


「は?」


白い顔は、みるみる悲嘆に暮れていく。

 

「お願い、発表準備手伝ってえ……」


「……は?」


 *


 薄暗かった研究室に曙光が差し込み始めた。


 先端科学の怪は発表資料に目を通して力なく笑みを浮かべている。

 

「――助かった!……これで八時からの発表に間に合うわ……君、何回生?」


「一回生です。……あの、今更ですけど、あなた――」俺は実験ノートの表紙に書かれた名前を読んだ。<壱岐秦奈いきはたな>……「壱岐さんは、一体何をしているんですか?」


「それが、昨日は朝からここで今日の発表準備をしなくちゃならなかったんだけど、たまたま研究室の冷蔵庫にお酒が入っててねえ」


 そういえば、何故か机の上には酒の空き缶が数本転がっていた。


「……酔い潰れて、夜に眼が醒めた――と」


 壱岐は洞穴のような隈の付いた目許を細めてアハハと笑った。


 俺の直感が、こいつとは関わらない方が良いと告げている。


「じゃ、俺昼の講義まで帰って寝るんで――」


「ちょっと待った。君、筋が良いよ。名前は?」


「杉原です」


「私の研究、手伝ってくれない? 今年卒業しないと、まずいのよ」


「そうですか。他を当たってください」


 俺が出て行こうと扉を開くと、「待って待って待って」と懇願するように俺の腕を引っ張ってきた。


「実験の手伝いだけ! 専門知識なんて無くていいし――そうだ。論文に共同研究者として名前書いたげる。箔が付くわよお」


「嫌ですよ。大体さっきだってデータの入力だけだって言ったのに色々難しい計算させられたし」


「それはまあ、杉原君の脳みそがフレッシュだから……そうだ! 過去問あげるわ。 それでどう?」


 ――過去問?


 これは、結構魅力的な餌だった。サークルの先輩は文系ばかりで、学期末の時期は結構苦労しそうだ――というのが俺と堂島の悩みの種なのだ。


 逡巡を見透かしたように、壱岐は「これから苦労するわよお。うちの大学、必修科目の試験でも結構落第者出るからね」とさらに押してくる。


 今年度は残り半年ほど。それまで壱岐の手伝いをして、俺は過去問を得る――悪く無いかもしれない。


「――分かりました。分かりましたよ。手伝います」


 すると、これで契約成立とでも言うように無理矢理握手をさせられる。

 

「私は壱岐。よろしくね、杉原君」


 *


「おい杉原」


 俺が大学のテラスでサンドイッチを食べていると、メッセンジャーバッグを脇に抱えた堂島が断りも無く対面に座った。


「聞いたぜ。お前、こないだの期末試験殆どトップだったってな」


「ああ」


 堂本は注意深く辺りを見回して、小声で尋ねた。

 

「やい、どんなカンニングしやがったんだ。俺にも教えろ」


堂本は真剣な眼差しで尋ねた。彼は今期の試験では三つの講義で追試を受けて、うち一つは敢えなく落単したのだ。

 

「馬鹿。カンニングなんてするか」


「嘘を吐け。お前、去年の夏の模試で俺より下だったじゃないか」


「……お前な、そんな過去の栄光に縋るなよ。……強いて言えば、過去問で傾向対策はしたかな」


「過去問だと? 俺たちのどこにそんなルートがある? 最近じゃあサークルでも孤立気味だってのに」


「俺にはある。例の理化学棟の怪だ」


「理化学棟の怪って……壱岐さんだっけ?」


「ああ。よく知ってるな?」


「お前が心配で調べたのさ」堂島はバッグから一冊のノートを取り出してつらつらと喋り始めた。「壱岐秦奈――伝説的な留年女王だ。学部の頃に二度、博士課程からさらに二度卒業を逃して、今じゃ同期と後輩がいなくなった研究室を根城にしているらしい。……なあ、うちの大学ってそんなに卒業が難しいのかな?」


「そんなことは無い。壱岐さんは何というか――普段は酒を飲んだり、パチンコを打ったり……忙しいんだよ、彼女に言わせれば」


「そんで、過去問でお前を買っているということかい」


「失礼なことを言うな――俺は別に彼女に買われているわけじゃないぞ」


 堂島はぐいと顔を近づけて、一生懸命眉間に力を込めたようだった。


「悪いことは言わないから、そんな女とは縁を切っちまえ。……引き釣り込まれるぞ」


「引き釣り込まれるって、どこに」


「沼だよ。闇より暗ァい、……留年沼だ」


 *


 堂島の忠告は、近まる冬の寒さのように染みていった。


 いつものように研究室へ赴くと、年老いた教授が困りあぐねた様子で禿げた頭をなで回している。


「――杉原君か。研究の打ち合わせがあったんだが……壱岐君がいないんだ」


「そうですか。パチでしょう」


「南店だろうか?」


「ええ――しかし、最近は寒くなってきました。より近い駅前北口店かも」


「よし。手分けしよう。南は任せてくれ」


 そうして、パチンコパーラー駅前北口店で虚ろな目付きでハンドルを握る白衣の壱岐を研究室に引っ張ってくることもいつものことであった。


 大学への道中、悔しそうに石ころを蹴飛ばす壱岐に尋ねた。


「何故教授から逃げるんです」


「教授から逃げてるわけじゃないわ。思うようなデータが出ないんだもの。ちょびっと気晴らししたって良いじゃない」


「壱岐さんはパチンコの気晴らしに研究しているようなもんでしょう――本当に卒業する気あるんですか?」


「一回生がナマ言うじゃない……」


 壱岐は針で突かれたような顔で言った。


「実際問題、キツいよ……。ストレートだったら研究に粗があったって可愛いモンだけどさ、私二年も留年してるのよ?」


「学部から数えれば四年でしょう」

 

「うるさいっ――教授たちからは相応の結果が求められるもの。まさにシンクコストバイアスだわ……学部のときは研究が――好きだったんだけど」


「シンクコスト、ですか?」


「沼に沈んだように、回収不能なコストってこと。私の場合は二十代の貴重な時間ってところかしら」

 

 *


 学会発表というものに付いていった。


 札幌市内での開催だったため遠出の費用は無かったが、教授からは食費・交通費の名目で少し多めのお金を支給されたのだった。教授なりの心付けだろう。


 壱岐の研究発表は、予想していたよりも随分順調に終了した。他大学の教授の一人には、「興味深い研究ですね」と質疑の前に賞賛された程だ。


「良かったですね。論文発表の前哨戦としては上々じゃないですか」


「そうね……ちょっとホッとしたわ。ま、私より教授の方がホッとしただろうけど」


どうしてか、壱岐のテンションは低い。

 

 JRから降りると、大学へ行くかと思いきや真反対の方面に歩いて行く。


「どこへ行くんです?」


「あぶく銭は新鮮な内に使わないとね。付いてきて」


 そうして連れて行かれたのは繁華街だった。思えば、大学生になってからはこういう場所には数回、それも大学生が集まっているような騒がしい場所にしか来たことがない。


 ところが、壱岐が歩を向けたのは、そういった騒がしい方面からは離れた、大人びた店だった。


 向かい合わせの二人席に着いて、ようやくそこが酒を飲むための店だと気が付く。


「ちょ、ちょっと。俺未成年ですよ」


 慌てて壱岐に言うと、大層驚いたような顔をして、彼女の方が慌てて小声で話し始めた。


「そ、それならそうと早く言ってよ……。すっかり忘れてたわ――杉原君、年の割に大人びてるんだもん。こんなとこに連れてきたと知れたら大目玉よ……杉原君は二十歳。二十歳と自分に言い聞かせなさい……」


「杉原君は二十歳――杉原君は二十歳――」


「よし。……すいません、ジントニック二つ」


代金が遠征費を超過する頃には、帰りのJRで見せた物憂げな表情はどこかに消えて、いつもの楽しそうに酔っ払う壱岐が帰ってきていた。


「――向こうから告られて、三月も経たずに振られたって!? アハハハ……よっぽど杉原君のイメージが違ったのね」


「そう笑い話にしないでくださいよ。一応、まだ傷心中なんで」


「でも、別に彼女のことが好きだったわけでもないんでしょう。何を傷つくことがあるのよ」


「誰だって、他人から拒否されたら傷つきます。それに、たった数ヶ月と言っても彼女のためにどれだけ時間やお金を使ったか――シンクコストってやつですかね」


 そう言い返すと、壱岐は物思うような顔をして呟いた。


「そう――でもね、杉原君。コストを沼に沈めたと考えているのは、君の方だけなのかしら?」


「……どういうことです?」


「コストと言うと、私たちは真っ先に時間やお金を考えがちだけど――私にはそれだけとは思えないのよね」壱岐は、カクテルグラスを回して言った。「本当に私たちを縛るのは、沼に沈んだ感情そのものなんじゃないかな――」


「……壱岐さんの方は、どうなんです?」


「私? 私は、まあ……」


 壱岐は、何か喉に言葉が詰まったように歯切れが悪い。


「なんです?……何かあったんですか?」


「実は――縁談がね。今時親からなんだけど」


「えっ!?……縁談ですか。どうするんです?」


「どうしようかなあ、って。私、進路も不透明だし、親も心配しているから、いっそ専業主婦にでもなった方が良いのかなって」


「専業主婦って、そんな――。せっかく卒業が間近なのに」


「まあそうなんだけど、彼氏がいるわけでもないし……。私も未練を断ち切る時なのかもね。それにしても、そうか――」と壱岐は空気を切り替えるように言い出した。「考えてもみれば、私と杉原君は十コ近く年が離れているんだ」

 

 *


 真島晴美――夏の終わりに俺を振った女。「恋愛相談したいんだけど」という唐突なメッセージが、長らく停止していた俺たちのラインを動かした。


 前回俺が振られた喫茶店の席に座るなり、「私振られちゃったよ」と言い出す。


「――用件は恋愛相談だったよな?」


「うん。……うん。今自分でも思ったけど、恋愛相談ってのはニュアンスが違うか。――失恋相談?」


「……相手は?」


「堂島君」


 仰天して、口に含んだコーヒーを固まりで呑み込んでしまった。


「……おいおい。俺たちの後にすぐ破局したからって……」


「ああ、それ順番逆だから。堂島君が彼女と別れたから、私は杉原君と別れることにしたの」


 ――なるほど。


「つまり、晴海は堂島に近づくために俺と?」


すると、晴海は心外だと言うように眉を顰めた。

 

「杉原君が良いなって思ってたのは本当だよ。理系で就職安定してそうだし、堂島君と比べれば、杉原君の方がちょっとかっこいいし」


「じゃあ、何故?」


「――杉原君って、暖簾に腕押しって感じだったじゃない。だから、早々に見切りを付けることにしたんだよね。私、無駄は嫌いだから」

 

「……やっぱり、俺そんな感じだったのか」


「あ、分かる? 成長したんだね、杉原君」


 コーヒーが運ばれてきた。角砂糖を摘まんで、ぽつりと沈める。


「でも、堂島君はほんっとうに駄目だね」


「何が?」


「全然前の彼女のこと忘れないんだよ。こっちがどんだけアプローチしても」


「だったら、堂島の方も見切りを付ければいいだろ」


「うん。――まあ、そうなんだけど」そう言いながら、静かなコーヒーの湖面を見下ろす彼女を見て、どうやら晴海は本当に堂島が好きでいるらしいということが分かった。「わかんなくってさ――」


「ん?」


「堂島君は――私は堂島君が好きで、このままで良いのかなって。私の思いは、堂島君にとって意味の無いものに思えて」


「……そうだろうか」


「え?」


「俺は――そうじゃないと思うんだ。……沼に沈んで取り出せない感情も、時間も、金も、無かったことにはならないんじゃないか……って」


「そう――かな?」


 俺は俯いて、角砂糖の溶けたコーヒーを見た。


「溶けた角砂糖は、ちょっとだけコーヒーを甘くする」


 ――それでいいじゃないか。


 *


 その日もパチンコパーラー駅前北口店はジャンジャンバリバリ大騒ぎである。


 俺が壱岐に声を掛けると、騒音で聞こえなかったらしく耳をこちらに寄せてくる。


「好きです、あなたのことが」と彼女の耳に向かって叫んだ。


 外では雪が降っている。


 壱岐の耳はしもやけのように赤くなっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

怪奇!理工学棟の留年妖怪 みとけん @welthina

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ