気づかぬうちに。
鈴ノ木 鈴ノ子
きづかぬうちに。
彼女と出会ったのは物心がつく前だ。
いや、正確いうならば母の胎内から生まれ出でて数日後、産婦人科医院の父と母とそして私が寝ているベビーベッドの傍にやってきたのが出会いだ。当時、中学3年生であった彼女は恐る恐る私を抱き上げたのが、最初の触れ合いとでも言うのだろう。
「かわいい、こーちゃん似だね」
こーちゃん、私の父である
「まことっていうのよ」
「いい名前、きっといい子になるね」
母からその名前を聞いて彼女はきっと嬉しさの笑顔と、そして少し悲しげな笑みを見せていただろうと思う。それから数日後、幸せな退院をして新しい生活が始まる自宅に帰る途中のこと、酔っ払い運転の対向車との正面衝突によって手伝いで迎えに来てくれていた彼女の両親と私の両親の命を奪い去った。
彼女と私を残して・・・。
父と母しか肉親がいなかった私は総合病院から退院すると施設に預けられるはずが、彼女の祖父母に引き取られた。祖父母も両親と仲が良かったこと、そしてなにより彼女の熱心な説得で引き取られたことを、おじいちゃんと呼んでいた彼女の祖父が息を引き取る間にこっそりと教えてくれた。
小学校、中学校、高校、大学、と一緒に祝って喜んでくれたのは彼女だった。小学生の時には年の離れた姉、大学になれば若く綺麗な母親と間違われ、彼女が戸惑いの笑みを浮かべていた。
「綺麗な母か・・・、そう見えちゃうかぁ」
大学入学式から帰宅し自宅でのささやかなお祝いで、ビールを飲んでいた彼女はそう言いながら、どことなく寂しそうで、進学したことに嬉しそうであった。無事に大学を卒業したのち無事に就職を掴み取り、今年、社会人2年目に突入して、ようやく社会人の仲間入りを果たしたところだ。
「まこと。私、先に出るからね」
あの彼女、瀬野香奈枝はそう言って見慣れたスーツ姿でリビングの扉を開けた。食卓の上には食べ終えた耳を残したトーストの欠片と飲み干したカフェオレのコップが端に纏められている。
「帰りは遅いの?」
会社でのデスクワークが在宅ワークに切り替わり時間のある私はそれを片付けるため手に取りながら声をかける。
「ん~どうかな、多分、帰ってこれるとは思う」
高校卒業から仕事の楽しさに目覚めて、働きづめた結果、叩き上げで建築会社の課長職まで上り詰めた香奈枝が、ショートカットの髪を揺らしながら振り返ってそう言った。
「夜食いる?」
「いる。まことのご飯は美味しいから絶対食べる」
ぐっと拳を握って力説した香奈枝は細い腕に巻かれた腕時計を見て驚くと足早に扉の外へと出ていく。
「はいはい、用意しておくね」
言葉を返した頃には玄関の扉が勢いよく閉まる音が返事のように音を返した。
在宅勤務でもハードワークには変わりのない仕事であることに変わりはない。いや、在宅勤務だからこそでもあるかもしれない。どうにか一日の仕事をこなして、夕食と夜食を作るための食材を買いに駅前のスーパーに寄った帰り、駅前の本屋の前で好きな小説家の新刊が出たのを思い出して中へと入った。エスカレータで目的の階まで上がり、そして小説を手に取ってレジへと向かおうとした際、ふと、見知った人影が視界に入った気がしたので立ち止まった。
遅くなると言っていた仕事帰りの香奈枝がいた。
そのコーナーには終活のポップ文字が躍っていた。最初は誰かに頼まれたか、もしくは、興味本位で見ているだけだろうと考えていたけれど、それは違うとすぐに理解してしまう。
香奈枝は哀愁漂う微笑みを浮かべながら、一冊、また一冊と手にとってはゆっくりとそのページを捲って読んでいた。スタイルもよい、センスもよい、仕事でも認められている立派な女性、なにより、身内贔屓でいうわけではないが美人の部類に入るのに、その雑誌を捲る姿に、なにか一種の覚悟のようなものが垣間見えてしまった。
『まことが立派になって嬉しいなぁ』
休日の晩酌でハイボールを飲みながら、部屋着の香奈枝がそんなことを言って喜んでいたのを思い出す。冗談めかして誰かいい人いないのと相手の気持ちも考えないで話題を振ると、私の恋はとっくに終わったのよ。と空笑いを浮かべていた。
『私のことより、まことは、こーちゃん似だから、きっといい彼女がまた見つかるよ。でも、私も誰かいい人いたら一緒になるかもしれないけどね』
あの話から1年は過ぎたが浮いた噂すら聞こえてこない。香奈枝の職場に忘れ物を何回か届けたが、対応してくれた部下の言い方から察するに仕事以外には興味もないといったような雰囲気にのようだった。
『課長と同居で大変じゃない?真面目な人だし』
少し嘲笑うかのような言い方に腹が立ったのを覚えている。
それを思い出し終えると、私は真っ白になってしまった。
その場を離れてレジで会計を済ませると、なんも言えない気持ちを抱いて、そのまま帰路につく。
自宅の前になんとか辿り着いて、鍵を開けようと差し込むと、何十回、何百回も開けているはずの鍵が急に重たく感じた。室内に入ると普段嗅ぎなれた自宅の匂いのはずなのに、妙に香奈枝の香水の匂いが鼻につく。
ダイニングテーブルに食材の入ったエコバックを置いて、椅子を引き力が抜けたように腰を下ろすと香奈枝の本を見ている姿、そして、あの哀愁漂う表情が記脳裏にフラッシュバックする。
「・・・」
無言のまま見慣れた天井を見上げてため息をつく。
一緒に暮らしている中で事故の補償金もあり金銭的に困ることは無かった。母親代わりとしては高齢ながらつい最近まで香奈枝の祖母がいて厳しく優しく育てて頂いた。
香奈枝とは一緒にいて両親のいない寂しさを分かち合った。時折、それが原因で喧嘩もした。ガールフレンドができる度に香奈枝の酒の肴にされて揶揄われたりもした。
互いに同じ境遇だから、一緒に暮らしているからと安易に考えていたが、今、この時、それは間違いだと気がついてしまった。
香奈枝の優しさに沈んでいたと気づく。
池の畔にいるように最初は過ごしてきた。年齢を重ねるごとにその優しさに浸かり、やがて、池は居心地のよい沼となって私を沈めていった。
気づかないほどにゆっくりと。深い深い優しさ、いや、愛情と呼べるかもしれない。それを理解したとたんに私の中で愛しさが溢れ始めてきた。頬が熱くなり、そして感情が高ぶってゆく。
「幸せにしたい」
心からの思いが溢れ出て口をつく。
いや、自分が狂っているだけかもしれない、異常な考えなのかもしれない。家族としても過ごしてきた香奈枝に対して、そんな感情を抱くのは禁忌に等しいのかもしれない。
もしかしたら軽蔑されるかもしれない。
それでも、この溢れてくる愛おしさを止めることはできなかった。
気がついてしまったのだから。
「ただいま、早く帰れたよ~」
明るい声と共に玄関の開く音が聞こえてきた。立ち上がると両手で頬を叩いて気合いを入れてると、リビングを出て玄関へと向かっていく。
玄関先で靴を脱ぎ揃え終えた香奈枝が、丁度、こちらへと振り返ったところだった。
「えっと・・・どうしたの・・・」
私の深刻そうな顔を見て彼女が不安そうな表情を浮かべている。
「今日、本屋に居たよね」
それを聞くや否や彼女の視線が一瞬で床に落ちる。昔からの癖で見慣れた光景だ。バツが悪くなると視線を落とす。
「み、見たんだ」
少し上擦った声が返事をした。
「終活するの?」
「えっと・・・。頼まれ・・・」
「嘘はつかないでほしいな」
少し怒気を含んだ言い方をしてしまう。
少し肩を震わせた香奈枝が口を噤むと、やがて無言の時が訪れた。時計の秒針を刻む音がそれを正確に測ってゆく。
私は一歩、また一歩と前に進んでゆく。使い込まれた床が足を踏み出すたびに、ぎしり、ぎしり、と音を奏でて、やがて、香奈枝の前でそれは鳴りやんだ。
「香奈枝」
潤む瞳に唇を少し噛んだ顔がこちらに向く。
「最後まで一緒に居たい」
「なんで・・・。そんなこと言うの・・・。」
再び俯いた香奈枝が床に染みを作りながら言った。
「本屋での姿を見て、ようやく理解できた」
そう言い終えると私の胸に彼女の手が打ち付けられる、痛くもなく苦しくもない優しいものだった。
「私だってずっといろいろ考えていたんだよ。私の初恋のこーちゃんの息子さん、境遇も似たり寄ったり、成長して大きくなっていくごとに、段々とこーちゃんの面影が出て、最初はきっとそのせいだと思ってた。だからだって・・・でも違った。こーちゃんとは違う、まことらしさがどんどん私を惹きつけていく。でも、そんなことは許されないと思った。きっとまことのためにもならないって、だから、居れるだけ一緒に居て、あとは一人で生きていこうって思ってたのに・・・」
私は彼女の俯いた顔に手を添える、頬を流れる涙を指先で拭い、そして顎までずらしてゆき、ゆっくりと上を向かせていく。
「じゃぁ、もういいね」
「もう、いい」
何かが吹っ切れたような、いつもと変わらないとびっきりの微笑みを見せた香奈枝に、私はそう言ってそのまま口づけをする。
やがてそれは互いの存在を受けいるように激しいものへと変化し、私達はやがて1つになった。
あれから幾年月が過ぎた。
祖父母が生きた年齢まで達した私は、線香をあげ終えた仏壇で、年老いても素敵に微笑む遺影に目を細める。
この優しい微笑みは最後まで変わることはなかった。もちろん、努力は怠らなかったつもりだけれど。失ってなお、この微笑みを見るたび、私は香奈枝の深い深い優しさに沈んでいるのを気づかされている。
気づかぬうちに。 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki
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