⑧
部室を出た私は、今度はある教室の前に立っている。ここに来るのは、授業以外では、あの時ぐらいだろうか。私の二年生になってすぐにある物を渡す為に来た。そう、美術室に。
私は、美術室のドアをノックする。中から、声が返ってくる。当然か、美術部の誰かがいるはずだしね。
「失礼します」
私は美術部のドアを引く。そこには、美術部の人たちが、こっちを見て…はいなかった。美術室には一人の生徒しかいなかった。
「あれ? あなたは……」
「えっ、どうして?」
そこにいた人物に私はびっくりした。だって、もう部活は引退しているし、三年生は自由登校のはずだから、学校にいる人自体が少ないのに。
「またここで会うなんてね」
そう言って、彼女は、
彼女とは同じ高校だからふとした時に、学校ですれ違ったり、見かけたりはしている。でも、こうして面と向かって話をするのは、ここであの手紙を先輩に手渡した時ぐらいだ。
「ちゃんと話をするのは、初めてだね。兎月しずくちゃんだよね」
「は、はい。名前を覚えてくれていて嬉しいです」
誰かがいればと思うが、何故だか誰もいないこの美術室の中に、私と先輩の二人だけというのは、緊張する。しかし、相変わらず優しい雰囲気の人だな。しかも、ほとんど一度しか会った事のない私の事を覚えていてくれている、女神。
「もちろん、覚えているよ。猪頭君があなたの話をしてくれるもの」
「えっ、あのバ、いえ、彼はなんて?」
「この雲鷹高校の歴史を塗り替えた凄い人って」
「それは、忘れて下さい。お願いします」
あいつ! 本当に許さない! 私の不名誉極まりないものを、広めやがて!
「ふふ。覚えていたのは、それだけが理由じゃないわ」
軽く笑う先輩は本当に上品だ。そして、まっすぐに私を見つめて言う。
「あなたは私の運命を変えてくれた人の一人だから」
そんな壮大な言葉を私に掛けてくれる。そんな大層大袈裟な事をした覚えはないのだが。果たして私はそこまでの事をしたのだろうかと、首を傾げる。
「私の言った言葉が壮大過ぎるみたいに思っているでしょ」
ドキッ! なんでみんな私の考えている事が判るのだろうか、そんなに判りやすいだろうか。
「しずくちゃんには自覚がなくても私にとってはそう言っても過言ではないの。だってあなたの行動が無ければ、今の私はきっといないから」
「そんな……私はそんな大層な事は何も」
「もし、あなたがあの日私にあの手紙を渡してくれなかったら、大事なものを失っていたと思う。だから、しずくちゃん、あなたのした事は私にとっては大層な事なの。だから、改めて言うわ。ありがとう」
そう言って、頭を下げる。私は思わず、その行為を止めそうになった。でも、きっとそれは違う。私が今先輩に対してする事はそうじゃない。
「私もあの日、先輩に届ける事ができて良かったです」
私がするべきは先輩からの感謝をしっかりと受け止める事だ。これを受け取れなければ、先輩に対しても、あの日答えを示してくれたレオにも、何よりも選択をしたあの日の私を否定してしまう事になる。
先輩が私の答えに満足してくれたのか、顔を上げる。その顔を見れば私の答えが正しかったことが判った。それを見た瞬間、なんだか言いようもない恥ずかしさにも似た感情が私の中に湧き上がってきた。
「そ、そういえば、今日は美術部の人たちはいないんですか?」
ほとんど恥ずかしさを紛らわせるようものだが、ここに入った時から気にはなっていたので訊いてみる。
「今日は、部活は休みみたい。どうしてか男子部員からの熱烈な要請があったみたいでね」
「はあ、そうですか」
そんな馬鹿な要請をした筆頭はどうせあいつだろう、それに乗っかる男子どもの浅ましさよ。
「先輩はどうして、ここに? 三年生は今自由登校になっているはずですよね」
「私は、学校に提出しなければいけないものがあってね。それで、登校してついでにこうして、後輩達の様子を見に来たんだけどね」
「ほんと、変な提案をした奴許すまじですね」
せっかく先輩がこうして後輩の為に来てくれたというのに、まったくである。
「まあ、今日という日が日だから、しょうがないね」
そう言って優しい言葉を言う。本当に美術部の男子は反省すべきでは。
「そういえば、阿鶴先輩は進学するんですよね。今更ですけど、おめでとうございます」
今朝、猪頭から先輩の進路については聞いていた。
「ありがとう。推薦が貰えたから良かったよ」
「美術大学って聞きました。やっぱり絵が好きなんですね」
「うん。でも、本当は、絵は高校までにして、違う大学に進学しようと思っていたんだけどね」
「えっ、そうなんですか?」
「でも、ある人の影響でね。まだ続けてみようって、思ったの」
「それって……」
先輩は頷く。私はその人を知っている。
「だから、今の私があるのは、その人と、その人と一緒になるきっかけをくれたしずくちゃん、あなたのおかげだよ」
「いや、私は届けただけですから」
「助かったのは事実だから。あの人、変な所でドジな部分があるから」
そう言って、先輩は笑うが、その人物を語る時の先輩はどこか楽しそうだ。
「本当に好きなんですね」
「うん」
即答で返ってくる。いいな、こんな風に想われているなんて、ほんの少し嫉妬してしまう。なので私の悪戯心に火が点いてしまう。
「絵を描くことが」
「あ、あれ、そっち?」
先程とまでとは違って、慌て始める阿鶴先輩、可愛い。私は思わず吹き出してしまう。
「も、もう先輩を揶揄うなんて、とんでもない後輩だね」
「すみません」
怒り方までなんて可愛い人なんだろう。
「しずくちゃんの用事は何?」
この雰囲気を変えたかったのか、阿鶴先輩は話を変えてくる。あ、そういえば私ここに来た目的を先輩に話していなかった。
「実は、絵を見に来たんです」
「絵?」
「はい。『約束』を」
そう、私はここにあの絵を見に来た。さっき部室で気が付いた事の最終確認の為に。
「そっか、こっちに来て」
「どうして、見たいのかは訊かないんですか?」
絵の場所に案内しようとする先輩に私は訊く。
「必要ないよ」
そして、先輩は私を絵の元へと誘う。
その絵は隣接されている美術準備室にあった。相変わらず、この絵を見ると度に感じるものがある。春にこの絵の作者が込めた意味をレオと一緒に導いた。そして、私がここに来たのは私の心に対しての確認だ。やっぱりこの絵を見に来て良かった。
「答えは出たのかな?」
私の様子を見ながら、先輩は訊いてくる。
「はい」
私は絵から視線を外し、先輩の目を見てはっきりと頷く。私の言葉に満足したのか、
「なら、この絵がここにある意味もまだあったね」
そう言って微笑んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます