第20話 決戦、開幕
夜特有の澄んだ空気が、山頂に吹く風によって流され肌を撫ぜる。
その空気の冷たさに、漆黒の髪の青年 ヴラド・バートリーは閉ざしていた瞼をそっと持ち上げた。
窪地のような形状となっている霊峰の山頂には二人と一体が静かに時を待っている。
反り立つ岩壁の間際で地面に寝そべる漆黒の巨竜。その背に腰掛けている金髪の少女。
彼女は膝に肘を押し当て、両手で頬杖をつきながら小さな両脚をパタパタと忙しなく動かしていた。
「ねぇヴラド?。なんでわざわざこんな山の上に来たの? あの女を覚醒させるくらいならどこでも出来たでしょ?」
さらさらと揺れる絹糸の如き真っ直ぐな金髪を弄びながら、少女はヴラドに問いかける。彼女こそ、ラスエルとレイエルの姉妹であるミラエルだ。
「この場所で覚醒させることに意味があるんだよ。一帯の竜脈が集まるこの霊峰ティリスベルでね……」
薄い笑みを浮かべながら答えたヴラドは、その視線を頭上へと向けた。
そこには巨竜を包み込んでしまえるほどの深黒の真球があり、それはまるで世界に穿たれた冥府への大穴のようであった。
◆ ◆ ◆
——ごめん、ごめんね……。お母さん、もうダメみたい……
嫌だ。死なないで。
——どうにか生きて……たくさん笑って、ちょっぴり泣いて……それでも、幸せな人生を送ってね……
あなたのおかげで、わたしは今こうして生きているよ。
幸せな人生を送れているとは言えないけど、ちゃんと生きてる。
——心の底から愛してる……
わたしも、心から……。
——カストレアっ……!
お母さま……!
深黒の球体の内部で、カストレアの脳裏には母の最期がフラッシュバックしていた。
物心がつく前の出来事で、一切記憶など残っていなかった。
それでもあの黒髪の女性が自分の名前を呼ぶ前から、母親であることは直感で理解出来たのだ。
母の最期を見届けたカストレアの頭には、拾ってくれた老夫婦との暖かな暮らしが流れていた。幼い頃の記憶だが、覚えていることは数多くある。
しかしその風景は一瞬にして砕け散り、村が魔獣に襲われて老夫婦が無惨に食い殺された場面へと移り変わる。
その光景もすぐに砕け散り、次の引き取り先での惨劇の場面へと移行する。そして盗賊に攫われ、好色の貴族に売り飛ばされてしまう。
加虐性愛というおぞましい嗜好を備えていた貴族はカストレアに地獄の日々を強いた。
その日々の記憶は防衛本能によるものか、朧げに薄れていたのだが、母との記憶を見せられた衝撃ですべて思い出してしまったのだ。
主である貴族から受ける加虐によって精神を壊し、あるときその堆積した負の感情を一気に解き放った。
それは生まれた時から彼女に備わっていた呪いが、完全に萌芽した瞬間だった。
その際に放たれたおぞましい気配を漂わせる深黒の魔手は、屋敷中に伸びて生者の魂を喰らい尽くした。
屋敷にいた者は触れられただけで糸が切れた人形のように倒れ伏し、物言わぬ肉塊と化してしまったのだ。
そうしてカストレアはあの屋敷で唯一の生き残りとなった。
「ぁぁぁ……」
当時のことを、カストレアは頭の片隅にさえ記憶していなかった。
また自分が引き起こしてしまった不幸に巻き込まれてしまったのだろうと、そう思い込んでいた。
しかしそうではなかった。
彼らはカストレアによってその命を奪われたのだ。
決して良い人間たちではなかったが、それでも殺していい道理はない。
そしてあれほどのおぞましい出来事を一切記憶していなかった自身を責めた。
償わなければならない罪を忘れ去り、受けなければならない罰を受けずにのうのうと生き続けていた。
「ぅあぁぁぁ……!!」
自分など生きていてはいけない。
あの高潔な母が、命を賭して生き長らえさせる価値などなかったのだ。
自罰的な感情に飲み込まれた彼女の精神はドス黒い穢れに飲み込まれていき、やがて一切言葉を発することが無くなった。
このまま闇に飲まれて消え去りたい。
その願望だけが心を埋めつくしていた。
◆ ◆ ◆
「どうしたのよ、クロ?」
黒竜が突然ピクリと動いて片眼を開いたため、ミラエルが不思議そうにその眼を覗き込んだ。
「退屈な時間は終わったようだよ、ミラエル」
「……?」
すると少し離れた位置にいるヴラドが深黒の真球を、否、そのさらに上空を見上げて小さく微笑んだ。
「おい、ドラク! なんか真っ黒な球が浮いてんだが、あれはぶち抜いていいのか!?」
「いや、あれが何か分からないうちは無闇に手出ししない方がいいだろ。あれを躱してヴラドに一発叩き込んでくれ!」
霊峰ティリスベルの頂き、その真上の雲の先に一行はいた。
雲間からヴラドたちの姿を視認したドラクは、竜化したヴァンの背中から指示を飛ばす。
「あいつは俺が何とかする。エルザたちは黒竜と金髪の少女を相手してくれ」
その言葉にエルザは無言で頷き、ヴァンは下降体勢に入ることで肯定の意を示した。
「しっかり掴まってろよッ!」
直後、ヴァンが二人に忠告すると、真っ逆さまに近い角度で急降下を開始した。
分厚い雲を貫き、黒竜から離れた位置にいるヴラドへと一直線に向かう。
「吹っ飛べや、クソ野郎ッッ!!」
ヴァンが口腔に溜めた炎を罵声と共に放つと、その炎塊は流星の如き深紅の尾を引いてヴラドへと迫る。
それが爆ぜる直前、ヴラドはドラクと視線を交錯させて怪しげな笑みを浮かべたように見えた。
刹那、轟音を伴いヴラドもろとも山頂の地面がえぐり飛ばされた。
「ヴラドっ!」
唐突に眼前の光景を一変させた爆撃に、金髪の少女 ミラエルは焦燥したようにヴラドの名を叫んだ。
そして彼の元へ駆け寄ろうとしたところを黒竜の尾が行く手を阻む。
「ちょっと!?」
ミラエルは行く手を阻んだ黒竜を勝ち気な瞳で睨み付ける。
しかしそれを横目にも入れず、彼は上空を仰いでいた。
漆黒の巨竜には見えていたのだ。あの炎塊が放たれたのとほぼ同時に、竜の背から飛び降りた者がいることに。
それを狙い澄まし、黒竜は瞬きほどの刹那で口腔に黒き雷を蓄え、圧縮された雷弾を撃ち放った。
しかし上空から吹き付けた白薔薇の花吹雪が、黒紫の雷条迸るそれを飲み込み一瞬で無力化する。
黒竜が花吹雪の発生源に視線を遣ると、純白の翼で高天を滞空するエルザと巨大な皮膜翼を羽ばたかせる赤鱗の巨竜の姿が映った。
雷弾が放たれる前に赤竜の背から飛び降りていたドラクは、先の攻防の合間にヴラドが爆撃された地点へと到達する。
ヴァンが放った炎塊は地面に引火して燃え盛り続けている。
揺らめくように燃えている紅炎が真一文字に切り裂かれるや、その周囲に漆黒の薔薇の花弁が舞い散った。
刹那、黒い靄を纏った影の剣によって目にも止まらぬ速度の突きが放たれ、赤黒い影の尾を引く蹴撃がそれを迎え撃った。
剣と脚が激突したというのに、鳴り響いたのは金属音のような甲高い音であった。
「ずいぶんな挨拶じゃないか、ドラク」
「はッ! あの攻撃を食らってピンピンしてるだろうが!」
影の剣と赤黒い影を纏う脚による鍔迫り合い。ドラクは軽口を叩きながらも、押し切れないことに焦燥していた。
彼が【
つまりあれは呪いの力などではなく、吸血鬼が備える純粋な【影操作】によるものなのだ。
腐っても【十二血族議会】の中で最強と謳われるバートリー家の当主。
それはつまり吸血鬼の中で最強といっても過言ではない純粋戦力を有しているのだ。
「まぁ、食らってさえいないから……ね!」
「ッ……!!」
鍔迫り合いを演じていた二人だったが、ヴラドが脚の角度を変えたことによりドラクの剣の軌道が地面へと滑り落ちる。
咄嗟に判断したドラクは影の剣を黒茨に形状変化させ、ヴラドに向かって一気に伸ばした。
「キミの影がボクの影に勝てると思っているのかい?」
しかしその茨は逆脚で繰り出された蹴撃によって一瞬で斬断されてしまう。
その回転力を流用したヴラドはドラクの腹部目がけて赤黒い尾を引く回し蹴りを叩き込もうとした。
「しッ……!!」
ヴラドが回転した一瞬で逆の手に影の剣を再び生成していたドラクは、迫り来る回し蹴りを袈裟斬りで迎え撃つ。
直後、先ほどと同じように甲高い音が鳴り響くや、両者の身体がそれぞれ逆方向へと吹き飛ばされた。
ドラクは地面に影の剣を突き立て、さらにそこから黒茨を伸ばして減速し、ヴラドは足下に刃のような赤黒い影を創り出して地面を斬り裂きながら停止した。
「カストレアをどこにやった……!」
「あぁ、彼女なら近くにいるよ」
怒気を孕んだ視線にヴラドは笑みを返し、自らの頭上を指差した。
そこにあるのは深黒の真球だけで、カストレアの姿など見て取れなかった。
「……あの中にいるっていうのか?」
「その通りだよ。彼女は今【災禍の女王】へ覚醒するところなんだ。邪魔をしないでくれるとありがたいんだが」
「黙れ。誰がお前の思い通りになんてさせるかよ……!」
漆黒の影の剣を地面から抜き去り、再び身体の前で構える。
するとその背後に翼を収めたエルザと、人型に戻ったヴァンが降り立った。
対するヴラドの背後の空間にひびが入り、漆黒の巨竜と金髪を靡かせるミラエルが一瞬で現れた。
これまで見てきたラスエル、レイエルの能力から察するに、鏡による能力はミラエルが行使したもので間違いないだろう。
「そう言うと思ったよ」
ドラクの反駁に対して柔らかな態度を取るヴラドは、笑みを浮かべたまま高らかに指を鳴らした。
「けど、キミたちは一方的に蹂躙されるだけだよ」
音の反響が終わった頃、せり上がった崖の北方から重厚な合奏を思わせるほどに折り重なった羽ばたきが聞こえてきた。
するとすぐにその音の正体がドラクたちの視界に現れる。
「ちッ……! 傀儡にした竜の群れか……!」
種の異なる数十体の巨竜たちだが、眼の色だけは血を零したような深紅と共通している。
そんな竜たちが空に群れ成す様は敵対する者に畏怖を与えるはずだが、ドラクは苦々しい表情をすぐに不敵な笑みへと変えた。
「なに笑ってんのよ!? この状況が分からないの?」
背後に控える巨竜の群れを指し示しながら、ミラエルはドラクに食ってかかった。
「お前がミラエルだな? ラスエルとレイエルとは随分性格が違うんだな」
「レイ……!? あんた、どこであの子と……!!」
レイエルの名を聞いたミラエルは、血相を変えてドラクを睨みつけた。
しかし彼はそれを無視してエルザへと視線を向ける。小さく頷いた彼女は懐に手を入れてあるものを取り出した。
「万が一のことを考えて、保険をかけておいて良かったわ」
エルザが取り出したのは月光を反射する白銀の小さな笛であった。
彼女はそれを口元に運び、高らかに吹き鳴らした。
するとまるで神鳥の鳴き声のような清らかな音色が鳴り響き、三日月の夜を満たした。
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