第18話 母の深愛

「はぁはぁ……!」


 漆黒の髪を夜風に揺らしながら、一人の女性が闇深い森の中を駆けていく。


 腕の中にはおくるみらしき襤褸に包まれた赤ん坊を抱えていた。


 その背後に赤い双眸の残光を怪しく揺らす追跡者が二人。


 樹上から樹上に飛び移り、黒髪の女を追い抜かしてその進路上へと降り立った。


「戻ってください」


 深黒の外套を身に纏い、フードを目深に被った追跡者は黒髪の女にそう勧告した。


 しかし彼女は追跡者たちを睨みつけながら、腕の中の赤子を決して離すまいと抱き締めた。


「……あなたたちの主人が危ないんじゃないのかしら? 私たちに構っている暇なんてあるの?」

「ヴラド様が死ぬはずありません。故に私たちはあの方の実験体、その中でも稀有なあなた方を手放す訳にはいかないのです」


 頬に冷や汗を伝わせながら必死に言葉を紡ぐ黒髪の女は、自身の腹部に意識を集中させた。


 相手は吸血鬼。

 どうあっても人間である自分が追走劇で勝てるはずがない。


 そう考えた黒髪の女は腕の中の赤子を守るため、決死の覚悟を決めた。


「そんなこと知らないわ。この子は私とあの人の間に生まれてきてくれた、大切な大切な存在なの。私の宝物を、得体の知れない実験に利用なんてさせない……!」


 声高に追跡者の言葉を跳ね除けた女は、腹部に集中させた意識を一気に解き放った。


 刹那、彼女の背から漆黒の魔手が無数に顕現し、激流の如く追跡者の吸血鬼たちに殺到した。


 すぐさま反応した彼女たちは左右に散開したため、黒髪の女は自分から見て右手側の吸血鬼を魔手で追尾した。


 その吸血鬼が影から作り出した短刀を投擲してきたものの、魔手はそれを一瞬で喰らい尽くして彼女に追いつく。


 吸血鬼の女は自らの影をせり上げて壁を築くも、魔手が触れた瞬間に朽ち果て、漆黒の激流が彼女を飲み込んだ。


 魔手に巻かれた彼女の身体からはみるみるうちに生気が失われていき、やがて白骨と化して打ち砕かれた。


「あと一人……!」


 黒髪の女はすぐさま意識をもう一方の吸血鬼が散開したはずの左手側に向けたが、そちらには誰もいなかった。


 直後、背後から、つまり先程までの右手側の方向から気配を感じ取って振り返る。


「あっ……ぐぅ……!」


 漆黒のフードを目深にかぶる吸血鬼の姿を視界いっぱいに認識したのと同時に、黒髪の女の体勢が左側に傾いだ。


 次いで訪れたのは左脚に迸る灼熱の如き激痛であった。


 黒髪の女が視線を足元に向けると、そこには吸血鬼が振り抜いた影の剣と、膝の上部から斬断された自身の左足が見て取れた。


 膝から下の部分は血溜まりに転がっている。


「っっ……!!」


 痛みに絶叫する間もなく吸血鬼の二撃目が迫る。


 伸ばしきって戻している最中の魔手は間に合わないと判断し、地面に転がりながらも腕の中の赤子を守るために身を捩った。


「あぁ……貴女も重要な実験体だったのですが……」

「くっ……ぁぁ……」


 影の剣は黒髪の女の右脇腹から腹部正面へと貫通し、滝のような出血を引き起こしていた。


「けれど、ヴラド様は優先すべきは子供の方だとも言っていました。なので貴女はもう用済みです」


 淡々と語る吸血鬼は、影の剣を横薙ぎにして黒髪の女の腹を裂いた。


 声にならない絶叫と共に零れた血が地面を赤く染め、彼女は膝をついてしまう。


 しかし黒髪の女の眼からは決意の炎が消えてはいなかった。


 己の子を守るという決意が死に体の彼女の身体を突き動かす。


「ごほっ……!」


 声の代わりに血塊を吐いた黒髪の女は魔手を操り、自身を中心とした漆黒の球体を作り上げた。


 それが一瞬で収縮し、八方を塞ぐ黒い壁と化す。


 それに触れた吸血鬼は瞬きの間に萎れ、白骨と化して砕け散った。


「はぁ、はぁ……」


 吸血鬼を打ち倒した黒髪の女は片腕の力だけで起き上がり、地面に座り込んで腕の中の赤子に笑いかけた。


 全身血まみれで顔には脂汗が伝っていたが、それでも慈愛溢れる彼女の表情は柔らかなものだった。


「ごめん、ごめんね……。お母さん、もうダメみたい……」


 左脚を失いながらも地面を這って大樹の根元にたどり着いた黒髪の女は、赤子の柔らかな頬に優しく口付けをした。


「どうにか生きて……たくさん笑って、ちょっぴり泣いて……。それでも、幸せな人生を送ってね……」


 そして自身の手と同じ大きさの漆黒の魔手を作り出し、それで口付けを施した頬とは逆の頬にそっと触れた。


 すると赤子の全身からどす黒い靄が立ち上り、触れ合っている魔手に吸収されていく。


 その靄が魔手を伝って黒髪の女を蝕んでいき、彼女の身体に黒い斑点が浮かび上がる。


 それが増えていくと共に、反比例するかのように赤子から放出されていた黒い靄が減少していく。


 黒髪の女が柔らかな笑みを腕の中の赤子に向け、何も知らない無垢な表情を見て涙を零した。


 そんな彼女の全身に広がりつつある黒い斑点は加速度的に増しており、首筋を伝って頬をも黒く染め始めた。


「心の底から愛してる……」


 そして黒髪の女はおくるみに包まれた赤子を木のうろの中にそっと下ろすと、赤子の名前を口にした。



「カストレアっ……!」



 漆黒の斑点が全身に達した直後、彼女の全身が黒の粒子となって弾け、風に吹かれて消失した。


 そこに残ったのは纏っていた衣服のみで、黒髪の女が存在していた証左はただそれだけとなってしまった。


 しかし彼女が赤子を守るために戦い、零した大量の血液が輝き始め、やがて周囲を飲み込む緋色の閃光と化した。


 次の瞬間、そこには真っ赤な薔薇の花畑が広がっていた。


 先程までは草木が禿げているだけの場所だったが、一瞬にして美しい光景が作り上げられたのだ。


 その薔薇は円形の花畑から一本の大樹へと続いており、その木のうろの内部にまで咲き誇っていた。


 それはまるで最愛の我が子を抱く母の腕のように、うろの中で静かに眠る赤子に寄り添っていた。



 それから数日後、薔薇の花畑を発見した老夫婦により小さな赤子は保護された。


 その際、木のうろの中に密集していた薔薇だけが枯れ落ちており、まるで自らの命を差し出して赤子を守り続けていたようであった。

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