第10話 もう一つの魔刻

 咄嗟に右手を下げてカストレアの方向に向き直り、防御態勢を取りながら後方に体重を移動する。

 しかし彼女の拳がほんの一瞬だけ早く、エルザの防御に命中した。


「あぁぁぁっっ!!」


 獣の如き咆哮と共に振り切られた拳は、エルザの細い身体を軽々と吹き飛ばした。


「エルッ——」

「大丈夫よ」


 カストレアの拳を受けたエルザの名を呼ぼうとしたドラクはすぐさま言葉を収める。


 彼女は吹き飛ばされた空中で白翼を広げて滞空し、衝撃のすべてを逃がしていたのだ。


 いや、カストレアの足下を見ると石畳が砕け散っているため、エルザは命中の瞬間に後方への跳躍を始めていたのだろう。


「今日は彼女の力を確かめるためにこの街に来た。戦うのはボクじゃなくて——」


 瞬間、ヴラドたちを乗せた巨竜の周囲、空間そのものに亀裂が生じた。


「【災禍の女王】である彼女だ」


 ヴラドの声が聞こえた直後、彼らの姿が消え去る。


 そちらに眼を奪われていたドラクたちの耳に、硝子が割れたような乾いた音が届いた。


 音がした時計塔の頂上の方に眼を向けると、そこには滞空する黒竜、そして時計盤の下部に膝を立てて座るヴラドの姿が見て取れた。


 彼の隣には先ほどまで存在感を消していた少女がおり、波打つ銀の長髪を夜風に靡かせながら魔刻が浮かび上がった両腕を胸に当てて瞑目していた。


 おそらく先ほどの瞬間移動のような現象は彼女の力によるものだったのだろう。


「うぐ、ぐあぁぁぁぁ!!!」


 しかし彼らの視線は響き渡った叫び声により、強制的に地上へと引き戻される。

 そこではカストレアが頭を抱え、苦鳴を上げながら暴れ回っていた。


 黄金に染まっている左眼には突如として薔薇柄の刻印が浮かび上がっている。


「眼球に刻印が……!? 魔刻が突然現れることなんて……!」

「その娘に【罪過ざいか薔薇ばら】は刺してないよ。刺したのはその娘の母親。子供を身ごもっていたなんて知らなかったけど、貴重な検体として利用させてもらったんだ」


 時計盤に腰掛けるヴラドは、眼下を睥睨しながらカストレアのことを飄々と語った。


「ゲス野郎が……! 捕らえてた人間の娘まで、実験に利用しようってのか!」


 血が滲むほど唇を噛み締めてから放たれたドラクの言葉に、眼前で苦しむカストレアをエルザは戦慄しながら見つめた。


「暴走したエルザの攻撃によって屋敷は半壊し、そのときに彼女の母は逃げ仰せたのだろう。ボクも瀕死の重傷を負ってそれどころじゃ無かったしね」


 ヴラドは肩をすくめながら淡々と語る。


「けど娘のあの子にも呪いは受け継がれていたようでね。足取りを追うのは簡単だったよ」

「呪いが受け継がれただと!?」


「あぁ、その娘は呪いそのもの。運命自体を呪われ、他者の幸福や命を吸い取るようになっているみたいだ」



「あぁぁああぁぁぁあぁ!!!!」



 カストレアの絶叫が新月の街に響き渡る。


「ボクは人間の完全支配のために【罪過の薔薇】を創り出した。けど彼女の存在によって一つの仮説が生まれた」


 ヴラドは手中に漆黒の薔薇を作り出し、しかしすぐさまそれを握り潰した。


 あれは【罪過の薔薇】ではなく、単純な影の操作で創り出したものだったのだろう。


「薔薇を刺された者が子を成せば、その人間は生まれたときからボクの傀儡に出来るのでは無いか、とね」


 ヴラドが長ったらしい説明を終えて薄い笑みを浮かべたと同時、カストレアの身体が肥大化して民家の高さほどの醜悪な人形へと変化した。


 彼女が変化したそれは、薔薇柄の刻印が刻まれた左眼部分だけが異様に発達した歪な人形であった。


「救いようのない外道ね……!」

「くッ……! 絶対に元に戻してやるからな、カストレア!」


 見上げるほど大きな人形になってしまった彼女は、絶叫と共に巨大な拳をドラクに向けて放ってきた。


 落石のごとく降り注いでくるそれに、ドラクは自身も右の拳を振りかぶった。


 【呪壊の魔刻】が浮かび上がっている右腕に影の茨を纏って放たれた拳は、カストレアの巨大な拳と激突して彼女の拳を跳ね上げる。


 呪いそのものである、人形と化した彼女の拳はドラクの魔刻によって四散した。


 しかし破壊した側から押し寄せる波のように拳が再生し、腕を振り抜き隙だらけとなったドラクの頭上に再び拳が振り下ろされた。


「ぐッ……!!」


 咄嗟の判断で展開した影の茨を頭上で折り重ね、ドラクは自身を押しつぶそうとした拳を受け止める。


 しかし魔刻の力を通したわけでは無い影操作のため、拳を四散させることが敵わず耐える事しかできない。


「吹き荒れなさい」


 そんなドラクの横手から、人形化したカストレアの体躯ほどもある白薔薇の竜巻が放たれた。


 ドラクを叩き潰そうと右腕に力を込めていたカストレアだったが、迫り来るそれに危機感を覚えたのか咄嗟に跳び退いた。


「ギアァァァァ!!!」


 しかしドラクが黒茨で拳を固定したことで一瞬足止めを食らったカストレアは、白薔薇の竜巻に右腕を巻き込まれた。


 淡い白光を放って消滅した右腕を肩口から押さえながら、彼女は絶叫を上げている。


「畳みかけ——」


 ドラクは苦しんでいるカストレアを一刻も早く救おうと距離を詰めたが、眼前に広がった光景に言葉を失った。


 それは巨大な人形と化したカストレアの背後に、膨大な数の人形が集結していたからだ。


「ドラク! 街中の人形がここに集まっているわ!」


 エルザの声を聞いて周囲を見渡したドラクは、時計塔の周囲を埋め尽くすように呪いの人形が浮遊していることを悟った。


 その中の数体がドラクたちに襲いかかってきて、二人は各々自身の魔刻の力で撃退することを強いられる。


「クソ! 人形に付けられた傷は呪いのせいか治りが遅い。このままじゃジリ貧だ!」

「……彼女の周りにいる人形以外は私がなんとかするわ。だから貴方はあれを使って」


 周囲を警戒しながら背中合わせで言葉を交わす。


 エルザはその際に爪を立てて右拳を握り込み、掌から血を滲ませた。

 吸血鬼にとってそんな小さな傷は瞬きの間に治癒するが、彼女が意図的に治癒の速度を押さえ込んでいるのだ。


「あぁ、分かった。そっちは任せるぞ」


 小さく頷いたドラクも同じように左手の掌に血を滲ませ、指を絡めてエルザと手を繋ぐ。


 互いの傷が触れ合ったことを認めると、二人は撃ち出されたかのように逆方向へと駆け出した。



 ドラクは周囲に浮遊する人形たちを把握しながら、左拳を握り込んだ。


「【鏡影(きょうえい)の魔刻まこく】」


 すると首元から左腕全体にかけて、縁取られただけの無色の魔刻が広がる。


 刹那、花が色づくように、無色のそれが目映い銀色へと変貌した。


 石畳を蹴ってカストレアに接近しようとするドラクに人形たちが殺到する。

 しかし人形の弾幕じみた光景を前に、ドラクは左の拳を振りかぶった。


「吹っ飛べ」


 そして放たれた拳の衝撃が可視化されたような、白薔薇の花吹雪が吹き荒れた。


 それによって迫ってきていた人形たちが軒並み浄化され、石畳に雨の如く次々と墜落していった。


 無論、これはエルザが放ったものではない。

 ドラクのもう一つの力がもたらしたものだ。



「【鏡影の魔刻】……。二本目の【罪過の薔薇】による力か……」


 時計盤に腰掛けるヴラドは、眼下で繰り広げられる戦闘を観察しながら小さく呟いた。


 十六年前、ヴラドはドラクとエルザ、それぞれに【罪過の薔薇】刺した。


 しかし彼らは呪いに打ち克ったため、ドラクにはもう一本、【罪過の薔薇】を刺したのだ。


 そして激痛に苦しむドラクの姿を見たエルザの箍が外れた。


 そして暴走した彼女の力によってバートリー家の屋敷全域が破壊され、ヴラド自身も瀕死の重傷を負うこととなった。


 そのため当時は彼が宿したもう一つの力を見ることが叶わなかったのだ。


「ヴラド様……」

「なんだい、ラスエル」


 口元に手を遣りながらドラクの戦いを見ていたヴラドに、隣に立っていた銀髪の少女が声をかける。


 彼女は人間で言えば十歳程度の幼子で、時計盤に腰掛けているヴラドと目線がほとんど変わらない高さにあるほど小さい。


 ラスエルと呼ばれた少女は、ヴラドの視線の先で奮闘するドラクに銀瞳を向けながら小さく問いかけた。


「魔刻は同じ人が、二つも使えるの……?」


「いいや。これまで何度も実験を重ねてきたけど、魔刻を二つ宿すことが出来たのはあのドラク・ルガドただ一人だよ」

「どうして、あのお兄さんだけ……? 元々人間だった、から……?」


 ラスエルの途切れ途切れの言葉に瞑目してからヴラドは答えた。


「それも違う。他の貴族家にいた元人間の眷属で試してみたが、誰一人として二本の【罪過の薔薇】に適合する者はいなかった」


 ヴラドは過去自身が行ってきた実験を振り返り、丁寧に説明していく。


「実験の絶対数が足りないというのもあるけど、ボクはヴァンピール家の祝福が関係しているんじゃ無いかと思ってる……」


「特別、なんだね……。あのお姉ちゃんと、同じで……」

「そうだね。ヴァンピール家は吸血鬼としてあまりに異端な存在だ……」


 ヴラドはラスエルの言葉に頷きを返し、視線を反対側にいるエルザへと向けた。

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