Ⅳ.呼んでいない記憶に首を絞められる。

 寒い風が頬を殴る。枯れ木がカラカラと音をたて、その度に茶色くしわがれた枯葉が舞う。もう十一月だ。そろそろ一年も終わりが近づいてきている。今年も、特に何も無く終わるな。大きな溜息をついた。

 パン屋から出ると、冷気が肌に凍みる。無意識に垂れる鼻水をすすると、俺は即座に家に向かって駆け出そうとした。その時だ。背後から声をかけられた。

「あ、神川君じゃないか。久しぶりですね。」

 聞き覚えのある、蛇のようにネトネトと絡みつくような癖のある声に、本能的に肩をすくめ、身構えるようにして俺は振り向いた。見慣れた男が立っていた。

「何もそんなに恐れることじゃないでしょう、それに、フランスパンは武器じゃないんですよ。旧友と再会できたのですから、喜ぶべきことではないでしょうか。」

 気が付くと、俺はフランスパンをまるで剣のように構えていた。無意識とは怖いものだ。ゆっくりとパンを紙袋に容れ直すと、俺はそいつの眼鏡から覗く目を睨む。

「十一か。お前と友達になった覚えは無いがな。何の用だ。」

 男は、長く伸びた前髪の下からニヤニヤと笑う。十一伊織。俺が小学生の時からの同級生だ。だが、正直言って嫌いだ。何を考えているのか分からないし、気味が悪い。昔から俺に対して一方的に対抗意識を燃やし、テストでは毎回、ことごとく勝負を挑んできていた。ただ、負けたことは無い。高校は、俺の行っている高校よりも少し偏差値の高い所に行っているらしい。合格発表の時は、嫌と言う程俺に自慢してきた。まあ、授業について行けているのかは知らないが。ちなみに、苗字の読み方は「といち」だ。珍しい。

「相変わらず無愛想。可哀そうですね。そんなのだから友達が少ないんですよ。」

 首を四十五度右に傾けながら、下から不気味な笑顔を浮かべて見上げてくる。うぅ、気味が悪い。絡まれたくない。

「見透かしたような口をきくな。特に用が無いならとっとと失せろ。」

 そんな俺の言葉の棘も、十一には全く効果は無いようだ。十一はニヤニヤしながら話を続けてくる。

「おやおや、いいのかなぁ。覚えてないんですか?そんな口の利き方ばかりしていると、あの時みたいなことになりますよ。」

 眼鏡を外し、レンズを丁寧に拭くと、十一は再び眼鏡をかけ直す。溜息をつくと、踵を返して俺は家に向かおうとした。こんな奴、話していても利益が無い。背後から十一の絡みつくような、あの癖のある声が聞こえる。

「おや、逃げるんですか?それは残念ですね。仕方が無いです、また会いましょう。」

 二度と会うものか。舌打ちをしながら足を速めた。まるで毒牙を仕込むように、絡みついて来る。こういうのは関わっちゃいけない。蛇は臆病な動物だから、俺から攻撃しなければ嚙まれないはずだ。強い風が、枯葉を道の端に押し遣っていた。


「ただいまー」

 帰るとすぐにパンを机に置き、部屋に向かう。勿論、手は洗う。さあ、勉強だ。数学の宿題の提出期限が明日に迫っている。ノートを開くと、シャーペンを手に取り、問題を解き始めた。


 やっと終わった。口笛を吹きながら伸びをし、俺はスマホを開く。時計はもう、二十三時を回ろうとしていた。LINEが来ている。立椛からだ、なんだろう。

(この問題答え教えて)

 数学の問題の写真が送られて来ている。なんだそんなことか、自分で考えろよな。愚痴りながら問題を解いて、写真を送った。

(ありがとー‼)

 すぐに返信が帰って来た。反応速度速すぎだろ。連絡が来ていたのが二十一時だったから、二時間も待たせていたようだ。少し罪悪感がある。ん、罪悪感?俺が、立椛に…?頭に浮かんだ疑問は押しつぶす。面倒なことを考えないように。

(自分でやれよ)

 適当に返信しておく。自分でも、塩対応が過ぎるのは理解している。だが、なぜ自分はこんなにも無愛想なのだろうか。罪悪感という言葉が染みついて洗い流せない。「自分が悪い、自分のせいだと感じる感情」とのことだ。改めて辞書を引いてみても、活字が俺に都合よく、その姿を変えることは無い。

(出来ないから聞いてるの)

 ピロン、返事が来た。液晶に向かって、面倒くさいなぁ、と呟いてみる。だが言葉とは裏腹に、LINEを楽しんでいる自分がいる。やはり、俺は立椛が好きなのか…。自覚して心拍が上がるのを感じた。好きなのか…と、曖昧を消化するように反芻してみる。その時だ、脳裏に記憶がフラッシュバックした。あの時の記憶だ。それと同時に、十一の言葉が今更、蛇のように絡みついてくる。まるで遅効性の毒のように。

 駄目だ駄目だ、思い出したくない。白黒のフィルムの記憶がカラカラと笑うようにチラつく。俺は頭を振る。辺りを見回し、気を紛らわらそうとする。だが、持ち前の集中力と記憶力が邪魔をして、もうブレーキは効かなくなっていた。

好き…、やめろ、好きなの…、やめてくれ…、思い出さないようにする程少しずつ、しかし確実にフィルムは鮮明に現像されていく。


 好きなの、零君が…。

 

子供の声が聞こえる。女の子の顔がこっちを見ている。違う、これは夢だ、夢なんだ。だが起きている。起きていながらにして夢を見ているんだ、ただの妄想。存在していない、実数じゃなくて、まるで虚数のような…、そう、虚数だ。自分に呪文をかけて、無理矢理に記憶を歪める。

 段々と落ち着いてきた。数学のおかげだ。虚数のように、存在しないものに記号を置いて、表せているだけなんだ。虚数は記号表示すると「i」。アイ。愛…。

 うわぁぁぁぁぁぁぁ…、一気に押し寄せて戻って来たあの記憶を打ち消すように、声にならない悲鳴を堪え、ベッドに倒れこむ。泣きたいのに、涙はもう出ない。

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