第三話 – 不可避

「どうして……どうして!」


 温もりのない重く濃い闇に包み込まれながら私はただただ力無く泣き崩れることしかできない。手をつくと得体の知れない気持ち悪さを感じ、涙で視界をぼかしながら震える指先に目を凝らす。そこには無数の黒い糸状のノイズが迸り、聞こえるか聞こえないかくらい小さな音でザーッという雑音が入り混じる。

 私は毎年日本で開催されているケント音楽大学のワークショップに参加した一昨年のことを思い出す。その時のシンセサイザーの音作り体験における指導員の「ノイズを混ぜることによってトラック数が多いセクションでトラックが埋もれてしまうのを防ぎ、存在感を出すんだ」という言葉が私の頭の中で反響する。この途切れることのないノイズが私の中に巣食うやるせなさや失望、変えることができなかった死の運命をより鮮明にし、私の惨めさが浮き彫りにされているように感じるのだ。


「ケタケタケタケタ」

「ニタニタニタニタ」


 双子の少女は闇の空間で浮遊して黒いノイズを周囲に纏い、胡座あぐらをかいて両手を膝につきながら私に話しかけることなく不気味に笑い続けている。彼女らの黒板を爪で引っ掻いたようなキーッという甲高い声は私に不快感を与え、それは私の思考力を奪うのに十分な役割を果たしている。周りを囲む無数の巨大な目玉は依然として私をあらゆる角度から見つめ続け、その視線はまるで私に裸をじっと見られているかのような羞恥を引き起こし、また、私の足掻きは無意味だと一笑に付しているかのようで私のイラつきを増長する。


––––ドンドン


 私の目の前に再び木製扉が現れ、向こう側からノック音が鳴り響く。するとまるでバスドラが私の心臓をドッドッドッと力強く一定のパルスで叩いているかのように身体の奥底から隅々に轟き始める。


「開けなきゃ」


 私はそう自分に言い聞かせると震える足で立ち上がり、扉の方へとゆっくりと歩く。唯一の金属部分であるドアノブの冷たい感触が私の指先から全身へと伝わっていき、このまま私を冷たい死体へと変貌させるのではないかという恐怖に駆られ、なるべく早く全開にしてしまおうと握っている拳に力を込める。

 キイィという軋む音を立てながらゆっくりと開いた扉のその先には漆黒の闇が広がり、そこからゾゾゾとおぞましい音を響かせながら黒いロープ状の闇が無数に私を追い求める。それらは私の顔を覆うと後頭部の方へと回り込み、そのまま上半身、下半身へと行き渡って私を絡めとっていく。私は滑るようにして闇へと吸い込まれていき、徐々に意識が遠のいていく。


 少女は笑い続ける––––。



 福岡県博多駅


 福岡の陸の玄関口、博多駅。そこにそびえ立つ巨大なビルである『JR博多シティ』は「買う、食べる、遊ぶ」の多くの要素が集合した複合駅ビル群。東側の筑紫口にある博多デイトスとアミュエスト、西側の博多口にある博多阪急、博多アミュプラザの4施設で構成されている。さらに博多口には博多1番街、KITTE博多、JRJP博多ビルなども備わり、より多くの商業施設が集まっている。

 博多口はガラス張りの建物であるKITTE博多をはじめとしてモダンな造りをしており、ここ数十年間外観の変わらない筑紫口とは雰囲気が大きく異なる。博多口はJR博多シティ正面のロータリーと大きな広場があり、ここでは時々イベントが開催される。この広場を越えると大きな横断歩道が現れる。この通りは『はかた駅前通り』と呼ばれ、キャナルシティ博多へと繋がる。


––––二〇二三年五月一三日 (土) 午後六時一七分


 日の入りが近くなって気温が少しずつ下がってきたためか、はかた駅前通りの人の数が徐々に増えてきた。この通り自体はオフィスビルが立ち並ぶ大通りといったもので特別立ち寄るものが少ないため、ここを歩く人々は足早に通り過ぎていく。赤信号になると群衆は立ち止まり、汗をぬぐいながら友人や家族と談笑したり、携帯をいじったりして時間を潰し始める。


 はかた駅前通りをセダンやクーペ、軽自動車、バスや大型トラックといった多くの車が横断していく。やがて信号が黄色へと変化するとちょうど横断し切ろうかという車以外は徐行し、赤信号に備えて停車する。

 やがて完全に車が停車すると各自動車のエンジン音を除いて静かな時間が流れる。人々は正面に構える信号機が青に変化するのを今か今かと待ち続け、信号が青に変わると再び時が流れ始めて一斉にはかた駅前通りの横断歩道を多くの歩行者が通っていく。


 多くの人々が歩行し終わり、横断する者たちが徐々にまばらになってきたところに未だ停車しているはずの車1台が動き始める。初めは気にする者はいなかったものの、その白いセダン車が少しずつスピードを上げていくにつれてざわめきと悲鳴が増え始める。


「危ない!」

けて!」


 白いセダン車の先にはアースカラーのロングワンピースに白いサマーニットを合わせた、マッシュショートボブの肌白い若い女性が直立する。女性は周りの叫び声には見向きもせずに迫り来る車を見つめている。


「こんなの無……」


 女性が呟き終わらないうちに猛スピードで走り抜けてきた白いセダン車に撥ねられ、その華奢な肉体は軽々と空を飛ぶ。後頭部が地面に激突したその直後、目の前が真っ暗となって彼女は闇に飲まれる。



「また死んだ」

「また死んだ」


 またも暗黒の空間で跪く私を双子は愉快そうに笑う。私にとって3度目の死。けることが不可能な死に対する恐怖とそのたびに私の身体で奏でられる鈍い激痛を伴った不協和音。それら全てが私に絶望を植え付ける。


「ねぇあなた、運命に抗ってみない?」


 異形の女の言葉が私を縛り付ける。そう、私は苦労して留学への道を掴んだ。彼女の言う通り、死への運命に抗ったその先に夢の生活を送ることができるならば……。


「オエェ……」


 私は再び嘔吐し、それを見た双子は鼻をつまんで「汚い」と交互に言い合う。ゼェゼェと息の上がる胸を押さえて気持ちを落ち着かせながら目を閉じる。


––––もっと、もっと前の時間に。せめて横断歩道を渡り始める前に


 木製扉が現れて例のごとくノック音が鳴る。私は震える身体を奮い立たせて扉に向かい、軋む音を響かせながらゆっくりと開扉かいひした。


 二〇二三年五月一三日 (土) 午後六時一七分 再び私の肉体が宙を舞う。



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