第四話 – 知っている

 二〇二三年五月一三日 (土) 午後六時一七分


 はかた駅前通りの大きな歩行者信号が点滅して赤になろうかとういう時、あと少しで博多駅正面、西日本シティ銀行と楽天グループ福岡支社が構える道へと辿り着くところでマッシュショートボブの若い女性を白いセダン車が勢いよく撥ねる。彼女の肉体はまるで空中で止まっているかのように大きく宙を舞い、そのまま弧を描いてコンクリートへと激突する。セダン車はそのままスピードを緩めずに博多駅地下駐輪場入り口の方へと突っ込んでいく。博多駅前交番から慌てた警察官が出てくると、車の方を見た後に周囲の悲鳴や助けを呼ぶ声を聞いて道路に横たわる女性の方へと向かう。



 私の意識が遠のいていく中で頭部から全身へと今まで感じたことのないほどに気持ちの悪い感触が広がっていく。回数を重ねることで私は冷静に死ぬ瞬間の感触を味わえるようになった。


––––これが私に与えられた死ぬ直前の感覚か。


「お祖父ちゃん、最期は苦しまなくて本当に良かった……」


 五年前、大学三年生の時に亡くなった祖父の火葬が終わった時に母が涙ぐみながら呟いた言葉だ。祖父の最期は病気や怪我ではなく徐々に状態が衰え、自然に呼吸停止して死亡するという老衰死だった。私たち家族に囲まれて自宅で穏やかに、眠るようにして八十六年の生涯を閉じた。


 死を迎える頃には食事量や水分量が減っていき、話すこともなくなってしまっていたが、先生の「苦しむことなく静かに亡くなられたことでしょう」という言葉は祖母や母をはじめとした私たち親族一同への心の救いだった。


 対する私は?


 三歳から始めたピアノ。そして中学生の時に出会ったジャズ。私は学校の成績を取れなければピアノを辞めさせるという条件を突きつけられながらも努力を続けることができた。なぜなら音楽は私の心を魅了し続け、ジャズピアニストになることは自然と私の夢となっていたからだ。いつしかその夢は膨張していき、海外音楽留学へとその視線は向けられた。 


「無理よ、そんなの」


 私の希望を打ち破る母の言葉。私の目指していた名門であるケント音楽大学の1セメスター当たりの学費は約二万ドル。卒業までに必要なセメスター数は八つで十六万ドル以上の費用がかかる。日本円にすると実に二千万円以上である。私は入学オーディションで獲得できる返還不要の奨学金について説明し、必死に両親を説得し続けた。


「チャンスは一回。そして全額奨学金のみよ。半額でも無理。ただでさえ音楽なんて不安定な職業。あんた上手いって言ったって最低でもそれくらいじゃなきゃ食べていけないでしょ」


 私は国立大学受験の傍ら、ケント音楽大学のオーディションを並行して受験したものの半額奨学金しか獲得できず、そのまま合格した九州大学へと入学した。親の資金援助を得られないことから私は全額奨学金による合格を目指しつつ、バイトの掛け持ちで海外生活費を大学生の時から貯金し始めた。安心できる生活費を貯めようと決意し、社会人になってもしばらく貯金を続け、四回目のオーディションで遂に全額奨学金による合格を勝ち獲った。


 そして渡米まで三ヶ月ほどとなった今日、死を迎える。その死は祖父のような穏やかな死ではなく、大きな後悔を残しながら気色の悪い血の感触と激痛を伴うものだ。


 死は徐々に私の身体を蝕む。


「あははははははは」


 コンクリートの上で仰向けになって全身を赤い血の海で覆われて溺れていく感覚に陥った後、目を覚ますとまたしても暗い世界で双子の笑い声を聞きながら私は横になっている。私は起き上がってこう言うのだ、どうして、と。


「どうして……どうして!」


 そして私は嘔吐するのだ。


「オエェ……」


 私は口から大量の吐瀉物としゃぶつを地面に這う黒い糸状のノイズのような何かに向けて撒き散らす。双子が腕を口の前にやる動作を視界の端に捉えた私は彼女らの言葉を予測する。


「汚い!」

「汚い!」


––––ドンドン


 目の前に現れた木製扉がノック音を鳴らす。私は震える足で立ち上がり、ドアノブに手をかけるのだ。小さな声で開けなきゃ、と言いながら。


「開けなきゃ」


 直後に耳に触れるキイィという木のきしむ音。シンセサイザーで使うノイズなんかよりも不愉快なノイズだ。扉の中からゾゾゾと忌まわしい音を立てながら黒い何かが私を包み込んで扉の中へと引きずり込む。


 私は願う。もっと前に。もっと前に。横断歩道を渡るその前に。


 二〇二三年五月一三日 (土) 午後六時一七分 私は蝶のように舞う。


「どうして……どうして!」


 私は叫ぶ。双子の私を笑う声が鳴り響く。


「オエェ……」


 私は嘔吐する。直後に聞こえる双子の私を罵倒する声。


「開けなきゃ」


 目の前の扉に向かって私は歩く。不快な音が耳を貫く間、私は願うのだ。


––––前に。前に。もっと前に。横断歩道を渡るその前に。


 二〇二三年五月一三日 (土) 午後六時一七分 私は死んだ。



「また死んだ」

「また死んだ」


 キャッキャと飛び跳ねながら笑ういつもの双子。「どうして……どうして!」そう泣き叫んだ後しばらくしてから私は身体の底から汚物を吐き出す。双子から浴びせられる四十回目の「汚い」という容赦ない罵声。私は両手を床につきながら嘔吐した辺りを見つめる。


 死への拒絶反応を示す身体とは対照的に私の頭は少しだけ冷静になる。車に撥ねられる直前に見た運転席の男の様子。意識がない様子でハンドルに突っ伏し、そのまま真っ直ぐに私に向かってくる。


「開けなきゃ」


 死ぬ前の状況を考えたところで私は線路を辿るかのようにいつもの言葉を呟きながらノック音を響かせる木製扉を開く。


 もっと前に。


 二〇二三年五月一三日 (土) 午後六時一七分


 私は知っている。


 白いセダン車に大きく撥ねられて激痛と後悔を伴いながら死にゆくことを。


 私は知っている。


 「どうして」と泣き叫びながら跪くことを。


 私は知っている。


 死を受け入れられずに嘔吐し、双子に罵倒されることを。


 私は知っている。


 「開けなきゃ」と言いながら扉を開いて闇に吸い込まれることを。


 私は知っている。


 白いセダン車に大きく撥ねられて激痛と後悔を伴いながら死にゆくことを。


–––––ねぇあなた、運命に抗ってみない?


 私は運命に抗おうとなど初めからしていなかったのだ。


 二〇二三年五月一三日 (土) 午後六時一七分 私は……



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