第二話 – 一緒に

––––ドシャッ


 背中から響き渡る鈍い音が消えて目を開ける。するとつい数時間前まで一面に真っ青なキャンバスが広がっていた空に夕陽という橙色の絵の具が加えられ、それが徐々に滲んでいく様子が目に飛び込む。視界の端には線香が消えかかる瞬間に残る淡い煙のような雲が薄く手を伸ばす。五月を迎え、その鬱陶しい陽射しが強くなるにつれて空を見上げることが億劫になっていた僕にとって、雲との再会は高校を卒業して以来会っていなかった友人と同窓会で久方振りに話した感覚と近い。


 雲一つない晴天なんて嘘だ


 初めて女の子に告白して成功した高校二年生の夏。彼女から恥ずかしそうにしながらも少し頬を緩ませて「良いよ」と言ってもらえたその瞬間の胸中を晴れやかな気持ちと言うのだろうか。いや、そんなことは決してなかった。なぜならその瞬間、僕の中では付き合ってその先のことが湯水の如く湧き上がってきていたのだから。


 高校にもなれば彼女ができた、あるいは彼氏ができたという知り合いは増えていった。彼らは口を開けば甘い愛の言葉を呟き、その幸せを惚気ながら周囲と共有する。初めてデートした、初めて手を繋いだ、初めてキスをした、初めてエッチした……。

 これらにうんざりして卑屈になる友人たちはたくさんいたが、僕にとっては楽しい時間だった。その時の皆んなは照れつつも一生懸命に話してくれて僕も自分のことのように嬉しくなった。確実にこの時、僕の心に淀みや曇りはなかったはずだ。しかし、付き合って少し時間が経つと皆んなは相手に対する不満を漏らし始め、雲行きが怪しくなってくる。


「また彼女からだわ。うぜーな」

「彼、束縛激しいのよ」

「彼女と喧嘩した」

「何なのアイツ。マジであり得ない」

「別れた」


 話を聞くと初めからその文句は心の内に沈殿していたらしい。付き合う前からこれを感じていた者たちも少なくなかった。


––––恋は盲目


 この言葉は、イギリスの劇作家シェイクスピアによる「ヴェニスの商人」の台詞だ。そこではユダヤ教徒であるシャイロックの娘・ジェシカはキリスト教徒であるロレンゾと恋仲になって駆け落ちする。恋は人を夢中にさせ、理性や常識を失わせてしまうのだ。

 世界史の授業で習ったくらいの内容だからシェイクスピアは今の僕たちから見ると相当昔の人だ。そんな人が作った言葉が未だに僕ら若者にも当てはまるっていうことは本当に偉く、頭の良い人だったのだろう。


 時間が経つにつれて不満が噴出するのは結局「恋」によって沈められていたものが浮上し、水面に姿を現しただけにすぎない。ちょうど今、固いコンクリートを背にして見上げることでしか見つけられなかった、蒼に必死にしがみついている薄く引き延ばされた雲と同じように。


「私、君の絵好きだよ」


 ある日の放課後、彼女は僕の絵を見てふと呟いた。僕は「油断した」と顔が真っ赤になるのを感じながらその絵を必死に隠そうとする。小さい頃から漫画が好きで色々なキャラクターを描いて友だちと見せ合って遊んでいたのだが、いつしかその絵の対象は何気ない風景や人物へと変わっていった。この変化が何だか芸術家気取りのようで恥ずかしく、彼女を含めて誰にも言い出すことができなかったのだ。


「続けてよ。一緒に」


 その時の僕には「一緒に」という言葉の意味を理解することができなかったけど、彼女の短い一言が僕に勇気を与え、奮い立たせた。


 僕と彼女はそれほど口数の多い方ではなかったと思う。それでも毎日一緒に登下校し、休みの日は一緒に遊びに行ったり図書館やお互いの家で勉強したりした。卒業を迎え、僕たちは地元にある国立大学に入学し、一緒に色んな経験をした。お互いに所属していたサークルでの活動時間以外はほとんど同じ時間を過ごし、何か珍しいことが起きるわけでもない普通の日常をただただ過ごした。


「別れよう、私たち」


 予想だにしなかった言葉を大学卒業間近に告げられる。その頃には付き合う前に心の中を支配していた雲なんて忘れ去っていた。


––––恋は盲目


 「ヴェニスの商人」での言葉通り、僕はいつしか恋によって自分の気持ちを見失ってしまっていたのだろうか? 期待なんてしちゃいけない、どうせ別れるんだからと僕の心を曇らせていた灰色の絵の具をいつの間にかパレットの端っこに押しのけ、鮮やかな色で見えないようにしてしまっていたのだろうか。

 有彩色の三属性に当てられた僕は突如目の前に押し寄せてきた色相と彩度のない無彩色の前にただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。


「続けてよ、一緒に」


 寂しそうな笑顔を浮かべながら矛盾した言葉を置いて彼女はその場を去る。


「続けてたんだよ、一緒に」


 後頭部から温かい液体が流れ出し、薄気味悪い感触が全身を包み込む。蒼のキャンバスには知らず知らずのうちに赤黒い絵の具が垂らされ、水分を多く含みすぎたのか次々と下に溢れていく。雫を追うようにして僅かに動かした首の先にはキャンバスバッグから飛び出し、ガタガタになったF五〇号。


 周囲の雑音が小さくなり、季節外れの寒さを感じながらもそのキャンバスの端から少しだけ見えている女性の黒髪を掴もうと僕はもがく。


 また見てよ。遠くへ行ってしまった君を追って僕は続けてたんだよ。


 そして今度は君の絵じゃなくて、君が好きだよって言ってよ。


「へへ」


 瞼が重く閉じきるその直前、僕は微かに笑う。


––––あんじゃん、雲一つない晴天



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