約束の仮面


 建物の屋上に達した春人は、風に乗ってくるモノに顔をしかめた。

 血の臭いがした。強い、強い血の臭いだ。しかもそれには死の臭いも混ざっていて、人一人分どころではなく、きっと複数人分の死体が転がっていることだろう。それだけ強い臭気なのだ。

 ここまで強いそれを嗅ぐのは、随分と久しぶりなことだった。

 思わず腕で口を覆う。


「……何人死んだんだ」


 遠くで聴こえるサイレンが耳をつんざく。

 ここでこうしていてもできることはなにもない。追うならば急がなければ。

 しかしできるだろうか。今度こそうまくできるだろうか。失敗しないだろうか。

 そんな弱音が胸中を渦巻く。



――――



 一方、少女たちは道幅が大人三人分はあろうかという脇道に差し掛かったところだった。

 その道には室外機やゴミ箱、果てには不法投棄物などが置かれ、お世辞にも綺麗とは言えない道。おまけに日が差し込まないせいで薄暗く、人目にも付きづらい場所だ。

 先導して駆ける伴蔵が言う。


「ここを抜ければあと少しでこの区域を抜けられるはずです!」

「ええ!」


 脇道を進んでいく。


 良かった、と少女は思う。さっき雛菊が見つけた追手はこちらを見失ったようだ。

 このまま誰にも出くわさずに逃げ切れれば二人は死なずに済む、と。


 だが、世の常というものは極めて不条理なものだ。力無きものにはまるで力無きことこそが罪であるかのように罰を与えてくる。そして力有るものにはより力を、栄光を。そういった無情な流れこそが世界というものだ。


 ゆらりと脇道の出口に人影が現れた。

 その数は三つ。全員が仮面を付けている。そのうちの一人は先程襲撃をかけてきた者だ。


「ッ」


 伴蔵が立ち止まる。銃を引き抜き、構える。悔しげに、歯を食いしばってその敵たちを威嚇する。もう閃光弾はない。たとえあったとしても今度は喰らってくれないだろう。弾は今ある弾倉のみ。全て使い切ったところで一人倒せるかどうか。

 雛菊と少女も合わせて立ち止まり、両者間は睨み合いになる。


「……後ろもだ」


 後方を警戒しようとした雛菊が銃を取り出すが、あまりの状況に可笑しく思えたのか、くっと小さく笑いながら告げた。

 伴蔵が肩越しにちらりと見やれば、後方出口を塞ぐように四人目の仮面の者が立ち塞がっている。


「そんな……」


 少女は現状に絶望しそうになっていた。なまじ二人と一緒に生き残れると思えたばかりであったために、余計にその負の感情は重たく圧し掛かってくる。


 どうしてこんな目に合わなければいけないのか。自分たちが何をしたというのか。


 三人いる仮面の者の内、中心の人物が前に出て右手の指をさしてくる。上着の着物のように長く膨れた袖が宙ではためく。


「――境界の巫女、貰い受ける」


 その指がさしているのは、自分。


「境界の、巫女?」


 聞いたことがない言葉だった。

 てっきり自分が狙われる理由は古くから続く神職の家系だから。生まれる前に行われた占星術で、大きな運命を背負って産まれてくる子だとわかったから。五歳の時、餓鬼の群れに屋敷が襲われたから、家に恨みを持つものたちがいるのかと。

 だが違う。

 境界の巫女、そう呼ばれる存在だからこそ狙われた。


 だが家の者たちは、父も、母も、伴蔵も、雛菊も、それ以外の者たちも誰も、境界の巫女だとかいう存在について話してくれたことはなかった。かといって秘匿している様子もなく、資料が死蔵されているわけでもない。

 であるなら、狙いは家ではなく、完全に個人なのか。


(だとしたら、私は何者なの?)


 疑問に答えを出すにはあまりにも時間が足りなさ過ぎた。

 先程の仮面の者が挙げていた袖の口を下に向けたかと思うと、そこからすらりと刀剣が顔を覗かせたのだ。


(く、来る!)


 怯える少女を庇うように伴蔵が背に隠し、その表情に戦意を漲らせる。雛菊が後方への警戒を跳ね上げ、手負いの獣のような迫力で睨み付ける。

 もはや一刻の猶予もない。



――――



 急かすように風が吹く。面紐が揺れ動く。

 右手には短刀。左手には狐の仮面。


 短刀の銘は『小鴉こがらす』。柄の尻部分に黒い飾り紐が付いた小型刀剣だ。

 いつか立ち寄り、救った街で、鍛冶師の職人が礼だと言ってぶっきら棒に投げて寄越したものだった。切れ味は一番の職人が打ったものだけあってさすがのもので、立ち寄った別の街で研ぎに出すと、その業物わざものぶりに舌を巻かれたものだ。

 いつもここぞという時に役に立つ取り回しの良い武器で、何度も命を救われた。


 狐の仮面は、本当は何の変哲へんてつもない仮面のはずだった。


 足が竦む。短刀を異空間から取り出し、その手に持った途端、手が震え出した。心臓が嫌に跳ね回り、冷や汗が噴き出してくる。


(情けねぇ)


 いざ戦いに身を置くとなると、恐怖がよみがえってくる。


 血に染まった彼女を忘れられない。

 血塗れで微笑んだ口元を忘れられない。

 押さえても押さえても噴き出してくる血を忘れられない。

 頬に触れたその手の温もりを忘れられない。

 だんだん冷たくなっていくその手のひらを、忘れることができない。

 その手のひらから熱が失われていかないよう、ただ包み込むことしかできなかった。


 彼女は自分の腕の中で死んだのだ。

 この無力な男の腕に抱かれ、死んだのだ。


 失う苦しみ。それは耐え難いものだと、言葉にすればそれだけで終わってしまうが、そうではない。そんな簡単で、単純なものでは断じてないのだ。

 これはずっと続く痛みだ。治ることのない病だ。まるで傷口が膿んで腐ってしまったかのようにいつまでもいつまでも痛みが続く。その痛みが鈍くなることはあっても、消え去ってくれることなど永劫えいごうないのだ。


 もう心は泣きだしそうなほどにぐちゃぐちゃだった。


(どうしてこんな……)


 大勢を救ってきた。

 沢山の人を笑顔にした。

 時にはぶつかった。そしてわかりあった。

 もちろんわかりあえないこともあった。失われたものは沢山あった。

 それでも前に進めた。


 進歩と挫折の連続。

 そんな道を進めたのは、進んだ先により良い未来があると信じたからだ。それだけで前に進むことができた。信じ続けることができた。


 なのに最後に裏切られた。これ以上ないというほど手酷い裏切りを受けた。


 大勢を救った報酬がこれなのか。大勢の平和の代償がこれなのか。だとすればこんな世界のどこに価値があるというのか。


 こんな世界なんてどうだっていいだろう、と誰かが囁く。


 そう、彼女にもう一度会えるなら、こんな世界はどうだっていい。この世界を捧げればもう一度彼女に会えるというのなら、全てを捧げてみせよう。

 彼女が居ない世界なんて、何の意味もないのだから。


 ふらりと膝が崩れ、春人は屋上に膝を着いた。そして痛みに耐えるようにぎゅっと目を瞑って、自分を守るように左手を右肩にまわす。涙が頬を伝い、嗚咽おえつこらえる。


(もう嫌だ……)


 この世の全てを呪いそうなほどの諦観に包まれかけたその時、ふと、肩に仮面が触れた。

 彼女がくれた仮面。


 約束の、仮面。


「約、束」


 それは確か、最後の戦いの前夜のことだった。

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