迫る運命


 さすがに街中に入ると早朝とはいえ人が多くなってきた。

 車道を走る車の音を片耳に捉えつつ、春人は行き交う人々を躱しながら歩道を進んでいく。

 周りの建物には聞いたこともない会社がテナントとして入居していたり、かと思えば有名飲食チェーン店が唐突にのきを連ねていたり、そんな忙しない街の場景が続いている。


(平和だな)


 そんなつまらない感慨を抱いてしまうほど、本当に当たり前の光景。

 車の動作音、人々の足音、話し声、自動ドアのチャイム音、電車が走る音、ときどき聴こえるクラクション、サイレンの音、誰かが缶をゴミ箱に捨てただろうか、犬や猫の鳴き声も、出所でどころのわからないありふれた電子音たちも、ただ鳥が羽ばたく音も。

 そして自分の息遣いや鼓動さえも、そんな日常の風景に組み込まれている。


 なのに、どうしてだろうか。

 どうして、こんなにも寂しいのだろうか。どうしてこんなにも悲しいのだろうか。どうしてこんなにも孤独を感じる。どうしてこんなにも苦しい。

 そんなこと、理由はわかりきっていた。誰に言われずとも明らかだった。


 この世界にはが居ない。


 いや、正確にはあの世界にも、この世界にも、どこにも居はしないのだ。

 あの笑顔は、もう二度と見ることができない。

 ぐらぐらと揺れ始めた視界に対抗するようにぐっと下唇を噛みしめて、控えめに面を上げるとそのまま歩き続けた。


 ふとした拍子にこうなってしまうのが堪らなく辛かった。苦しく、藻掻もがかずには居られないのだ。周りに人さえ居なければ叫んでしまっていたかもしれない。

 胸を突き刺すような痛みが絶えずさいなんでくる。いっそこの胸を引き裂いてくれたほうがよっぽどましなのではないか。そうすればこの痛みは治まるのではないか。

 いったいいつまでこんなことが続くのだろうか。そもそも終わる日は来るのだろうか。

 自分が赦される日は、いつ訪れる?


「くそっ」


 悪態をついても心は晴れはしなかった。むしろより惨めに思える。

 視界の端で流れていく景色にすら、憎しみを覚えてしまう。

 細めた視界は進行方向を見ながらも、ゆらゆら、ゆらゆらと、そこにもしかしたら居るかもしれない面影おもかげを探し続けていた。こんな場所に居るはずがないというのに、滑稽こっけいな話だ。

 睨み付けるように細めていた視線が、より一層細くなる。


(俺は、もう……)


 弱音が胸の中心を穿うがたんとしていたその時、それは視えた。


 進んでいた方向に見える人垣、その向こう側で、明らかに歩いている者とは違うリズムで動く人影が三つ。どうやら走っているし、近づいてきている。


(なんだ?)


 どうやら男性が先導しているようだが、子細しさい把握はあくする前に声が聴こえてきた。


「お嬢! 止まらずに!」


 男は少女の手を引いて走り、前方の人垣を押し退けるようにしながら進路を作っていた。

 どうやらよく見てみれば男は怪我をしているようで額から血が流れているし、動作に機微ながら乱れがある。手を引かれている少女は息も絶え絶えで、付いていくのがやっとといった状態だ。


「奴らだ!」


 その二人の後方で殿しんがりを務めている女性が声を張り上げ、視線を進路とは逆方向にあるビルの上に向けていた。


(奴ら?)


 思わずそちらに目を向けると、そこには仮面の男が居た。

 鬼の面だ。面こそ異様だが首から下の格好は一般人で通用するものだ。視界上で確認できる人数は二人。どちらも視線は件の三人――その中心に居る少女へと向いている。

 あの子が狙いだ。


 次の瞬間にはビルの上の二人は掻き消えていた。ほんの一瞬の出来事だった。声につられて屋上を見た一般人たちの殆どは面の二人組の姿すら見られなかっただろう。

 それは明らかに常人が成せる技ではなかった。


 奴らは恐らく、彼らに追いつくため移動を開始したのだろう。そして奴らの目的がいったい何であれ、碌なものではない。経験上それは火を見るより明らかだった。

 ただ、


(俺には……関係ない)


 意識せず立ち止まっていた春人の横を、必死の形相の男と、ほんの少しの怯えとそれに反する勇気を顔に湛えた少女、そして殺意に近い敵意を浮かべる女性が駆け抜けていく。

 一拍置くようにして、近くの建物の上を移動していく気配が『四つ』。


(このままじゃ全滅だろうな)


 ほぼ間違いなくそうなるだろうという確信に近い予測だった。

 彼我の戦力差は歴然。追われている三人は、少女はそもそも除外するにしても残りの二人は人としては上位に近いという程度の力だ。

 しかして追手の四人は人の枠を逸脱いつだつした速度で彼らを追っている。ならばどんなカラクリにしても身体能力はあの二人を大きく上回る。真正面からぶつかれば擦り潰されて終わりだ。


 そう、終わりなのだ。

 死ぬ。

 彼らは、死ぬ。

 ――と、同じように。


(ッ、……あぁ、ったく!)


 ――目を逸らさないで。


 辛いことがあったからって、苦しいことがあったからって、誰かを害して良いわけじゃない。


 自分に余裕がないからって、他人を軽視して、見捨てて、自分は悪くなかったと正当化して良いわけじゃない。そんな生き方はしたくない。


 自分は悪くないからって、何もしなくて良いわけじゃない。これは自分が成すべきこと。


 そんなことを言っていたのは誰だろう。

 自己正当化のさかしい言い訳は全てひっくるめて嫌っていた。そんな不条理は許せないと、だったら諸々もろもろ全部引っ繰り返してやると、気炎きえんを吐く勢いで啖呵たんかを切っていた。

 それはいったい誰だっただろう。


『私はね、みんなを救いたいの。救える人を全て、ね。そのために、絶対に強くなる』


 そんな夢を、本当に途方もなくて、方法なんてわからなくて、だから馬鹿にして茶化してやろうと思って、だけど、想像以上に自分はその言葉と、その横顔に魅入られていて。

 風に優しく揺れる黄金の髪を、綺麗だと思ってしまったのだ。

 夕日に照らされながら夢の一端を語る彼女を、誰よりも眩しい存在だと思ったのだ。


 死闘の後であるがゆえにお互いボロボロで、身体は至る所が痛み切っていたというのに、忘れてしまいたい痛みだというのに、その思い出は未だに消えてくれていない。今も、こうして心をじりじりと焼き続けている。


 わかっていた。彼女はいつだって不器用なくらい正しかったのだと。

 わかっていた。今の自分が責任から逃げ出そうとしていると。


 なぜならその願いは、いつしか自分自身の願いとなっていたのだから。


(きっと後悔する)


 しかしそんな思いに反して、口角は少しだけ吊り上がる。

 少年は、くすぶる心に従い、駆け出した。



 ◆



 運転手は死んだ。真っ先に、少女を護るため致命傷を受けて、死んだ。


 車はスムーズに進んでいたはずだった。しかし、ある交差点付近に差し掛かった時、各々の無線機にハウリング音が響いたかと思うと、前の車が急ブレーキをかけて止まった。信号は青のはずだった。


 伴蔵も雛菊も運転手も少女も、何事かと警戒をあらわとした。


 瞬くと、前方の一般車のさらに前、ボンネット近くからゆらりと仮面の者が現れた。

 その手にはサバイバルナイフ程度の刃渡りの凶器。ひゅっと腕が引かれたかと思うと、前の車の運転席側の窓が割れて血飛沫が車内を真っ赤に染めた。


「――雛菊!」


 伴蔵、運転手がドアを開け飛び出す。同時、雛菊が自分の側へ少女を抱き寄せ、車体後部左側のドアを勢いよく跳ね開ける。後方の護衛車からも全員が飛び出してくる。


 伴蔵は胸元のホルスターから自動小銃を引き抜いて、安全装置を解除。車体を盾にするように屈みつつ、やや上方へ狙いを付ける。万が一外した時に通行人に当てないためだ。

 トリガーを引き、弾が発射される。

 しかしその弾は当たらない。仮面の者の頭部を狙ったその弾丸は、すっと身を捩るように身体を動かされたことで目標を見失って虚空へ去っていく。


 この人数では勝機はない。冷静な思考を留めていた伴蔵は即座にそう判断する。


 弾丸をかわした仮面の者が加速のために前屈姿勢を取る。それを見、運転手が足首に隠し持っていたナイフを引き抜き、その進行方向を遮るように躍り出る。


「くそっ! 総員、足止めをかけろ!」


 できることといえば知れていた。少ない選択肢だからこそ、選ぶべき道もわかりやすい。

 弱者ができることなど、その身を切って時間を稼ぐこと程度なのだから。


 一連の攻防の最中、車内から脱した少女は、雛菊に覆い被さられるように車体後部付近に出た。その瞳が、自身の左肩越しに仮面の者が居るほうへと一瞬向けられる。


 血が舞った。


 背中越しゆえにはっきりとはわからない。けれど、仮面の者の行く手を遮った運転手の左肩口から恐らく大腿だいたい辺りまで、足掻き程度に防御の構えを取ったナイフごと、ばっさりと斬り裂かれていた。

 運転手が力が抜けるように膝から崩れ落ち、そして、その身体が倒れきる前に邪魔だとばかりに仮面の者がその頭を片手で雑に掴み、横へと投げ捨てる。

 ぐしゃりと彼は倒れ伏し、まるでゴミのようにその命を終えた。


「っ」


 少女が悲嘆に息を飲む。


「行くぞ雛菊! お嬢!」


 そんな思考を断つように伴蔵の怒声が届く。

 車体前方から駆けて来る伴蔵と、それと入れ替わるように敵へと向かっていく後方車に乗っていた護衛たち。決死の表情で、死地へと向かう彼ら、彼女ら。


 やめて、と思わず声が出そうになる。

 逃げて、と叫びそうになる。


 そんな少女の手を伴蔵が平時ではあり得ないほど強い握力で手首を掴むと、強引に引っ張って走り始めた。

 雛菊もそれに続き、三人は周囲に集まり始めていた大勢の野次馬たちの人垣の中へと飛び込んだ。少女の身長では、もう死地の様子を伺うことはできない。


 ただ、もう誰の発砲音も聴こえない。聞こえるのは群衆の悲鳴だけだ。


「餓鬼ではない! 人間だ!」


 人を搔き分けながら前を行く伴蔵が忌々し気に叫ぶ。


「ああ! やはりあの時の餓鬼共は――」


 雛菊が頷き、そう言う。


 あの時とはなに、何時のこと、何のこと。

 全力で走りながら息の乱れた中での思考であり、あまりの事態に感情がぐちゃぐちゃで混乱する少女だったが、しかし、ふと思い当たることがあった。


「それって……私が小さかった頃の……?」


 やや視線を伏せながらの言葉に、伴蔵と雛菊は息を詰まらせる。そして、


「ええ、そうです。だからこそ対策は万全だったのですが……」


 餓鬼とは、太古の昔、まだ神霊の類が顕現していた時代、邪悪に組する術者によって使役されていた邪霊の一種だ。国々によって呼び方こそ違えど、見た目は醜悪しゅうあくで性格は狂暴。ほとんど理性というものがなく、術者の命令に従って殺戮さつりくを繰り返す点は共通していた。

 そして神代しんだいの終わりとともに召喚の術法も失われ、餓鬼の脅威は去ったはずだった。


 しかし、かつての襲撃ではその餓鬼が大群で、しかも跡取りたる少女を狙って襲ってきたのである。そして、少女を護るために、代々護衛を務めてきた傍系に多くの犠牲が出た。神事を司ってきた家柄であるがために、これがどれほど重い事態かわからないわけがなかった。


 だからこそ、それへの対策が完璧に成されるまで隠れて待ったのだ。


 神聖さを帯びた秘境を渡り歩き、少女の命を繋いだ。奴らは邪霊の一種であるために神聖な領域や護りは効力を多大に発揮する。その間、術法とともに絶えた護法を取り戻すため、秘蔵されていた禁術書の解読が進められた。

 そうして蘇った護法の一つが、少女が身に着けている桜のネックレスだ。


 だというのに、今回襲ってきたのは餓鬼ではなく、武装した人間、しかも特異な能力者だった。これでは餓鬼対策の護法は意味を成さない。


 だが襲撃の手法は違えど、この少女の正体を知り、その身柄を狙う者などそう多くはない。ならば二つの襲撃事件の計画者は恐らく同一人物だろう。


「とにかく今は拠点に戻ります! それから――」


 瞬間、日が遮られた。伴蔵が掴んでいた手を離すと雛菊が少女を引き寄せる。伴蔵の視線が即座に上方へ向いてそれを睨め付け、手は自動小銃へ伸び、引き抜いて狙いを付ける。


 宙から迫るは先程の仮面の者。手には血に塗れたサバイバルナイフ。周囲に人が大勢居るにも関わらず、天より飛び掛かってきたのだ。

 軽い発砲音が響く。二度、三度。


 仮面の者は己の胸板を正確に狙ってくる三発の弾丸を捉えると、その凶器の刀身表面を斜めに滑らせるように構え、着弾地点を斜め方向へとずらす。

 三発の弾丸は狙いを逸れ、仮面の者の肩口を掠めるに止めた。


 しかしこれでこの一瞬、凶器による一撃必殺は防ぐことができた。伴蔵は身を高速で捻り、そのまま仮面の男の腹へと蹴りを見舞った。


 だがその蹴りは片腕に防がれ、ダメージにはならなかった。仮面の者が着地する。

 その瞬間、伴蔵は仮面の者が凶器を抱えている右腕を掴み、動きを封じようと試みる。


「行け! 雛菊!」

「邪魔だ」


 雛菊は少女を伴って駆け出す。仮面の者はそれを見やり、鬱陶しそうに掴まれている右手を上方へと持ち上げていく。伴蔵が全力で掴んでいるにも関わらずである。


「馬鹿な⁉」


 伴蔵の身体が完全に宙に浮いたところで腕を高速で振り、伴蔵の手が振り解けたのを見ると、彼が先程したのと同じ動きで蹴りを放った。

 メリメリと骨と肉が軋む。喰らったのは腹だ。まるで意趣返しをするように同じ場所へと足を減り込ませている。

 そのまま吹き飛ばされ、店頭前の電光看板を粉砕しながら壁へと叩きつけられた。


「がっ……は……」


 肺から空気が全て叩き出されたかのように息ができない。腹は内臓こそ無事だが、骨はどうだろうか。しかし、まだ動ける。壁を背にするように起き上がって身を休める。看板に突っ込んで転がったときにどこかを切っただろうか。血が流れてくる。


 アスファルトを踏み締める音が聴こえた。

 目の前には仮面の者が居る。凶器を片手に、止めを刺すために一歩一歩近付いてくる。

 それを見やり、伴蔵は口角を吊り上げた。


「馬鹿が」


 自分によって陰になっている背から、筒状の物を取り出した。


「!」


 仮面の者が反射的に飛ぶように後退る。だがもう遅い。

 瞬間、甲高い音と、周囲を焼き尽くすのではないかと思うほど眩い光が迸った。

 閃光弾だ。


「くっ」


 仮面の者が光で目を潰され、狼狽える。そこへ伴蔵は小銃を構えた。弾倉には残り一発。

 発射した弾丸は仮面の者の左腕の二の腕辺りに着弾した。こちらの気配を察知したのか、咄嗟に回避行動を取ったのである。


 仮面の者が怒りに震えているのがわかる。今しがたの発砲で位置もばれただろう。一時的に視界が使えなくなっていたとしてもこれでは関係ない。すぐに反撃が来るだろう。


 しかし、伴蔵はもうこの戦いに付き合うつもりはなかった。

 このまま戦い続けたところで勝ち目はない。それに多少のダメージを与えたところで相手はこいつ一人とは限らないのだ。今は護衛対象を護ることが最優先。


「ではな」


 別れの挨拶と共に、置き土産とばかりに最後の閃光弾を起爆させる。

 再び音と光。仮面の者は今度は咄嗟に目元を覆い、防御する。


 やがて効果が消えた後、そこに伴蔵の姿はなかった。彼は建物と建物の間にある小道へと入り込み姿を晦ましていた。

 仮面の者は忌々し気に歯軋りすると、肩から流す血も省みず、驚異的な跳躍力で建物の屋上へと消えていった。



――――



 一方、伴蔵は小銃の弾倉を交換し、乱れた衣服を申し訳程度に整えると、小道から通りにでるところだった。

 少女と雛菊との合流を考えねばならないところだが、その点は予め決めていた逃走ルートがあったがためにすぐに叶うことになった。


 ルート途中の人通りのない小道に入り込むと、そこには駆けて来る少女と雛菊の姿があった。

 伴蔵の姿を見つけた雛菊の顔に、職務中というのに歓喜が滲む。


「伴蔵!」

「無事でしたか、お嬢。雛菊」


 その言葉に二人は頷く。二人に特に目立った外傷はないようだった。襲われずにここまでこられたのだろう。


 どこか遠くでサイレンの音が聴こえる。きっとあの現場に警察や救急車が着いたのだろう。

 情報の抹消と操作、言えば簡単だがあれだけの人数に見られてしまったのだ。それにかかる労力を考えると頭が痛くなるが、幸いにもそれを行うのは別部署だ。

 今は自分の成すべきことを成すべきだ。


「血を拭ったらどうだ」


 そう言って雛菊がちらりと額の傷を見る。しかし、


「どうせすぐには止まらん。いい」


 そう断って思案顔に戻る。


「経路途中の部隊は?」

「駄目だ、誰も応答しない。ジャミングはあの一瞬だけだったのに、な」

「援軍は?」

「要請した。だが果たして間に合うかどうか」


 伴蔵からの問いに、雛菊は首を振った。この事態に陥った段階で考え得ることだったが、しかして実際に突き付けられると非常に困難なものだった。

 道中には監視部隊が一定間隔ごとに配置されていた。だが、応答がない。

 自分たちは今、孤立無援なのだ。誰の助けも期待できない。そして戦力差は開くばかり。


 考えれば考えるだけ、絶望的な状況が見えてくるだけだった。

 そして助けが間に合うとは到底思えない。あれを相手に持ち堪えられるわけがない。

 きっとこのまま、二人がそんなことを考え始めた時だった。


「――行きましょう」


 少女が力強くそう宣言した。

 驚き、伴蔵と雛菊は少女を見やる。


 その表情は、この状況下において、それでもなお不敵とも言える笑みを浮かべていた。

 その笑顔はきっと精一杯の強がりだった。絶望に沈もうとしている二人を鼓舞するため、無理矢理張り付けたものだった。うまく、笑えているだろうか。

 果たして今の自分は道化だろうか。滑稽に映っているだろうか。

 現実を直視できない小娘程度の存在だろうか。


 だけどそれでもよかったのだ。それでもこんな場所で、こんな所で絶望という泥に沈むよりは、命の限り抗うことこそが、よっぽど尊い生き方なのだから。

 そしてそれこそが、犠牲に報いるための、たった一つのやり方なのだから。


「強行突破、というやつです。時間をかけたところで事態は好転しませんし、犠牲が増えるだけ。ならば、やるべきことは一つです。でしょう?」


 少女がにっこりと微笑むと、顔を見合わせた二人が一拍の間の後、ぷっと噴き出した。


「な、なんです?」


 恥じて頬を染め困惑する少女へ、雛菊が頭を振りながら、


「いえいえ、お嬢様は度胸があるな、と」

「ああ。大したものです」

「そ、そう?」


 急に二人から褒められて、少女はより一層頬を染めた。


「でも、やっぱりそうするしかないでしょ?」

「ええ。このままじっとしていても追い込まれるだけでしょう」

「ならばその前に一転突破で窮地を脱するというのは最善手でしょうね。……単純ゆえにプラン内容は欠片もない酷いものですが」


 言うなれば、ぶっ叩いてぶっ壊す、とでもいう陳腐さを例とするお粗末な計画だ。相手の総戦力も測れていない現状ではいたしかたないとはいえ、粗末が過ぎる。

 半笑いだった伴蔵が表情を引き締める。


「お嬢。ここから先、誰よりもご自身の命を優先してください」

「わかってる」

「一般人を巻き込むな、という命令も、今から無視させていただきます。そして、わたしと雛菊の命も。――構いませんね?」

「そう……なるわよね」

「はい」


 唇を噛んで言い淀んだ少女へ、伴蔵は有無を言わさぬように大仰に頷く。


 その当然という返事に少女の表情は重ねて曇る。そんな少女の様子を心配そうに覗き込む雛菊は彼女の肩口に手をやり、そっと抱き寄せた。

 ふわりと幼少期から慣れ親しんだ温かさが少女を包み込む。下唇を噛んでいた歯に意識せず力がこもる。自身の不甲斐なさを嘆いていた時とは別の感情が、胸を渦巻く。

 彼女の優しい声が耳を撫でる。


「悲しまないでください、お嬢様。これは不敬にあたるのでしょうが……わたしたちにとってお嬢様は妹のようなものなのです。大切な妹を護るための盾になれるなら、本望です」

「でも……死んでしまうわ」

「そうでしょうね。ですが、それでもあなたを護りたい。たとえあなたを悲しませる結果になろうとも、それでもわたしたちはあなたを護りたいのです」

「あなたたちが居ないと、……どうしていいかわからない」

「いいえ。わかっているはず。お嬢様ならば」


 そう言って、雛菊は両目に涙を溜めた少女の顔をそっと両手で包み込んだ。


「いつか、もしもわたしたちが居なくなったとしても、お嬢様を大切に思ってくれる方がきっと現れます」

「……」

「だから、生きてください。わたしたちの分まで。……それが、わたしと伴蔵の願いです」

「願い?」

「ええ。従者として、友人として。……なにより、姉と兄としての、です」


 言って、雛菊は笑った。朗らかに幸せそうに。そろそろ移動しなければ危険だというのに、死が近付いてくるというのに、どうして笑っていられる。

 こつり、と雛菊が目を閉じて額を合わせてくる。懐かしい感触に少女も目を閉じた。


 涙が零れ落ちる。波紋が広がっていく。

 何故だろう。いつかこんなことがあったような気がする。

 似た光景を見たことがある。体験したことがある。

 大切な人の命が奪われる瞬間を。大勢の人々が塵となる瞬間を。斬り、裂かれて、潰されて、焼かれて命を奪われゆくさまを、何度目にしてきたか。

 何度見送った? 

 何度命を見捨てた? 

 去っていく背を何度見つめた? 

 その背に何度手を伸ばした?

 その背に、どうしてこの手は届かない。

 何度、いったい何度願いを託されてきた。

 その度に、自分は。


(また奪われるの?)


 また、とは何だろう。自分ですらわからない、正体不明の既視感。

 心には酷い諦観が満ち溢れつつあった。どろどろとして、胸の内を全て覆い尽くしてしまうような、酷い倦怠感けんたいかんを覚える。ああ、きっと今回も同じなのだろう。


 ぶつり、と思考が途切れた。

 雛菊からふっと身を離すと、努めて平静な様子を見せてみせる。

 ここで笑顔を見せなければ、きっと二人は不安を覚えてしまうだろう。だから、必死に表情を作る。強い自分、挫けない自分、折れない自分。運命すら蹴り飛ばせる自分を。


 でもどうか、ほんの少しでも願いを聞いてもらえるのなら、どうか。

 表情を平時に戻した少女は、言う。


「……時間がないわ」

「ええ。それでは」


 応じる二人の従者に迷いはない。

 伴蔵が先頭で駆け出し、二人はそのあとを追う。


 運命の時が、近付きつつあった。


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