第14話 告白

 後日、エミさんを誘って二人きりで遊ぶ予定を立てた。

 ひとまず集合した場所で顔を突き合わせてから今日はどこに行こうかと頭をめぐらせたところで、数々の選択肢を思い浮かべつつ俺は重大な事実に思い当たった。焦って財布を確認したが、中身は空っぽ、あいにく金がない。どうやら連日のように続いていたエミさんとの遊びでお小遣いを使い果たしてしまったらしい。

 本当は落ち着いた場所で大事な話をしたかったのに、これではおしゃれな喫茶店はおろか、高校生にも優しい庶民的なファミレスにもファーストフード店にも入ることが出来ない。

 考え事をしていたせいか、ぼんやりしていた。


「そんなに気にしなくっても、どこでもいいんじゃない? 二人で遊べる場所はお金のかかるところだけじゃないんだからさ。なんだったら私は吉永君の家でも……」


「……いや、どこでもいいっていうなら、とりあえず一か所は思い当たる場所があるよ。俺の家じゃないけどさ」


「えっと、うん。じゃあそこに行こう」


 そういうわけで俺たちは誰にでも無料で開放されている近所の公園に向かった。

 それは先日、俺が岸村さんとベンチに座って会話をした公園だ。


「こういうのって久しぶりに乗ると楽しいよね」


 公園に足を踏み入れて、あえて無邪気そうに振る舞うエミさんが座ったのはベンチではなくブランコだった。高校生にもなって小さな子供用の遊具に座るなんて恥ずかしかったが、幸か不幸か周囲に子供の姿はなく、すぐ隣のブランコは空いている。問題なく声が届く程度には近い距離で会話をしたいなら、立ったままでいるよりも隣に座ったほうがいい。

 彼女もそれを望んでいたのか、誘われる前に俺が隣のブランコに腰を掛けると嬉しそうにした。

 休日に公園まで来て、一緒にブランコに乗る。こうしているとまるで自分たちが小学生に戻ったみたいだ。

 ただ、高校生になった今の俺たちは無理をしてはしゃがない。プールで浮き輪を使って浮いていた時のように、二人並んでブランコに乗っても元気よくこいで遊ぶことはしない。

 地面に足をついて、左右に垂れている鎖を握って、ちょっとくらい揺れてみるだけ。

 それだけでも、こうやって彼女といると楽しい。

 幸せを感じて、いつまでもこうしていたくなる。

 だから、いつか言えなくなってしまう前にと早めに切り出した。


「エミさん、ラブソングの歌詞を完成させよう」


「……どうしたの? そりゃあもちろん歌詞は完成させるつもりだけど、そんなこと改まって言うなんて」


「岸村さんが約束してくれたんだ。今のバンドを解散せずに続けてもいいって。でも、そのためには条件があって」


「それが、歌詞を完成させること?」


「うん。あと、もう一つ」


 ちっとも難しいことじゃないと、何でもないことのように教える。


「俺じゃなくてエミさんが、本気で、バンドを続けてほしいと岸村さんにお願いするならって」


 本気で、の部分に力を込めてアクセントをつける。

 にわかには信じられないのか、それを聞いたエミさんが意外そうな顔をする。


「岸村さんが、そう言ったの? あの岸村さんが?」


「そうだよ。あの岸村さんが言ってくれたんだ。エミさんのお兄さんである孝之さんも、岸村さんを説得できたら解散を思い直して今のバンドを続けてもいいって言ってくれてた。だから、だからすぐにでも歌詞を完成させよう。協力する。ラブソングの歌詞さえ完成すればすべてがうまくいくんだよ」


 そうだ。うまくいく。何もかもが驚くほどうまくいく。

 大切な居場所であるバンドは続けられて、恋をしている岸村さんとも別れずに済んで、ボーカルとしても必要とされる。

 すべて彼女の願い通りじゃないか。

 いや、伝えられない片想いで苦しんでいた今までより、もっとうまくいくかもしれない。

 エミさんが頼むなら、と言ったのだ。

 もしかしたらエミさんと岸村さんはすでに両想いで、ちょっとしたきっかけさえあれば、すぐにでも正式な恋人同士になれるかもしれないのである。


「私が本気で頼めば、ね……」


 ぼそっとつぶやいたエミさんは地面を軽く蹴って足を揺らすと、ぎこちなく一人でブランコをこぎ始めた。

 すぐにでも止まってしまいそうなスピードで、それほど長くない鎖につながれ前に後ろに行ったり来たり。久しぶりに乗ると楽しいなんて口では言っておきながらも、必要以上には加速せず憂鬱そうに風を感じているだけだ。

 まるで彼女の揺れ動く感情を表現しているかのように。

 なら、悩んで一歩を踏み出せない彼女を後押しするのが友達である俺の役目だ。


「頼もう。頼もうよ、エミさん。不安がらなくたっていいんだ。いつだって君は本気だった。岸村さんが疑うわけないよ」


 しばらく待っても返事はない。もはや迷うまでもない魅力的な提案のはずなのに、彼女はなかなか答えてくれない。

 どうしてだろう。あとはうなずくだけなのに。


「今の私は正直、本気になれる気がしなくなってる」


 あげく、そんなことを言って地面に足をつき、それで決定みたいにブランコの動きを止めた。

 このまま黙っていたら、もう帰ろっか、とでも言いだしてしまいそうな気配さえある。

 まだ話は始まったばかりだ。いてもたってもいられなくなった俺は立ち上がり、エミさんの真正面に回って説得する。


「これはチャンスだよ。それも最後のチャンスだ。この機会を逃したらもう岸村さんとは会えなくなるかもしれない」


「だけど……」


「違う。何を言おうとしていても、それは君の本心じゃない。いろんなことを考えすぎて、自分からあきらめようとしているだけだよ。俺はエミさんが傷つく姿を見たくないんだ」


 風も吹いていないのにブランコが揺れて錆びた金属同士がギイギイとこすれあう音が鳴り、耳障りな音だけでなく小さな揺れを止めるためかエミさんは鎖を自分に向かって引っ張るくらいの力で握り締めた。

 それから思案顔になってうつむくこと数秒、今度はブランコを揺らすことなく顔を上げた彼女と目が合った。

 少しだけ覗いた白い歯。力なく苦笑される。


「あきらめようとしているんじゃないよ、気づいたんだ」


「……何を?」


「何をって……うん、それはさ」


 何かを言おうとして、言えずにいて、見守る気分で正面に立って視線をそらさぬまま彼女の言葉を待っていると、こちらの目を覗き込むくらい真剣な顔でエミさんは言った。


「だけどね、今の状態で私から何かを言う前にちゃんと聞いておきたいんだ。そのことで最近すごく悩んでる。曖昧なままにしておくのは駄目だし、それは私のほうこそ、そうだと思う。ねえ、吉永君。……君は今、私にどうしてほしいの?」


「それは……」


「私をどうしたいの? それがさ、なんだか私にはわからなくなるんだ」


「……わからなくなる?」


「うん。わからなくなって、今はそればかり考えている。だって、思えば君はずっと、私を岸村さんにくっつけなくちゃいけないという使命感にとらわれているみたいだ。それは私のことを友達として好きでいてくれるからだって、悩んでいた私が君にお願いしたことでもあるからって、それはわかるの。わかっていたつもりだったの。でもね……」


 彼女は絞り出すように声を上げる。


「バンドや岸村さんのこと、吉永君がそうやって一生懸命になっているのは、本当に私のためなの? だって、私は最近、どんどん君の視界に映らなくなっていってるような気がする。特別な友達だとか言われている割には、簡単にあきらめられて、絶対に越えられない一線を引かれて、どうやっても近づけないくらい遠くにいる気がする。……結局、君はさ、ここにいる私のことなんかじゃなくて、私のバンドのことが好きだったんじゃないの? 中学生のころに救われたっていう、岸村さんのギターに合わせて歌っている私のことだけが好きなんじゃないの?」


 それだけのことを言われて、目の前に立ち尽くしたまま聞くばかりで、俺は何も言い返せずにいた。

 彼女が何を思い、何を不安に感じていたのか、俺は何もわかっていなかったのだ。


「それって、今までの岸村さんと同じに感じる。私そのものを好きでいてくれてるんじゃないって感じる。そう感じたら急に不安になった。不安になって、寂しくなった。ひょっとして、吉永君に感じている絆も一方通行だったりするのかなって」


 なぜ俺が今もここにいるのか、どうして俺がエミさんの力になろうとしているのか、根本的なところでは彼女との間に共通認識が生まれていないのだ。

 悔しかった。悲しかった。ショックだった。

 もちろんエミさんに悪気なんてなかったろう。

 本気で頼めば岸村さんは彼女をボーカルとして受け入れてくれる。孝之さんとのバンドを続けてくれる。

 どれほど願っていた展開であれ、あまりにも唐突な提案を聞かされたせいで不安になっていただけで、俺を責めるつもりなど一切なかったに違いない。

 けれどそれだけに、その言葉は間違いなく俺の胸を貫いた。

 嘘偽りのない、本当の気持ちだと思えたから。

 そして俺は自分の非を認めたくないばかりに、ひどい言葉を彼女に突きつけてしまう。


「……エミさんこそ。今、君は何がしたいの? 岸村さんに気持ちを伝えなくていいの?」


 聞かずともわかっていることだ。伝えなくていいわけがない。ただ伝えられずにいるだけなのだ。

 彼女は岸村さんと別れたくなくて、バンドの解散を食い止めるために俺の協力を求めていたのだ。

 そんな彼女の恋する気持ちが岸村さんをバンドに縛り付けているんじゃないかと菅井さんに言われて、自分の恋心を忘れよう、否定しようと努力しているに過ぎないのだ。

 新しい恋をしようとしているのも、すべてはきっとそのために。

 それなのに、わざわざ彼女の心の傷をえぐるようなことを言ってしまうだなんて……。


「私の気持ち……私の気持ちを伝えなくてもいいかって?」


 そこまで言ったものの、それ以上は言葉にできず、あまりに長い沈黙が続いた。

 やがて彼女は口を開き、一つ一つ、懸命に言葉をつむぎだす。


「……ごめん。この前さ、ちゃんと確かめたつもりだった。この胸にある感情に対して確信を持ったつもりだった。でも駄目なんだ。駄目だったんだよ。確かなものになればなるほど、私は不安になる。失うのが怖くなる。じゃあなんで恋なんてするんだろう。どうして恋人になりたがるんだろう。どうしようもなく好きであればあるほどに、相手の気持ちがそうじゃないと知るのが怖くなって、悩んでいるうちに好きって気持ちがわからなくなる。自分が何をしたいのか、吉永君にどうしてほしいのか、全部わからなくなったんだ。きっと君も同じで、わからないんだよね?」


 その通りかもしれない。

 何をすればいいのか、何がしたいのか、結局のところ俺にはさっぱりわからない。

 そんな俺の煮え切らない態度が原因だったのだろう。


「今までありがとう。……さよなら」


「いや、なにそれ、ちょっと待って!」


 会話を打ち切るようにガチャンと音を立てながらブランコから立ち上がって、逃げるように走り出そうとした彼女。

 その腕を俺はとっさにつかんでいた。

 つかまれた彼女は振り払うような抵抗もせずに足を止めたものの、こちらへは振り返らない。

 ひとまずは安心して握る手を緩めたものの、完全には離せず、再び黙り込んでしまう俺たち。この沈黙が永遠の別れの前兆になってはたまらないので、恐れながらも俺は口を開く。


「ごめん、わからないのはそうなんだ。自分が本当はどうしたいのか、エミさんに本当はどうしてほしいのか、俺はそんなこともわからないでいるんだ。けどさ……」


 この場で求められている答えではないにしても、何も伝えずにいるよりはいい。

 彼女の腕をつかんでいた手を離して、逃げずに背を向けたまま、おそらくは言葉を待って立っていてくれるエミさんに伝える。


「だけど俺には一つだけわかることがあるんだ。たった一つだけ」


「それは、何?」


「エミさんには幸せでいてほしい。誰よりも笑顔でいてほしいって。俺がそう考えていること。これだけは本当なんだ。本当なんだよ」


 その気持ちの正体が何であったとしても、そう願う感情の前には関係ないじゃないか。

 友達でも、特別な友達でも、恋人であったとしても。

 あるいは、彼女が岸村さんを選んで俺から遠く離れていったとしても。

 笑顔でいられて、幸せで、後悔のない選択を決断してくれたのなら、俺は……。


「ならさ、やっぱり私の答えは一つだよ。バンドの解散は仕方がないって受け入れよう。ボーカルをやめることになったって、それはもうしょうがないんだ」


「でも、でもそれはさ」


「吉永君、だって、どうしたってしょうがないんだよ。さっきも言ったけどさ、私、もう本気になれないんだ。岸村さんに本気では頼めないんだよ」


「……どうして? だって、エミさんは……」


 岸村さんのことが好きなんだよね?

 中学生の頃からずっと片想いしてきたんだよね?

 そう続けたかったこちらの言葉を先んじて否定するように首を振るエミさん。


「今までずっと、私の歌声をほめてくれた岸村さんのことが好きだから、離れ離れになるのが嫌でバンドを守りたいんだって思ってた。でも違うんだ。本当はさ、バンドが好きで、歌うのが好きで、その感情は岸村さんのことが好きだからなんだって、何かを続ける自信がない私は思い込んでたんだ。勘違いしていたんだよ」


「そんなこと……」


「ううん、きっとそうなんだ。岸村さんを好きでなくなったら、その瞬間から私に居場所なんてなくなる。だって岸村さん、人生をかけて真剣に音楽と向き合ってるんだもん。ただ歌うのが好きだからって理由でボーカルを続けるなんて無理だよ。もしも同じバンドにいたいなら、私も同じくらい強く人生をかける理由がなくちゃ駄目なんだ。それが、恋。私の言い訳」


 そこまでを言って、ようやく彼女は体ごとこちらに振り返る。


「だけど、一年前のあの路上ライブで君に勇気をもらったんだ。それはね、最初はボーカルを続けるための勇気だったけどさ、高校に入って再会して、一緒に過ごして、私なんかのために一生懸命になってくれて、いつからだろうな、もっと大きな勇気なんだって私は気づいたんだよ。恋する気持ちがどういうものなのか知りたくて挑戦してみたラブレターを書けなかったのも、どんなに考えたってラブソングの歌詞がちっとも書けないでいるのも、そこにあったのが本物の恋心じゃなかったからなんだって。尊敬もしてる。感謝もしてる。認められたいってずっと願ってた。だけど、だけどね、岸村さんじゃ、岸村さんじゃあ……」


 その先を言葉にできずに、うつむいてしまったエミさんは自分の胸に手を当てる。

 岸村さんじゃ、駄目だった。

 本当の恋心は違うところにある。

 ……でも、じゃあ、それはいったいどこに?

 初めて会ったときに俺は救われて、友達になりたくて、落ち込んでいた彼女の力になりたくて、楽しくて、ずっとそばにいたくて、いつまでも笑顔でいてほしかった。

 それらを一言で表現するなら、エミさんのことを好きになっていた。

 俺の気持ちを、真実の想いを、きちんと知っていてほしい。

 あるいは、彼女にここまで言わせてしまった俺こそが一番知りたい。


「……エミさん、ごめん。今から君にひどいことを言う」


「……え?」


 どういうことなのかと言いたげにエミさんは顔を上げ、まっすぐに俺を見る。

 何をどう言えばいいか、何を伝えたいのか、今日まで悩み、迷い続けてきた。

 その中で一度も言わず、考えもせず、伝えようとも思わなかったことが一つ、のどから口をついて出る。


「ラブソングなんて、もう考えるのをやめよう。作らなくたっていいじゃないか、そんなの」


 やけくそになったのではない。投げやりな気分で言っているのでもない。

 どこまでも真剣な口調で、本気で、これこそ俺がようやく導き出した本心だ。


「愛を歌うラブソングなんて、考えれば考えるほど君の顔しか浮かばなくなる。どんな言葉を選んで、どんな情景を思い浮かべたって、結局はエミさんにつながる。岸村さんのためになんか、本当は考えたくない」


 恋はもう、いいか。

 そんな風に思っていた。

 いや、おそらくは身勝手な恋心が原因で誰かを傷つけるのが怖くて、必死に思い続けようとした。

 あるいは、ようやく見つけた恋心を拒絶されて傷つきたくなくて。


「今までずっと自分をだましてた。けれど、もう、どう頑張ったってごまかせない。本当はしたいんだ。恋が。どうしようもなく誰かとつながりたいんだ。友達でもいいけど、もっと特別になりたい。でもその誰かは誰でもいいわけじゃない。たった一人なんだ。たった一人の……」


 ここまで言って、一番大事で核心的な部分を黙っているわけにはいかない。

 引き下がらない覚悟を決めて、最後まで貫く。


「俺はエミさんのことが大好きなんだ。でもそれは友達じゃない。特別な友達なんかでもない。この胸には熱く燃え上がるような恋心があるんだ。エミさんと恋人になりたい。正真正銘の恋人関係になりたい。だからごめん。どんなに頼まれたって、お願いされたって、本当は君のことを岸村さんに渡したくない。本当は遠くに行かないでほしい。いつまでも俺のそばにいてほしいんだ」


 叫びたいくらいの感情で口にした俺の気持ちが少しでも伝わってくれたのか、見る見るうちにエミさんの両耳が赤く染め上がった。


「えっと、その……ありがとう。でも、それ、本当に恋心なのかな……」


 とだけ言って、恥ずかしがるようなそぶりでエミさんは顔をそらして、胸の前で手を組み合わせる。


「私、不安なんだよ。不安でしょうがないんだ。君は優しいから、いくらでも嘘をついて励ましてくれるんじゃないかって」


「嘘だなんて」


「わかる。わかるけどさ……」


「……エミさん」


 俺は彼女の名前を呼んだ。

 今までの俺がどうして必死になって恋心を否定したがっていたかといえば、自分だけで盛り上がった一方通行のそれが大切な相手を傷つけてしまうからだ。どれだけ相手のことを想っているつもりでも、結局のところは自分本位で独りよがりのそれが、願望や欲求を押し付けるだけの「おねだり」でしかなかったからである。

 でも、もし、大切なその人に受け入れてもらえるのなら。

 喜んでくれるなら。

 その確信があったなら。

 恋はもう、否定する理由がない。


「この気持ちが本当だって、わかってほしい」


 すぐにでも抱きしめられる距離にまで踏み込んで、真正面から彼女の両肩に手を乗せる。

 ようやく認めることのできた恋心を確かなものにしたい。

 確かなものにして、彼女と共有したい。

 だから。


「もし、もしも、エミさんさえよければ……」


 臆病ながらも覚悟を決めて、彼女の両肩に乗せた手に力を込める。


「……うん」


 うなずいた後で緊張したのか彼女の体は硬くなり、感情を隠すように目は閉じられた。

 けれども俺に対する拒絶はなく、彼女の意志で顔が少し上向きにされた。

 すごく近い距離で、何かを待つように。

 だから俺はそれを最終的な答えであると信じた。

 彼女の不安を打ち消してしまえるくらい、もっとはっきりと気持ちを伝えよう。

 そう思って自分の顔を近づけていく。


「んっ……」


 そして唇と唇が触れて、俺たちは初めてのキスをした。

 最後まで拒絶されることなく、俺の恋心を受け入れてもらえたのだ。

 ようやく想いが通じ合えたと知って、たとえようもない喜びがある。どうしようもないほどの幸せが胸に満ちる。

 思わず泣いてしまうんじゃないかと感動するくらいに心がいっぱいになる。


「エミさん……」


 なのに、言葉にできないほどの満足感を覚えていたはずの俺はエミさんの顔を見て心臓が止まりそうになった。

 うまくはできなかったであろうキスが終わり、俺の手を離れたエミさんはほろりと一筋の涙をこぼしていたのだ。

 自分でも泣いていることに気が付いていないようで、え、あれ? と遅れて目元をぬぐう。

 それが最後のきっかけとなったのか、自分の反応が理解できずにいるエミさんの目から次々と涙が流れ始めた。


「しまったな、私、我慢できなくって、こんなに……」


「ご、ごめん……。泣かせるつもりは、俺……」


「……え? あっ!」


 そんな彼女の涙を見て愕然とする俺に気づいたのか、涙を流しながらも彼女が慌てて口を開く。


「いや、これは、違うよ!」


「俺は……きっと君も喜んでくれると……」


「うん、喜んでる! だって、こんなに嬉しくて……! 安心してよ、吉永君! 嬉しくてしょうがないんだよ、私!」


 どうしようもないほどに胸が痛んだ。自己嫌悪せずにはいられなかった。すぐにでもエミさんに謝りたかった。

 けれど、あまりのことに言葉が出てこない。

 血の気が引いていく。視界がくらくらする。

 意識が遠くなるようにしてフラッシュバックするのは、中学生の時に見たハルナ先輩の涙だ。

 あの時に比べれば高校生になって成長したつもりでいたくせに、またしても俺は大切な人を傷つけてしまったのだ。

 彼女の涙が、その現実を痛いまでに突きつける。


「エミさん、俺、そんなつもりは……」


「ち、違う、違うの! だからね、これは、そういうんじゃ……!」


 焦ったように口元を両手で抑えて、距離をとるためか逃げるように一歩下がり、わずかに顔を上げる。

 一目でわかるほどの悲しそうな気配はない。

 表情に出るほどの後悔や拒絶感を見せてはいない。

 だけど、理性や理屈では我慢できないくらいに次から次へとぽろぽろ、ぽろぽろと涙の粒が落ちていく。


「エミさん、俺……君にひどいことを……」


「違うの、これは悲しいとか、そういうことじゃなくって! 嬉しいんだよ、やっと想いが通じたって!」


 しゃべればしゃべるほど声が震えて、沈んではいないのに涙声になった彼女が懸命に弁解する。


「だっ、大丈夫だよ、悲しくて泣いてるんじゃないから……! 謝らないでよ、私、泣いてなんか……!」


 ごしごしと目をこすって、涙を吹き飛ばすように首を振る。

 何をどれほどやったところで意味はなく、俺とのキスがきっかけで泣いてしまったことは隠せなかった。

 もう大丈夫だとアピールするように笑顔を浮かべて、一生懸命に涙をこらえてくれているけれど、その姿こそが、俺を何よりも傷つけた。

 彼女は、優しい。勇気を出した俺を傷つけないようにと、必死になって涙をごまかしてくれている。

 そんな優しい彼女を、俺は……。


「エミさん、ごめん!」


 もはや彼女の前にはいられなかった。

 エミさんが俺の恋心を受け入れてくれたように見えたのは、そして俺のキスを拒絶せずに受け入れてくれたのは、結局のところ友達である俺を傷つけないためでしかないのだ。

 実際のところ、まだ岸村さんへの恋心を忘れられていないのだ。

 自分の感情を押し殺して、新しい恋の相手に俺を選ぼうとした。

 だけど、やっぱり恋心はごまかせず涙は我慢できなかった。

 すなわち俺はエミさんを傷つけてしまった。

 そう考えると、もうこの世界から消え去りたくなってくるほどだった。

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