第13話 エミさん
夏休みが始まってから一週間。夏休みらしい特別の予定というものはなかったけれど、数日おきというか、エミさんがちょっとした夏風邪を引いた一日を除いて、ほとんど毎日のように彼女と二人で遊ぶ約束が入っていた。
いろんなお店をめぐる買い物に出かけたり、世間で話題になっていた映画を見たり、いつものファミレスに寄ったり、勉強をしたり。何かやろうと思って集合したものの、結局は何をすることもなく、ただ一日をぼーっと過ごしたり。
もちろん合間合間にはお互いの意見を交換しながらラブソングの歌詞を考えた。
まるで今のこれがラブソングの歌詞みたいだね、と、思わず言いたくなるような距離感で。
そんな日々を過ごしていた七月の終わりごろ、面白いことを思いついたみたいにエミさんが提案した。
「せっかくだから明日は一緒にプールでも行こうよ。気分転換を兼ねてさ」
「プールか、それはいいかもね。なんたって夏だもんね」
「そうそう。それに、そうやって君と会って確かめたいこともあってさ」
「確かめたいこと?」
「それについては確かめてから言うよ。今は言えないかな」
彼女の確かめたいことが何なのかわからなかったけれど、今は言えないのなら詮索しても意味はないだろう。確かめてから言うとのことなので、これについては待っていればいい。
それにしても女子と一緒にプールである。学校で見慣れた制服でも、休日に見慣れつつある私服でもなく、どうしたって普段よりは露出が多くなる水着姿で二人きりである。
一時は付き合っていたハルナ先輩とさえ、二人では水着になれる場所に行かなかった。小学生の時は他にも男子が何人かいたし、中学生の時は恥ずかしくて海やプールに行きたいなんて言えなかった。
正直、緊張する。
どんな顔をして会えばいいのかもわからない。
たとえ仲のいい友達でも、ろくにしゃべったことのない単なるクラスメイトでも、同じ年頃の女子と二人きりで水着姿になって遊ぶとなれば俺は緊張する。中学生の時の水泳の授業でも、女子が近くに来ただけで緊張した。
だからこれは特別な感情ではない。何かを期待して浮足立っているわけではない。
そう自分に言い聞かせて家を出る。
エミさんとの待ち合わせは市民プール前、よく晴れたおかげで太陽の照りつける午後二時だ。余裕をもって三十分前に到着した俺はエミさんが来ていないことを確認して、頭を冷静にするためにも周囲をうろうろして時間をつぶす。
だがプールでのふるまい方を考えるのに夢中になるあまり遠くまで行きすぎていて、慌てて待ち合わせ場所に戻ったころにはうっかり二時を過ぎていた。エミさんは笑って許してくれたが俺のほうは笑えない。
貴重な三十分をどぶに捨てた気分だ。あとで拾って洗えば何かに活用できないだろうか。
とにもかくにも、おしゃれなサンダルみたいな靴のつま先をトントンとしながらエミさんが申し訳なさそうに言った。
「ごめんね、いきなりプールなんかに誘っちゃって。今年はバンドのみんな……あの二人と泳ぎにいけるような雰囲気じゃなかったからさ」
「今年は……って、じゃあ去年まではあの三人と? 四人で?」
「そりゃまあ、ほかに友達がいなかったからね……」
バンド仲間である三人以外には気軽に遊びに行ける友達がいなかったことを恥じるような口ぶりだが、その必要はない。
先輩がいながら先輩を誘えず、中学三年間は一度も海にもプールにも遊びに行っていない俺は何も言えないのだ。
今年もエミさんに誘われなければプールで遊ぶ機会などなかっただろう。
「それに、意外と安心だったんだよ。なんだかんだお兄ちゃんが守ってくれたからさ。……無防備な水着姿になるのって、いくらプールとはいえ怖いじゃない?」
「孝之さんか。確かに、あの人ならエミさんのことちゃんと守ってくれそう」
「そういえば二人で会ったんだって? お兄ちゃんが君のこと意外といいやつって褒めてたよ。なんか二人が親密になっちゃっていくと友達とお兄ちゃんをいっぺんに取られた気がして複雑だけど、仲良くなってくれるのは嬉しい。これからもよろしくしてあげてよ」
「うん。苦手意識はなくなったかな」
実際、最初に会ったときの苦手意識はすっかりなくなっている。
今までは二人で会うことに抵抗感があったけれど、今後は二人で会う予定を立てることになっても平気なくらいだ。
それはやはり、彼もまたエミさんのことを心配して気にかけていると知れたからだろう。
「それじゃあ更衣室で水着に着替えてから中で落ち合おう。……あのさ、最近ちょっとぼんやりしてる感じもあるから注意しとくけど、ちっちゃな子供じゃないんだから迷わないでよね? 知らない人に声をかけられてもついて行っちゃ駄目だよ」
「わかってるよ。エミさんと一緒にいるのに他の人と遊びたいとは思わない」
「ん……まあ、友達だもんね。私より他の人を優先しないでよ?」
じゃあね、と更衣室へ向かうエミさん。先ほど指摘されたばかりなのに早速ぼんやりして遅れても悪い。無防備な姿で不安がらせてしまうことになるので、彼女を一人で待たせるわけにはいかないと俺も急いで男子用の更衣室に入って水着に着替える。
するすると服を脱いで、海パンを履くだけ。
さすがに早すぎたのか、動き出すのが遅かった俺のほうが先に集合場所についた。
当然のことながら、水着である短パンで隠されている部分以外は肌を露出した裸だ。運動部ではないので健康的というには自信がない。
あまり無理をしない程度に姿勢をよくして、少しだけ腹筋に力を入れて待つ。
「お待たせ。……ね、どうかな? この水着、新しく買ったやつなんだけどさ」
「どうって……」
ちらりと確認すると、エミさんの水着はワンピースタイプのものだった。ビキニタイプのものに比べれば水着としての大胆さはないけれど、よく似合っている。
かわいい、と以前は平気で言えた。
なのに今は不思議と冗談じみた口調でも言えなくなった。
まともに見ていられず、心が冷静になっていられず顔をそらす。
えへへ、といった感じでエミさんもそらした。
「やっぱ恥ずかしいか。真正面からじろじろ観察しあうってのもね」
「そりゃあね。でも、その、似合ってるよ。……とりあえずプールに入ろう」
そうすれば気持ちが熱くなるのをごまかせる。ドキドキする胸の鼓動もちょっとくらいは落ち着いてくれるだろうし、感情の火照りを少しくらいはクールダウンできる。
いっそ思いっきり泳ぎ回っていれば疲労で頭がいっぱいになって、邪心や煩悩を忘れ去れるかもしれない。
あまりエミさんのほうを見ないように覚悟を決めて準備体操に励んでいると、その横で彼女がフーフーと浮き輪に空気を吹き込み始めた。どうやらプールで使うらしい。
ゆっくり、ゆっくりと膨らんでいって、途中で止まる。顔が真っ赤だ。
「肺活量……」
ぼそりとつぶやいた彼女がちらりと俺の顔を見る。言葉にはされずとも、頼られているというのが気配でわかる。
浮き輪か。近くには空気入れのような道具は見当たらない。
どうしようか迷って、友達、友達と念じながら途中まで膨らんでいた浮き輪を受け取る。
そして無心になって口をつけ、息を吹き込む。
「ありがとう。これでもボーカルなんだから鍛えないと駄目だな、私。浮き輪くらい難なく膨らませられなきゃ」
「き、気にしないで……。たぶん歌の技術と体力的なものとは別だと思うし……」
励ますつもりで声を出すのもやっと。肺活量は俺もぎりぎりだった。
「実はもう一個あるんだけど。大丈夫? 無理そうなら私がやるよ。それともまた途中までやってからがいい?」
「……大丈夫。今度は最初から俺がやるよ」
「うん、じゃあお願い」
同じ場所に口をつけて息を吹き込むとなれば、二度目はさすがに意識せずにはいられない。
友達同士であれば、些細な間接キスなど気にするほうがおかしいとしても。
酸欠気味になってくらくらしそうになるけれど、倒れまいと足を踏ん張って息を吹き込む。
「ありがとう。その浮き輪は吉永君が使って。二人で一緒に浮いて楽しもうよ」
それでいいのかと我ながら思うプールの遊び方。泳がずに、歩きもせずに、浮き輪を使ってぷかぷかと浮いているだけ。
ちょっとしたバタ足もせず、手を使って水をかけあうこともしない。
数分間は、本当にそれだけで経過した。
「なんか温泉に入っているみたい。こんな感じでプールを満喫できてるのかな。水に浮いてるのって気持ちいいからいいけど」
「温泉かぁ……。次は温泉もいいよね」
「いいよねって、さすがに二人で温泉旅行は無理だよ。行くならお兄ちゃんも一緒かな」
それも悪くないな、と今なら思える。たとえ遠くに旅行することになって連泊することになるとしても、以前の合宿の時ほどの気まずさや息苦しさは感じられないからだ。
ただし、その場合、今もまだバンドの仲間である岸村さんを彼女は誘うんだろうか。
なんにせよ混浴風呂には入らないだろうから、何かの間違いで俺とエミさんの二人きりでの温泉旅行が実現したとしても、今みたいに並んで浸かることはできないだろうけど。
ともかくも、そんな調子でのんびりと二人でプールを二時間くらい楽しんだ。
浮き輪の空気を抜いて小さくへこませてから男女に分かれた更衣室で服に着替えて、最初に待ち合わせた時のように市民プールの出口で再会する。
「さすがに疲れたね。でも今日は楽しかったよ。吉永君を誘ってよかった」
「それはよかった。夏のプールだっていうのにあまりにもテンションが低くてさ、途中から俺といるのが退屈なんじゃないかって不安にもなってきたから」
「……それ、言うほど不安になってた?」
さりげない質問。なのに、どことなく本質に迫る気配もある。
どちらにしても適当には答えられない。
「……いや、そういう不安は感じなかったよ。騒がなかったってだけで、俺も楽しかったから」
なので、きっとエミさんも同じように楽しんでくれているという信頼があった。
これは甘えだろうか。一方的な期待の押し付けなのだろうか。
あるいは、これこそが友達なのか。
「楽しいときは楽しそうに元気よくはしゃがなくちゃって、誰かと一緒にいるとき、昔は無理してた。いつでもニコニコしてないと、機嫌が悪いのかって言われるし」
「うん。なんとなくわかる」
「だからさ、なおさら思うんだ。君とこうやって遊ぶ人生もいいかもね。歌うのは好きだけど、歌うだけならカラオケだっていいしさ」
確かに、これは、この人生は楽しい。
無理をしないで友達と遊んで過ごす日々は楽しくて仕方がない。
けれども、やっぱりそれは彼女の弱音なのだ。共感はできても、簡単には同意できない。
ずっと好きだった岸村さんや、自分の居場所に感じていたバンドのことをあきらめ、すべてに後ろ向きになった彼女が一種の自暴自棄になっているんじゃないか。
そう思うと、大切な存在として俺を受け入れてくれているような彼女の心に寄り添うことに対して、あまりにも強い力で心理的なブレーキを踏みたがる。
本当はどこまでも近づいていきたいのに。
すぐにでも手を取り合いたいのに。
恋心は……俺の恋心は、思春期のおねだりなのだ。
「でも、やりたいことはやるべきだよ」
「……やりたいこと。やりたいことかぁ」
暗にボーカルは続けるべきだ、バンドは続けるべきだ、岸村さんへの恋心は簡単にあきらめちゃいけないと伝える。
それこそが君のやりたいことだから。大切なものだからと伝える思いで。
結論が出たのか出ないのか、しばらく視線を泳がせていた彼女がこちらを見る。
「私、確かめたいことがあるって言ったよね」
「うん、言ってた。確かめてから言うって話だったけど……」
どうだった? とは口にせず尋ねてみる。
どこを見ているのか、いつもより時間をかけて何度かまばたきしたエミさんがまだ濡れている髪を指でいじり、舞わせるには弱い風を感じながらうなずく。
「たぶんそうなんだろうなって思っていたことは確信に変わった。でもごめん、まだ君には言わない。今ここでそれを言ったって、なんか君はさ……」
心にもないことを言いそうだから。
エミさんが今までになく切なげに、寂しそうに微笑む。
「いくらプールで遊びたいって言ってもさ、ただの友達に過ぎない男子を誘って二人きりでは行かないよ。そういうのを気にしない人もいるだろうけど、私はね」
つまり、彼女は俺のことを特別な友達だと言ってくれている。
その特別さとは、彼女にとってどのような意味を持っているのだろう。
俺にとっての彼女の特別さとは、いったい……。
「気分転換だって、夏休みだからプールで遊びたいんだって、そう言って誘ったけどさ、吉永君もそう思って来てくれたの?」
「……どういうこと?」
「つまりさ、友達と遊びたいって以外に他意は……いや、そうだね。君に他意はないもんね」
まるでそれは、彼女には何らかの他意があるみたいで。
「ごめん。変なこと言ってるかも。今日の私さ、たぶん冷静じゃないくらいドキドキしたんだ」
そう言って別れることになったその日は、やけに悶々として眠れなかった。
夏休みが始まって七月が過ぎると、じわじわと蒸し暑さを増していく八月になった。
残すは一か月ほど。すでに俺はほとんどの課題を終わらせており、明日から新学期になっても万全の状態だった。なんなら忙しそうにしている他人の課題もこなしてバイト代を稼ぎたいくらいだ。
と、そんなことをぼんやり考えていたら俺のスマホにメッセージが入った。
エミさんである。
――明日のバイト終わり、岸村さんが君と二人で話したいってさ。
――わかった。ありがとう。時間と場所を教えてくれる?
――いやいや、いい加減に岸村さんとも連絡先交換しなよ。
などと言いながらも間に入って俺と岸村さんの予定を取り付けてくれたエミさん。
ありがたい。
なんといっても友達というには距離感がある大学生と一対一で向き合うのが不安で、恥ずかしながら俺はエミさん以外の三人とはろくにスマホでやり取りしたことがなかったのだ。
ただし、最近になって孝之さんとだけはスマホの連絡先を交換して簡単な雑談程度ならするようになった。
子分扱いされている気もするけど、意外と気さくでいい人だ。
――でもお兄ちゃんみたく、私抜きで仲良くなられるのも複雑。
――じゃあ明日エミさんも来る?
――いや、いい。岸村さんと会ってもな。君と二人のとき誘って。
――そっか。わかった。またすぐにでも誘うよ。
というわけで翌日。ギターがうまいバンドマンの大学生に負けじと気分だけでも大きくするために最大限のおしゃれを着込んだ俺は岸村さんと待ち合わせていた場所に向かった。
ほぼ時間通りに公園の入り口で岸村さんと合流して、バイト帰りで落ち着いたファッションを見て慌てて帽子とサングラスをカバンにしまった後、エスコートされるまま木陰にあるベンチへ向かう。
バイト先がどこかは知らないけど、半日ほど働いてきたというのに疲労した様子の見えない岸村さんは俺のすぐ隣、缶ジュース一本分くらいのスペースを空けて座った。
「ほら、飲み物だ。何を飲むかわからんけど缶コーヒーでよかったか?」
「無糖じゃないなら」
「……すまん、買いなおしてくる。気が利かなくて悪かったな」
「あ、大丈夫です! 今のは冗談で! 実は最近ブラックがおいしくて!」
孝之さんと喫茶店で会話をした後、今後も会う予定があるなら飲めるようになっておこうとブラックコーヒーに挑戦するようになっていたので、最初のころよりは平気で飲めるようになってきた。
やっぱり何事も慣れは大事だ。
まだおいしくは感じられなかったけれど。
「ところでその、今日の用事というのは?」
ちょびちょびと飲んだコーヒーが底をつき、することがなくなった俺は沈黙を貫き通していた岸村さんに思い切って尋ねた。その表情はいつになく深刻で、楽しい話ではなく重要な話があるに違いない。
岸村さんのほうから言い出しにくい話題となれば、それは間違いなく俺にとっても心苦しいものであろう。
からかっているような含み笑いを浮かべつつ、岸村さんは視線を横に動かして俺の顔を見た。
「……孝之から聞いたぜ。お前が俺をなんとかするって話。バンドの解散を思いとどまらせるために説得するんだって?」
「えっと……」
たまらず俺は絶句した。
続けるべき言葉が思い浮かばず、所在なく指を膝の上でもじもじさせる。
新人教育のため、あえて難しいプロジェクトを任せたスパルタ上司みたいな岸村さんの視線から逃れるように顔をそらす。というか孝之さん、どうしてそれを本人に言ってしまったんだ。まだ作戦も何も立てられていない。
「さあ、なんとかしてくれよ。バンドの方針に関する孝之との話し合いはもう終わったが、お前の話なら聞いてやらないこともない。もっとも、それなりの覚悟で俺と向き合ってくれるならな」
駄目だ逃げられない。人間性と同じくらい小さな俺の肩に、重たいギターでさえ難なく弾ける岸村さんの大きな手が乗り、ずしりと重みを増した。
とにかく俺は考えた。必死に頭をひねって考えた。
この場で考えられることは限られているにしても、まずは時間稼ぎを兼ねて頭を下げる。
「俺の話を聞いてくれるということで、ありがとうございます。ですが岸村さん、その前に教えてください。今、一番の問題は何なんですか? 孝之さんが自由にギターを弾かせてくれないって言ってましたけど、具体的には……」
正直なところ、今さら俺ごときが何をやっても解散を阻止できるとは思えない。
それでも可能性があるとすれば、方法は一つ。バンドの継続を阻害している具体的な問題さえ解決できれば、あるいは……。
突然、岸村さんはベンチから立ち上がる。その手には飲み終えたのか空き缶を持ち、くるくると遊ぶように回していた。
振り返ると俺に目配せして左手を出す。
「お前のも空になったんだよな? 飲み上げたんだろ?」
「ごめんなさい」
「別に飲ませてほしかったわけじゃねぇよ、お前が謝る必要はない」
いともたやすく俺の手から空き缶を取り上げた岸村さんは少し離れたゴミ箱まで捨てに行くと、何を考えているのか、物憂げな深呼吸をやってから戻ってきた。
先ほどのようにベンチには座らず、回り込んでベンチの背後に立つ。
そして背もたれに両手をつき、前傾姿勢になって会話を再開した。
「俺はさ、音楽が恋人なんだ。それは聞いてくれたよな?」
「ええ、合宿の夜に聞きました。すごいって思いました」
「……すごいかどうかは別として」
前のめりになって体重を乗せていたベンチの背もたれから手を離すと、岸村さんは右手を座っている俺の左肩に乗せた。
「大切な恋人が寝取られたら、そりゃいい気持ちがしないだろ?」
「それは……そうですね。いい気持ちはしないと思います」
そんな経験はないから偉そうに語れるほどの実感があるわけではないものの、おそらくは、いい気持ちがしないどころの話ではないだろう。想像しただけでも胸が痛くなってくる。
怒り、恨み、悲しみ、絶望、あらゆる負の感情が強く刺激され、心が壊れてしまいかねない。
とりあえず同意してうなずくと、言いたいことが伝わったと思ったのか嬉しそうに肩をポンポン叩かれた。
本当の意味で理解や共感ができているわけではない。
俺は少しだけ振り返り、上目遣いに岸村さんを視界の隅に入れた。
すると反応があった。
「……なんていうかさ、あいつは俺に気持ちよく弾かせてくれないんだ。俺の思うようには演奏させてくれないんだよ」
ここまでの話の流れで明言されるまでもなくわかる。あいつとは察するに孝之さんのことだろう。
要するに孝之さんが自由にギターを弾かせてはくれない、という話なのだろう。
以前までの俺なら簡単に同意できた。
だけど今の俺は孝之さんの人となりを好意的に理解し始めていたので、誰かが仲介人として間に立ったうえで二人が話し合えば解決できるような問題にも思えた。
どちらが悪いという話ではない。
二人の間に悲しいすれ違いが起きているだけだと思って。
「気持ちよくって、思うようにって、具体的にはどういう……」
少なくとも現時点においては二人のどちらとも敵対していない俺が交渉役になろうと決意して尋ねようとしたら、最後まで言い切る前に強い口調で岸村さんが問い返してくる。
「どういうって、音楽を本気でやってないお前に言葉で説明して理解してくれるのか? そんなお前に俺は我慢して今のバンドで演奏しろと説得されなくちゃいけないのか? 孝之が言うならわかる。エミが言うならわかる。でもお前に言われて俺は自分の人生を捻じ曲げる必要があるのか?」
俺は口をつぐんだ。思わず舌をかんでしまって血の味を噛み締める。苦味や酸味しかないブラックコーヒーよりはおいしいじゃないか、なんて馬鹿なことを考えたところで首を横に振る。
いつも優しくしてくれるから勘違いしていた。気遣ってくれるからバンドの一員みたいな気持ちでいた。
卑屈になるわけではなく、事実として、所詮は俺なんて部外者なのだ。
専門的な意味では音楽のことを何も知らない普通の高校生なのだ。
人生をかけて真剣に音楽と向き合っている岸村さんに軽々しく何かを要求することなんてできない。
自分が解散を阻止するんだと思いあがっていたことが恥ずかしくなってくる。
「……すみませんでした」
「わかってくれればいい。俺の意思を伝えただけだ。別に怒っちゃいない」
表面上の言葉を信じるなら怒ってはいないらしいが、いつもより冷たく感じる岸村さんの声は全然笑っていなかった。
自分の音楽と真剣に向き合うため、友達だった孝之さんとのバンドは解散することを決めた彼に対して、それを思い直せと言っているのだ。
当然、あまりいい気持ちがしなかったのだろう。
今後の人生を左右しかねない話題について言及するからには俺も真剣に考えなければならない。
現在のバンドを続けるか、やめるか。その決断は彼の大学生活だけでなく、その後の進路までを大きく変えてしまう。プロの音楽家になれるかどうか、それさえも運命づけてしまう。
しかし、そう思えば思うほど、臆病になった俺は何を言えばいいのかわからなくなる。
失言を恐れて黙り込むしかなくなる。
いつまで待っていても進展のない話を変えるためなのか、明るい調子で岸村さんが言った。
「ところで、一つ気になることがあるんだが。お前さ、エミとはどうなっているんだ?」
それをあなたが聞いてくるんですか、とは言えず。苦々しい思いで岸村さんに対して沈黙を貫き通した。
ところが岸村さんは最初から俺の答えなど期待していなかったのか、ひとりでに語り始めた。
余計なことをしゃべらなくてよかったと、俺は黙って耳を傾ける。
「友達だけあって譲れないものもあった孝之や菅井とは違って、あいつだけは俺の音楽を理解してくれているようだった。特に最近、そのことがよくわかってきたんだ」
そして岸村さんは俺の肩から手を離し、おそらく視線もそらして、感情を感じさせぬ声で続けた。
「エミが頼むならいいぜ」
「……え?」
「今もお前たちが考え続けているっていうラブソングの歌詞を完成させて、ボーカルとしてのエミが俺に頼むならいい。今のバンドを続けてくれ、一緒にバンドをやってくれって、本人が本気で希望して頼むならな」
それがどんな意味を伴っているのか、どんな意図を持った発言なのか、返事をするまでの短い時間の中でたくさんの可能性を必死になって考えてみたけれど、簡単には判断が付かない。
でも、岸村さんがボーカルとしてのエミさんの力を認めていることだけは確かだ。
岸村さんのギターに合わせてエミさんが歌ってくれるなら、どんなに喧嘩することになっても孝之さんと一緒のバンドを続けてもいいと言ってくれたのだ。
どうしてそれほどまでにエミさんを、という嫉妬じみた疑問が心の奥底から湧き上がってきて俺はこぶしを握り締める。
感情を殺して、声を低くして伝える。
「岸村さん。なら大丈夫です。エミさんは望んでますよ」
「吉永。俺は本人が、本気でって言ったぞ。誰かの意志で迷いながら歌うボーカルはいらない」
それきりたいした会話もなく、俺は岸村さんと別れた。
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