第15話 先輩
その後の俺は驚くほど正直に落ち込んでいた。食事はろくに喉を通らず、夜になってもなかなか眠れず、毎日ベッドから起き上がることもなくなっていた。
恋なんてもうできない。
しちゃいけない。
世界に紹介しよう、俺は最低最悪の男子高校生だ。
これからの人生に自信がなくなって、一生このまま引きこもっていたくなる。
八月ということもあり、まだ世間は夏休み期間中だったことが幸いした。部屋から出ることがなくなっても大きな問題にはならない。どうせ今は多くの少年少女が長期休暇の真っ只中なのだ。探せば一人くらい俺と同じように自堕落な生活を送っている人間もいるだろう。
とはいえ、やはり身近な人たちに心配をかけてしまうのは避けられなかった。ベッドの中で落ち込んでいる間には、いつもは厳しい父も元気を出すようにと謎のお土産をたくさん買ってきてくれたし、母にいたっては毎晩俺の好物ばかりを食卓に用意してくれた。
けれど一方で、最初の数回の連絡を無視して以降、先輩からの連絡はなくなった。校内新聞を発行しなくなる夏休みはほとんど部活が休みとなり、俺の予定表に書かれているのは月水金と週に三回ある定期報告会という名の雑談デーくらいなものだったが、それさえも無断欠席していたのだ。
実際には夏休みにも部活の大会や地域の行事などがあって、新聞部は写真部と協力して取材をして二学期の新聞に向けた記事を作るそうだが、その仕事を先輩は一つとして俺に回さなかった。
たぶん、休みたくなるほどの事情があると思われて気を遣われていたのだろう。
「すみませーん」
という男子高校生の声。お客さんだ。あいにく俺に男子の友達はいないので、夏休みを利用して遊びに来たクラスメイトという可能性はないだろう。
はいはーいと母親が出て、用件を聞いて帰ってもらうのかと思っていたら家に上げた。もしかしたら親戚に高校生くらいの男がいたのかもしれない。俺が知らないだけで母親とも仲が良く、誰それが最近どうなった、という具合の親戚トークをするのかも。最近はカレンダーさえ確認していないので正確な日にちはわからないけれど、たぶん時期的にはお盆の時期の前後だろうから、一年ぶりに里帰りした親についてきたとか。
そう思っていたら、リビングを無視して廊下を歩いてきた来客によって俺の部屋のドアが叩かれた。
まさか用事は俺にあるのか。
怖い。
「吉永、入るぜ」
「え、大野先輩?」
それは俺の知らない親戚の男子高校生などではなく、同じ高校に通う大野先輩だった。小学生のころの知り合いであり、高校に入ってすぐ、廊下で立ち尽くしていた俺を新聞部の部室まで連れて行ってくれた二年生の先輩だ。
とはいえ関係性としてはそこまでだ。あの時以来、ただの一度も姿を見かけていない幽霊部員である。
無関係とまでは言い切れないにしても、友達というには距離がありすぎる。
そんな彼がどうして俺の家を訪ねてきたのだろう。
「お前、最近部活に顔を出していないんだって?」
他の誰に言われても、大野先輩にだけは言われたくない。
思わずむっとしたけれど相手は年上だ。怒らせてしまうとやはり怖い。
不快な感情は表情にも態度にも出さず、腰かけたベッドの上で背筋を正して謙虚に答える。
「そうですけど……それが何か?」
「心配だ」
「大野先輩……」
「いや、お前じゃなくて鈴木が。部長な」
「ああ」
思い悩んでいる俺のことを心配して様子を見に来てくれたのかと思えば、彼が心配しているのはハルナ先輩のことらしい。
そのほうが動機としては納得できるので不思議でも意外でもないけれど。
「俺が顔を出せない代わりに部員として誘ったのに、しばらく部室に行ってないそうじゃないか。おかげで鈴木が一人で部活をやってる。心配だ」
「そんなに心配なら幽霊部員をやめて大野先輩が部活を手伝えばいいじゃないですか。部室に顔を出せないって、どんな悪いことをやったのか知りませんけど」
うじうじしていて戦力にならない俺を引っ張り出すよりも、そのほうが早いし簡単だ。とんでもない失敗をしでかして先輩に迷惑をかけていたとしても、ハルナ先輩であれば反省して謝れば許してくれる。
貴重な夏休みを使って俺の家に来るほど心配なら自分で手伝いに行ったほうがいい。
ところがそれは難しいらしい。
どんな悪いことをやったのか知りませんけど、と聞いて大野先輩はこの世の終わりみたいな顔をする。
「振られたんだ……」
「え?」
「新学期が始まる前さ、一年の三月に告白して振られたんだ。思い切って好きだと告白して、はっきりと断られて玉砕した。ごめんなさいって謝られた。そんな俺が二人きりの部室に顔を出せるか?」
いや、出せない。そう言った大野先輩の顔は今にも泣きそうなほど情けなくなっている。過去のことだと笑って話すにはまだ時間が足りず、今も失恋を引きずっているのだろう。
だけど、そんな彼を俺はちっとも笑えなかった。
彼の気持ちは痛いほど理解できる。恋愛で失敗した経験は俺にもあるからだ。しかも一度ではなく二度までも。もともと世界から消えたいくらいに落ち込んでいたこともあり、こっちまで泣きたい気分になる。
うんともすんとも言えずに黙っていたら涙声で話が続いた。
「せめてもの罪滅ぼしのために、部員を一人くらい連れて行かなくちゃならんと思ってな。焦っていたあまり、お前には悪いことをした。新聞部と聞いて逃げたがってる気配は感じたけど、無理やりに背を押して……」
「そうだったんですか……」
ようやくあの時の事情を理解することができて、俺としてはすっきりした。
確かに強引で無理やりだったけれど、こちらの返事を待つことなく新聞部に連れ込んだ彼を恨んではいない。むしろ今では感謝しているくらいだ。
会話が弾むような明るい話題ではないけれど、同じような経験をしたという彼には伝えておきたい。
あまり暗くなりすぎないように意識して打ち明ける。
「大野先輩、実は俺も振られたんです」
「え? 振られたって、誰に?」
「中学二年生の時、ハルナ先輩に。それだけじゃないですよ。つい最近、また失恋したんです。しかも相手を傷つけて、泣かせてしまって……」
「そうか、だから部活にも顔を出せずにいたのか。部活が面倒になってサボっていたわけじゃないんだな」
「……はい」
そっと差し出したティッシュで涙をぬぐった大野先輩はうんうんとうなずき、やがて何かを決心したのか右こぶしをぐっと握りしめる。
「よし。決めた。今日から俺も部活を手伝う。だからお前も今日から部活に復帰しろ。自分の恋心を押し付けようとして失恋した愚か者同士、二人で鈴木に罪滅ぼしだ。逃げたがるならまた強引に手を引いて無理やりに背中を押してやる。それが嫌なら自分の足で歩け」
とんでもなく強引だ。
でもその強引さに助けられる。
けれど今度ばかりは何もかもを流されて決めるわけにはいかない。
大野先輩が言ったから、だけではあまりにも無責任で受動的すぎるではないか。
何をするにしても、ちゃんと自分の意志で決めて動かなければ。
「わかりました。だったら、自分の足で行くことを選びます」
「よく言った。さすが俺が見込んだ後輩だ」
「けど大野先輩、部室に顔を出す前に一つだけいいですか。罪滅ぼしって考え方は改めてほしいんです。それはハルナ先輩が喜ばないから。もしも告白するまでの一年間を楽しく過ごせていたのなら、その時の気持ちで、その時の関係性を大事にしてほしいんです」
「……言わんとすることはわかる。こっちが申し訳なさそうにすれば、向こうも申し訳なさそうにしてしまう。彼女に対して罪の意識を抱けば、抱かせてしまう。そんな奴だよな、鈴木は。だから俺が恋をしたんだが」
「なら……」
「わかってる。任せろ」
そう言った大野先輩に馴れ馴れしく肩を組まれ、二人そろって部室へ向かうことになった。
だらしない私服で行くわけにもいかないので、きっちりと制服に着替えてから家を出る。
「実は、部活に来なくなったお前のことを心配して俺に連絡をくれたのが鈴木なんだ。後輩で部員なんだし家も知ってるんだから自分で行けばいいのに、どうして俺を……って思っていたけど、事情が事情だけに家を訪ねにくかったのかもしれないな」
「そうだったんですか。部室には顔を出せないって言ってましたけど、普段から先輩とは連絡を? 直接会うのが駄目だっただけで、スマホなら平気だったんですか?」
「いいや、違う。いくらスマホ越しだからって、鈴木から連絡が来たのは俺が告白して失恋して以来、初めてだ。だからよほどのことだと思ってお前の家に行った。何か表沙汰にできない事件に巻き込まれたんじゃないかって覚悟してたくらいだ」
「……すみません。本当は失恋して引きこもってただけなのに」
「恥じるなよ。それくらい本気だったってことだろ?」
「……はい」
それだけは間違いない。
結果的に過ちを犯してしまったとはいえ、俺はいい加減な気持ちで彼女を傷つけたかったわけではない。
「だったらしゃんと顔を上げろ。お前が落ち込んでると鈴木まで落ち込ませてしまう。ほら、部室だ。扉を開けるぜ」
「今度は逃げないでくださいよ」
「まあ見てろ」
やはりノックもなくガチャっとドアを開けた大野先輩。
今回は俺の背中を押すことなく、自分から先に足を踏み入れると勢い良く頭を下げた。
「すまん、鈴木! 俺は自堕落な人間だから新聞を作るのが面倒になってサボってた! 面倒ごとを頼まれるのも嫌で連絡もせずに休み続けて悪かったな!」
それから俺の手を引っ張って横に立たせる。
「なんでも後輩が入ったんだってな! よし、これからこいつの指導は俺に任せてくれ! 久しぶりなんで仕事の内容を忘れているかもしれんが、一年間やってきたノウハウを叩き込んでやるぜ!」
その声を聞き、一人でいたハルナ先輩が部長専用の椅子から立ち上がった。
「大野君……」
ここまで来てくれたことに対する感謝なのか、ここまで来させてしまったことに対する罪悪感なのか、今にも先輩は泣いてしまいそうだ。
落ち込ませてはいけない。泣かせてしまうなんてもってのほかだ。
続けて何かを言われてしまう前に、大野先輩が大げさに胸を張る。
「忙しくて猫の手も借りたいときに幽霊部員が復活したからって、そんな泣きそうになるくらい喜ぶことはないだろ! 戦力が増えたんだから笑ってくれ! はっはっは! ミスばかりで修正の手間も増えるかもしれんがな! で、今日は何をすればいいんだ? 早速仕事を始めようじゃないか!」
有無を言わせず長机の前に立って、どれどれと紙の資料を眺めながら作業に入る。それは彼にとっての大切な関係性を取り戻すための振る舞いだ。
気まずくないはずがない。恥ずかしくないはずがない。罪悪感や申し訳なさがなくなっているわけでもない。
それでも大野先輩は笑顔を浮かべて、新聞部の部員としてハルナ先輩の力になろうとしているのだ。
「先輩、俺もすみませんでした。心配させてしまったみたいですけど、何かあったわけじゃないんです。調子に乗って遊んでいたら夏バテしちゃって。連絡するのも面倒なくらいだるくて、部活をサボってただけなんです」
「カズ君……」
「サボってたくらいで泣きそうな顔しないでくださいよ、ハルナ先輩。いつもみたいにカズ君! って言って怒ってください」
「……うん、そうだね」
そう言って涙をぬぐった先輩は俺が望んだとおりに名前を呼ぶ。
「カズ君!」
でも、それは、怒っているというよりもすごく嬉しそうだった。
……ああ、そうだ。
どんなに失敗して、どんなに情けなくても、俺は優しい人に囲まれて生きているんだな、と強く思える。
昔から今まで、おそらく自分が知らないところでも、誰かに支えられながら生きてきたんだな、と。
「俺、これから頑張ります。今まで以上に力になります」
それからはハルナ先輩と大野先輩、そして俺の三人で夏休みの部活に精を出した。校内新聞を張り出す時期ではないから忙しくする必要もないのだけれど、無理をして毎日予定を作り、みんなで精一杯に活動した。
それはとても充実した夏休みで、かけがえのない青春の一ページではあったものの……。
やはり俺の心にはいつまでも、身勝手な理由で傷つけてしまったエミさんに対する後悔と自責の念が渦巻き続けた。
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