第12話 孝之さん

 夏休みを迎えて数日が経過した。

 たっぷりと時間のある退屈な夜のうちに夏休みの課題を進めておこうと集中して机に向かっていると、さっき休憩のため横になったときにベッドの枕元に放置したスマホがピコンと通知音を立てた。

 気配もなく背後に立っていた人物に肩を叩かれた気分で、びっくりしたので心臓に悪い。

 小さな音ではあるのに不意打ちを食らった俺は椅子からひっくり返りそうになりながらも、まあ電話じゃないなら急がなくてもいいかと勉強の手を止めて、のんびりとベッドに腰かけて確認する。


 ――明日、バンドのメンバーで集まるんだけど吉永君もくる?


 予想はついていたものの、やっぱりエミさんからの連絡だ。

 そばにあった枕を胸に抱えて、何か気の利いた返事はできないだろうかと数秒程度じっくり考えて、ベッドに倒れて考えることをやめる。

 また長々と雑談が始まって夜遅くに「おやすみ」のタイミングを待つのでは眠れなくなってしまいかねないと、ここは単純に「行くよ。時間と場所を教えて」とだけ返信した。

 さて、少しだけ寝坊した翌日。

 すでに七月の時点で夏バテを感じる軟弱な体を酷使して待ち合わせ場所に向かうと、約束の五分前に到着して声をかける前に足が止まって回れ右をしたくなった。

 そこに不服そうな顔つきで待っていた人物はこともあろうにエミさんの兄である孝之さん、ただ一人だったのだ。あまり親しくない男子大学生と二人きり。しゃべることもないのでは気まずさもここに極まれり。

 だがあちらの話も聞かず、ばれないうちに引き返せと逃げるわけにもいかない。エミさんや岸村さんは用事があって一時的に離れているだけかもしれないのだ。

 念のためにスマホを確認しても昨夜遅くの「おやすみ」以降、特別の連絡はない。

 覚悟を決めた俺は腹に力を込めると、いかにも夏休みの大学生らしいラフな格好をしている孝之さんの前へと進み出た。

 こちらに気付いた孝之さんは億劫そうに片手を挙げると、薄着でも耐えられない暑さに負けたみたいに気だるげに俺を迎えた。そんな仲でもないので当然ながら、歓迎するような挨拶の言葉はない。


「あの、他の人は? 姿が見えませんけれど」


 ああ、そりゃあな。と孝之さんは事務的な声で説明する。


「ちょっとした微熱だったがエミは薄着で夜更かしをしたせいで夏風邪を引きやがって、ひどくなると大変だから用心のため休ませた。岸村は緊急でバイトのシフトが入ったらしい。詳しくは知らん」


「えっと、それじゃあ……」


「ああ、今日はお前と二人きりだよ、二人きり」


 うわぁ……と、寸前まで出掛かった深いため息をぐっと堪えた。

 ここであからさまに嫌がる顔を見せてしまうと本格的に孝之さんから嫌われてしまいかねない。エミさんの兄、つまり大切な友達の兄なのだ。

 今後のことを考えると、苦手な人だとしても仲をこじらせてしまうわけにはいかない。


「おとなしく休んでろって言ってんのに不服そうなあいつはお前に『今日の予定は中止になった』って連絡をしたがってたが、寝ろ寝ろと言ってスマホを取り上げてやめさせたんだ。よく考えたら、今までお前とは二人で話をしたことがなかったからな。いい機会だと思って俺が一人で来てやった」


「そうですね。いい機会ですね」


「どうせ愛想笑いを浮かべるならもっと嬉しそうにやれよ」


「あ、はい……」


 頑張って挑戦した慣れない愛想笑いは失敗していたらしい。今後のためにも相手を不快にさせない程度の笑顔を出せるように練習しておく必要があるだろう。一番は誰に対しても苦手意識をなくしてしまうことだけど。

 ともかく、それから俺は孝之さんの後をついていく形で喫茶店に連れて行かれた。

 よく利用しているファミレスとは違い、バックグラウンドにジャズが流れている落ち着いた雰囲気の喫茶店である。


「で、お前はどうすんだ?」


 ほろ苦いコーヒーを一口ずつちびちびと飲みながら、馬鹿にされたくなくて見栄なんか張らずに甘くて冷たいミルクコーヒーにするべきだったと後悔していたときのことだ。

 孝之さんは顔を横に向けたまま素っ気ない風を装って、俺にそんなことを尋ねてきた。


「どうする、とは?」


「俺とお前の間でどうするって言ったら、そりゃ俺たちのバンドのことに決まっているだろ。新曲の作詞に名乗り出ていたエミに協力して、今度こそ最高のラブソングの歌詞を作るとか言ってたじゃねえか。でもバンドは解散寸前。そうなりゃ歌詞はいらなくなる」


「そうですけど……」


「で、最初の質問に戻るわけだ。お前はどうするつもりなんだ? やめるなら今のうちだぜ」


「いや、それは……」


 エミさんのため、バンドのため、ラブソングの歌詞のために自分に何ができるのか、何がしたいのか。

 迷ってすぐには反応できない。

 でも、どんなに考えたって今の俺が出せる答えは結局のところ一つだ。

 甘ったれた心に気合を入れるためカップを豪快に傾けてブラックコーヒーを口に流し込み、ごくりと飲み込んでから孝之さんへの決意表明のつもりで力強く答える。


「エミさんに協力している作詞の件ですが、やめるつもりはありません。俺たちで最高のラブソングを作ってみせます」


「あっそ。お前らが完成させたところで無駄に終わると思うけどな」


 尋ねてきておきながら興味なさげに対応した孝之さんは深く背もたれに体重をかける。

 そして右手でパチンと指を鳴らそうとして失敗した。


「それにさ、もう俺は今のバンドじゃなくて新しいバンドに入ろうと思っているわけだ。お前はエミから聞いたか? あいつも新バンドに引き込むつもりなんだが」


「ぶふぉっ! けほっ、こほっ!」


 エミさんが、新しいバンドに?

 腹の底まで飲み干したつもりだったコーヒーにむせてしまい、ゲホゲホと喉を傷めた俺はしばし呼吸困難に陥る。


「大丈夫か? とりあえずこれで口と涙をふけよ」


「あ、ありがとうございます」


 テーブル越しに差し出されたポケットティッシュを数枚ほど受け取ると、すぐさまいっぱいに広げて顔を覆い隠す。

 涙目になりながら数回ほどケホケホと咳をして、んんっと喉を整えてから会話を再開する。


「あの、新しいバンドって? 岸村さんは?」


「知らん、勝手にやるだろ。どうしても気になるなら本人に聞け」


 きつく眉根を寄せて、路上に落ちていた犬のフンを踏んでしまったかのように顔をしかめる孝之さん。完全にすれ違いつつある岸村さんのことを口にするのもはばかられたようだ。

 露骨なまでの反応を見る限り、二人の中では解散は避けられない運命なのかもしれない。

 ひとまず話を先に進める。


「バンドの解散が間近に迫っているとすれば、新しいバンドに入ろうとするのはわかります。けど、どうしてエミさんを?」


「どうして?」


「はい。新バンドにエミさんを引き込むつもりっていうことは、孝之さんがエミさんをボーカルとして誘っているってことですよね? 自分と一緒に新しいバンドに入ってボーカルをやるようにって」


 岸村さんと折り合いがつかず、今のバンドを解散するのはわかる。

 ただ、わざわざエミさんを自分と一緒のバンドに誘うのは不思議にも思えた。

 いつも喧嘩ばかりして、きつく当たってもいて、それなのにエミさんを誘うのはなぜだろう。

 何か裏があるんだろうかと警戒しながら尋ねてみると、あいつには言うなよ、と釘を刺されてから答えが返ってくる。


「だってあいつ好きだろ、歌うこと。俺が誘わないとやめちまうだろ、音楽」


「それは……はい、そうかもしれませんね」


 確定的なことは何も言えないにしても、強くは否定できない。もしも今のバンドが解散してしまったらエミさんは一人になり、歌うことをやめてしまうだろう。

 本当はボーカルを続けたくても、どこかのバンドに参加したかったとしても、今のバンドが解散してしまった後からでは岸村さんや孝之さんに声をかけられないはずだ。

 新しいバンドに入りたいと、ボーカルとして歌いたいと、どんなに願っていても自分からは言えないに違いない。

 恥ずかしさや、気まずさや、自信のなさから。

 誰かに必要とされないと自分は歌えないと。

 居場所のないままでは楽しくは歌えないと。


「今の状況で岸村が自分からエミを誘うとは思えん。エミのやつが自分から他のバンドに入る勇気があるとも思えん。だったら俺が誘うしかないだろ。それで断られるならあきらめるけど、あいつがボーカルをやりたいんならな」


「すみません。孝之さんのこと誤解してました。自分のため、エミさんを無理やり歌わせているんだと」


 へっ、と鼻で笑う孝之さん。


「俺が言ったくらいでやりたくないことをやらんさ。昔は素直でかわいかったのに、今では反抗期。すぐ口答えされちまう」


「仲がいいんですね」


「そう見えるか?」


 えっとぉ……と苦笑してからうなずく。


「見えますよ。エミさんが孝之さんのことを『お兄ちゃん』って呼ぶたび、なんていうか、ずっと一緒に暮らしてきた兄妹を感じますから。家族なりに不満があるにしても、嫌っているわけじゃないと思います」


 これは本当のことだ。

 二人の仲を取り持つために根拠もなく口にしたお世辞や社交辞令ではない。

 普段から喧嘩ばかりしていても、兄である孝之さんのことを本格的には嫌っていない。

 はっきりと言葉にしていたわけではないけれど、同じバンドに兄がいてくれることを本心ではありがたく思っているようにも感じられる。

 好き、とまで言えるのかどうかは本人にしかわからないが。


「それに、二人でしゃべってると『お兄ちゃんがさぁ……』って楽しそうに話してくれますよ」


「どうせ悪口だろ」


「そういうのも含めて仲がよさそうなんですって。ほら、去年の誕生日に服を買ってあげたそうじゃないですか。あれ、嬉しかったのにちゃんとお礼を言えなかったって寂しそうにしてましたよ。もう今年はプレゼントもらえないかもって。……だから、あの、ちゃんとあげてくださいね」


 ぺらぺらとしゃべるあまり、最後に余計なことを言ってしまったかもしれない。

 不安に思って孝之さんの顔を見れば、うるせえと怒り出すどころか嬉しそうに口元をゆがめていた。

 実はずっと気にしていたのだろうか。だとすれば伝えてよかった。


「おい、吉永。年上の大学生を相手に緊張や警戒をしてるなら肩の力を抜け。俺もすまんかったな。お前を悪い虫だと思ってた」


「悪い虫……」


 エミさんに言い寄る不埒な男、ということだろうか。

 これに関しても、あまり強くは否定できない。最初から下心があって彼女に近づいたわけではないけれど、友達として親しくなるにつれ、今の俺はエミさんとの間によからぬことを期待しつつあるからだ。

 特別な友達ではとどまらず、それ以上の関係を。

 どうやら俺が想像していた以上にエミさんのことを心配しているらしい孝之さんに警戒されるのも無理はない。もう二度と会うなと追い払われても文句は言えないくらいだ。


「最近、よく遊んでるんだろ? それも二人で」


「ええ、まあ」


 すみません、と意味もなく謝る。


「文句を言いたいわけじゃない。今年に入ってからずっと俺たちがギクシャクしてるせいで心配だったけどさ、お前のおかげであいつは楽しそうだよ。ほんとの友達なんだな、お前ら」


「……はい」


 俺はうなずいた。

 友達。そうだ。友達だ。

 どんなに好きでもそれは恋心ではなく、エミさんは大切で特別な友達なのだ。

 パン、と孝之さんが手を叩く。指を鳴らすのはあきらめたらしい。


「さてと、お前も何かケーキぐらい頼んでいいぞ。ここはおごってやる。イチゴが乗ってるやつとかいいんじゃないか」


「え、でも俺は誕生日じゃないですよ」


「お前の誕生日なんて知らねえよ。……ほら、ちょっと前に菅井がエミを一人で呼び出していた時があったろ」


「ああ、はい。確か、バンドを脱退することを伝えるためにメンバーを一人ずつ呼び出してるんだって言ってました」


「意外なところで律儀なのか、俺と岸村も一人ずつ呼び出されたからな。思い出作りなのかドラムまで叩かされて。……でよ、その時、エミと一緒に菅井のところまで行ってくれてありがとな。バンドメンバーはいっつも喧嘩ばっかりしてたから、二人だけで会ってたら口論になってたんじゃないかって思うんだよ」


「あれは、一人で会うのを不安がっていたエミさんに頼まれただけで……」


「だから、それを面倒がらず一緒に行ってくれてありがとなって言ってんだ。いくら口論になったからってあいつが乱暴なことをするとは思わないけどよ、人間は感情的になると何をするかわかんねえんだ。俺だって、お前だってな。だからさ、エミのためにも、あいつのためにも、お前がいてくれてよかった気がするんだ」


「そんなこと……」


 実際には、最後に言われた言葉のせいでエミさんが傷つくことを防げなかった。落ち込んでしまったであろう彼女を慰めてあげることも、きっと大丈夫だと励ますこともできなかった。

 兄である孝之さんに感謝される権利はない。

 かといって必死に否定するのも変な気がして、空になったコーヒーカップに視線を移す。休憩時間が必要と判断したらしく、孝之さんは足を組んで紅茶をぐびぐびと飲む。

 これまでの会話の合間に俺の分まで頼んでくれたのか、みずみずしいイチゴの乗ったショートケーキと孝之さん用のチーズケーキが運ばれてきた。

 追加のコーヒーは先ほどよりも白い。ばれないようにしていてもブラックコーヒーに苦戦していたことを見抜かれ、おいしく飲めるようにとミルクと砂糖が入っていたのだ。


「喧嘩別れになっちまったけど、あいつとはもともと友達だったんだ。別のサークルで音楽は続けるって言ってたから、時間が経てばまた仲良くするようになるかもしれん」


「そうだといいですね。一度の失敗で永遠に縁が切れてしまうのは寂しいですから」


 ぼそりと言いながら、俺の脳内にはハルナ先輩の顔が思い浮かんだ。

 果たして、俺たちはちゃんとやり直せているだろうか。

 やれている、と信じたい。

 そう思っていたら孝之さんが独り言のようにつぶやいた。


「それにしても、気になるのはエミのことだ。あいつ、ずっと好きだったくせに岸村のことあきらめたのかな。俺と一緒に新しいバンドに入らないかって誘ったら、意外とすんなり承諾しやがった。なのに、どういうわけだか、いまだに一人でラブソング考えてやがる。誰に恋してんだかって感じでよ」


 まともに相槌すら打てず、ごまかすようにイチゴをほおばる。甘くて、ちょっとすっぱくて、おいしい。

 エミさんが誰に恋しているのか。

 なぜかそれを、どうしようもなく知りたくなってくる。

 彼女が恋しているのは今もまだ岸村さんのはずなのに、それをどこかで否定したくなっている。

 ふわふわの生クリームでデコレーションされたショートケーキをフォークで大きく切り取って、前向きであれ後ろ向きであれ、余計なことを何も口にしないように詰め込んでおく。それを何度か繰り返していたら、コーヒーだけが残っていた。

 チョコレートみたいに甘いコーヒー。少しだけ飲むのをためらう。


「そろそろ帰るか? お前も暇じゃないだろ?」


「いや、その……」


 まだ残っているコーヒーを最後まで飲み上げてから、という言い訳を挟みつつ俺は孝之さんを呼び止めた。

 意味のあることを何も考えてはいないが、このまま別れては駄目な気がした。

 ひとまず、言うだけ言ってみる。


「まだ解散は決定事項じゃないんですよね?」


「ほぼ決定事項だがな。エミが寂しがるから様子を見て延期してるだけだ。新しいバンドもいくつか候補があって決めかねてる」


「じゃあ、思い直す可能性もあるんですよね」


 その可能性にかけるしかない。

 本質的にはバンドの部外者である俺でも解散と聞けば悲しいくらいだ。高校生の時から一緒にやってきた孝之さんも解散を前にして寂しさや名残惜しさが皆無ということはないだろう。

 意味深に続いた長い沈黙の後、孝之さんは俺に人差し指をつきつけた。


「だったらお前が岸村を説得してみろ。俺とのバンドを楽しく前向きに続けてくれるように、ってな」


 それが、条件。

 もしも岸村さんのことを説得できたなら、さすがに孝之さんも自分の意思を曲げて譲歩してくれるだろう。だけど根っからの音楽馬鹿、自分で音楽が恋人などと語っていた岸村さんを相手にして、実際にはバンドの部外者でしかない俺が何を説得できるというのか。


「……はい。俺に任せてください」


 けれど他に名案はなかった。孝之さんは笑わず、しかしあきれもせず、ただ「そうか、なら任せた」と言って帰った。

 あまったお金はエミと遊ぶときにでも使ってくれと言ってテーブルの上に残されたおごりの五千円札が、より一層俺を惨めな気持ちにさせていた。

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