第11話 新しい恋
ドラムがいなくなってギターとベースにボーカルだけの三人になったバンドは解散する方向で話がまとまり始めていたようで、孝之さんと岸村さんの対立も以前に増して深刻なものになってきたらしい。新しくメンバーを増やすべきだとか、このままでいくべきだとか、いややっぱり解散だとか、それはもう連日のように言い争いを繰り広げているのだという。
「唯一の救いがあるとすれば、感情的な口論はほとんどなくなったってことだけ、かな……」
良くも悪くも三人に対して遠慮なく意見をするほど自己主張が強かった菅井さんがいなくなり、何か気に食わぬことがあって孝之さんが感情的になっても岸村さんは冷静に言い返すばかりなので、以前までのような喧嘩はなくなったようだ。
ただし、それは仲が良くなったからではない。
言い合ってもわかりあえないとお互いにあきらめているからだ。
「こんなんじゃライブをやるどころか、みんなで集まって練習さえしなくなっちゃってさ。一応は個人練習の期間だってことになってるけど、このまま自然消滅する気がしてる。気が付いたらいつの間にか解散してるんだ。私の知らないところでさ」
残念ながら、その可能性は否定できない。
ただ、同じくらい希望だって残されていると信じたい。
彼女のため。彼女の笑顔のために。
「でもまだ解散が決まったわけじゃないんだよね。またエミさんが楽しく歌えるように俺も応援するから、今までみたいに二人で一緒に頑張ろう。まずは歌詞作りだ。うまくいけば、バンドだって最初のころより軌道に乗るかもしれないよ」
「うーん……」
そんなことを言って励まそうとしたけれど、俺の願いはむなしく、なかなか彼女には通じないように感じられた。
彼女の恋心が岸村さんを今のバンドに縛り付けているんじゃないのか。
バンドを脱退すると宣言した日に菅井さんからそう言われたのだ。
あれから何日か経過しても心の傷は癒えず、口数が少なくなるほど落ち込んでいたって無理はない。
「私、岸村さんと恋人になりたいのかな?」
「ええっと、そうなんじゃないの?」
「どうかな。だって、今、つらいことがあっても頑張ってバンドやボーカルを続けようとしてるの、ほとんど君が応援してくれるからで」
「……うん」
「岸村さんについてはさ、認められたい、褒められたい、ボーカルとして必要とされたい、って思っているだけなんだよ。本気で付き合いたいと思っているわけじゃないんだ。満足に初恋も知らなかった中学生の時、かっこいい先輩を見てキャーキャー言ってただけなの」
「……そうとも限らないんじゃないかな?」
悲観的な口調で出てくる彼女の言葉にはやすやすと同意できない。菅井さんに言われたことを気にして、自分の恋心を否定したがっているだけなのだ。
きっとそうだと自分に言い聞かせているだけで、それが本心から出ている言葉とは思えない。
人間の心は理性で完全にコントロールできるほど都合よくできておらず、簡単に恋愛感情を捨て去れるものじゃないから。
初めて会った時から恋をしているという岸村さんと別れてしまうのが嫌で、なんとかバンドの解散を阻止しようと頑張っていたエミさん。
でもそれは、今とは別のバンドで自由にギターをやりたがっている岸村さんの願いを奪っていることも意味している。
だから彼女は岸村さんへの気持ちを捨て去ろうと躍起になっているのだ。
「恋をすると、今までみたいには一緒にいられなくなるのかな。どんなに大切な関係でも、恋をしちゃうと普通ではいられなくなるのかな。だったら私、好きな人ほど友達のままのほうがいい。……じゃあ、何のためにラブソングなんて」
「そんなことないと思うけど」
「君が言う?」
「それは……」
中学時代に失敗したハルナ先輩とのことがあって、まるで説得力がないのだ。
それに、たぶん、合宿の夜に伝えた気持ちのことがあって。
傷ついているに違いないエミさんを励ましたいあまりに口にしたけれど、不満に思った彼女に言い返されるのも当然だ。
自分の中にある恋心を否定して、どんなに好きになったとしても、大切な人とは友達のままでいたい。
それはいつも俺が主張しているのと同じようなことだから。
それが本当は恋心なのか、本当に恋心でないのか、自分でもわからないままで。
「ごめん、私、ひどいこと言った。今のは忘れて。駄目だな、私……」
気が付けば七月も中旬。そろそろ夏休みが近い。
最近のエミさんは昼休みに俺の教室までやって来て歌詞やバンドにまつわる相談を始めると誰の目にもわかるくらい落ち込んでしまうので、他人の視線を気にしないで済むように俺たちは誰もいない校舎裏で過ごすことにしていた。
つい先ほど自分が口にした言葉を気にしているのか、見るからに肩を落としているエミさんは顔をうつむかせ、ノートから破り取ったであろう数枚の紙を重ね合わせて胸に抱きしめている。
きっと自分で考えてきた歌詞だろう。
つらいことばかりじゃなくて、楽しい話題をお互いに出し合って雑談もするけれど、最初にお弁当を一緒に食べるようになったころから昼休みは作詞について相談するのがすっかり習慣になっていて、バンドの解散が現実的となった今でもラブソングの完成を目指して二人で頑張っているのだ。
さっき言われたことは全然気にしていないと伝えるつもりもあって、少しだけ遠慮しつつも俺は彼女のそばに近づく。逃げられるような反応はないものの、気まずくて声を掛けかねていると、エミさんは手にした歌詞を一枚ずつ読み返し始めた。
「うん、駄目だな……。何もかも駄目だ」
昨夜のうちに考えてきたという歌詞の完成度に納得がいかないのか、一枚ごとに読み終えるたびに俺の意見を求めることなくビリビリと破り、小さくなった紙片が積み重なっていく。
そんなことを何枚も続けるものだから、ちりも積もって最後には手のひらから溢れそうな山となった。
どうするわけでもなく、ため息とともに眺めている。
「エミさん、それ、いらないなら俺がもらうよ」
「え? それって、もしかしてこれのこと? ……いいの? こんなの、ただの燃えるゴミでしかないのに」
「ただの燃えるゴミとは全然違うよ。だって、知らない誰かじゃなくてエミさんが書いたものだから」
「でも……」
「知っておきたいんだ。たとえ破り捨てたくなるゴミだとしても、エミさんがどれだけ努力していたのかを」
そう答えると、俺は彼女がおずおずと差し出してきた小さな紙切れの束を受け取ってズボンのポケットに突っ込んだ。くしゃくしゃになっていたそれは思っていた以上に膨れ上がった。
なんでそんなことをするんだろうと彼女は不思議そうに俺を眺めていたが、最後には歌詞が完成しないでいる落胆を隠して笑ってくれた。
そして両手を開いてこちらに見せてくる。
「吉永君が書いたものも、いらなくなって捨てたいときは言って。全部もらってあげる」
「ありがとう。だけどさ、俺は自分が書いたものを捨てないんだ。失敗作も全部、いつか読み返したくなるような大事な思い出に感じてるから」
そういうわけだから、校内新聞のために作り始めた詩の失敗作や使わなかったアイディアなども全部捨てずにしまっている。
いつか誰かに見せたいわけでもないけれど、ある意味ではハルナ先輩やエミさんと過ごした日々の証明でもある気がして。
「そっか。でも私も知っておきたいな、ここまでにしてきた吉永君の努力。それに、これからの努力も」
「……いや、なるべく俺は見せたくないかな。うまくいかなかった努力なんて」
がっかりされるのが怖いという臆病な気持ちもあるけれど、そういうものを全部肯定してくれたハルナ先輩に甘えるようになってしまったのが俺の失敗の始まりだった気がしてくるから。
もう同じ失敗はしたくない。誰かの恋人になれずとも、一人の人間として成長したい。
こんなに頑張ったんだから、というだけで褒められて満足するのは中学生までの俺で終わりにしたいのだ。
それから、何度も何度も白紙のノートに歌詞を書いては、納得がいかなかったエミさんが破り捨てる。それをゴミ箱代わりに俺が一枚の不足なく受け入れる。
そんなことを繰り返した。
隣で同じように歌詞を考えながら見守っている俺が気の毒なほど苦心しながら歌詞を書き綴っていた彼女は、けれど絶対にあきらめなかった。
「らん、らら、ら……」
そうして過ごすようになった何日目かの昼休み、今まで開いていたノートを閉じて胸に抱いた彼女は言葉にならないメロディを消え入りそうな声で口ずさみ始めた。
それはもちろん未完成のラブソングだ。
一文字たりとも言葉のない、ゆえに誰にも伝わることのないラブソングだ。
きっと彼女は心の底から思い悩んでいるのだろう。もはや避けられそうにないバンドの終わりと、大好きな相手との別れを前にして。
もしもつらいのなら、友達である俺の前でくらい泣いてもいい。わざわざこうして俺たちの他には誰もいない校舎裏にまで来たんだから、もっと感情をむき出しにして悲しんでしまってもいい。
けれど俺の目には彼女がどこまでも純粋に愛を歌っているように見えた。
声にならない声で口ずさみ続ける、言葉のないラブソング。
気持ちばかりが先走って歌詞を思いつけないでいた彼女の歌を最後まで聞き終えた俺はエミさんと正面から向かい合っていて、何を伝えたいのか感情がまとまらないまま口を開いていた。
「エミさんには、もっと自信を持って楽しそうに歌ってほしい。そんな悲しそうな顔で、つらそうな声で歌っているのを見るのは嫌だよ」
「でも、ラブソングなんてどんなに考えたって何も思いつかないんだ。何かいい言葉を思いついたところで、今のみんなが喜んでくれるような気がしない。すごい歌詞が完成したって、私が歌える唯一の場所であるバンドが解散しちゃったら意味がないんだ。ボーカルとしても未熟でさ、お兄ちゃんも、岸村さんも、ただの優しさで私をメンバーに入れてくれていただけ」
いつまでも完成しない歌詞のことだけではなく、もはや自分を取り巻くあらゆることに後ろ向きになっているのか、この場から消えてしまいそうなくらい弱気になっている彼女。
私には居場所がない。あたかもそう言っているかのように。
いろんなものに対する自信を失ってしまっている彼女が俺なんかの言葉に喜んでくれるかはわからない。
それでもはっきりと声にして伝える。
「そんなことない。俺は好きだよ。エミさんの歌」
「……ありがとう。それ、何度も言ってくれるよね」
「当たり前だよ。何回だって言う。だって本当のことだから」
救われたんだ。救われたんだよ、俺は。
伝わっているのか、いないのか、ありがとうと言いつつもエミさんが首を振る。
「前にやったライブ、歌詞が悪かったわけじゃないよ。演奏も、曲も、ちっとも悪くなかった。力不足だったのは私の歌だ。他のバンドと比べてボーカルに魅力がなかったんだ」
「違う。それは絶対に違うよ。だって、俺は本当に感動したんだ。他の誰でもない君の歌に救われたんだから」
「私の歌に?」
「うん」
もっと言うと、君の存在に。
あの時も今も、ずっと救われている。
「……なんか、そう言ってもらえると君にもらったファンレターのことを思い出すな。今でも大切にとってあるよ。そして何度も読み返してる。大げさかもしれないけど、あれは私の勇気なんだ」
「勇気?」
「そう、何があってもあきらめないで歌おうって思えたきっかけ。歌うのが好きってだけじゃなくてさ、ボーカルをやろうと思えるのは吉永君のおかげでもあるんだよ。君がいてくれるから。君がいてくれるからなんだ」
さりげなく言ったつもりかもしれないけれど、そう言った後で彼女は耳を赤くした。
だからそれは嘘やでまかせじゃなくて、本当のことだと思えた。
彼女の勇気。どんなに落ち込んでいて、自信がなくなって、悲しくなっていたとしても、ボーカルを続けたいと願う彼女の原動力の一つに俺がなれているのだとしたら、こんなに嬉しいことはない。
なんだかこっちまで恥ずかしくなってきて、彼女に負けず劣らず顔が熱くなる。
でも、それがなんだか心地よかった。こんな俺でも彼女の支えになれているんだと思えたことが嬉しかった。
「俺も、あの時にもらった君のサインを飾ってる。机の横の、壁の目立つところに。でさ、朝起きて眺めるたびにエミさんの顔を思い浮かべるんだ。今日も会えるかな、会えるといいなって……」
だからどうした、と言われそうな話。
それでもエミさんは興味をもって問いかけてきてくれた。
「会えなかった日は?」
「……寂しがる。ひどいときは胸が痛くなる。君が学校を休んでたら、心配もする」
「だったらなるべく毎日会わなきゃね。どんなにつらくても、休んでちゃ駄目だ」
「うん……」
あきれたような展開だ。励ましているはずが、かえって励まされているような気分になる。
けれども彼女は顔を上げて、無理をしない自然な笑顔を浮かべてくれるようになった。
「実はさ、わかってるの。私がラブソングの歌詞を書けない理由。どう頑張ったって、誰かを悲しませる失恋の歌にしかならないから。岸村さんの曲に合わないんだよ」
だけど、それは今までの話。
そう言って彼女は自分の胸に手を当てる。
その鼓動を確かめるように。
「……だからさ、だったら、ちゃんと恋をしようって思う。違うな。ちゃんと恋をしたい。バンドのためじゃない、岸村さんのためじゃない、私のこれからのために」
ね? と言った彼女の目が俺の目をまっすぐに覗き込んだ。
もう泣きたくなるような悲しさや切なさを漂わせず、友達としての俺を信頼してくれているような微笑みとともに。
すぐ真正面に立っている彼女の手がこちらに向かってわずかに動いた気がして、今まで彼女の胸に添えられていた右手の指先が触れて力強く握られるんじゃないかと思って、その温度と柔らかさを想像した瞬間、驚くべきほどに全身の温度が上がった。
一瞬、期待した。
ちゃんと恋をしたいという、その相手が俺であれば……という身勝手な感情が胸にあふれた。
今までは彼女が岸村さんに恋をしていたから、何も期待せずにそばにいられた。どんなに彼女のことを好きになっても、それは友達としての好意だと自分を納得させることができた。
でも、もし、これからの彼女が岸村さんへの恋心を否定するようになってしまったら?
もし、彼女が新しい恋を探し始めたら?
恋はしない、もうできない、しちゃいけないと思っていた俺は強烈な罪悪感と焦りを覚えた。
もしかして俺は、片想いをしていた彼女がきちんと失恋して、岸村さんとの関係をあきらめることを願っているんじゃないか?
表面上では協力する振りをしながら、バンドが解散することを心の奥底では望んでいるんじゃないのか?
そう思うと胸が苦しくなった。
誰に責められたわけでもないのに人知れず慌てた俺は、まるで自分に言い聞かせるみたいにして言葉にする。
「じゃあ、俺は力になれないかもしれない。どんなに考えたって、俺のラブソングは恋人たちのものになれないんだ」
「どういうこと?」
「すがって、頼って、相手を傷つけるだけだから。結局は自分のことばっかりで、誰も幸せにできない」
「そう、なのかな? 私はそれ、違うと思うけどな……」
彼女の言葉は優しくて、こちらに歩み寄ってくれるような言葉で、だから俺は何も言えなくなった。
それから月日はゆっくりと流れて、歌詞は完成せぬまま終業式を迎えた。
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