第9話 合宿の夜

 岸村さんと一緒に練習室から戻ってすぐに寝ることにした昨夜から一晩明けて日曜日、今日も練習の邪魔をしないことに決めていた俺は朝から一人で森林浴をして昼まで過ごした。きつい山道を歩けば疲れるという、昨日の教訓を生かしたわけだ。

 天才である。代わりに孤独を感じて寂しかったけど。


 ――あなたが好きって思うと、つい油断する。心の中が隙だらけになってしまうから。


 なんて、やっぱり作詞はうまくいかない。

 午後になり、サンドイッチなどの簡単な昼食を食べて短い休憩を挟むと、ふもとの店まで何キロもある長い道をはぁはぁ言いながら歩く羽目になった。合宿二日目の夜はバーベキューをすることになっていたが、肝心の食材を忘れていたからと、肉やらジュースやらを買いに行く必要があったのだ。

 カゴいっぱいに頼まれたものを買い終えて、バスのない山道を帰りも汗をかきながら歩く。

 なんとか倒れることなく無事にコテージまで戻りはしたが、まだバンドの練習は続いていた。お腹が空いて何か食べたかったこともあり、気を利かせて今のうちから一人でバーベキューの準備に取り掛かる。

 つつがなく準備が終わり、さぁ肉を焼こうとしたところで俺は思いとどまった。

 馬鹿か、このまま一人でバーベキューを始めてどうする。練習中のみんなを呼びに行くことを忘れていた。


「あ、バーベキューだ! すごい、おいしそうだね」


 ずらりと用意されている食材を見てテンションが上がったのか、嬉しそうに駆け寄ってきたエミさんは子供のように目を輝かせて喜んでくれた。昨日の夕食に四人分のカレーを少し多めに作ってくれたエミさんの労力に比べれば大したことはないけれど、それだけで頑張った甲斐があるというものだ。

 昨日と今日で合計すると何時間も考え続けながらもピンとくる歌詞が思いつけないでいる罪悪感が少しだけ緩和される。


「和気あいあいって雰囲気でもないが、たまにはこういうのもいいだろう」


「肉が食えるんならなんでもいいさ」


 つまらないことで言い争うことが多く、せっかくのバーベキューが暗い雰囲気になるんじゃないかと懸念していた孝之さんと菅井さんの二人にも不満はないようだ。昨夜のことがあってから一段と親しくなれた気のする岸村さんは一人で準備した俺の労力をねぎらうように笑顔だった。

 昨日までギクシャクしていたメンバーが仲良く炭火を取り囲むのも、おそらく食欲をそそる香りを放つバーベキューのおかげだろう。俗に食べ物の恨みは怖いというが、食べ物の力は頼もしいとでも言うべきか、なんとも現金なものである。

 とりあえずおいしいものを食べれば人はご機嫌になるのだろう。勉強になる。

 そんなこんなでバーベキューを満喫して後片付けをしていると、なにやら四人が口論を始めた。

 のんびりしたい食後くらい喧嘩するのは勘弁してくれと思ったが、気になったのも事実なので近づいてみる。


「どうせ将来の夢や目標なんて他にないんだろ? つまんなそうにしてる高校なんかやめて、これからはバンドに専念しろよ」


 誰かに尋ねるまでもなく事情は理解することができた。

 どうやら孝之さんが妹のエミさんに対して、高校をやめてバンド活動に専念することを要求していたらしい。解散に反対してバンドを続行することはエミさんが言い出したことだから、メンバーとして彼女にそれなりの覚悟を求めるのは致し方ない。

 しかし、それにしたって彼の主張は強引なように聞こえてならなかった。

 いくらバンドのためとはいえ、入学して三ヶ月しか経っていない高校をやめろなどとはひどい話だ。ライブからずっと学校を休んでいたというエミさんは、きっと孝之さんからそうするように指図を受けていたのだろう。いくらバンドが大事でもエミさんが自分から学校をサボってまで練習に付き合うとは思えなかった。

 見かけ上は兄として助言をするような口ぶりでありながらも、一方的に意見を押し付けてエミさんに言い寄る孝之さんに妹を思いやる優しさは感じられず、何も言い返すことのできないエミさんは悔しさに顔をゆがめていた。

 誰が見てもわかる不穏でネガティブな空気。単なる兄妹喧嘩というには深刻な気配がある。

 だから俺は友達として彼女を守るべく、エミさんに加勢して無茶な要求を撤回させようと思った。


「待てよ、それ以上はやめておけ」


 だけど二人に向かって踏み出そうとした瞬間、俺の前に菅井さんが現れた。

 どうやら俺よりも先に菅井さんが仲裁に入ったらしい。

 エミさんを下がらせるためか腕をつかんで引いて、自分の横に立たせる。


「なんだよ、菅井。お前だってボーカル様のエミには言いたいことがあるんだろ?」


「そりゃあ、たくさんあるさ。でもな孝之、まずはお前に物申したい。口ではバンドが大切だとか言いながら、実際には自分のことしか考えていないだろ、お前」


「自分のことしか考えてない、だって? それを菅井、お前が言うのかよ?」


「ああ言うさ。いつまでも人気が出ないからって妹に八つ当たりする馬鹿を見過ごすことはできねぇ。ボーカルが自信をもって歌えなくなったら俺たちドラムやベースがどんなに頑張ったってバンドは成り立たないだろ。そういう意味でもボーカル様、って言ってやってんだ俺は」


「……クソが」


 あまりにも短い捨て台詞を残すと、ある程度は八つ当たりしている自覚があったのか孝之さんは歯がゆそうに舌打ちをして立ち去った。意外とあっさり引いてくれたので喧嘩は終わったと安心したかったけれど、まだ不穏な空気は終わっていなかった。菅井さんに一歩出遅れてしまった結果、すっかり会話に入るタイミングを失った俺の緊張感は続いていた。

 やはり何も言えずにいたエミさんは助けに入ったはずの菅井さんに腕をつかまれ、強引に振り払うこともできずに身動きが取れないでいたのだ。

 そこに入ったのは岸村さんである。


「エミが痛がってる。手を放してやれ」


「岸村ぁ……。お前はどうなんだよ」


「どうなんだ、とは?」


 強くつかんでいたのは孝之さんに対して感情的になっていたせいでエミさんを痛がらせるつもりはなかったらしく、一応は素直に言うことを聞いて彼女の腕から手を離した菅井さんだったが、清廉潔白で中立的な立場の仲裁人のような顔をして自分の前まで歩いてきた岸村さんに挑発的な視線を向けた。

 その顔を見る限り、次の口論の相手を見定めたようだ。


「エミのことに決まってるだろ。心配して優しくしてやってるつもりでもよ、結局は自分との間に一線を引いて他人行儀に相手するだけ。本当の意味では仲間意識もバンド愛もない。……俺たちに対しても、音楽のこととなると一緒に楽しむって気持ちがまるで感じられなくなる。直接的な態度には出さないだけで、お前が一番冷たくしてるんじゃねえか」


「……何を勘違いしているのかは知らないが、誰に対しても冷たくしているつもりはない」


「ああ、そうかい。だったらお前はエミのことをどう思ってるのか答えてやれよ、このすかし野郎!」


 その瞬間、面と向かって問われた岸村さんよりも先にエミさんの動きが固まった。予想だにしなかった展開となり、逃げるに逃げ出せず、その場で立ち尽くしたまま緊張と不安に顔が曇っている。

 岸村さんがエミさんのことをどう思っているのか。

 それはエミさんが最も知りたくて、最も知ることを恐れていることだ。

 昨夜の会話で「音楽が恋人」とか「恋はもうしなくていい」という答えを聞いていたこともあり、彼女を傷つける可能性がある致命的な発言が出てくることを防ぐためにも、頭で何かを考える前に俺はとっさに二人の会話に割って入ろうとした。

 だが、それより早く岸村さんが答えた。


「バンドにボーカルは不可欠だ。エミはよく歌ってくれている」


「それだけか!」


「それ以外の不純な動機を抱えているお前たちが気に食わなくなってきたんだよ、俺は。仲たがいしながらもこのバンドを続けてきたのは、エミの歌に可能性を感じたからだ。お前らの演奏に一定のクオリティを感じ取ったからだ。それ以外に何が必要と言うんだよ」


 それを聞いた瞬間、くくく、と菅井さんが笑う。

 そして嘲るように岸村さんを指差した。


「お前に足りないものがわかった。人間の心だ! 俗な気持ちを理解できないから、いつまでたっても大衆の心をつかめないんだよ! 野心に嫉妬、恋心に性欲、金も成功も名誉もだ。それらが音楽に不要なものだと決め付けて、俺たちみたいな人間を見下してやがる! 楽しいだけで音楽やってるやつを馬鹿にしてやがる!」


「エミ、そいつから離れろ。そいつがドラムを叩くのは純粋な気持ちで音楽が好きだからじゃない。野生動物の求愛行動よりも即物的な目的からだということがよくわかった」


 冷静に告げる岸村さんの指示に従ったのか、困惑したままエミさんが少しだけ菅井さんから離れた。

 でもそれは話の内容を聞いていたというより、激しい剣幕で怒鳴る彼に恐怖を感じたせいだろう。

 それでも菅井さんの気分を害するには十分すぎる行動だったらしい。


「そうだよ、それで悪いか。もてたくて楽器やることが悪いか!」


 ふてくされたように捨て台詞を残して、肩を怒らせた菅井さんは足音も荒々しくコテージの部屋に戻った。同室である孝之さんと鉢合わせたら先ほどまで言い合っていた彼らはどうなるのだろうと心配になったが、今は彼らの運命など重要じゃない。

 岸村さんは去っていく彼の背中を最後まで見送らずに振り返って、おびえているエミさんに声を掛ける。


「エミ、一応確認しておきたい。これでもこのバンドで歌い続けたいか?」


 冷静さを突き抜けて、一切の感情を感じさせない冷たい声だ。

 その寒さが身に染みたのか、エミさんは夜風に震えている。


「岸村さんはどうなの? 私のこと必要としてくれる?」


 その質問は最大限の勇気を振り絞って発せられたものに違いない。彼女にしてみれば必要と言われたいに決まっている。それは彼女の恋心が実を結ぶかどうかを意味するのだ。

 でも岸村さんはなんと答えるのだろう。

 ほとんど音もなく息が漏れるばかりで声は出せず、緊張感に包まれた俺は固唾を呑んで岸村さんの答えを待った。


「いいメンバーだと思っている。もちろん必要としているさ。バンドのボーカルとしてなら……」


 そこまで言って、俺は初めて岸村さんが明確な後悔を色濃く表情ににじませたのを見た。正直になるあまり着飾らずに口から出た自分の答えが、それを聞いた少女の心を傷つけてしまったことに気がついたのかもしれない。

 エミさんいわく音楽馬鹿の岸村さんだ。悪気はないのだ。

 だけれども、それが彼女を苦しめる。

 嘘偽りのない本音だから。言葉の裏側にある何かを期待することもできないから。


「なんだかそれ、ここにいる私のことを私として見ている感じがしないね。音楽のことしか頭にないみたい」


「そうだな。でも、お前だっていつも歌うことを一番に考えていただろ? このバンドが大切だと誰より言っていたじゃないか。だから……」


 だから、なんだというのだろう?

 岸村さんが言葉を探して押し黙ると、こらえ切れなくなったのかエミさんは涙声になってつぶやく。


「私、岸村さんの音楽の道具じゃないよ。歌うことは好きだけど、歌うことだけが楽しくて生きてるんじゃない」


 そう言って顔をそむけると、同じ場所にとどまっていられないのか彼女は逃げるように駆け出した。

 即座には追いかけることもできず、すでに彼女がいなくなった虚空に向かって手を伸ばした瞬間に身震いが俺の全身を襲った。ちょっとした風でもじっとしていられないほどに肌寒さが強くなってきたのだ。

 あとに残されたのは俺と岸村さんだけ。

 昨夜の会話を思い出しているのか、こちらを見ることもなく岸村さんはばつが悪そうに落ち込んでいた。


「うまく言葉を見つけるのが下手だな、俺は。信じてくれないかもしれないが、彼女を傷つけるつもりはなかった」


「わかってます。でも、エミさんの歌を認めていることは本当なんですよね?」


「それだけは本当だ。こんな状況でも解散をとどまっているのは、彼女が歌ってくれるからだよ。今は未熟なボーカルでも、彼女の歌には可能性がある。だから俺はゆっくり成長を待っていたんだ」


「それを聞いて安心しました。岸村さん、俺、エミさんを追いかけます」


「頼む」


 ようやくこちらを向いた岸村さんに頭を下げられて、頼まれるまでもないことだと答えた俺はエミさんを探して走り出した。

 電源を切っているわけではなさそうだが、スマホを使って呼び掛けても返事はない。よく目立つ足跡もないのでは彼女がどこに向かったか判断するのも難しいけれど、とにかく足を使って走る。

 事前に周辺を散策していたので、おおまかな地理を把握していたのが功を奏した。ものの五分と経たないうちに、広場を望むベンチに腰を下ろすエミさんの姿が見えたのだ。

 追いかけてきた俺の気配に気がつくと、あえて陽気さを取り繕ってエミさんは言った。

 さっきのことには触れてほしくないのかもしれない。


「岸村さんはね、初めてバンドを組んだとき、私の歌声を褒めてくれたの。お兄ちゃんに誘われて始めたバンドだったけど、岸村さんに褒めてもらえたとき、勇気を出してボーカルをやることにしてよかったと思った」


 ここまで走ってきたせいで俺は息が上がっていて、うまく相槌が打てずにいた。まずは隣に座るようにと、地面に足をついて腰を持ち上げたエミさんは少し横に動いてスペースを開けてくれた。

 ありがとうと言って、荒れがちだった呼吸を整えてから腰を下ろす。

 いよいよ暗さを深めた空は果てしなく広がっていて、黒いキャンバスとなった天空に散りばめられた星がきれいだった。冷え切った夜の風はさらさらと木の葉を揺らして、余計な物事を忘れさせるほどの透明な空気を運んできてくれる。

 あまりにも静寂を感じていたけれど、遠くでは鈴を鳴らすような虫の声も聞こえていた。

 しばらく二人で澄み渡った夜気に身を任せていると、ベンチの先で足をぷらぷらさせたエミさんが秘密を打ち明けるようにして言った。


「そのときだよ、私が岸村さんに恋をしたのは。それからずっと片想いをしてきたんだ。だけどね、もう私も高校生になったからわかるんだよ。岸村さん、あのときから今まで、別に私のことを見てくれているわけじゃないんだって。ただ、バンドのボーカルとして私のことを見ていただけだったんだ」


 ようやく理解したと言いながら、何もかもを諦めようとしている声。

 あまりにも痛ましく感じられて、それを即座に否定するしかなかった。

 彼女には簡単に捨て鉢になってほしくない。なすすべもなく大切なものをぽろぽろと取りこぼしてほしくはない。


「違うよ。岸村さんは誰でもいいってわけじゃない」


「でも……」


「わかるんだ。岸村さんは確かに音楽馬鹿だと思うけど、だからこそ大事なボーカルを誰にでもやらせたがる人じゃない。単純に歌がうまければいいってわけじゃないと思うんだ。少しずつだけど岸村さんと話をして、根拠はないけれど俺はそう感じた。あの人は、いや、あの人だってエミさんじゃなきゃ駄目なんだ」


「なんで、そんなことが……」


「だって、俺も一緒だから」


 この気持ちを、どう言ったらいいのかわからない。

 今の俺が彼女に何を伝えたいのかもわからない。

 けれども、丁寧に筋道を立てて理屈で考えるより先に言葉が溢れてくる。


「エミさんじゃなきゃ駄目なんだ。エミさんの歌でなきゃ、俺はあんなに心奪われることもなかった。他のバンドじゃ駄目なんだ。俺はエミさんの歌が聴きたい。だけどそれは歌だけじゃない。好きなのは声だけじゃないから。うまく言えないけど、優しくて明るい性格とか、だけど謙虚なところもあって慎重で思慮深い考え方とか、よく笑ったり恥ずかしがったりする表情とか、励ましてくれるところとか、そういうのも全部ひっくるめて俺は君のことが好きなんだ。相談に乗っているときとかラブソングの歌詞を考えているときだけじゃなくて、いつだって君のことを考えてしまうくらいにエミさんのことが大好きなんだよ」


 ありったけの感情をこめて言い切った瞬間に風が吹いて、驚いて声もなく目を見開いたエミさんの顔を隠すように前髪が揺れ動いた。

 ごくりと、どちらかがつばを飲み込む音が響いた。

 あるいはそれは、二人の緊張感が幻聴となって聞こえたのかもしれない。


「大好き……。大好きって、私を?」


 とっさに顔を伏せてうつむいた彼女が恐る恐る確認するような小さな声で、表情を見せないままに問い返してきた。

 夜風に冷たくなった両手をすり合わせる彼女の耳がやんわりと赤くなっていく。

 いつしか足の動きは止まっていた。

 二人の間に共有されている静かな沈黙が、だんだんと熱を帯びてくるような気配がして、焦った俺は声を上げた。


「で、でも!」


 たった今、俺は何を言った?

 エミさんのことが好きだと、大好きだと、これじゃあまるで告白みたいじゃないか。

 落ち込んでいる彼女を励ましたいあまりに自分が何を言ってしまったのかを遅ればせながら理解して、慌てて釈明する。


「でも恋愛じゃないんだ! 好きといっても、決してこれは恋なんかじゃない! 我慢できないくらいにあふれてくる自分の欲望を一方的に押し付けて、好きという言葉で君を縛り付けて恋人の関係にしたいとか、そういうことじゃない!」


 だから安心してほしいと、そう伝えたい。

 だけど一方では、あまりにも力強く否定するのも違うような気がしてくる。

 この胸にある「好き」という気持ちまで嘘であると思われたら問題だ。

 でも、じゃあ、どう言えばいいんだろう。

 エミさんが好き。

 それだけは絶対に間違いがないのに。


「だけどただの友達じゃなくて、かけがえのない特別な友達で、いつだって会いたくて、いつも笑顔でいてほしくて、どうしようもなくエミさんのことが好きなのは、間違いなくそうだけど……」


 一生懸命になるあまり、いつしか全身が汗をかいてしまうくらいに熱を帯びて、夜でさえ目立つほど顔が赤くなっている自覚がある。

 これが恋でないなら、じゃあ、一体なんなんだろうと我ながら不思議に思うくらいに。

 好きなんだ。

 とにかく、今はそれだけを伝えたかった。

 ぼそぼそと小声になって続けていると、くすくす、と控えめに、けれど嬉しそうな笑い声がする。


「それ、私、なんて反応したらいいんだろ。まるで告白みたいでさ、でも、ちっとも告白じゃない」


 元気が出たと表現するには頼りない苦笑。

 うつむくのをやめて、落ち込んだ表情ではなくなり、ちょっとくらいは励ましてあげられたのかもしれないけれど、さすがにエミさんも困惑した様子だ。


「……けど、ありがとう。どんな意味だとしても、そこまでの熱意で君に好きって言われたら嬉しいよ」


 うん、嬉しい。私さ、すごく嬉しいよ。

 一度ならず二度、さらには三度と同じことを言いつつも、俺はその言葉を単純には受け取れなかった。

 ありがとうと言いながら何度も口にした「嬉しい」との言葉とは違って、岸村さんの前から逃げ出したくなるほど心の中に渦巻いていた感情は我慢できなかったらしく、彼女の目からは一筋の涙がこぼれ落ちていたからだ。

 やはり先ほど岸村さんに言われた言葉が原因で、泣きたくなるほど傷ついているのだろう。

 はっきりと恋心を拒絶されたわけではない。だけど彼女からの告白を受け入れてもらえそうな気配もない。

 ほとんど失恋と同じような痛みだ。こちらまで胸が苦しくなってくる。


「エミさん、俺……」


「……大丈夫。もう悲しくないから。ありがとう」


 それでも彼女は悲しそうな顔をしなかった。切なそうな表情をしなかった。

 隠しきれないくらいに涙を流しながらも懸命に苦笑と思えないほどの笑顔を浮かべて、今の自分が悲しみのあまり泣いていることなんて忘れて、心配をかけまいとして俺のために少しでも嬉しそうな顔を見せてくれていた。

 励ましているのか、励まされているのか、よくわからなくなってくる。

 もっと純粋な笑顔を見たいのに。

 涙なんて見たくないのに。


「いや、やっぱりごめん。言っている俺自身も何を伝えたいのか、エミさんにどう反応してほしいのかわからなくなってきた。ちょっと冷静にならないと駄目だな。……でも、はっきりわかることが一つだけあるんだ」


「それは、何?」


「エミさんが笑顔でいてくれるのが、今の俺は何よりも嬉しい」


 今度こそ何も否定することなく断言すると、照れ臭くなって俺は立ち上がった。

 これ以上遅くなると風邪を引くかもしれない。


「どこまで本気かわからないけど、岸村さんは音楽が恋人だって言ってた。でも、その音楽にとって大事なボーカルにエミさんを必要としているなら、それは岸村さんの大事なところにエミさんが入り込めているって証拠だと思う。だからいつか、エミさんの気持ちが岸村さんに届く日はきっとあるんだ」


 そこまでを聞き届けて、さりげなく涙をふいたエミさんが遅れて立ち上がった。

 こちらを向いてくれた気がしたから、俺は彼女に顔を向けて微笑んだ。


「がんばろう。応援する。俺なんかじゃ頼りないかもしれないけど……」


「ううん、ありがとう。すごく元気もらえた。……私、謝ってくる」


「途中まで一緒に行こう。夜道は危ない」


「ね、だったら手を引いてくれる? 夜は寒くてさ、実はさっきから手が冷たくてしょうがないんだ」


「俺でよければ」


 ためらいなく差し出された彼女の手を握り締めて、俺たちは星明りの照らす夜道をコテージまでたどった。

 ゆっくりとした足取りで、力を込めた指先では手のぬくもりを感じながら。

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