第8話 合宿

 ライブが終わって数日、しばらく昼休みにも放課後にも俺の教室に姿を見せないと思ったら、そもそも彼女は学校にすら来ていなかった。普通にスマホでは雑談などができていたのでどうしたんだろうと尋ねてみれば、すぐに返事が来た。

 どうやら、ここ数日はバンド中心の生活を強要され、高校へは行くに行けなくなっているらしい。大学生は講義などの時間割を比較的自由に組み立てられるらしく、平日でも平気でバンド活動に熱中できるとか。

 最悪、あまり重要でない講義は無断欠席したところで大学生活に影響はなく、高校生のように学校から怒られることもないんだとか。

 バンドを続けようと言った手前、どんなに高校生活が心配でも、今はバンド活動に不熱心な姿は見せたくない、とのこと。

 さすがに高校には来たほうがいいんじゃない? との控えめな意見を伝えたら、うーんとの返事でこの件は終わった。

 そんなこんなでライブから二週間ほどが過ぎ、再スタートした歌詞作りも一人では一切の進展なく迎えた六月最後の連休を前にした金曜日、あまり元気そうには見えない彼女は久しぶりに俺の教室を訪ねてきた。


「あ、あのさぁ……」


 よく聞き慣れたチャイムの音とともに授業が終わって昼休みが始まり、お腹も空いたので一人で弁当を食べようと準備していると、疲れ果てた様子のエミさんがやってきて俺の机の上に突っ伏したのである。


「学校にいるのも、バンドのみんなといるのも、なんかつらいよ……」


 珍しくはっきりとした弱音だ。相当に参っているらしい。

 彼女の精神状態によっては何気ない一言が深刻に受け止められてしまう可能性もあるので、ここは余計なアドバイスを口にするよりも、まずは話を聞いてみることを選んだ。


「どうしたの? 何か相談したいことがあるなら聞くよ?」


「……う、うん。ちょっと話したかった」


 それから彼女は顔を上げて、くたびれた声ではあったものの悩みを打ち明けてくれた。

 この前のライブ以来、ずっと学校を無断欠席してしまったこと。当然のように先生には怒られてしまったこと。そのせいかクラスで話す相手もいなくなって浮いてしまっていること。すっかり授業にも付いていけなくなってしまったこと。

 また、バンドで活動する時間が増えるとともにメンバーである三人の対立が激しくなり、岸村さん以外の二人がエミさんにも厳しく当たってくること。その岸村さんは何を考えているのかよくわからなくなってきたこと。学校やバンドのことで兄だけでなく両親とも喧嘩して、なんだか家にも自分の居場所がなくなっていること。

 どうしたらいいんだろう? 彼女はそう嘆いていたのだ。

 最後まで話を聞いたところで、やっぱり俺なんかに解決策が用意できるわけでもない。

 だけど俺はあえて明るい調子を意識して答えた。


「大丈夫だよ、エミさん。勉強なら俺が教えられる。学校で一人ぼっちになるのがいやなら、授業中はともかく休み時間は今までみたいに俺が一緒に過ごすよ。バンドの問題は……そうだね、何ができるかわからないけど今まで以上に頑張る」


 任せてくれと言いながら胸を張ったところで頼りなかっただろうけど、自信なさげにするよりはマシだ。

 友達として力になれたのか、相談相手として気休め程度にはなったのか、それとも期待はずれでがっかりされてしまったのか。

 うん……と小さくうなずいた彼女は少し迷いを見せながらも、ちらりと俺を上目遣いに見た。


「実はこの週末にね、バンドの合宿をすることになったんだ。練習だけじゃなくて、改めて新曲や今後のことを含めた大事な話し合いをしたいって。……それでさ、君も来てくれないかな? 一緒にね、その、いきなりで悪いけど」


「……バンドの合宿に、俺が?」


 どういうことかと詳しく話を聞いてみれば、友達である俺以外には気安く頼れる人がいなくなった気のするエミさんはバンドの合宿に参加するのが心細いらしい。

 それもそのはず、高校生である自分以外は大学生の男が三人だ。兄である孝之さんがいるといっても、喧嘩ばかりでは不安に思うのも無理のない話だろう。

 しかもメンバー同士でもめている時期だけに、解散を阻止したい立場としては気苦労も絶えないはずだ。

 いつでも味方してくれる友達がそばにいてほしい。

 つまり、彼女はそう言っているのである。

 もちろん、しがない男子高校生に過ぎない俺だって、あまり仲が良くない年上の大学生たちと一緒に合宿するなんて息苦しくて心が休まらないだろう。

 そもそも、いきなり合宿の話を聞かされても準備が間に合わない。

 週末と言ったら明日じゃないか。


「わかった。俺も行く。今度こそすごい歌詞を作るってバンドのみんなの前で大見得を切ったんだ。必ず行くよ」


 だが俺は即答した。

 頼れる人が他にいないとまで言ってくれた彼女の頼みを断る理由はない。

 多少なりとも不安が解消されたのかエミさんも一応は喜んでくれたようだったけど、それから昼休みが終わるまで、ずっと机にうつぶせ続けた。会話もなく無言のままだったけれど、今の彼女には本当にどこにも居場所がないようだった。

 こうなっては一人だけ弁当を食べることもできず、俺は空腹のまま午後の授業を迎えた。





 その週末、たった一夜で着替えなど最低限の準備だけをした俺はバンドの合宿に同行した。

 気になる合宿場所は町外れの山を少し登ったところで展望もよく、ひょうたん型の湖を見渡せるキャンプ場か何かだった。まさかこの五人で肩身を寄せ合って狭苦しいテント生活か、と一瞬は愕然とするような面持ちで身構えたけれど、そこにはちゃんとした宿泊施設として使われているホテルみたいなコテージもあった。

 しかも聞くところによるとオーナーが元ミュージシャンで、趣味が高じて防音設備の整った練習室まであるという。

 高校生のころにネットのSNSで知り合ってオーナーさんと仲良くなったとかいう岸村さんが今日のために予約したのは二部屋で、女性であるエミさんが一人で一部屋、俺を含めた残りの男性がみんなで一部屋らしい。

 一日前に急遽決まった同行で予算の都合があるとはいえ、あの三人と同じ部屋ということで俺は言い知れぬ緊張に包まれたが、追い返されても不思議ではないことを考えれば文句を言える立場でもなかった。

 それとなくエミさんに確認してみれば、合宿の日程は土曜日から月曜日までの二泊三日だそうだ。土日はともかく月曜は平日なので学校は休むことになる。土下座する勢いで頼み込んで親には了承をとったが、学校には自分で連絡しなさいと言われて、するする! と親には答えながら俺は無断欠席する道を選んだ。

 さて、肝心の活動予定はほとんどがバンドの練習であり、空いた時間を使ってエミさんとの歌詞作りがあり、そして残った時間で今後の活動などに関する話し合いをすることになっていた。

 当然ながら休憩や食事のための時間はあっても遊びの予定はなく、どうやらそんな雰囲気でもないらしい。

 初日はコテージに到着すると、若干の休憩時間を挟んで早速練習が始まった。宿泊施設には事前に聞いていた練習室だけでなく、バンド用の小さなスタジオまで用意されていて、同じように合宿に利用するバンドマンは多いらしい。

 時期がよかったのかオーナーさんが気を利かせてくれたのか他の音楽グループとは遭遇せず、事実上の貸し切り状態だったのは幸運だったと言えるだろう。


「……あの、ちょっと出てきます」


 練習が始まったところで練習するものもなく、バンドのメンバーではないので静かに見学していた俺だったが、おそらく一緒にいても彼らの邪魔にしかならない。そこで一言断ってからスタジオを出て、練習が終わる時間まで周囲を散歩することにした。

 防音環境がしっかりしているスタジオを出れば聞こえてくる音は鳥のさえずりくらいなもので、都会の喧騒を離れたといえば聞こえはいいけれど、実際のところ普通に寂しくて暇で仕方がない。

 とはいえ立地は好条件。目的もなくコテージの周辺をぶらぶらと適当に散策するだけでも気持ちがよかった。

 山の空気も澄んでいて、呼吸のたびに心の濁りも消えていくようだ。

 しかし情けないことに、歩き始めて三十分もしないうちに俺は足を痛めた。

 どうせしばらくすることもないのだ。いい機会だからと近くにあった手ごろなサイズの岩に腰を下ろし、ゆったりと作詞に挑戦することにする。


 ――愛す、って言葉は冷たいね。だってアイスは氷菓子。


 ……なんて、センスのなさすぎる歌詞しか思い浮かばなかったけれど。

 次第にむなしくなってきたので、俺は休み休みコテージに戻った。戻ったところで一人寂しくスマホの電子書籍を読みながら部屋で過ごすことになったのは、親に前借りして工面した合宿費用の無駄遣いであろう。

 その日の夜、歩き疲れて腹の減っていた俺がコテージの食堂で夕食のカレーを小気味よく突っついていると、なにやら口論が始まった。バンドや音楽のことに関する言い合いではなく、食事中の単なる雑談がきっかけだった。


「ちょっと、食事のときくらい仲良くしようよ」


 どうでもいい理由で始まった喧嘩がエスカレートして解散が決定的になっても困るので、バンドの中では一番年下なのに焦ったようにエミさんが発した仲裁の言葉も、肩身が狭い気分で同席している俺以外の三人には届かない。

 どこか修学旅行の気分で合宿を楽しもうとしていた俺は一人だけ場違いな気がしてならなかった。

 友達でもない大家族の家に遊びに来た感じ。もう家に帰りたいと、二日目を待たずして早速ホームシックだ。

 おかげで夕食のカレーは気もそぞろで味がしなかった。野菜の切り方やルーの煮込み方に若干の不器用さを感じたけれど、なんだかもったいない気分がした。最初にカレーをよそってくれたエミさんにおいしかったね、とだけ子供みたいな感想を言うと、ふふんと得意げに胸を張られた。

 どうやらエミさんが作ってくれていたらしい。初の手料理だ。


「コテージの人が用意してくれたんだと思ってた」


「そういうサービスもあるけど、少しでも予算を抑えるために合宿中の食事は自分たちで準備するんだってさ。そのほうがバンドの結束も深まるんじゃないかと思ったけど、この調子じゃ難しそうだね。……で、今日の晩御飯は私が作ったってわけ」


「すごくおいしかったよ。毎日でも食べたくなるくらい」


「毎日でもって……まあ、いつもの他意がない感じのやつかな。ありがとう。喜んでくれると頑張って作った甲斐があるよ」


「せっかくだからおかわりしようかな。まだ残ってる?」


「残ってる残ってる。ああ、座ってて。私がよそってあげるよ」


 次こそちゃんと味わおうと思い、無理をして頼んだおかわり。するとエミさんは嬉しそうにカレーを大盛りにしてきたので、完食するのは大変だった。

 味に不満があると思われては問題なので、一粒たりとて残すわけにはいかない。

 とまあ、そうして騒がしい夕食の時間が終わると、明日に備えて早めの休息が取られることとなった。

 友達同士で集まった男子大学生らしく、馬鹿みたいな話で楽しそうに談笑している姿も見るけれど、どちらかというと喧嘩ばかりしている印象のほうが強いバンドメンバー三人との同室だ。

 あのうちの誰か一人とでも楽しくしゃべれる関係性であれば別だが、現実的には逃げ場のない狭い空間に寄り集まって一緒にいても気まずいだけである。なんとか時間をつぶして眠る直前に入ればいいやと思って部屋の外をうろうろしていると、昼間みんなが使っていたスタジオとは別にある練習室の明かりがついていた。

 今日は俺たちのほかには利用客などいなかったはず。だとすればバンドの誰かだろう。

 このまますぐに部屋へと戻るくらいなら、マネージャー気分でボーっと練習を眺めているほうが気楽でいい。

 そう思って扉を開けた瞬間、そう広くはなかった練習室の窓際にパイプ椅子を置いて座っていた人影が見えた。ギターを抱えたまま、儚げに夜空を見上げる岸村さんだ。室内の照明だけでなく、窓の外から入ってくる星明りにも照らされて、幻想的なライトが演出するステージ上でソロの弾き語りを行う直前かのようだった。

 入るか出るか迷って足音を立ててしまった俺の存在に気付いたのか、岸村さんが顔を上げた。


「正直、一人でやろうと思って始めた練習をじろじろ見られるのは好きじゃないな」


「あ、そうですよね。すみません。お邪魔しました」


 練習のための合宿なのだ。演奏や曲作りのアドバイスができるわけでもないのに、これからギターの練習をする岸村さんの隣にいて、集中力を乱して邪魔をしてしまっては意味がない。

 今度こそ足音を立てないように部屋を出ようとしたら呼び止められた。


「待てよ。お前もあの部屋には入りづらいんだろ? 俺もそうなんだ。ちょっと一人になりたくてな」


「だったら、やっぱり俺は邪魔なんじゃ……?」


「一人になりたかった、というのは正確じゃないな。あの二人とちょっと離れていたかったんだ。顔も見たくないほど嫌いだからってわけじゃなく、一緒にいるとつまらないことで喧嘩してしまうからさ」


 そのまま何かを話したそうにしているので、もしそれが大事な相談などであったら役に立てる自信もないまま、ともかくは聞き手として部屋に入ることを覚悟した。

 ゆっくりと交互に足を動かして、やはり足音を立てないように近づく。練習したくなったら遠慮なくいつでもギターを弾けるように、会話をするのに不便でない程度に、近すぎない距離で立ち止まる。

 ちょっとだけ迷った気配をのぞかせつつも、足を止めた俺が聞く準備を整えたと判断したのか岸村さんが口を開く。


「お前から見ても喧嘩ばかりでそうは思えないだろうけどさ、本当は感謝しているんだよ。今のバンドのおかげで音楽への関わり方が深まったからな。ギターを始めた最初のころは本気で音楽で食っていきたいとまでは思わなかった。……けれど、今は少し迷ってる。俺の音楽を認めてくれないんだ、あいつら」


「認めてくれない?」


「言い方が悪かったな。でも難しいんだ。音楽性の違いっていう常套句もあるにはあるが、あまりに多用されすぎていて、それは単なる性格の不一致とも受け取られかねない。とにかく、簡単に言ってしまえば俺には本気を出させてもくれないし、自由にも演奏させちゃくれないのさ。リーダー呼ばわりはするくせに冷たい奴らだろ?」


 そう言って岸村さんは俺に同意を求めてきた。

 実際どうだろうかと、頭の中で孝之さんと菅井さんの顔を思い浮かべる。何かをやるたびに「おいおい、岸村ぁ!」と叫んでいる顔が二人とも浮かぶ。

 音楽のことに限らず、確かに自由にはやらせてくれなさそうだ。

 反論する意味も理由もないので、ここは素直にうなずくことにした。

 しかしそのとき、うなずきつつも俺の脳裏にはエミさんの姿が思い浮かんだ。

 きっと彼女だけは岸村さんのことをちゃんと理解してくれているはず。


「ですが、あの二人と違ってエミさんは……」


 言いかけて、止まる。

 エミさんについて何をどこまで言っていいものなのか、口にしている自分でもわからなくなったからだ。

 岸村さんの理解者であるにしても、まさか彼女が岸村さんに恋をしているなどと本人に代わって言えるわけもない。

 何か言いかけたんならちゃんと最後まで言い切れよ、と注意されてもおかしくないくらい中途半端なところで悩んだものの、幸いにも俺の発言は聞こえていなかったらしい。あるいは俺が言いにくそうにしているのを察して聞こえなかったことにしてくれたようだ。

 それとなく話題を変えるつもりで周囲を見渡すと、練習室の隅には棚があって、コテージの利用客のために用意された共用のギターが置いてあった。いろんな種類のギターが数本置いてあって、誰でも自由に無料で使っていいらしい。

 なので、そのうちの一つを手に取って暇つぶしに触ってみることにする。

 岸村さんの練習の邪魔をしないように、しゃべっていた時よりも少し離れた場所にパイプ椅子を置いて座る。

 といっても何か曲を演奏できるわけでもない。

 ぎこちない手つきでギターのチューニングが合っているかを軽く確認してから、ジャーン、ジャーン、ジャーンと基本のコードを一通り鳴らしてみるだけだ。


「これがC、これがD、これがF、そしてえっと、Gはこうだっけ……」


 もったいなさもあって捨てるに捨てられず、封印する気持ちで部屋の押し入れにしまっているギターは半年以上も触っていないけれど、本棚に置いたままにしているギターの教本はたまに読み返していたので、完全には忘れていなかった。

 自分の中に眠っていた記憶を呼び起こすように弦を鳴らす。

 何度かそうやっていると、意識の外側から感心したような声が聞こえてくる。


「覚えてるんだな」


「指の形だけですよ。軽やかに弾けるまでには至ってないです」


「それでもちゃんと覚えてる」


 お世辞かもしれないが、それでもちゃんとギターができる人に褒められると嬉しくなる。たった一言であれ、なんだか自分の努力が認められているようだ。

 事実としては教科書の一ページ目に書いてあるような初歩的なことを実践したにすぎなくとも、お前の実力なんて幼稚園児レベルだろと馬鹿にされた様子はない。

 それが俺を安心させた。

 この場にいても、練習の邪魔だからと追い出される存在ではない。そう感じられた。

 お互いにギターを持った状態で岸村さんと二人きりになれる機会なんて、もう二度とないかもしれない。

 よし、せっかくだからと俺は岸村さんのほうにパイプ椅子ごと体を向ける。


「岸村さんはギター、どうやってうまくなったんですか? おすすめの練習方法とかあれば教えてほしいんですけど……」


 あくまでも雑談。

 本気で練習するつもりもなく軽い気持ちでそう尋ねると、おいおいと言った岸村さんが真剣な表情で目を細めた。


「おすすめの練習方法も何も、まだまだ基本のところで止まってるじゃないか。簡単な道ばかり探してなんでも教えてもらおうとしないで、まずは自分の足で歩いてみろよ。それで足を止める奴と俺は音楽の話をしたくない」


「あ、はい……」


 さすが、うまくなる人は違うな、と思った。

 中学生の時にちょっとやっただけでギターの練習をしなくなったのも、今にして思えば岸村さんの存在が大きかった。あんなにうまくなれるわけがないと思ってギターの上達を早い段階であきらめてしまったのは、あの路上ライブで彼の演奏を生で聞いてしまったからだ。

 あまりにもレベルが違いすぎると思ったからだ。

 ……自分の足で歩いてみろ、か。

 その岸村さんに言われた言葉が胸に突き刺さる。まさしく簡単な道ばかり探して難しい道を歩きたがらなかった自分の弱さをピンポイントで刺激されてしまったからだろう。

 中学生だった当時の俺は自分よりすごい技術を持った人の存在を頭に浮かべて、努力をしないための言い訳にしたかったんだな、と今ならわかる。

 音楽の才能がない、なんて言葉は逃げるための口実でしかなかった。

 実際には毎日のように練習するのが面倒になった、というだけの話なのだ。

 なんだか岸村さんに「カズ君!」とたしなめられた気分だ。

 思わず背筋が伸びる。


「すみませんでした」


「いや、こっちこそすまん。今のは地道な練習が嫌でうまくなるための楽な手段を知りたかったとかじゃなくて、二人きりなのに黙ったままじゃ気まずいからと話題を振ってくれた雑談のつもりだったんだよな? 初心者の高校生相手に何を言ってんだか、って感じだ。何かわからないことがあったらいつでも聞けよ。やる気があるなら練習にも付き合ってやる」


「ありがとうございます。でも、もうギターはあきらめたんです。岸村さんたちの路上ライブに感化されて中学生の時にギターの練習をしたけど、自分には向いてない気がして。あの、ちなみにこのことはエミさんには言ってなくて……」


「わかってるさ。このことは黙ってる。こっそりやっていたことを誰かに知られるのが恥ずかしいって感情だけでなく、自分がやってる努力を人に知られたくない人間もいる」


「ありがとうございます」


 これまでに何度となく気を遣ってもらっているので、今回のことだけでなく何回分もの感謝を込めて頭を下げる。

 たっぷりと時間を置いて顔を上げた時には岸村さんは自分の練習を始めていたので、こっちはこっちでやっておこうと思い、今度はやや応用のコードを鳴らしていく。

 暗い響きのマイナーコード、大人な響きのメジャーとマイナーのセブンス、自分でもよくわかっていないアドナインス、などなど。さっきとは違って記憶違いや弦の抑えミスも発生して、とてもじゃないけど岸村さんに教えを乞うレベルじゃない。

 でも久しぶりにギターを触っていると下手でも楽しくなってくる。

 誰かと一緒にやったらもっと楽しいんだろうなと想像しながら、ゴール地点も設けずに初心者レベルの練習を黙々と続ける。

 言葉の響きが好きだから名前だけ覚えてるけどディミニッシュってなんだっけ、とか考えていたら、岸村さんがギターを弾いていた手を止めた。


「そういえば、一度、ちゃんと尋ねておこうと思っていたんだ。わざわざエミの頼みで合宿までついてくるだなんて、お前はそこまで好きなのか? いつも仲よさそうにしているみたいだが」


「……エミさんのことですか? ええと、はい、好きです。友達としてですけどね」


「友達ね。そう答えてみんなが喜んで終わるなら、世の中に面倒な色恋沙汰なんて存在しないんだろうが……」


 現実の人間関係なんてものは、そう簡単に終わる問題じゃないだろ?

 はっきりと言葉にはせずとも、そんなふうに結論付けた岸村さん。

 そこまで深い意味なんてないのかもしれない。友達として好きだと迷いなく答えた俺の言葉を聞いて、ぼそりと反射的に出ただけの、単なる雑談かもしれない。

 とはいえ、面倒な色恋沙汰、という言い方に引っかかるものがある。

 すべてを否定するまでとはいかずとも、まるで恋愛そのものに対してネガティブな感情を持っているかのようだ。

 適当に相槌を打って聞き流してもいい。聞かなかったふりをして無視してもいい。

 なのに問わずにはいられなくなった俺はほとんど無意識に口を開いていた。


「えっと、岸村さんって好きな人とかいるんですか? 友達としてじゃなくて、恋人として好きな人が」


 そこまで言い終えてから後悔した。

 岸村さんに直接そう尋ねてしまっては、彼に恋するエミさんのことを裏切っているような気がしたからだ。岸村さんに好きな人がいるかどうか。つまりエミさんの恋が成就する可能性があるのかどうか。

 そんなつもりはなかったのに、気が回らない自分が嫌になる。


「……俺の恋人は音楽だって言ったら、お前は笑うか?」


「笑いませんよ。仕事一筋の職人っていうか、第一線で活躍するプロを感じて憧れます」


「他のことをやりたくないだけだがな」


「それでも何かに打ち込めるのは才能ですよ。かっこいいです」


 そうは言いつつ、まさしく根っからのギタリストだと褒め称えるような言葉とは裏腹に俺は否定しようのない寂しさや落胆を覚えていた。

 岸村さんが恋愛に興味を持っておらず、音楽以外のものに関心がないと想定することが悲しかったのだ。

 恋愛に対する彼のスタンスが間違っていると感じたのではない。いつか岸村さんに恋人として振り向いてほしいと願い、今も懸命にラブソングを考え続けているエミさんのことを想像したからだ。

 もはや色恋沙汰の問題だけではない。

 この世の中の何が原因であれ、エミさんが悲しむ姿は見たくない。

 うつむいてしまった俺を見て、またしても気を遣ってくれたのかもしれない。

 喜怒哀楽の感情をあえて隠したような岸村さんは少しだけ遠い目をした。


「実は俺さ、普段はそんなこと言いそうにもない女性から面と向かって『この音楽馬鹿ぁ!』って言われたことがある。それがちょっとだけショックなんだよな」


「音楽馬鹿……。ひどい言われようですね。でも真剣に音楽と向き合っている岸村さんに対しての発言なら、それも一種の褒め言葉じゃないですか?」


「それがさ、それを言ったのってエミなんだよ」


「う……」


 想定外の名前が出てきて俺は言葉に詰まった。

 確かに普段はそんなこと言いそうにもない。

 じゃあ何をやったんだ。

 ちょっとだけと口では言いながら、今も続いているほどにはショックが大きかったようにも見える岸村さん。あまり深刻な話にはしたくなかったのか、自嘲的ではありながらも苦笑する。


「お前が観客として聴いてくれた路上ライブの少し前だったかな、去年の冬にエミからチョコをもらったんだよ。市販品にしてはデコボコした形だったから手作りだってわかっていたけど、一個食べたら十分なくらいに甘くて、それが何個か入ってたから俺は受け取った後でバンドのみんなにも配っちまったんだ。それもエミが見ている前で。……まぁ、俺が悪いんだよな、実際。あれバレンタインデーのチョコだったらしいぜ。当時は気がつかなかった」


「それはひどいです」


「だよな。反省はしている」


 初めて俺は岸村さんに対して明確な敵意を覚えたが、それは彼を攻撃するエネルギーとなるほどの巨大な嫌悪感にまでは成長しなかった。冷静に判断すれば、わざわざ自分から過去の失敗を口にした岸村さんに悪気があったわけではないのだろう。

 申し訳なさそうにしている表情を見るに反省もしているようだから、今さら過去の話を蒸し返しても仕方がない。

 恋愛のことで失敗した経験なら俺にもある。偉そうに誰かを責める権利はない。

 どうにもならない感情を俺は抑えこんだ。

 彼の不義理を糾弾する代わりに尋ねる。


「あの、岸村さんはエミさんのこと……」


 そこまで言った俺の口はすぐに閉ざされた。声よりも大きい音量となるように岸村さんがギターを弾いて、盛大に不協和音を鳴らしたからだ。

 ごめん、と手が滑ったことを謝る岸村さんだが、明らかに俺の言葉を打ち消すための行為だった。

 自分でも助けられた思いがする。先ほども考えたように、この種の質問を岸村さんに直接聞くのは彼に恋するエミさんを裏切っているような気がするから。

 ただし、ある意味では致命的にも思える間接的な答えが出る。


「俺だってさ、告白されるままに中高生のころはいろんな女性と付き合ってみたんだよ。けれど、ただの一度も本気にはなれなかった。音楽以上に魅力的なものは、この世界に存在しないって思うんだよ」


 すごく極論だけどな、と一応は断る岸村さん。

 だけど、心の底から異論なく共感できるかどうかは別として、そう言いたくなる気持ちも理解できなくはない。

 世の中にはいろんな人がいて、同じ人であっても成長するにつれて価値観や考え方は変わっていってしまう。

 恋愛がすべての人もいれば、恋愛に全く興味を持たない人だっている。

 どちらが正しいとか間違っているとかの話ではない。


「何もかもが余計ってわけじゃないけど、社会人になる前、大学生として自由な時間をたっぷり使える今は別の何かに心を割きたくない。同年代の人間がみんな自分らしさを探しているように、俺は俺の音楽を探しているんだよ。ギターをやってるモチベーションが発生している根本のところでは、凄腕のギタリストや作曲家としてプロになれるかどうかは関係ない。俺の人生を音楽に染めたいんだ」


 ここまでのことを打ち明けられて、俺はどう返事をしたらいいのだろう。

 すぐにでも肯定したい気持ちと、ちょっとでも否定したい気持ちの両方がある。

 聞いている自分でも気持ちが定まっていないのだ。

 人生に対する己の在り方と、恋愛に対する向き合い方が。

 高校を卒業して大学生になり、ひとまずは音楽と真剣に向き合うことを決めたらしい岸村さんはギターを大切に抱きかかえた。


「だから今はどんな告白も断ることにしている。たぶん、それはこれからもずっと続くと思うぜ。俺が音楽に携わっている限り、永遠にな」


「そうなんですか……」


「ああ。恋はもう、しなくていいと思ってる」


 さっぱりと垢抜けたように笑う岸村さんに対して、俺の返事は浮かなかった。

 それはいいですねと言って無邪気に同意することや共感することが正しいことなのか、あるいは高校生なりに違う意見や価値観を伝えてみるべきなのか、最後の最後まで結論を出せない自分が情けない気がしてならなかった。

 もしもこれが新聞部員としての取材でインタビューなら、まともに聞き手としての役割をこなせてすらいない。ここまで心情を吐露してくれた彼の思いを正しく理解して誰かに伝えることもできそうにない。

 岸村さんに対する申し訳なさでいっぱいになる。


「恋はもう、か……」


 それだけじゃない。

 恋はもうしなくていいと岸村さんが未練なく口にした瞬間、今のままではエミさんの恋が成就しないことを知ってしまって悲しくもあった。はっきりと失恋したわけではないにせよ、ほとんど可能性が閉ざされたようで胸が痛くなった。

 彼女にはもう泣いてほしくない。

 傷ついてほしくない。

 大切で特別な友達であるエミさんには誰よりも幸せになってほしかった。

 そのためには岸村さんを……と考えようとして、考えられなくなった俺はそれがなぜなのかもわからず、彼女の歌声を思い浮かべながら今日限りのギターの練習に逃げるのだった。

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