第7話 彼女のために
とある放課後のことである。
いつものように部室へ向かって一人で廊下を歩いていると、進行方向のずっと先から誰かの怒鳴り声が聞こえてきた。血気盛んな生徒同士による殴り合いの喧嘩が始まったのかと思って身構えたものの、どうやら違う。
響いてきたのは大人の声だ。
どうやら生徒の誰かが何かをしでかして、こっぴどく先生に怒られているらしい。
じゃあ理不尽に巻き込まれることもないかと思って安心して歩き続ければ、騒ぎの発生源らしき場所では数人の生徒たちがいて、大声で説教している先生を遠巻きに見守っていた。会話に加わっている様子は見られないので、たまたま近くにいて集まった野次馬かもしれない。
まだまだ部活が始まるまでには時間はある。
もしかしたら他の生徒にも関係あるような事件やトラブルかもしれないので、情報収集のために俺もその一人になって様子をうかがうべきか、いかにもな新聞部員らしい記者魂を忘れて無関心を装って通り過ぎるべきかを考えていると、結論が出る前にその足が止まった。
「……あれ? エミさん?」
なんと、あろうことか教師の説教を受けていたのはエミさんである。
知り合いとなれば、さすがに無視して通り過ぎることもできない。かといって説教されている理由も知らないまま先生とエミさんの間に入っていくこともできないので、結局は少し離れたところから見守ることになる。
遠くから見れば野次馬の仲間入りだ。
途中からとはいえ、声がでかいうえに話の長い教師のおかげで説教の内容はおおよそ理解することができた。
どうやら廊下を歩いていたエミさんの不注意で先生とぶつかり、職員室まで運ぶために彼が持っていたプリントの束が落ちて散らばってしまったらしい。
それくらいなら注意する程度でいいし、そんなに怖い顔をして怒鳴らなくてもいいじゃないか、とは思うものの、ただの教師ではなく彼女の担任だった彼によればエミさんの不注意はちょくちょくあるらしい。
遅刻や居眠り、忘れ物、普段からうつむいていてやる気がなさそうに見えて、クラスに友達がいる様子もない。
で、先生の言い分はこうだ。
「バンドなんてやってるからだ! 学業がおろそかになってるんじゃないのか!」
大人が一般論を武器にして若者の趣味を否定する、どこにでもよくある話。それもバンドメンバーが男子大学生ばかりということも聞いているらしく、ますますエミさんを不良扱いする。
すみません、すみません、これからは心を入れ替えて頑張ります。
なんて、すっかり恐縮して小さくなっているエミさんは何度も頭を下げる。
一方的にガミガミと言うだけ言って気が済んだのか、口答えや言い訳をしないで謝り続けるエミさんの素直な態度に満足したのか、じゃあがんばれよと一転して生徒思いの教師っぽく言い残した彼は落ちていたプリントを拾い集めていた他の生徒からそれを受け取って、一仕事終えた充実感を漂わせながら職員室に向かう。
周りの生徒もいなくなって、一人残っていた俺の存在にエミさんが気付いた。
「やなとこ見られちゃったな」
目元に涙の跡はなく、泣いていた気配は見えないものの、ちょっとだけ涙声。
さすがに落ち込んでいるらしい。
あれだけの勢いで怒られれば俺だって涙ぐんで逃げ帰りたくなるので無理はない。
同情されるのを嫌う人もいるけれど、ここは彼女を気遣って穏やかに声をかけることにする。
「怒られるのって、初めて?」
「ちゃんとしろって注意されることなら何度もあるよ。でもあんなに大きな声で怒られたのは高校に入ってからは初めてだね。昔から学校が苦手でさ、いろんなものがおろそかになってたのは本当。ぼんやりしてた私が悪いんだけど」
ははは……、と力なく笑う彼女。
このまま消え入りそうなくらいなので、つい励ましたくなってくる。
俺は君の味方だと表明する意味もあり、大丈夫大丈夫などと言いながら一歩だけ近寄って胸を張る。
「俺なんか小学生のころから親にも先生にも怒られてばっかりだよ。さっきのよりすごい剣幕で怒鳴られたこともある」
だから気にしないで、と続けようとしたらエミさんが肩をすくめた。
「慰めてくれるのは嬉しいけどさ、結局私には何もできないんだよ。最近さ、よくそういうのを痛感する。勇気を出してバンドやったって、ファンを増やすどころか、バンドメンバーをつなぎ留めておくこともできない」
「えっと……」
遅ればせながら、肩を落として元気もなく、今にも泣いてしまいそうな彼女が気にしているのは先生に怒られていたことだけではないと気付いた。
もっと本質的なところ、彼女そのものの人生とか、そういうものを悲観しているのだ。
ハルナ先輩との恋愛に失敗したときの俺が、恋愛だけでなく人生そのものに自信を失っていたように。
けれど、その時に俺を助けてくれたのがほかでもないエミさんなのだ。
だから感謝している。だから信じている。
だからこそ俺は彼女のためなら何でもできるような気さえしてくる。
「エミさん、何もできないなんて嘘だよ。君には力がある。君の歌は誰かを救うこともできるんだ」
「そんなこと言われたって……」
「本当なんだ。だって、俺は君の歌に感動したから。救われたから」
迷っているのか、悩んでいるのか、なかなか返事はない。
だけど耳を閉ざさずに聞いてくれていると信じて、彼女の手を取る気分で俺は提案した。
「ねえ、エミさん。まずはラブソングの歌詞を完成させよう。できることを一つずつ積み重ねていくんだ」
「……うん、そうだね。励ましてくれてありがとう」
祈るように返事を待っていると最後にはそう言ってうなずいてくれたから、その日は一応のところ安心して彼女と別れた。
それからの俺は本気で作詞に取り組んだ。これを言うと優しくしてくれている先輩には悪いけど、校内新聞に載せるための詩を考えていたころとは比べ物にならないほど熱心に考えた。
家でも学校でも夢の中でさえ、それこそ昼夜を問わず一心不乱。
時間さえあれば俺は作詞のことを考えていた。
「さっきから難しい顔をして辞書とにらめっこしてるけど、それってやっぱりエミちゃんのバンドの? そろそろちょっとずつカズ君に任せる仕事を増やそうかなって思ってたけど、まだしばらくは文芸欄だけにしておいたほうがいいかもね」
「すみません、先輩。今考えているラブソングの歌詞が形になったら部活にも気合を入れますんで……」
「いいよいいよ、カズ君がそこに座っていてくれるだけで部活の時に寂しさを感じなくなるから。忙しいといっても校内新聞は週に一回掲示板に張り出すだけだからね。無茶さえしなければ一人でも余裕なんだ。バンドの宣伝記事もちゃんと書いているみたいだし」
「あ、はい……。さすがに大変な時は言ってください。何でもやります」
それほど性能が高くない部員用のノートパソコンの画面には、文芸欄以外で唯一俺に任されていた作りかけの記事が表示されていた。
ひとまずはライブに向けたエミさんの意気込みだけを書き、あとは簡単にバンドメンバーのことを紹介していくだけの簡素な記事。本当は「ライブでは新曲のラブソングを披露します!」などと読者の期待感を煽るように書ければいいが、それは歌詞の進捗具合とメンバーの気持ち次第なので現時点で勝手に断言することはできない。
ただ、曲はすでに完成していることから練習だけはしているらしく、歌詞さえ完成すれば前日であってもライブには間に合うそうだ。ボーカルとして歌う羽目になるエミさんの負担が大きくなるので、たっぷり練習の時間がとれるよう、なるべく早く完成させねばならないが……。
そのエミさんとは、学校の昼休みだけでなく、空いた時間を使ってスマホでも頻繁にやり取りをするようになった。
歌詞のテーマはこんな感じにしよう、こんなフレーズっていいんじゃないかな、ここの言葉遣いってどう思う?
そんな風に意見を交換しながら、二人で協力して少しずつ作っていく。
中学時代に打ち込んだ受験勉強の名残か、長時間ずっと机に向かう行為は精神的な負担にならなかった。腰が痛くなってきたらベッドに寝転がってでも考え続けた。
あーでもない、こーでもないとやっているうちにノートを三冊ほど使い切る。
もちろんそれは大部分が黒歴史と呼べるほど恥ずかしい歌詞やポエムの羅列で埋め尽くされていたのだけれど、その大量に積み重ねた努力が一応は目に見える形となり、およそ二週間あまりで新曲の歌詞が完成した。
気がつけば、もう五月も終わりのころだった。
「これが完成した歌詞かぁ……。すごいね、私たちで作ったんだよ。うんうん、ちゃんとラブソングになってる」
「なんとかライブにも間に合ってよかった。完成するまでに何度も手直ししてるから、全体としておかしくなってないかな? それに曲にも合ってるのか、もう一度確かめてほしいんだけど」
「どうだろね。ららら……」
ぼそぼそと表現するのがふさわしいくらいの小声ではあるものの、切り取ったノートのページにボールペンで書いた歌詞を熱心な表情で読み始めるエミさん。
一応は曲に合わせてリズムをとりながら歌っているようだけど、さすがに小さすぎる。
「いや、その、ごめん。ここで一度、ちゃんとエミさんに歌ってほしいんだけど……」
「ちゃんと歌ってって簡単に言うけどね、たとえそれが一人でも、人前で歌うのがどんなに恥ずかしいことかわかる? けど、んー、そうだな。吉永君がギター弾いてくれるなら歌ってもいいよ」
冗談っぽくはあるけれど、ふざけてはいない声。
そう言われると俺は何も言い返せなくなった。
ちっとも弾けずに一か月程度で挫折したため、高校で再会するまでの間にギターを練習していたことは秘密にしている。
本来、こんな時のために楽器の一つくらい弾けるようになっておきたかったのだが、今さら後悔しても後の祭りだ。
どこに残っていたのか自分でも驚くくらいの未練を追い払うように首を振って、気持ちを切り替える。
「まあ、とにかく心の中で歌ってみて最終確認しようか。曲、流すよ?」
「どうぞどうぞ、私の準備はオッケー。気分はライブ会場にいるつもりでね」
とのことなので、もう何度となく聞いてきた曲を再生する。
校内新聞のために書いていたポエムを別とすれば、初めての作詞である。もちろん非の打ち所がない自信作だと胸を張れるほどの内容ではなかった。
丹精を込めて作った自分たちとしても、出来栄えが不安だったのは間違いない。
けれど一つの作品を完成させたことに対する満足感や達成感から俺たちは高揚感に包まれていて、少なくともバンドメンバーたちの及第点は得られるはずだと思った。
愛してるだとか、会いたいだとか、いつだって君の姿を追いかけているだとか、幸せそうに歌う君の声が好きだとか、夢で会えたらいいのになとか、そんな言葉を寄せ集めて完成したラブソングは、誰の耳にも聞きなれた親しみをもって迎え入れられるはずだから。
根が単純な俺はそう信じて疑わなかった。
「うん、やっぱり問題はないんじゃないかな? 完璧ってわけじゃないにしても、特に悪いところは見つからないよ。じゃあこれ、バンドのみんなにも見せてみようと思うんだけど……。吉永君も一緒に来てくれないかな?」
「……え、俺も? そりゃ歌詞を作るのには手を貸したけど、バンドの部外者なのに邪魔じゃないの?」
「それがさ、それとなく歌詞の進捗を聞かれたから、今は一人じゃなくて君が手伝ってくれていることをみんなに話したんだよ。そしたら君も一緒に連れてこいって。歌詞が完成したなら、ちょうどいいタイミングじゃない?」
「そうなんだ。じゃあ俺も行くよ」
またあのバンドメンバー、とどのつまりは険悪なムードの中に飛び込まなければならないのかと思うと非常に憂鬱になってしまうけれど、ここまで作詞に協力しておいて同行を断るわけにはいかない。
というわけで、エミさんに連れられて再びバンドメンバーと会うことになったのは、歌詞が完成して数日後のことだった。
校内新聞のために作ったポエムは毎週学校の掲示板などに張り出されているので、自分が書いたものを他人に見られることには慣れてきたものの、高校生ではない年上の大学生に歌詞を見てもらうのは緊張感も段違いだ。
高校生同士の見せ合いっこなら遊びの範疇で済まされる。
けど、これからやるのは本気の品評会である。
相手もアマチュアで実績のあるプロではないにせよ、自分よりも知識と経験を持った人たちに己の才能を残酷に見定められる。
ただ、それでも完成した歌詞を認めてもらいたいという思いがあったから、俺は覚悟を決めてその日を迎えていた。
「どっちでもいい、これを歌ってみろよ」
「えっと、ここで、今ですか? いや、それはちょっと……」
挨拶もそこそこに俺が手渡した歌詞を読み終えた菅井さんはしばらく黙っていたかと思うと、いいとか悪いとかの感想もなく、いきなりそんなことを言い出した。
これを歌ってみろ。
そう言われただけで、何か感想じみたことを言われたわけではない。だけどその口調からはどこか俺たちを突き放したような、言葉を選ばなければ見下げているような印象を受けた。
要するに不合格。
思わず口ごもってしまった俺の代わりに、真剣であるがゆえにうつむかず、堂々と胸を張っているエミさんが尋ねる。
「さすがにここでは歌えませんよ。ファミレスじゃないですか。それよりどうなんです? 感想とか、印象については」
たぶん、あまりいい言葉はもらえないだろう。
どんなことを言われても大丈夫なように覚悟を決めて、彼女だけに会話を任せているわけにもいかないと菅井さんの顔を恐る恐る見る。
けれど不機嫌そうな態度を隠さずにいる菅井さんが何かを答える前に、その隣に座っていた孝之さんが肩をすくめた。
「……ちょっとは期待してたっていうのに、印象としては最悪だな。子供だましみたいな歌詞が原因で曲がチープになっちまうくらい、いいところが見当たらない」
「ちょっと、そんな言い方って!」
最悪、子供だまし、チープ。
オブラートを破り捨てたような歯に衣着せぬ孝之さんの容赦ない感想を聞くや否や、黙って聞いていられないと言わんばかりに彼の妹であるエミさんは声を荒げて、ドタンとテーブルに手をついた。
自分一人で作った歌詞であったなら、どんなに否定されても彼女はここまで一生懸命にならなかっただろう。
でもこの歌詞は俺が協力することで完成した歌詞なのだ。だから、それを馬鹿にされた彼女は自分のためではなく、俺のために懸命になってくれている。
それがわかっているから、あまりの情けなさで俺は肩身が狭くなった。
否定的な二人に反論しようとしたエミさんに対して、たとえ誰かと口論になっても感情的にはならず、この中では一番の理性派に見える岸村さんが申し訳なさそうに口を開いた。
「すまないが、お前たちのことを思ってはっきりと言わせてくれ。この歌詞から受ける印象は、稚拙、その一言だ。ありきたりで陳腐だな。この曲である必要性、俺たちが歌う必要性を感じない」
「それは……」
かれこれたっぷり二週間もかけて完成させた歌詞を岸村さんにまで酷評されて、俺は何も言えなかった。
悔しさもある、悲しさもある。恥ずかしさもある、無力感もある。
なによりも、まがいなりにも俺のことを信頼してくれたエミさんに対する申し訳なさが俺から言葉という言葉を奪い去ってしまったのだ。
自分たちなりに歌詞を完成させたところで満足してしまって、もうすっかり彼女の役に立てたつもりでいた。
でも、本当の意味では力になれていなかった。
この場で悪いのは、彼らが求めるレベルに達するクオリティの歌詞を作れなかった俺たちだ。そんな現実を突きつけられたような気がして、たまらず泣きそうになる。
しかし、それだって普通に考えれば仕方のないことだ。なにしろ俺やエミさんは作詞に関して右も左もわからない全くの素人、高校生のころからバンドを組んで真剣に音楽をやっているという大学生が期待するレベルのものを簡単に用意できるわけがない。
そんな言い訳を心の中で繰り返して俺はこの場をやりきろうとする。
なのに状況はどこまでも残酷だったのだ。
「新曲が間に合わないってことは、今の知名度や人気のままバンドを続けるのも限界だろうな。……というか、まともに新曲すら作れない俺たちのライブが成功するとも思えない。ここらがやめ時だってことだろう」
「それも同感だな。次のライブ、潔く解散を宣言して終わろうじゃねえか。楽しかったって思い出作りにちょうどいいだろ」
たぶん大学生ともなると、まだまだ幼い俺たち高校生とは違って、刻一刻と近づいてくる将来をシビアに捉えなければいけないのだろう。いつまでも現実感のない夢ばかりを無邪気に追いかけてはいられないのだろう。
このバンドでの成功を諦めているのか、そう語る孝之さんや菅井さんの目には解散に対する未練や迷いが見られなかった。
だから俺はこのままバンドが解散してしまうのだと思った。
もはや終わるしかないのだと、他人事のように感じていた。
「ちょ、ちょっと待ってよ! せっかく三年以上も続けてきたのに、こんなところで終わるのなんて嫌だよ! 次のライブだって失敗すると決まったわけじゃないし!」
ところがエミさんは俺と違ってあきらめず、解散に向かって突き進む二人を思いとどまらせるべく、周囲に迷惑にならない程度の声で叫んでいた。
けれど、そんな、すがるようなエミさんに向かって、兄である孝之さんが冷たく言い放つ。
「だったらお前が成功させてみろよ。できねぇくせに叫ぶな、ガキが」
その時のエミさんが見せた苦渋に満ちた悲しみの表情を、おそらく俺は一生忘れることができないであろう。
泣いてこそいなかったものの、泣きたくなるのを我慢して歯を食いしばる彼女の姿に俺は言いようのない痛みを感じた。
あるいは岸村さんも、苦悩するエミさんのことが気の毒に思えてきたのかもしれない。
うつむいてしまったエミさんをかばうように、強い口調で解散をほのめかす二人に真剣な顔を向けた。
「稚拙でも、子供だましでも、ありきたりでも、音楽っていうのは聞き手が気に入ってくれるかどうかがすべてなんだ。音楽理論を駆使して技巧を凝らした複雑な曲だけが世の中でもてはやされるわけじゃない。もしかしたらエミたちが作ってくれた初々しい歌詞のほうが価値はあって、プロの作った一流の歌詞よりも多くの人に受け入れられるかもしれない」
どこまで本気で言ってくれているのかはわからない。
けれど歌詞作りに関しては完全に未熟だった俺たちを擁護してくれる彼の言葉は力強くて、この場にいた誰も反論することができなくなっていた。
「自分が作ると名乗り出てくれたエミに作詞を頼んだのはリーダーの俺だ。その俺が認めたからには次のライブでこの曲を演奏する。やってみて駄目だったときは、そのときは解散でもなんでもすればいい」
そう宣言した岸村さんが何も言えずにいた俺たち二人を見て微笑んだ。
「さっきはひどいことを言っちまったが、お前たちの努力までを否定するつもりはない。いい音楽のために頑張ってくれる奴は好きなんだ。俺の曲に歌詞をつけてくれてありがとうな」
たぶんそれは、ほぼ間違いなく岸村さんの優しさでしかなかっただろう。
ライブが予定されていたのは、六月になって二度目の日曜日だった。歌詞作りに協力したこともあって俺はエミさんから入場チケットをもらっていたので、開演する夕方に合わせて余裕を持ってライブハウスへと向かった。
そこは思ったよりも小さくて、どちらかといえば大通りからは目立たぬ場所にあった。隠れ家的なライブハウスといえばイメージしやすいだろうか。
びくびくしながらも時間になって中に入った俺が目にした光景は、ひとまず安心できるものであった。ガラガラではなく、ずらりと集まった観客の姿が見られたからだ。
もちろん大多数の来場者の目当ては他に出演するバンドだろうが、それでもいい、みんなに楽しんでもらえればと願った。
手っ取り早く結論から言えば、ひとまずライブは問題なく終わったといっていいだろう。
ステージに上がったバンドの中でも悪くないパフォーマンスだったと俺は思う。
集まった観客だって楽しんでいて、会場も盛り上がった。
だけど、うまく言葉で表現することは難しいけれど、エミさんに協力するようになってから初めてちゃんと耳にした彼らの曲は、昔ほど特別な意味を持って俺の胸に響くことはなかった。
いや、はっきり言おう。正直なところ何か物足りなかった。
何か、ではない。
歌詞だ。
すべてのライブが終わり、俺は足を運んでくれていたハルナ先輩に対して手短に感謝を伝えると、何か言いたそうな彼女と別れて急いでエミさんたちのもとに直行した。
完成した歌詞の出来はどうでしたか? なんて先輩に聞けるわけもなく、ほとんど逃げるように。
「今回のライブが成功だったと言えるか? やっぱり駄目だ。このままじゃいずれ限界が来るに決まっている」
聞いてみれば、それがバンドメンバーの率直な感想だった。
無名のバンドに対する博愛主義を持ち合わせていた観客たちのおかげでライブが盛り上がってくれたとはいえ、それも解散までの一時しのぎに過ぎないと言っているのだ。
熱心に応援してくれる固定ファンがつくほどのものを見せられていないから、と。
「だ、大丈夫だよ! このままじゃ駄目なら、もっと練習して、もっといい曲を演奏できるようになれば、ちゃんと結果はついてくると思うから!」
そう語るエミさんの言葉も、仲間であるはずの三人には意味を持って響かない。
今回のライブの出来だけではなく、ここに至るまでに積み重なってきた不和やすれ違いが原因なのか、よほどメンバー同士の対立が深かったのかもしれない。
どんなに技術があったとて、こんな状態でいい演奏が出来るわけもない。
「ねえ、みんな……!」
熱心に語り掛けている言葉をまともに聞いてもらえないエミさんは悲しそうだった。
どうしようもなく、すがるように彼女のまなざしが俺に向いた。彼女の歌には力があると言い、悩んでいるなら力になると言った以上、友達として頼りにされているのだ。
「えっと……」
今にも崩壊してしまいそうなバンドの解散を阻止するため、すぐにでも何か言わなければ。
だけど、いったい何を?
この一か月ほどで見違えるほど語彙が増えてきた頭の中にある辞書をめくるように言葉を探しながら、この二週間の記憶を鮮明に思い浮かべる。
エミさんと協力して、二人で作詞に励んできた日々を。
何もかも手探りで、楽しくも、つらくて、一生懸命に過ごしてきた今日までの時間が無駄だったとは思いたくない。悩み、苦しみ、それでもあきらめなかった彼女の努力や必死さが実を結ばずに終わるなんて耐えられない。
最終的なことを言えば、俺たちの力不足で歌詞は不完全なものに終わった。ライブに間に合わせることで頭がいっぱいになるあまり、満足のいくラブソングは完成していなかった。
本音を言ってしまえば、バンドなんて解散してしまってもいい。
俺たちの歌詞が認められなくたって。
……ただ、俺は、かけがえのないエミさんの笑顔が奪われるのだけは嫌なのだ。
歌詞が認められず、バンドが解散して、彼女が笑顔を失ってしまうことだけが嫌なのだ。
ならば今からでもやれることはやる。
頭を下げてでも、やらせてもらう。
覚悟を決めた俺は、この場の全員に聞こえるよう大きな声で叫ぶ。
「あ、あの、もう一度挑戦させてください! ラブソングの歌詞を作り直させてください! それで、今度こそいい曲ができたら! 本物のラブソングができたら!」
「あ?」
孝之さんと菅井さんの冷たい視線が俺に突き刺さる。
黙れよ、と言われているようで、まったく聞く耳を持たれていない。
所詮は部外者なのだ、という事実が重たくのしかかってくる。
一歩間違えれば、たったの一言でも発言を間違えれば、すぐにでもこの場を追い出されてしまうだろう。
それでも俺は提案をやめなかった。
「皆さんの演奏が悪かったわけじゃないんです! エミさんの歌が悪かったわけでもないんです! ただ、あの曲には歌詞の力が足りなかった! ありきたりで、上っ面ばかりの言葉で、具体性もなく、だから誰の心にも届かなかった!」
声をからすほどの熱量を込めて叫んでも二人にはただにらまれているだけで、返事も反応もない。
エミさんが俺の袖をつかむ。
もういいよ、あきらめよう、そう言っているような弱々しい力で。
でも、だからこそ俺は一生懸命に頭を下げた。
彼女の笑顔を守りたい。それだけの思いで。
「お願いします! もう一度だけ挑戦させてください! みんなの心に届くような、誰もが口ずさみたくなるような、皆さんが今のバンドを続けたくなるような、そんな歌詞を考えます! だから、だから……!」
しばらく反応はない。叫ぶだけ叫んだ俺も、他に続ける言葉を思いつけない。
情けなさと無力感だけが周囲に反響している気がしてくる。
いつまでも頭を下げ続けている俺に対する温情かもしれないが、ため息をついた岸村さんはやわらかく笑った。
「わかった。そこまで言うならお前の覚悟を認める。次の歌詞が完成するまでは俺もバンドを続けよう」
「……岸村がそう言うなら俺も文句はない。やるだけやってみろ」
「ま、リーダーの決定ならな」
どこまで本意なのか、意見を翻してくれた孝之さんと菅井さんの二人も岸村さんに同意する。
ともかく、ライブ終わりに絶体絶命の解散の危機を迎えていたバンドの延命には成功したらしい。
ほっとして顔を上げると、依然として俺の袖をつかんでいたエミさんがうつむいていた。わずかに肩が揺れて、かすかに鼻をすする音がする。
どうやら泣いているらしい。
なんとかバンドを続けられることになったのだから、もっと笑顔で喜んでくれたらいいのに。
どうして泣いてるの? とは尋ねられず、彼女が涙をぬぐって落ち着くまでの数分、その場から動かずに立っていることしかできなかった。
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