第6話 初めての作詞

 翌日、休み明けの月曜日。

 昨日駅前で別れてから今日が来るまでの間にスマホの連絡ツールを使って約束を取り付け、昼休みにエミさんと待ち合わせていた俺は教室を離れた廊下で彼女と顔を合わせた。

 頼られたからには真面目に作詞に取り組むため、彼女のバンドが実際に演奏した曲のデータを受け取るためである。

 さすがに一度くらいは曲を聞いてみないことには作詞することもできない。いや聞かなくても作詞できる人も世間にはいるかもしれないが、あいにく俺はそんなに多才じゃない。完成度を無視した適当な詩でよければ書けないことがないにしても、今回ばかりは曲がついている歌詞なのだ。

 直接的には歌詞と関係のないイントロはともかくとして、Aメロから始まりBメロ、盛り上がりが大事なサビ、そして一番を受けて続く二番。数百字程度の詩というよりも、印象としては物語性の高い短編小説を作るのに近く、想像するだけでも難しい作業だ。

 ちなみに音楽データだけなら直接会わずともスマホで送ってくれればいいんじゃないかと思うけれど、どうやら彼女はネット越しに伝えられる感想ではなく、初めて曲を聴いた俺の生の反応を見たいらしい。

 そう言われて曲を聴くのはなんだか緊張する。路上ライブの時とは違ってエミさんの歌声はまだないので、まさかまた泣けるとも思えない。

 そんな気持ちで聴き始めたらジーンとして目元が潤んだ。


「いい曲だ……」


「だよね」


「伝えたくても伝えられない恋心を秘めたような切なさもあるんだけど、それ以上に青春のさわやかさを感じる曲だ」


「そうそう。なかなか成就しない片想いの苦しみがあったとしても、結果的には前向きになれる曲」


 第一印象による感想を一言で伝えるなら、飾り気のない「すごく好き」という小学生じみた言葉に尽きる。技術的なことは専門外なので評価できないものの、ボーカルのない曲だけで感動できるのは作曲と演奏、双方のレベルの高さをうかがわせる。

 さすが岸村さん。ギターがうまくてかっこいいだけじゃない。

 エミさんに負けず劣らず俺も一緒になって惚れそうだ。

 しかしこれで作詞がより難しくなってしまった。俺みたいな素人が耳にしてもわかるほどクオリティの低い曲であれば歌詞もそれ相応のものでよかったが、ここまで出来のいい曲であれば適当なところで妥協するわけにもいかない。

 いいものを作りたくなる。

 至極単純に、この曲をベースとした最高のラブソングを聞きたくて。


「うーん……」


 目標を高く設定したところで何を言えばいいのかもわからなくなり、ボーっとしているんじゃなくて頭を働かせているんだというポーズのため、意味もなく唸ってみる。

 もっともらしく腕を組んで、よっこいしょと壁に寄り掛かる。

 目を閉じたり、やっぱり開けて天井を見たり。

 健闘むなしく何をやっても何も出てこない。どんなに検索しても頭の中の歌詞フォルダは空っぽだ。

 しばらくして、何の気なしにエミさんが話題を振ってきた。声に反応して横を向いてみれば、こちらの真似をしているのか同じように腕を組んで壁に寄り掛かっている。

 きっと目を閉じたり天井を眺めたりしていたんだろうな。


「ちなみにだけどさ、お昼って、お弁当だったの? それとも学食?」


「弁当だよ。ありがたいことに毎日親が作ってくれるんだ」


「へえ……。食べるのは教室? それともどっか移動する?」


「基本的には教室かな」


「そっか」


 雑談終わり。

 他に用事もないのか、じゃあね、と言ってエミさんと別れる。

 一人になって教室に戻ったところでやることもないので、ひとまずあまった昼休みの時間を利用して曲を聞くことにする。どうせ誰にも声などかけられぬとわかっているのに、目立たぬよう教室の隅で小さくなると、ワイヤレスではない有線のイヤホンを両耳につけて、よれよれになったコードをいじりながらその一曲をヘビーローテーション。

 繰り返し繰り返し同じ曲を何度も聴いて、耳で覚えてしまおうと努力した。

 バンドの構成はボーカルがエミさんで、残りの三人は岸村さんがギター、エミさんの兄である孝之さんがベース、菅井さんがドラムというものだ。中学三年の時にギターを練習したのはほとんど一瞬であまり音楽には詳しくないため、正直なところ世間一般のミュージシャンたちと比べて上手いのかどうかよくわからなかったが、少なくとも聞いていられないほど下手ではなかった。

 むしろ、無邪気に「うまい!」と表現したくなるほど好きな演奏だ。

 さすがに授業中も堂々とイヤホンをつけている度胸はなかったが、昼休みのリピートが功を奏し、カツカツと黒板に凄まじい勢いでチョークを振るっていく教師の後姿を眺めながら、頭の中で歌詞のないラブソングを流し続けた。

 ここにエミさんの歌が入るのかぁ……とぼんやり考えて。

 あまりに一人で繰り返すものだからすっかり癖になって曲のファン第一号になってしまったが、たかが一日では作詞は全然と言っていいほど進捗しなかった。

 なんというか、歌詞なんて取っ掛かりも見つからない。

 そもそも世間のラブソングに共感した経験もない俺である。

 先輩と付き合っていた時だって、ろくに恋人らしいことなんてできなかった。

 こっぴどく失恋して、そもそも恋愛に対する憧れや熱意さえ失ってしまったような……。

 友達よりも恋人のほうが関係性としては上位のものだ、とかいうヒエラルキーがあるわけじゃない。誰かを大切に想う恋愛感情が尊いのは事実としても、それを抱いていないことが思春期の人間として間違いであるわけでもない。

 少なくとも現状、ハルナ先輩やエミさんと友達として仲良くすることに満足感がある。

 ……でも、本当のところはそれだけじゃない。いかなる時も冷静でいるつもりの頭と違って、心の中には否定しがたく欲求もあるだろう。

 友達は友達として、もっと仲良くなりたいと願う感情があるのだ。

 特に、一年越しに再会して友達になったばかりのエミさんとは、もっと楽しくしゃべっていたい気持ちになる。


「うーむ……エミさん、か」


 これが俺なりの恋心だとすれば、あまりにも幼稚で単純すぎて、もっと難しいことを真剣に考えて悩んでいるであろう世間の人が共感するラブソングの題材には決してならないような願望。

 頑張って努力して必死になって校内新聞に書いた恋の詩だって、そんなつもり全くなかったのに友達の詩みたいだと言われた。

 たぶんそれが、小学生のころから変わらない俺の本質なんだろうなと思えてくる。


 ――そういえば、今日の詩もよかったよ! 自分にぴったりの秘密基地を探して、次から次へと変なものに入っていくヤドカリの話! あれって最後は満足して終わったの? それとも不満が残ったの?


 眠るでもなくベッドに入って横になっていたらピコンと音が鳴ったので、充電ケーブルをつないで放置していたスマホを確認するとエミさんからだ。

 きっちりと話をまとめる文章力がないから、自己判断でボツにした多くの詩と同様に、今日の詩は終わり方がぼんやりしたものになっていた。

 なので彼女のような疑問が来るのは当然だ。解釈に迷う彼女の読解力が悪いのではない。

 作り手としては読者からの質問にちゃんと答えたいと思って数分ほど考えて、このままでは翌朝になってしまうと断念する。


 ――ごめん。答えたいけど自分でもわからない。


 がっかりされるかと思えば、意外な返事が来た。


 ――じゃあ、きっと吉永君の悩みをそのまま表現したポエムなんだ! 自信や確信をもって作者側の正しさを押し付けてくる詩じゃないから共感できるのかも!


 ――そのまま表現したっていうか、力不足なだけで……。


 ――なのに私が共感できたってことはさ、力を付けたらもっとすごい詩が作れるよ!


 それじゃあ、おやすみ! と今日のやり取りの最後を伝えるエミさんからのメッセージ。友達になってから、ほとんど毎日のように彼女からのおやすみが一日の終わりを意識させるようになっていた。

 おやすみ、をこちらからも送り返すべきかどうか、いつも迷ってそのまま終わる。

 それはたぶん、何かを始めたり終わらせたりする合図を出せるほどの自信や思い切りがないからだろうと思う。

 そんなこんなで悩みながら迎えたさらに翌日の昼休み、やけに長く感じた四限目の授業が終わって五分と経たないうちにエミさんが俺の教室に来た。

 まさか彼女がこちらの教室まで会いに来てくれるとは思ってもみなかったから、遠慮がちに小さな声で名前を呼ばれるまで存在に気が付かなかった。

 その時の俺が何をしていたかといえば、授業の合間に描き始めた四コマ漫画を完成させるべく、本来は数学用のノートに向き合っていたのである。


「ポエムは共感できたから期待したけど、それ、あんまり面白くないね」


 えへへと苦笑しているので漫画を読み込んで審査員として点数を付けた真剣な批評というわけでもないのだろうが、それにしたって容赦のない言葉だ。ぐにゃぐにゃの線でバランスもめちゃくちゃで、まともに人間のキャラクターが描けていないので言われてもしょうがないけれど。


「でも俺はさ、だから描いているんだ。今より少しでも上手くなるようにって」


 無論、集中力が続かず授業に飽きて、暇つぶし程度で始めた四コマ漫画に対してそんな向上心があるわけもない。たかが落書きとはいえ、自分の生み出したものを面白くないと言われてショックなだけだった。

 言い訳じみた俺の返答に感心したのか、頼んでよかったのかも、と彼女は少しだけ緊張したように切り出した。


「ねえ、どう? 作詞の調子」


「なかなか上手くいかないよ。難しくて。ポエムとは全然違うね」


 とか言いつつポエムも全然できないが。

 ともかくノートを閉じて、彼女との会話に集中できる準備をする。


「やっぱりそうだよね。私も一か月くらい前からノートにそれっぽい歌詞を書いては消してを繰り返しているだけだもん。いきなりすごいのが書けたら誰も苦労しないよ。自分なりのペースでいいからさ、急がなくても平気だよ」


「わかった。でもできるだけ急いで完成できるように頑張るよ」


「ありがと。……今日はいきなり来てごめん。あのさ、こんな感じで昼休みに会いに来ていいかな? せっかくだから作詞について相談したいし」


「もちろんいいよ。一人でノートに向き合っているより二人で会話しながらのほうが面白いアイディアも出てくるだろうから。なんならそっちの教室まで行こうか?」


「いや、それはちょっとな……」


 迷惑そうなそぶりはないが、なにやら困ったように視線をそらせた彼女。話題を変えるためなのか、ここまで持ってきていたらしい弁当箱を机の上に乗せる。

 おそらく自分のものだろう。そういえば俺もまだ弁当を食べていない。

 つまり、ここで一緒に食べようとしているらしい。

 いくら同じクラスに友達がいないからって自分のことを卑下するわけでもないけれど、別クラスの俺なんかと一緒に弁当を食べていていいのだろうか。

 心配になって尋ねる。


「友達は?」


「と、ともだち……」


 てきぱきとチェック柄の弁当箱の包みをほどいていた手が止まった。即答できないところを見るに、あまりいないらしい。

 あまりどころか、ひょっとすると一人も。

 そのまま机の上で包みを結びなおし始めたので、沈黙を避けるべく話しかける。


「……もしかしてボッチ?」


 そんなに深い意味もなく、いつぞやされた質問を彼女にやり返す。同情するでもなく、馬鹿にするでもなく、ただ事実を確認するだけのために。

 ろくに友達がいないボッチだからといって、人間の価値が下がるわけでもない。

 それに今は高校に入学したばかりだ。休み時間に楽しく話せる相手がクラスにいたとしても、新しく友達を作るのが苦手な人間にとって、たかが一か月かそこらで自信をもって「友達がいる」などと言えない。

 友達の定義に求めるものが多くて、友達という言葉の理想を高くしているのではなく、関係性に臆病で不安なのだ。

 こちらからの問いかけに対して直接的に答えはせず、質問が返ってきた。


「吉永君は新聞部の先輩以外に友達いる?」


「いない」


 エミさんを除けばね、と言うと彼女は見るからにほっとした。


「……ふう。じゃあいっか。一緒に食べようよ。もしかして友達と食べるのかと思って自分の教室に帰る準備しちゃったよ」


「そうだね、食べよう。もしかして帰っちゃうんじゃないかと思って俺も焦ったよ」


 などと言いながら二人で弁当を広げる。今までは一人で食べていた昼休みだが、今日からは二人で食べる昼休みだ。

 その後、水曜日も木曜日も同じように会いに来てくれたエミさん。

 歌詞の相談だけでなく、なんでも気さくに話してくれる彼女のおかげで、学校生活が見違えるほど楽しくなった。





 金曜日の昼休み、歌詞を考えることに精いっぱいで今まで後回しにしていた校内新聞のため、すっかり愛用となった辞書を片手に詩作に興じる。

 なんてったって、土日の連休を前にした今日の放課後が締め切りだ。

 左手だけで分厚い国語辞典をパラパラとめくっては適当なところをシャーペンの先で差す。面白そうな単語だったら採用して、それをノートにメモしていく。

 弁当を食べ終えてから数分、じっと眺めていたエミさんがついに尋ねてくる。


「さっきから何やってるの?」


 いったんシャーペンを置いて、へへんと照れ臭い気分で鼻の下を指でこする。


「校内新聞の文芸欄に載せる詩を作ってるんだよ」


「作っているようには見えないけど、何やってるの?」


「辞書をパラパラめくって出てきた単語を組み合わせてポエムを作るんだ。名付けて自由ランダム詩。締め切りが近づいてきているのに何も思いつかないとき、すごく重宝する方法だね」


「まさか歌詞もそんな感じで」


 一つ一つ職人の手作りだと思って注文した工芸品が実際には工場で大量生産されていたことを知ったかのように愕然としたエミさん。

 幸いにも本気で怒っている様子ではないが、いい加減な態度で歌詞作りに挑んでいるんじゃないかと不安に思わせたなら悪い。今回はよくても、今後、真剣に頼ってもらえなくなる可能性だってある。

 ぱたんと音を立てて辞書を閉じて、あせあせと右手と左手をせわしなく動かす。


「あ、いや、安心して、それはないよ。面白い言葉がないかなと思って探しはするけど、さすがにラブソングとなるとね」


 ふう、とわざとらしく胸をなでおろされる。


「それを聞いて安心したよ。何から何まで全部を適当に決めてるわけじゃないんだね。でも大丈夫? いい加減なポエムを作っていったら新聞部の先輩に怒られるんじゃない?」


「そりゃまあ辞書を使って適当に選んだ言葉を並べただけじゃ詩としてめちゃくちゃになることもあるけど、今のところは出来が悪いって理由で怒られたことはないかな。ちゃんと自分で考えた詩なんですよって言えば先輩は褒めてくれるから」


 日本語として成立していないほど極端に支離滅裂な文章でさえなければ、どんな出来でも先輩は褒めてくれる。校内新聞に載せるための詩に限らず、昔からなんでもそうだった。

 運動会の徒競走でビリになっても、定期試験で赤点ぎりぎりの点数をとっても、頑張ったといえば努力を認めてくれる。

 さすがに目の前で辞書をパラパラやっていたら「カズ君!」と言われそうだが。


「甘やかされているんだね」


「う……」


 まるで否定できない。数ある証拠を集めて客観的に判断するまでもなく、昔からずっと俺は後輩というよりも弟のように甘やかされてきた。

 挙句の果てに、恋愛対象でもなかったのに優しさだけで付き合ってもらったことさえあるのだ。

 動きを止めて暇になった両手が辞書とシャーペンさえつかめず、だらりと下がる。圧倒的な無力感。歌詞もポエムも俺なんかが考えたところで……とネガティブな感情に包まれる。

 どんな出来栄えであっても優しい先輩やエミさんが褒めてくれているだけだ。

 自分に力があるわけじゃない。


「ごめん、何か気にしてることだった? そんなに思い悩むとは思わなくて。ひどいこと言ったかも……」


 いつの間にか下を向いていたらしいので、心配をかけまいと慌てて顔を上げる。

 そして無理に笑顔を作る。


「いや、そうじゃないよ。ただ、その件に関して失敗した経験があってさ」


「失敗した経験? それって私が聞いてもいいこと?」


「えっと……そうだね、どちらかといえば聞いてほしいかも。ただ、ここじゃあ……」


 教室にいる誰かと偶然に目が合って気まずい思いをするのはごめんなので、視線の動きだけで控えめに周囲を見渡す。友達と一緒に談笑しながら楽しく弁当を食べている生徒の数は一人や二人ではない。

 内容が内容だけに、さすがに昼休みの教室では話せない。

 密談のつもりで声を小さくしたところで、耳のいい誰かには聞こえるだろう。


「だったら、私についてきて。知ってる? ほとんど誰も来ない空き教室があるんだよ」


 というわけで、音を立てずに椅子を引いて立ち上がったエミさんにしたがって教室を出る。

 やや早足で案内されたのは一つ階段を上がった先、廊下の奥にある空き教室だった。


「よし、誰もいない。よかったよかった。自信満々に空き教室があるって言って連れてきたけど、さすがに昼休みは静かに過ごしたい誰かが使っているときもあるんだよ。それを防ぐためにも内側から鍵をかけられるから、どうしても聞かれたくない話なら……いや、今のうちに私がかけておこうかな」


「ありがとう。エミさんと二人きりで話ができるならそれに越したことはないよ」


「余計なオーディエンスがいなければ、どんな展開になろうが誰にも邪魔されないもんね。……いい話だといいけど、つらい話なんだよね?」


「まあ、そうだね。でも、なんていうのかな。本気でラブソングの作詞をするなら、エミさんにも話しておきたいことなんだ」


「うん。聞く。ほら、そこに座って。立ったままだときついよ」


 ほらほらと彼女に促されるまま近くにあった椅子に座る。それを見たエミさんも隣に置いてあった椅子に腰かけた。

 まっすぐ向かい合うのは何かと話しにくいので、椅子の背もたれに体重をかけたら顔は机の正面、つまり黒板に向けて話す。

 中学生のころ、初めて出会った小学生の時からずっと好きだったハルナ先輩に告白して、恋人として彼女と付き合えることになった話。

 けれど卒業を前にした先輩にキスをしようとして、泣かせてしまった話。

 つまるところ先輩は後輩である俺のことを恋愛的な意味では好きじゃなかったのに、勇気を出した俺の告白を断るのが悪いからと、自分の気持ちを押し殺して無理して付き合ってくれていたのだという話。

 最初は先輩との恋愛話に興味を持っていた様子のエミさんだったけれど、最後まで聞いた彼女は腹を立てていた。


「そんなの先輩が悪いよ!」


「え?」


「だって、オーケーしたんだよ! なのに泣くなんて! 吉永君は悪くないじゃん!」


 絶対そうだって! と立ち上がるほどに力説する。ガガッと音を立てた椅子がひっくり返りそうなくらいだ。

 口ぶりから俺の味方をしてくれているのはわかる。それがどれだけありがたいことなのかも。

 でもそのための敵が先輩となるのでは彼女の意見に同意できない。

 言葉足らずだった俺の説明が原因で先輩のことが誤解されてはならぬと、慌てて擁護する。


「待って、エミさん。俺のためを思って怒ってくれるのは嬉しいけど、先輩は悪くないんだ。告白やキスの話だけを聞いたらそう思うのかもしれないけど、それだけじゃないから……」


「じゃあ、どっちも悪くない。二人の間に悲しいすれ違いが起きただけ。だから吉永君が罪悪感を覚える必要はない」


 こぶしを握り締め、それこそが真実だと確定的に語るエミさん。励ますため、慰めるためだとしても、そこまで力強く言ってくれると救われた気分になる。

 歌だけじゃないんだな。歌声だけじゃない。

 死にそうなくらい落ち込んでいた俺はエミさんに、エミさんという存在に救われているんだ。

 ふるふると首を振って、覚悟を伝えるように口を開く。


「今の俺は、先輩とやり直したいって思ってる。恋人じゃなくて、友達を。この気持ちが恋心じゃないってわかったんだ。憧れとか、信頼とか、そういう種類のものだったって」


「そうなんだ。やり直したいっていうと……部活もそのために?」


「部活に誘われたのは偶然だったけど、入る決心をしたのはそうだね。ハルナ先輩がいたからだ。新聞を作りたいわけじゃない」


 そういう意味では、こちらの返事も聞かず強引に手を引っ張ってくれた大野先輩には感謝している。

 あの日以来一度も見ていないので、いい人なのか悪い人なのかもわからずじまいだけど。


「でもごめん、そんな経験があるのに、恋の詩とか、ラブソングとか……。私、無神経なことばっかり頼んできたのかも」


「そんなことないよ。今まで先輩に頼ってばかりの一方的な関係だったからかな。同じ学年のエミさんに友達として頼られるのは嬉しかったんだ。自分がちゃんと人間関係をやれている気がして」


「ちゃんと人間関係をって……大げさだなぁ」


 かもね、とこれには同意。

 校内新聞の文芸欄を任されて詩を作るようになってからというもの、あらゆる物事を多面的に解釈しようとして大げさに考えるようになったのかもしれない。

 大げさに、というか、より複雑に、だ。

 ある意味ではそれも精神的な面での成長なので、不慣れな詩作を通じて今まで以上に深い思索をできるようになったと言うべきか、とにもかくにも子供から大人になるためのステップを踏ませてくれた先輩には感謝だ。

 先生をはじめとする周りの大人たちが口を酸っぱくして読書は大事だ、と言っていた理由が少しずつわかってきた今日この頃である。

 ともかく、今はエミさんだ。

 大げさでもなんでもなく、今の俺にとっての大事な人間関係。

 それを正直に伝える。


「それにさ、どんなに優しくしてくれてもエミさんは岸村さんに恋をしているから、どうせ自分は恋愛対象にはならないだろうと安心していられる。エミさんに恋心を抱かれることも、自分が何かを期待して恋心を抱くこともないだろうって。焦らず、右往左往せず、無理をしないで相手ができる。恋愛感情抜きで仲良くなれていっている気がして、一緒にいると楽しいんだ」


「私といて、楽しい?」


「うん。すごく楽しい。楽しいから、もっと一緒にいたくなる。だからこうして毎日のように昼休みを過ごせるのは嬉しいな」


「ふうん……なんかそれ、面と向かって言われると恥ずかしいな」


 ちょっぴり頬を赤くして、顔が熱くなってきたのか手で仰ぐ。

 君といると楽しいとか、もっと一緒にいたいとか、普通の友達同士でもなかなか言わないことだ。言っているほうも恥ずかしいけれど、言われたほうも恥ずかしいのだろう。

 なかなか体温が下がらないのか、気まずそうに顔をそらされたので、場をつなぐために冗談っぽく伝える。


「初めて会った一年前から思ってたけどさ、そうやって恥ずかしがってるエミさんの反応はかわいいね」


「かっ、かわいいって……! いや、まあ、君が言ってることが本当なら他意はないのか……じゃあ、素直に受け取ろうかな」


「うん、かわいい。そう思ってるのは事実だし」


 わずかに時間を置いてから、恥ずかしがってそっぽを向いていたエミさんがこっちを見る。もう顔は赤くない。

 からかっているつもりが全くなかったわけではないにせよ、さすがに遠慮がなさ過ぎたかもしれない。


「あのさ、わざとやってる? いきなり言われてびっくりしたけど、さすがに何度も言われると慣れるよ。そこが君の良さでもあるけどね。……でも、そっか。お昼休みを孤独に過ごすボッチ仲間だと思ってたけど、一応恋愛経験はあるんだ。だったらますます頼りにしようかな。ラブソング」


「一応過ぎて、うまくいったとは言えないのが我ながら情けないけど……。でも、頼られて悪い気はしないよ。ラブソング」


 実際、悪い気はしなかった。

 あまりに深い傷だったので完治するまでにはもう少し時間がかかりそうだけれど、エミさんが笑ってくれるたび、先輩との失恋による傷口がふさがっていくような気がしたから。





 これとか参考になるんじゃないかな? とエミさんに勧められた曲のMVなどを見て過ごした休みが明けた月曜日。放課後になると誰よりも先に教室を出て、どこにも寄り道することなく俺は部室へと向かった。

 改めてエミさんに頼られてやる気を出したものの、なかなか進展しないラブソングの歌詞について先輩に相談したくなったのだ。

 ところがアドバイスをもらう気満々で足を踏み入れた部室に先輩の姿はなかった。しかしそれも無理はない。壁にかかった時計を見れば、いつもより早く来てしまったようで、先輩のクラスはまだホームルームが終わっていなかったのだろう。

 しょうがないかと思って部室を眺めていると、長机の奥にある先輩専用のデスクが見えた。著名な作家の書斎にありそうな年代物の作業机に、校長室にあるものよりも豪華そうな椅子。

 とんでもなく気持ちよさそうだ。

 こっそりでいいから、一度くらい座ってみたい。

 どうせなら先輩が来る前に編集長気分を味わっておこうと、どっしりと足を組んでデスクに座ってみた。


「おー、これからはカズ君が部長として新聞を作ってくれるんだ。驚いたなー」


 すごく棒読みだったが、ギリギリ軽犯罪に引っかかるくらいの悪事を見とがめられた気分がした俺は飛び上がった。


「せ、先輩じゃないですか! 入るときはノックぐらいしてくださいよ!」


「カズ君もノックしないじゃん」


「それは……」


 ちっとも反論できない。先輩が相手だから、許可を求めるまでもなく受け入れてくれるだろうという信頼が……いや、やっぱり甘えがあるのだ。

 他の人が部長だったら、入るたびにノックをしていたかもしれない。ノックが不要だと言われていても、部室に来て扉を開ける前に一度、今は入っても大丈夫だろうかと考える時間をとる。


「ごめんごめん、怒ってないよ。ノックしないことも、すごい姿勢で足を組んで私の席に座ってたことも」


「すみません」


「だから怒ってないってば。そんな恐縮しなくたっていいのに」


 ほんの冗談のつもりだったらしく、苦笑しながら部室の奥まで来た先輩は自分の席の横に立って「座る?」みたいな顔をするので、ふるふると首を振って辞退しておく。

 そこはきちんと仕事ができて責任感のある人が座るべきだ。俺の席じゃない。

 実は座ってほしかったのか残念そうな表情をした先輩。こんなに気持ちいいのに……としばらく雑談が続きそうな気配があったので、いいタイミングだと思って声をかけておく。


「先輩、今日の仕事に入る前にちょっとこの曲を聴いてみてください。エミさんのバンドの新曲なんです」


「へえ、エミちゃんのバンドの。面白そうだね。貸して」


 興味を持ってくれたらしく、ちょっとだけ前のめりになった先輩が差し出した手のひらにイヤホンの先を乗せる。しかしコードがつながっているのを思い出して、再生は自分のタイミングで始めてくださいと音楽プレーヤーを表示したままのスマホごと渡すことにした。

 そうだねとうなずいて受け取ったイヤホンを左右の耳に付けると、集中するためなのか先輩はふかふかの椅子に腰かけて目を閉じ、大事そうにスマホを両手で握ったまま曲を聴き始める。

 長さはおよそ四分半。

 こちらを信頼して無防備に両目を閉じている先輩のそばに立ったまま、すぐ近くから彼女の顔を眺める。以前はそこにドギマギするような恋心が備わっていたけれど、今は穏やかに見守っていられる。心が無駄に波立たない。

 でもそれは先輩に対して興味がなくなったわけではなく、性的な結びつきを求めて付き合ったり振られたりする不安定な恋心よりも、はるかに安心できる確かな関係を取り戻せている感覚があるからだ。

 曲が終わったらしく、右に左に頭を傾けながら片耳ずつ順番にイヤホンを外して目を開けた先輩がこちらを見た。


「いい曲だと思うけどさ、いつまでたっても音楽が流れるだけで歌声が入ってないよ。データ間違えてない? エミちゃんがボーカルだっていうから期待してたのに、なんか騙された気分だね。未完成なのかな……」


 軽く束ねられたイヤホンとスマホを同時に受け取りつつ、答える。


「そうなんです。実は未完成の曲なんですよ。先輩ならこれ、どんな歌詞をつけますか?」


「……私? そうだなぁ、どうしよっか。そもそもこれ、どんな曲なの? ジャンルは?」


「えっと……あの、それは……」


 本当は黙っておきたかったけれど、ここで隠すのも変だ。

 普通に、普通に。

 もったいぶらず、さりげなく教えることにする。


「これ、ラブソングなんです」


「ラブソ……」


 ング、まで言い切れずに言葉を濁らせる先輩。

 歌詞はないものの、今の曲が恋愛のことを歌っているラブソングであったと聞いて、一時的ではあれ恋人として付き合っていた中学生のころのことを思い出しているのだろう。

 しかも当事者である俺の口から出てきた言葉なので、なおさら強く意識してしまったのかもしれない。

 一年ぶりに再会してから今日まで、お互いにあえて触れずに過ごしてきたこと。

 さすがにいつまでも都合よく忘れたふりをして黙っていることは無理だと判断したのか、ゆっくりと背筋を伸ばした先輩が過去に踏み込む決意をした。


「私のこと、恨んでる? あの時の私、カズ君に、あんなにひどいことして……」


 おびえるような声。

 こちらが口にする返答によっては、また俺が原因で泣かせてしまいそうな気配さえある。

 もう先輩の涙は見たくない。

 絶対に傷つけたくない。

 だから精一杯の誠意を込めて、この場で先輩のために用意した嘘や偽りではなく、今の自分が理解している本心を答える。


「いえ、全然。あのころは俺も、恋愛のことわかってなかったんで。憧れていただけなんです。誰かを好きになることはできても、好かれる努力なんて一切やってなかった。先輩でなくても、振られて当たり前なんです。ちょっとの間だけでも恋人として俺の相手をしてくれて、むしろ感謝しているんですよ」


「そんなこと……」


 やはり先輩も俺と同じかそれ以上の罪悪感を覚えているようで、声のトーンが下がり、露骨に口数が少なくなっている。

 このままだと、あの日のように俺たちの関係が終わってしまう。

 しかも今度は恋人としての関係ではなく、普通に話せる友達としての関係が消滅してしまうだろう。

 だから俺は必死に絆をつかむつもりで先輩の顔を見た。


「でも楽しかったですよ。小学生の時も、中学生の時も。なので先輩さえよければ、友達としてまた仲良くしたいんです」


「私も楽しかった。だから中学校を卒業してカズ君と離れることになるのが寂しくて、迷いながらも告白を受け入れた。でも、ごめんね。カズ君が嫌いってわけじゃなくて……」


「わかってますよ、先輩。わかってるんです。わかったうえで、やり直したいんです」


 はっきりと気持ちを伝えた後で、悲しむよりも笑顔を意識して言葉を続ける。


「だからもう、深刻なまでに悲しそうな顔をしないでください。前向きになろうって、そう考えて俺も必要以上に落ち込むのはやめにしたんです。ねえ、先輩、だから罪悪感なんて捨ててください。お互い、笑い話にしましょうよ。あの時は失敗しちゃったねって、それで済む話に」


 それができたらどんなにいいだろう。

 つらい出来事を二人にとっての笑い話に変えるなんて、一番の理想ではあるにしても、口で言うほど簡単なことではない。

 でも、すぐにでは難しくても、先輩と俺とでなら可能な気がした。

 なぜならば、たった一度の失敗くらいで完膚なきまでに失われる関係ではないと信じられたからだ。


「うん、そうだね。できるかわからないけど、頑張る」


 遅々として進まない作詞についてのアドバイスを先輩にもらいたかったけれど、今はもういい。

 いつまでも先輩に頼ってばかりではいけない。もう小学生ではなくて高校生なのだ。

 特にそれが恋愛のことを歌ったラブソングであるなら、これは俺が自分の力で向き合って真剣に考えるべきだと思えた。


「ラブソングの歌詞が完成したら、先輩にも聞いてほしいです。恋愛の意味を理解して、先輩にすがってばかりだった俺がちゃんと、今度こそ独り立ちできたって証にもなるから」


 恋はもういい、できないと思っていたけれど。

 それはそれとして、恋は理解したいと思った。

 そのためのラブソングなら、俺は、果たして、いったい何を書こうというのだろう。

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