第2話 プロローグ(2)
先輩と別れてからの俺は悲しみだけではない後悔と失意の念にさいなまれ、絶海の孤島に取り残されたような孤独感に心を支配されていた。
涙ながらにキスを拒絶されてからの数週間はあまりの落ち込みように部屋に閉じこもり、寝ても覚めても代わり映えのしない生活を、イベントの用意されていないゲームのモブキャラみたいに繰り返していた。
大切な人を傷つけてしまった自分には、もう居場所なんてないのかもしれない。
先輩の隣だけでなく、世界のどこにも受け入れてもらえないのかもしれない。
たかが初恋に失敗したくらいで、と笑う人もいるだろう。
だけど俺にとっての先輩はそれくらい大きな存在になっていたのだ。
この世で一番大切に想っていた先輩。そんな人を自分本位な願望で泣かせてしまった。
もはや修復不可能なレベルで嫌われてしまっていてもおかしくない。
たとえ嫌われていなかったとしても、以前のように楽しく過ごすことは無理だ。
初めてちゃんと、優しく、楽しく、居心地よく、真正面から向き合って相手をしてくれた女性だったのに。初めて仲良くしてくれた異性だったのに。
今後、これ以上の距離感で親密になれる人間など自分には存在しないように思えた。
であれば、相思相愛の恋人関係など夢のまた夢に思える。
どれほど激しい熱に浮かされようと、まともな恋なんてもうできない。
老若男女、どこの誰が相手だろうと恋愛なんて自分には無理だ。
どうせ成就しないのだから、もはや片思いさえしたくない。
もっと言えば、子供のころの友達と離れ離れになった中学校生活において満足に友達さえ作れていない俺だから、今後の人生を孤独に迎える予感がある。
温かい家庭なんて作れず、仕事もうまくいかず、誰にも意識を向けてもらえない寂しい将来の予感……。
そこまで考えて、思い至る。
ああ、そうか。俺は先輩に恋をしていたのではない。
優しくて親切な先輩にすがっていたのだ。
何があっても自分の味方でいてくれると信じたハルナ先輩を自分の手の届く範囲にとどめていたくて、相手の立場や気持ちを考慮しない一方的な欲望を動力源にして、自分からは何もしてあげられない代わりに「好きです」という言葉を使い、くさびを打ち込みたかったに過ぎない。
だとすれば、恋は、もう、二度とできない。
みっともない思春期の、成熟しきっていない子供じみた「おねだり」。
それが俺の抱いていた恋愛感情の正体だった。
「先輩に合わせる顔がない……」
情けない俺の存在なんか世の中にとっても邪魔だ。
せめて先輩が卒業して高校に進学するまでは、馬鹿な後輩を見捨てられない彼女にとっての重荷にしかならないであろう俺は学校に顔を出さないつもりでいた。
いわゆる引きこもり、登校拒否である。
怒るでもなく心配した様子の親や先生に学校へ行きたがらない理由を聞かれて、まさか本当に「失恋したので……」とは言えない。傷口に塩を塗る行為だ。恥ずかしさとみっともなさで生きていけなくなる。
だから逃げ出した。
自意識がスライムみたいに溶け出しそうになっていた中学二年の冬、それは二月下旬の雪が降りそうなくらい寒い日。
どこか遠い場所へ行きたいと、当てもなく小遣いを握りしめて最寄りの駅へ。本気で家出をする度胸と覚悟は足りず、少しでもゆっくり着くようにと、自転車ではなく徒歩で。
うじうじと寄り道もしたので、目的としていた駅前に到着したのは夕方ごろだった。すでに周囲は薄暗くなりつつあり、心細くなってきた俺は「今日はもう遅いから帰ろう……」と心の中で自分を慰める。
世間の誰一人として俺の存在など気に留めていないのに、いちいち言い訳をして生きているみたいだ。
ふてくされた気分でポケットからスマホを取り出して眺めると、母親から「今日は寒いから早く帰ってきなさいよ」とのメッセージが届いていた。
こんな俺のことでも心配してくれているんだな、そう思うと少し泣けた。
「はぁ……。だけど俺の居場所なんてどこにも……」
家に帰るのは最後の手段だ。さすがに早すぎるホームシックに負けじと、家出を決意した反抗期の男子中学生としての見栄や意地がちょっとくらいはある以上、すぐには帰る気分になれず、完全に日が落ちて街灯がつくくらいまでは……と意味もなく立ち尽くす。
そこは駅前のロータリー。
実際以上に寒く感じる外気温に痛めつけられている気がして、ぬくぬくと暖房がきいている家が恋しくなり、少しでも暖かくなれと熱心に手をすり合わせて白い息を吐く。
「……ん?」
そんなとき、せわしなく行きかう人々の雑踏に紛れて”音”が聞こえた。
思わず両手で耳をふさぎたくなる無秩序な雑音ではなく、むしろ率先して耳を傾けたくなる心地よいハーモニー。
いくつかの楽器と少女の歌声が織りなす”音楽”だ。
最初は駅に設置されているモニターやスピーカーから流れている放送か何かかと思ったけれど、すぐに違うと肌でわかった。
いうなれば、生の音楽。すぐ近くで演奏されている。
――でも、どこで?
顔を上げて音のするほうへ目を向けると、少し離れた場所でストリートライブを始めていたバンドの姿があった。パフォーマンス用の衣装ではなく、統一感のないバラバラの私服だけれど、見た感じで判断するなら高校生くらいの四人組バンドだ。
ただの路上で専用のステージは一切なく、ろくな音響設備も用意されていないため、距離があると顔を向けたくらいではよく聞こえない。
まだ無名のバンドなのか熱心に応援するファンらしき姿はなく、それどころか足を止めて聞き入っている観客さえ一人もいない。
唐突に始まった路上ライブのがらんとしたステージ。お金を払わずに立ち止まって耳を傾けるだけでいい客側としても、最初の一人になるには勇気がいる。
だけど今なら最前列中央を陣取るのも簡単だ。
しばらく迷った末、俺は彼らのもとへ足を進めることに決めた。家に帰るまでの暇つぶしや興味本位の行動と言ってしまえば、それまでかもしれない。野次馬や冷やかしと表現されても文句は言えない。
でも、確かに俺は彼らの伝える何かに惹かれたのだ。
具体的なことは自分にもわからぬまま、ただの好奇心ではない何かに突き動かされたのである。
「へえ……」
勇気を持って近づいてみれば、自分たちの音楽を世界に届けようとして一生懸命に演奏する彼らの真剣な表情がかっこよく見えた。
そりゃプロと比べれば技術的には下手なのかもしれない。だけど俺が知る世間の高校生の中では十分に上手いレベルだ。探せばいくらでも凄腕の若いミュージシャンを見つけられるであろうネット時代といえど、やはりネット越しに動画で見るのと生で見るのには大きな差がある。
どちらが優れているというものでもないけれど、まさに今、この同じ時間、この空間、すぐ目の前でライブをする彼らの曲が俺には深く胸に刺さった。
有り体に言えば、感動した。
恥ずかしながら、自然と涙がこぼれていた。
――諦めないで。いつかきっと、いいことあるよ。
そう歌うボーカルの少女の声が、どんよりと落ち込んでいた俺の心を抱きしめるように慰めてくれる。ありきたりで陳腐な歌詞のはずなのに、彼女が言うと本当にそう思えてくる。
人生には夢があり、希望があり、幸せがある。
一番の宝物として手にすべきは恋だけではない。
家族がいて、友達がいて、同じ時代を生きる無数の人々がいる。
……救われた。
一人じゃないと思えた。
五分前後の長くも短くも感じた曲が終わり、ちょっとした休憩を挟んで次の曲が始まる直前だ。いわゆるMCみたいな挨拶やバンドメンバーの紹介もないまま、まるで涙をぬぐうみたいにして前髪を軽くかき分けたボーカルの少女が俺を見て、声に出さぬまま口の動きだけで「ありがとう」と言って笑った。
泣いているんだろうか?
だけど決して悲しいわけじゃなく、泣くほど恥ずかしがっているわけでもなく、一生懸命に歌い切った直後で達成感とともに上気した笑顔で、うるんだような瞳がこちらを見つめていた。
あたかも聞き手である俺と感動を共有してくれているように、優しい表情のままで。
きっと今までの俺なら、そんな彼女の笑顔にドキリとして簡単に恋をしていただろう。かーっと頬が熱くなって、まともに彼女の顔を見られなくなっていたに違いない。
だけど今の俺は驚くほど単純に嬉しさだけを感じた。
いい格好をして相手に好かれたいと願う打算もなく、つまらぬことで嫌われたくないからと演じる社交辞令もなく、やはり声に出さぬまま「こちらこそありがとう」と伝えたくて笑顔を返した。
ここにいてもいいんだ。自分にも居場所はあるんだ。
恋じゃなくても、友達じゃなくても、出会ったばかりの名前さえ知らない自分を受け入れてくれる人はいるんだ。
全身が震えるくらいの喜びとともにそう感じて、結局のところ俺は最後まで彼らのライブを聞き届けた。
「終わっちゃったな……」
その後、何曲か続いた路上ライブが終わり周りに人がいなくなっても余韻は消えてなくならず、名残惜しさを感じれば家に向かって歩き出すこともためらわれた。
駅を利用するために急ぐ通行人の邪魔になってはいけないと、最近ずっとそう生きてきたように、目立たない柱の陰に寄りかかって立つ。時計の針とともに少しずつ日は沈んで、茜色の空が薄暗く夜のカーテンを閉ざして、ちらちらと街灯がともり始める。
そろそろ帰るつもりだった時間だ。あまり遅くなると本格的に親を心配させてしまう。
なのに動き出せずにいると、たったったっとこちらへ駆け寄ってくる一人分の足音が聞こえてきた。顔を上げれば、先ほどのボーカルの少女だ。そんなに急いでどこに行くんだろうと思っていると、なんと俺の前で止まった。
ふう、と息を整えて、やっぱり笑顔で声をかけてくる。
「はい」
と言って、両手で差し出してきたのは一本の缶コーヒーだ。
すぐには状況が理解できず、でもたぶんそうだろうと思って、遠慮がちに自分の顔を指さしながら尋ねる。
「これを……俺に?」
「うん。寒いかと思って」
「ありがとう。すごく寒かったんだ」
まずはお礼を言ってから、こんな俺にも優しくしてくれる親切な彼女を驚かせないように慎重な手つきで受け取る。
失恋してからずっと感じていた寒さと孤独を一時的にでも忘れさせてくれる気がする、心の奥まで温まるような熱々の缶コーヒー。
さりげなく確認すると、ブラックではなくミルクと砂糖入りだ。
よかった。これなら飲める。
渡されたコーヒーが苦くないのを知って胸中で安堵したことが見抜かれたのか、声に出さないまでも彼女がクスッと笑った。
「ね、君って中学生?」
背伸びしたって高校生には見えないだろうな、と思いながらうなずく。
「うん、中学生。君は?」
答えたついでに反射的に問いかけながら、もしも彼女が高校生であれば年上に対してずいぶん馴れ馴れしくしてしまっているんじゃないかと不安に思えてきた。同級生みたいに親しげに話しかけてくれているので、仮にそうだとしても怒りそうには見えないけれど……。
ハルナ先輩という身近な年上の女子に甘えて失敗したばかりなのもあって、失礼があってはいけないと恐縮して身を引きそうになる。
人間関係は難しい。何が引き金となって相手を傷つけてしまうかわからない。
やや過剰に不安がっている俺を安心させるためなのか、真正面ではなく隣に並んで立った彼女はすぐ横にいる俺に顔を向け、右手でピースサインを作った。
「私も中学生」
そう言い終えてから右手のピースサインをハサミみたいにチョキチョキ動かすので一体なんだろうと思っていると、彼女が自分のピースサインを内側に向けて、何かを考えるように見下ろしながらつぶやいた。
「二年生。四月からは三年生になるんだ」
同じだ。年上でも年下でもない。
ちょっとでも油断したら火傷するんじゃないかと思えるくらいに熱い缶コーヒーを我慢して握っている右手とは逆の左手で控えめにピースサインを作って、あちらから問われる前に答える。
「俺も二年生。四月からは君と同じで三年生になるんだ」
へえ、と彼女が俺の目を見て、もう一度チョキチョキとした後、ここにはない何かを握りしめるようにピースサインをグーにする。
「ぽいね」
「ぽい? そう見えるってこと?」
もしかして、そんなに俺って中学二年生っぽいのだろうか。
それとも彼女にとって「年上っぽさ」も「年下っぽさ」もないってことだろうか。
どちらにしても第一印象から同年代に思えていたということだ。それがいいことなのか悪いことなのかもわからず左手のピースサインを閉じたり開いたりしていると、声を出してふふっと笑った彼女がポリポリと頬をかく。
「嘘だよ。冗談。年上だったらどうしようって不安に思いながら聞いてみたら同い年だったからびっくりしちゃった。そんなに真面目に受け取らないでよ」
「あ、そうなんだ。ぽいのかな、と思っちゃって」
「ぽいのはぽいけどね」
「ぽいのはぽいんだ」
照れ隠しに彼女の真似をしてポリポリと頬をかきながら笑う。
気まずさや恥ずかしさもあるけれど、意図せず手が触れ合えるくらいの距離でしゃべっていて、緊張を感じるよりも不思議と居心地の良さがある。
初対面であるにもかかわらず無理をしないでいられる。
どうしてだろう、と疑問に思っていると、つんつんと肩をつついてきた彼女が俺の持っている缶コーヒーを指さした。
「飲まないの? そのまま持ってると冷めちゃうよ」
「あ、それもそうだね。ちょっとずつだけどぬるくなってきた気もするよ。まだあったかいうちに急いで飲もうかな」
「うんうん、飲んで飲んで。私からのプレゼントだから」
その言葉を聞いて、軽く振ってからプルタブをひねって缶を開けようとしていた手が止まる。
「プレゼント?」
なんとなく自然な行為として受け入れていたけれど、今さらながら疑問に思える。
どうして彼女は友達でもない俺に缶コーヒーをくれたのだろう。柱に寄り掛かって寒そうにしていたからって、わざわざ買ってきてくれるだなんて。
すごく貴重で大切なものをもらった気がしてきて、まじまじと缶コーヒーを眺める。どこにでも売ってある普通の缶コーヒーなのに、特別なものに思えて飲むのがもったいなくなってくる。
「いや、あのさ、プレゼントっていうほど大したものじゃないけどさ、嬉しかったから」
「嬉しかったって、何が?」
「何がって……。いや君、さっきは泣くくらい聞き入ってくれてたじゃない? 最初に立ち止まってくれたのもあるけど、やっぱり私たちの歌で感動してくれる人を見るのは嬉しいんだよ」
「……そういうものかな?」
「そういうものだよ。私は君が泣いてくれて、そのあとちゃんと笑顔になってくれて、すごく嬉しかった。私たちの歌で感動してくれてるんだな、喜んでくれてるんだな、って思えたから。……ボーカルやってて、ちょっと自信がなくなってたのもあってさ。だから感謝のつもりなんだ」
そこまで言って、うつむく彼女。
「ひょっとしたら缶コーヒー程度の感謝かよって思うかもしれないけど、中学生にとっては百円ちょっとでも高いんだよ。私ってお小遣い少ないし……」
それはよくわかる。お小遣いが少なくて家出のための電車賃さえケチって持ってきた俺にとって、たかが百円程度でも他人のために使うとなるとそれなりの覚悟がいる。
なので、ほんの数秒のことで中に入っている容量が変化したわけでもないのに手の中の缶コーヒーがズシリと重みを増したように感じた。
彼女の感謝の気持ち。
ますます飲むのがもったいなくなってくる。
「いや、ありがとう。すごく嬉しいよ」
「そう言ってくれると私も嬉しいな。他に何かあげられたらよかったんだけど……」
「他にか……。だったら、せっかくだし一つお願いしてもいいかな?」
「いいけど、何? お金がかかるものはちょっと……」
「大丈夫。お金はかからないと思うよ。今日の記念に君のサインが欲しいんだ」
「え、私の?」
「うん」
根拠もなく偏見にすぎないけれど、音楽をやってるバンドマンといったらやっぱりサインだ。
いつかプロになって有名になったらデビュー前にしてくれたサインは価値が出る……というのは建前で、本音としては単純に彼女との思い出を形にして残しておきたくなったのだ。
「……わかった。いいよ。サインなんて初めて求められたから恥ずかしいけど、一人でせっせと練習してた甲斐があったかな」
かわいい字で名前を書けるようになったんだよ、と照れて耳を赤くする彼女。
プロになれるかもわからないのにサインの練習をしていたなんて言ってしまってから恥ずかしくなってきたのか、わざとらしくコホンと咳をして、背負っていたリュックを下ろして胸に抱える。それからチャックを開けて、ごそごそと中からノートとペンを取り出した。
びりびりとノートのページを一枚ちぎって、それにサインを書いてくれるらしい。
さすがにサイン色紙を持ち歩いてはいなかったようだ。
「あ、よかったら俺にも一枚くれる?」
「もちろんいいよ。たぶん何か書くんだよね? だったらペンも貸してあげる」
「ありがとう」
彼女の手から紙とペンを受け取って、今まで寄りかかっていた柱を即席の机代わりにして文章を書く。丁寧な字で長々と書いている時間はないので、最低限には読める雑過ぎない感じで、すらすらと今の感情をつづっていく。
よかったです、すごかったです、とても感動しました。
とか、小学生でももっとまともに書けるだろうと我ながら呆れるくらいの感想文。
「ほら、どうかな。練習の成果が出てうまく書けてるといいけど」
「すごい。ちゃんとサインだ」
紙いっぱいに大きく書かれた彼女のサイン。
かわいいながらもおしゃれな字で「中道エミ」と書いてある。
おそらくそれが彼女の名前なのだろう。
「なかみち、えみ……」
部屋のどこかに大切に飾っておかなくちゃな、とか思っていれば、本気では怒っていない感じで彼女がちょっとちょっとと俺の肩を叩いてくる。
「いきなり呼び捨て?」
「いや、呼び捨てっていうか……。ごめん、中道さん」
「エミでいいよ。で、それは? 君もサイン書いてくれたの?」
「ファン側の人はあんまりサインを書いて渡さないんじゃないかな……。渡すならこういうのだよ。はい」
あまりに稚拙な内容なので恥ずかしくもある俺からの手紙を受け取って、何が書いてあるんだろうと不思議そうに読み始める彼女。
そんなに長くない単純な内容なので、すぐに読み終える。
「すごい、ファンレターなんて初めてもらった!」
理解した瞬間に嬉しがっているのか、俺からのファンレターを握りしめて目をキラキラと輝かせる彼女。
ちゃんと練習していた彼女のサインと違って、その場で思いつくままに書いた短い手紙だ。SNSのリプライ程度の文章でファンレターと呼べるほど大したものでもないのに「すごいすごい!」と言い始めるので、こっちが恥ずかしくなる。
「そんなに喜ばなくたって……。プロになったらいくらでももらえるよ」
どうせ俺が書いたものなんてすぐに忘れる。今日ここで会ったことも、涙するくらい感動した俺にとっては特別でも彼女にとってはいくつもあるうちの一日でしかない。
なにしろバンドだ。本気で活動していれば特別な日なんて何度だってやってくる。
これまでに何度ライブをやって、これから何度ライブをやるのだろう。
バンドの中央でボーカルとしてステージに立つ彼女の目に、どれほどの観客の姿が写っていくのだろう。
それを想像すると、今ここに立つ自分の存在があまりにも小さなものに感じられていく。
同じ空の下に生きていても、心では温度差があるのだ。
俺と彼女では住んでいる世界があまりに違うのだ。
なんとなく寂しさを感じていると、何回も読み返していたファンレターを手にしたまま彼女も寂しそうな顔をして、ううん、と首を振る。
「どんなに頑張ったってプロになれるのはほんの一握りだよ。バンドだって、今のメンバーでいつまで続けられるか……」
「うん、まあ、それはね……」
そんなことない、君なら絶対にプロになれるよ!
なんて、確信をもって力強く言えればいいのだけれど。
死にそうなくらい落ち込んでいた俺を泣くほど感動させてくれた彼女の実力を信じている一方で、現実の厳しさも知っている。人生をかけて本気で頑張ったからといって、すべての人が報われるわけでもないのが実情だ。
夢や目標だけでなく、恋心だって……。
だから自信を失っている様子の彼女を薄っぺらい言葉で励ますよりも、力なく共感するほうを選んだ。
かえって落ち込ませてしまうだろうな、などと不安に思っていると彼女がつぶやく。
「……だけど、続けていれば一人は喜んでくれる人がいるってわかった」
何か答えようと思ってエミさんに顔を向ければ、さっきまで寂しそうだった表情が笑顔になっていたから何も言えずに口を閉ざした。
余計なことを言って、また寂しそうな顔をされてしまうのが嫌だったから。
もしかしたら俺が悲観的に想像するよりは彼女との間に温度差がないかもしれない。
そう感じながらも、寄り添いたいくらいに肌寒さが強くなるとともに、夜はどんどん暗くなってくる。
「それ、甘いの喜んでくれてありがとう。どれがいいかなって迷ったんだけどね、その缶コーヒー。いつまでも大切そうに握ってないでさ、君が飲み終えるまで待ってるよ。そしたら帰る」
「だったら急いで飲まないと。家まで送っていくわけにもいかないから、あんまり長々とエミさんを待たせるわけには……」
「それなら心配してくれなくても大丈夫。すぐ近くのファミレスでバンドメンバーがご飯を食べてるから帰り道は安心なんだ。私はさっさと食べちゃって一人で抜け出してきたんだけどさ、あの三人はあれもこれもってたくさん食べるからいっつも長いんだよ。食事が終わったら連絡が来るはずだけど……うん、まだみたい」
「そっか。抜け出してきたって?」
「……なんとなく君がまだいる気がしてさ。いなかったらすぐ戻るつもりだったんだ」
「そうなんだ」
シャカシャカと軽く振りなおして缶を開ければ、熱で溶かしたチョコレートが入っているんじゃないかと感じるくらいに甘いコーヒーの香りがした。いかにも俺が中学生っぽくて苦いのは飲めなそうだったから、もしかしたら自販機の中で一番甘そうなものを選んで買ってきてくれたのかもしれない。
それから一本の缶コーヒーを飲み終えて彼女と別れるまで、会話というほどの会話もなく、タイミングがなくて自分の名前を教えることもなく、お互いの連絡先を交換することもなかった。
いつもより遅く帰ったその日の夜、俺は彼女の夢を見た。
笑顔の彼女と楽しく会話をして一日を過ごす夢だ。
こんな日が続けばいいなと、心地よい温度で胸が熱くなるくらいに幸せな夢。
……でもこれは恋じゃない。世間に比べて人間的に未熟な俺は恋心なんてもう抱かない。
あっさりと惚れたわけでもなければ、彼女に好意を持たれているんじゃないかと勘違いしているわけでもない。
仲良くなりたい。ただそれだけの感情。
偶然にも同じ学年だったから、運がよければ高校で再会できるかもしれない。もしかしたらクラスが同じになって、今日のことを思い出しながら友達になって、毎日のように楽しく会話をして過ごせるかもしれない。
だけど自分が情けないままでは会いたくない。
だったら、ちゃんと生きよう。
そう思った俺は次の日から学校に顔を出すようになった。
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