第11話 師匠にも色々と
神精山の山頂付近には大きな窪地がある。その中には泉がひっそりと佇むのだが、宝石を散りばめたかのように、水面が色とりどりに輝く。そこは『神のうたた寝』とも呼ばれており、師匠ソフィアの住処でもある。
泉に潜ったならば、まず小魚の群れが出迎えてくれる。豊かに繁茂する水草、そこを隠れ家とする小さな貝。小さいながらも命のサイクルが回る世界である。
さらに深く潜ると、場違いながらも掘っ立て小屋を目にする事になる。不思議な半透明のドームに包まれる事で、浸水を免れている、真新しいログハウス。一人暮らしなら丁度良いサイズ感の家屋が、そこにある。
今このタイミングならば、家屋の傍で聞き耳を立てる事で大きなイビキを確認できる。陽が高く昇り、間もなく正午を迎えるだろう頃合いなのだが。
「フンゴォォォ。フンゴォォ、フゴッ」
中の造りはワンルーム。ドアを開ければタンスに本棚、ダイニングテーブルが見える。そして炊事場やベッドまでが仕切りもなく混在する。手狭な部屋だった。テーブルも流しも食器が山積み、床は床で読みかけの本や脱ぎ散らかした衣服で、足の踏み場もない有様。
一言で言えば、荒れた部屋である。しかし住人のソフィアは深い眠りを堪能できる程度には、快適に感じていた。
「えらいぞアクセルュウ……腕立て10回も出来るなんて、天下無敵だぞぉ……」
彼女はいまだ夢の中。緩んだ口元から、テラテラと光る唾も垂れる。
更には寝間着のワンピースも、いつの間にか脱ぎ捨てるという大惨事。彼女の貞操を守るのは、シルク製の掛け布1枚のみ。それも寝転がる度に、滑らかな質感から柔肌の上をツルリと滑る。今この瞬間にも悩ましい『谷間』を通り越し、『頂き』を制覇しかける。その先へ進撃したならば、何かがポロリしてしまう。センシティブな先端が、あられもなく。
だが幸いな事に、布が登りきる事はなかった。謎の力学により、最も重要とされる部位を隠し通す事に成功したのだ。実に喜ばしい話である。それはもう、実に。
「んっ……フワァァ。もう朝かぁ」
もう昼だ。身を起こしたソフィアは、胸元で滑る布を素早くキャッチ。そして背中で結び目を作り、間に合せの衣服とした。裸でウロついたとしても、特に見咎める視線は無いのだが、彼女なりのけじめだった。
「腹が減ったな。何か頼むとするか」
ベッドの上に座ったまま、家具の方へと手を伸ばした。それは大きな鉄製の収納箱で、無骨なデザインながらも耐久性が極めて高い、長年愛用する家具である。
ソフィアはそれに手をかざすと、手早く術式を走らせた。すると光り輝く幾何学模様が、目まぐるしく回転し始める。異質なる気配を漂わせつつ、甲高い音を鳴らした後に消えた。
スフィン! シュワシュワシュワ……ミュニャン!
「今日の日替わり定食は……塩豚丼か」
しばらくすると、鉄の箱に術式が降りかかる。スフィン、ミュニャンと聞こえた。やはりベッドの上から手を伸ばし、重厚な鉄の蓋を持ち上げた。
中に現れたのは2人前の丼メシ。湯気を介して漂う香りは、空腹に突き刺さるようである。
「じゃあさっそく……。うんま! これ、メチャうんめぇ! この味と量で30ディナとか、お値打ち価格過ぎるだろ!」
高速にスプーンを操り、口の中でマリアージュを生成する。米の食感や甘みに加え、強くとも癖のない塩っけを、濃厚な豚脂が覆い尽くす。
美味い、美味すぎやしないか。もはや呼吸するのさえ邪魔になるほど、無我夢中にかき込み続けた。
「ふぅ……。うっかり2人分オーダーしてしまった。残りは夕飯に回すか」
思えばアクセルと暮らす日々が長すぎた。日常のあちこちで癖が抜けず、その度に自嘲じみた笑みを溢してしまう。
「私も偉そうに言えたものではないな、自立しろだなんて。そもそも自分だって、いまだに割り切れていない」
ソフィアはふと、本棚の方へ目を向けた。それから手を伸ばし、飾られた石を掴み取った。指先程度の大きさで、色は青く、向こうが透けて見える程に透明。さながら清水を思わせる美しさがある。
贅沢品ではない。これは在りし日のアクセルより、譲り受けた物である。
――ねぇ師匠! ピカピカな石を磨いてたら、こんなキレイになったよ! まるで師匠のお目々みたい!
記憶の一幕を思い出すだけで、胸に熱いものが込み上げてきた。それはもう深い所から、ドゥワッと。ちっぽけな理性くらいなら、いとも簡単に吹き飛ばすほどの衝動だった。
しかしソフィアは堪えた。深呼吸に助けられはしたものの、どうにか自我を保つことに成功したのだ。
「ンミャァァ……。アクセルの奴。遠く離れた今でさえ私に依存して来ようとは。いい度胸だな!」
言いがかり、あるいは八つ当たり。今回ばかりは、アクセルに一切の落ち度がない。
ソフィア自身もその点は重々承知であるが、気を和らげたりはしない。むしろ対策せねばならぬと、その場で鍛錬を開始するのだ。
厳しく、過酷なる修行が、今始まろうとしていた。
「スゥ……ハァ……。スゥーー、ハァ〜〜。よし、やるか」
ソフィアはベッドの上で座禅を組み、精神を統一。そして瞳を閉じてはイメージを繰り返す。浮かぶのは煩悩。アクセルの姿を借りた、衝動の群れである。
――師匠に似合いそうな花を摘んでまいりました。名も知らぬ物ですが、薫りが豊かで、花びらも美しい。
ソフィアは身動ぎしない。弱い。余裕。この程度は聞き飽きたくらいである。
――師匠の為ならば、いつでもこの命を捧げる所存。
少しグラついた。しかしだ、しかし。まだ堪えられる。この私を甘く見るなと、煩悩相手に吠えた。一応、鍛錬は順調である。胸中はともかく、姿勢そのものは美しさを保ったままだ。
それでも脳裏に過るのは過去の体験、つまり一度は見聞きした内容なのだ。それなりに耐性が出来ている。もう少し励もうか。難度をあげようとして、心を更に掘り下げていく。
すると、煩悩(アクセル)の様子も様変わりしていく。これまで付かず離れずに開いた距離が詰まり、眼前に現れたのだ。両者の背丈は違う。ソフィアは、自然と見上げる姿勢になるのだが、怯まない。彼女にはアクセルを育てた自負と、強者としての誇りがあるのだから。
――師匠。いやソフィアよ。私は諸国を渡り歩く内、さらなる力を身に着けた。最早かつての私とは比較にもならん。
――フン、随分と大口を叩くものだ。貴様ごときが如何に足掻こうと、私を超える事など……。
――どうかな! 我が剣技の前にひれ伏せ!
――な、何だとぉ! この私が手も足も出ないとは! 離せ! 私の手首を力強くも決して折れないように加減しながら掴んだその汚い手を!
――聞け、ソフィア。私はお前を超えた。つまりは、好き勝手する権利があるという事だ。
――そんな事が認められるか! だがこんなにも力の差があっては……クッ、逆らえん!
――お前を超えし者として命じる。私の剣を磨け、誠心誠意務めるのだぞ。
妄想が長い。そして、長期化した『戦い』の果てに、とうとうその場に倒れ込んでしまった。
「卑劣者! 育ててやった恩を忘れて、よりにもよって力づくで支配しようなどと……ハッ!?」
ソフィア、ようやく我にかえる。姿勢はもちろん保てていない。それどころか、愛用のウサちゃんヌイグルミを抱きしめて、ベッドに寝転がる始末。
ヌイグルミの抱き心地は最高。フワッフワな肌触りで、心から愛する一品なのだが、今ばかりは憎々しく感じられる。
「クッ、なんて危険な修行だ。このままでは、どうにかなってしまうぞ……!」
全身が燃えるように熱い。耳まで真っ赤であるのが、自ずと分かる。ともかく休息が必要だ。まずはクールダウン。平静さを取り戻さなくてはならない。
しかし、そんな時に限って邪魔が入るものである。深呼吸を繰り返すソフィアに、ふと、話しかける声が聞こえた。
――師匠、アクセルです。報告の時間となりました。
キィヤァァ!アクセルゥゥーー!?
その場で飛び跳ねたソフィアは、右に左にうろたえては、ベッドから転げ落ちた。鼻から落ちる失態であったが、床を埋めつくす衣服が衝撃を和らげてくれた。
――師匠。もしかすると、お忙しいのですか?
待たせている。このままでは、ハードな修行(ヒミツ)について勘ぐられる可能性があった。それだけは避けねばならない。
ソフィアは散らかしたローブをひっ掴み、大急ぎで着ると、足元に術式を展開。間もなく意識は、遠く離れた水晶玉へと送られていく。
「ご苦労だ、アクセルよ。では報告せよ」
間に合った。ソフィアは厳(いかめ)しい表情を崩さないまま、アクセルの報告を聞いた。しかし、いまだ体は熱い。集中が出来ず、断片的にしか理解できない。一言一句を受け止める程の冷静さは、失われていた。
しかし、おおよそは理解出来ている。そして報告の中には、ソフィアを喜ばせる点もあった。
「以上となります、師匠」
「そうか、コウヤ村の騒動を平定したと。諸悪の根源を見定め、討ち取ったと申すのだな?」
「偶然、あるいは幸運が重なった結果です」
「いや、良い。悪党の使いっ走りに墜ちるより、遥かにマシであろう」
「お褒めに与りまして」
「話を聞くに、村人達も喜んだそうだな。流行り病の様子は?」
「村人のアマンダに薬草を託しました。先程、皆に薬湯を飲ませたところ、目に見えて回復しました。特効薬だった模様です」
「そうかそうか、これにて一件落着だな」
「私も肩の荷を降ろせます。考えさせられる事だらけで、中々に骨が折れました。」
「うむうむ、しばらく休め……って違ぁう! 嫁はどうした嫁は! それを探す旅だと忘れたか!」
「嫁? 嫁……。はい、しかと覚えております」
「嘘をつくな! 豆鉄砲を食らった鳩を見て驚いたような顔をしおって! 最終試練は愛し合える伴侶を見つけることだ、それを忘れるなよ!」
「承知しました。コウヤ村は、明日の早い時間に発つ事とします」
「良いだろう、よく励めよ!」
そこまで言い終えると、ソフィアは会話を切った。視界には物が散乱するワンルームだけがある。
「仕方のない奴だな、まったく。いつまでも世話を焼かせおって」
溜息、そして囁き。両手は自然とウサちゃんに伸び、静かに、しかし強く抱きしめた。
「今のうち、今のうちだけだぞ。私が口出しするのは……」
さまよう視線が、ふと青い石を捉えた。キレイだな。よく磨かれているな。そう思うだけで、胸は締め付けられてしまった。
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