第02話:時間の概念を縛るもの

 オレレビーチの水平線が、朝日で一瞬、黄金こがね色に輝くと、その光は徐々にオレンジ色に色合いを変え海に溶けていく。色とりどりの珊瑚さんごが、その光によって鮮やかな色彩を取り戻すと、海岸線を彩る白い砂浜もそれに呼応するかのようにキラキラと輝きだした。


 一樹は、目の前に広がるそんな美しい光景を眺めながら、朝日という水彩でオレンジ色に塗り上げられた大海原おおうなばらが、時間という水彩で翠玉色エメラルドグリーンに染め上げられるさまをじっと見つめていた。


「そういえば、この翠玉色エメラルドグリーンの海は、珊瑚さんご珊瑚さんごの亡骸でできた白い砂の影響だとみおが言っていたな」


 一樹はそんな景色のうつろいを眺めながら、短かく清潔に整えられた頭髪を右手で軽くかきあげ、180cmはえる長身を持てあましたかのように砂浜の上にゆっくりと座り込んだ。


 唯一、波の音が一樹に寄り添い、その心が寂寥感せきりょうかんに捉われ始めたそんな時、急に背後から聞きなれた女性の声。


「それだけじゃない、水深の影響もあるの。虹と一緒よ。透明度の高い遠浅の海で、海底に綺麗きれいな白い砂がある時のみ、海は翠玉色エメラルドグリーンに輝くの。私たちは、そんな自然が作った奇跡の前にいるんだと考えると、とてもロマンティックだと思わない?」


 一樹がその声の主に視線を向けると、そこにはカンペキな化粧とカンペキなドレスアップをしたみおが立っていた。


みお、今、何時だと思っているんだ。もう陽は昇ってしまったし、そもそも日の出を一緒にみたいと言い出したのはみおじゃないか?」


 あきれ顔を浮かべる一樹に対し、みおは人差し指の先端を一樹の唇にちょんと押しあてる。


「仕方がないじゃない、男と違って女は準備に時間がかかるもの。私が遅れることを計算して待ち合わせ時間を設定しなかった一樹が悪い」

 

 みおはそう言うと、いっさい悪びれる様子もなく、一樹の横に寄り添って座り、無邪気な笑顔を一樹にむけた。


みお、ほんと、そういう性格、直した方がいいと思うぞ。いっつもこんな調子なんだから。だいたいみおは時間について、ちゃんと考えたことがあるのか?」


 一樹はそう言って、軽くみおとがめながらはくいろの入った黒い瞳をみおに向ける。しかしこの時ばかりはみおが一枚上手であった。


 みおは、自分が責められていることを充分承知していたにもかかわらず、その言葉をあえて言葉通りにとり、あきれ顔でこう言い退けたのだ。


「あはは、それをJUXA日本宇宙研究開発機構のエンジニアにして、物理博士でもある私に聞くの? 考えたことないわけないじゃない。ずばり時間とは光のことよ」


「そういうことを言っているんじゃなく、って時間は光?」


 一樹は、みおがわざと話をそらしたことに気が付いていたが、それよりもみおがいった一言が気になった。


「なーんだ、一樹は知らないんだ。時間がどういうものなのか」


 みおは、しめしめ遅刻をごまかせたと内心ほくそ笑みながら、一樹の瞳をじっと見つめてみせる。


「いい、一樹。この世界に独立した時間なんて存在しないの。時間は光によって定義される概念にすぎないの」


みお、何いってるんだ。時間は、1秒は、セシウムの遷移状態で定義されているはずだろ? そこに光は関係ないじゃないか」


 一樹がそう言うと、みおは遠くの水平線に視線を移しながら、説明をし始めた。


「そうね。確かに一樹の言う通り、1秒は、セシウム133原子の基底状態の2つの超微細構造準位の遷移に対応する放射の周期の91億9263万1770倍と定義されている」


「超微細構造準位? 放射の周期?」


 色々思い出そうと記憶の戸棚をひっくり返している一樹をよそに、みおは話を続けた。


「でもね、物理の世界ではそんな国際単位の定義なんてどうでもいいの。だって、そんなもの何の意味も持たないもの。いや、持たないっていうのは、ちょっと言い過ぎか……。つまりね、一樹。物理の世界では、時間の流れはいくらでも変化する。だから1秒の長さの定義なんてほんと無意味なものなの。物理の世界で変わらない絶対不変なものは光、光の速度、光速なのよ」


 みおがそう言って一樹の顔をじっと見つめると、一樹は申し訳なさそうな表情を浮かべ、ぼそっとつぶやいた。


「知識として光速が一定である事は知っている。ただ、いまいち実感がわかないんだよな……」


「よろしい。では、遅れてきたおびに、このみお先生が、一樹くんに特別講義をしてあげます」


 一樹のその言葉に、みおはそう言って立ち上がると、一樹に右手を差し出して、軽くウインクをしてみせた。


「ねぇ、一樹。去年、私が一樹に切符を渡したまま、リニアに乗っちゃったこと覚えてる?」


「覚えてる、覚えてる。切符を渡せるわけないのに、みおはリニアの中を駅のホームに向かって走りだして、俺は駅のホームの上をリニアに向かって走りだしていたよな」


 一樹は、そういいながらみおの右手をとって立ち上がると、思い出し笑いをしてみせた。


「では、そんな思い出のリニアで問題。双子のAとBがいたとして、Aが走行中のリニアに乗っているとします。Bはホームにいるとします。リニアに乗っているAとホームにいるBが真横に並んだタイミングでリニアの進行方向に走り出したとしたら、50m前方にあるゴールに先にたどり着くのはどちらでしょうか?」


「そんなの、リニアに乗っているAに決まっているじゃないか」


 みおの質問に一樹は即答すると、それよりも速い速度で「なんで一樹はそう思うの?」とみおが立て続けに質問をする。


「なんでって、そりゃあ、リニアの中で走っているAの速度は、リニアの速度と人が走る速度を足した速度になるんだから、リニアに乗っていないBより速いに決まっているじゃないか」


「正解、じゃ、問題を変えるね」


 そう言ってみおは、その顔に微笑ほほえみをたたえながら、次の質問をはじめた。


「さっきの問題と同じ、リニアの双子で考えてね。今度は足の速さが同じではなく、筋力が同じだったとして、リニアに乗っているAとホームにいるBが同じタイミングでボールをリニアの進行方向に投げたとしたら、10m前方にあるまとにボールを先に当てる事ができるのはどちらでしょうか?」


「答えはさっきと同じ、リニアに乗っているAに決まっている」


 みおの質問に再び即答した一樹に対し、みおはイタズラな笑顔をうかべ、


「どうしてそう思ったの? ボールは電車と接触していないから、電車の速度はボールにのらないと思うんだけど?」


 と意地悪な質問を返す。しかし一樹は、ニヤっと余裕の表情を見せると、笑顔で答えてみせた。


「ボールが宙に浮いている時ではなく、ボールが手を離れる瞬間に注目すればいいのさ。人の体はリニアと接触しているから人の体はリニアと同じ速度で走っている。だからボールが手から離れる瞬間までボールはリニアと同じ速度で走っているのさ」


「そして、手から力を受け、ボールはリニア以上の速度に加速される。だから、ボールはリニアの速度より速いのさ。もしボールがリニアの速度より遅くなってしまったら、投げたボールは後ろに飛んでいってしまうからな」


 そう一樹が得意げに答えると、みおは感心した表情を浮かべ「さすが一樹、カンペキ。やるじゃない」と言葉を返した。


「じゃ、次の問題も楽勝ね」


 そう言ってみおは、質問を続ける。


「さっきと同じ条件で、リニアに乗ったAとホームにいるBが、ボールではなく光を前方に照らした場合、10m前方のまとに光が先に届くのはどちらでしょうか?」


「リニアに乗っているAの光」


 三度即答した一樹に対し、みおはふたたびイタズラな笑顔を浮かべると「そうなんだ、ちなみにどうしてそう思ったの?」と聞き返す。


「ボールを投げた時と同じで、光の速度にリニアの速度がのっているからさ」


 一樹のその答えを聞いた瞬間、みおはクスクスと笑いだした。


「残念、不正解。答えは同時。光は光速以上の速さで進むことはできない。つまり、どんな速い乗り物に乗っていたとしても、光は同じ速度で進むのよ」


 みおは、この言葉に不思議そうな顔をしている一樹の鼻先を右手の人差し指でちょんと触ると、こう切り出した。


「では、最後の問題。光の速度で飛ぶ宇宙船があったとして、光を宇宙船の進行方向に当てたとしたら、光はどうなるでしょうか?」


 目をキラキラさせているみおに対し、一樹はおそるおそる答えをその口から引きずり出す。


「もしかして、光はその場で止まっているのか?」


 一樹のこの答えを聞いたみおは、海に向かって急に駆け出したかと思うと、一樹の方に振り返り、満面の笑顔を向ける。


「そう、その通り、大正解! そうなのよ、光は光速以上の速度で進むことができないから、光速で進む宇宙船の中ではその場で止まって見えるのよ。この世のすべてのものは光速より速く進むことはできない。そして、光速はどんな状態でも一定。これが光速不変の原理」


 みおは、そう言って立てた人差し指を一樹に見せつけると、


「では、一樹くん。次のレッスンは時間と光速の関係についてだゾ」


と言葉を続けた。

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