第08話:宇宙の奈落

「この子がみおくんと一樹くんの子供か」


 センター長がそう言って桜花おうかを抱き上げると、桜花おうかは、人見知りもせず、泣き声一つあげず、ただその顔を見つめ笑っていた。


 ここは軌道エレベーター最下階にあるMCCミッションコントロールセンター。休職中のみおの職場にして、日本の宇宙開発における最前線基地だ。みおは、日本で暮らしていた1年という月日が、人々の記憶から一樹という存在を消してしまっているのではないか? そんな漠然とした不安を持っていたが、いざ職場に戻ってくると、それが杞憂きゆうであることを知り、ほっと胸をで下ろしていた。


みおくん、そろそろ一樹くんから連絡がくる時間だ。桜花おうかちゃんを医務室で預かってもらいなさい」


「それなら私が預かります、センター長。これから医務室に行くところでしたから」


 急に後ろから聞きなれた声、しゅうさんだ。みおは振り向いて、その声の主の善意に甘え、桜花おうかしゅうに預けると、軽く頭を下げた。


 さぁ、いよいよ一樹からの連絡が入る。一樹にとっては約1日ぶりの、みおたち地球で待つものにとっては約1年ぶりの通信だ。


 その瞬間が近づくにつれMCCミッションコントロールセンターの緊張感は徐々に高まっていく。まるで優勝を決めるパットを打ったゴルファーのボールがゆっくりピンに向かっていくような、運命を委ねられたゴルフボールがピンに吸い込まれていくのを見つめるしかできないような、そんな息をのむ緊張感がMCCミッションコントロールセンターを満たしていく。


 そして、ある瞬間、その緊張感は一気に破られる。それは喜びに満たされた、何かそういうキッカケであるものだとMCCミッションコントロールセンターに集まったエンジニアは期待していたが、現実は非情で、その楽観を許してくれなかった。


「いや、そんな、まさか、トラブル発生です」


 ホログラム3Dディスプレイを見つめるオペレーターが急にざわめきはじめる。そして声をトリガーに、宇宙船アナクティシの各部位の状態を示す3D映像は、正常を示す青色から異常を示す赤色に、Safetyを示す青文字からWarningを示す赤文字に、凄まじい速さで置き換わっていく。


 今、目の前で起きているそれが何を意味しているか、みおの理性は正確に理解していた。一樹の乗った宇宙船に尋常ならざることが起きている。それはわかる。しかし、みおの心はこの事実を受け入れることができない。そしてこの事実は、みおの心と身体からだを一瞬で凍りつかせると、その息吹や心臓の鼓動さえ凍てつかせた。


「一樹さんからの連絡を受信できません。それどころかアナクティシの多くの制御が失われ、予定航路から大幅にズレています。姿勢制御スラスターもまともに動作していません。これでは軌道修正ができません」


 この一言にみおはよろよろとふらつくと、MCCミッションコントロールセンターの床に崩れ落ちる。そう、アナクティシが軌道修正できないという事は、一樹が地球に戻ってこれない事を意味しているのだ。


 そして、凶報というものは、1つ1つ小出しに現実を突きつけてくるものではなく、まとめてセットで突きつけてくるものだということをみおは身をもって知る事になる。


「この進路では……」


 別のオペレーターが、思わず大きな声を上げる。


「姿勢制御スラスターがこのまま機能を回復せずに進み続けるとブラックホールに突っ込みます。シュワルツシュルト半径まで、アナクティシの時間であと9日で到達します」


 シュワルツシュルト半径、宇宙の奈落ブラックホールの三途の川。1mmでもそこに入ったら光でさえ脱出不可能なすべての事象を飲み込む物理量の墓場、それがシュワルツシュルト半径。


「センター長、これを見てください」


 航路長は、そう言ってアナクティシの正規航路と現在の航路、そしてアナクティシの船体状況をホログラム3Dディスプレイに映し出す。


「アナクティシのスラスター不調部位はすべて右側面です。つまり何かしらの事故が宇宙船の右側面で起きたと推測されます。また、制御はできませんが、左側面のスラスターは生きています」


「そして、左側面のスラスターしか出力できないということは、アナクティシの予想航路は曲率が小さい、曲がりのきつい弧を描くことになります。これは弧を描いた分だけ、地球から離れる速度が落ちることを意味しています。つまり地球とアナクティシの位置を直線で結ぶ航路をとれば、4年後に打ち上げる予定の宇宙船を使って一樹さんを救出できるかもしれません」


 航路長のこの一言でMCCミッションコントロールセンターは混乱の状態から脱すると、一気に統制を取り戻した。希望というものはいつもそうだ。人の心に光を当て、前に進む力を与えてくれる。それが神が人類に与えた最高のギフトであるかのように。


「オペレーター、航路長のアイディアが成立するかどうかすぐ計算しろ」


 センター長の言葉をきっかけにMCCミッションコントロールセンターのエンジニアは一丸となって様々な計算をし始める。だれが統制をとるわけでもない、だれが役割分担をするわけでもない。ただ、一人ひとりが、自分が最も得意としている分野に集中し、欠けている部分があれば黙ってそれを補い合う。まさに日本が得意とするチームワークがそこにはあった。


「計算結果がでました。航路の曲率が思った以上に小さく、思っていたより直線距離は短いです。その距離、約4光年。亜光速宇宙船アナクティシと同等の性能を持つ宇宙船では追いつくことはできませんが、速度をあと10%上げる事ができれば追いつくことができます。これであれば、アナクティシが耐G限界を迎える前に2時間の救出時間を作ることができます」


 この一言でMCCミッションコントロールセンターに歓声が沸き上がる。10%、たった10%速度をあげるだけで、なんとかなるかもしれない、そんなチャンスが出てきたのだ。MCCミッションコントロールセンターの面々は、1人を除いて大きな希望で満たされていた。


「それは無理よ! 無茶いわないで!」


 MCCミッションコントロールセンターで、唯一、悲観的な表情を浮かべていたみおが口を開いた。


「10%速度を上げるということは、宇宙船は光速で航行しなければならないということ。そして、たとえアナクティシに追いつけたとしても、亜光速で移動する宇宙船間をどうやって移動して一樹を助けにいけばいいのよ!」


 みおMCCミッションコントロールセンター中に響く大きな声でそう叫ぶと、みおは必死に感情を押し殺し、今にもこぼれ落ちそうな涙をなんとか瞳の中に留めていた。そして、そんな時、みおの肩を軽くたたくものがいた。


「ばかね、みお。そんな不可能を可能にするのが私たちエンジニアの仕事じゃない」


 柚希ゆずきはそう言ってみお微笑ほほみかけたが、その瞳には並々ならぬ決意が満ちあふれていた。

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