第5話
「余は人を殴りたいぞ」
玉座であくびをした直後、アスベルは呟いた。
彼が発したこのなんの脈絡もない言葉によって、
「あ、あの、国王様。いま、なんとおっしゃいましたか?」
「人を殴りたいといったのだ。聞こえなかったのか?」
「てっきり聞き間違いかと思いました」
衛兵隊長は顔中からだらだらと汗を流しながら答えた。
「ふむ。そちは怠け者ではなかったから残したが、まだ嘘つきのままだな」
「申し訳ございません。聞き間違いだと思いたかった、です」
「よろしい。では
アスベルが玉座から立ち上がろうとした瞬間、近衛隊長は慌てて両手を振った。
「お、お待ちください国王様! わたくし程度の
「試合だと?」
「は、はい! この城下町は国中から腕自慢が集まっております! その者たちなら、きっと国王様も全力で立ち会えるのではないかと!」
「ふむ、試合か……。おい、近衛隊長よ」
「はっ!」
「なかなか良い案ではないか」
アスベルは再び玉座に腰を下ろし、満足げな表情で頬杖をつく。
「そうと決まればすぐにでも町に繰り出そうかの」
「いえ、それは駄目です国王様」
「なぜだ?」
「国王様が人を殴ることが大好きな野蛮人……いえ、個性的な趣味をお持ちだと国民に知られてしまえば、この国は終わりです。わたくしは妻に逃げられその上二人の幼い娘がおります。いま仕事を失うわけにはいかないのです」
「そちの散々な人生は十分考慮するに値するが、心配しなくともそんなことを暴露するつもりはないぞ」
「それでも駄目です。危険すぎます」
「まったく、そちも父上と同じことをいうのだな。おかげで余はまるで
思いのほかあっさりと理解してくれたアスベルに、近衛隊長はほっと胸をなでおろしていた。問答無用で殴られたことがトラウマになっているのかもしれない。
「ですので、腕に自信のある者を王宮に招待します」
「その腕自慢とやらを見繕うのは?」
「格闘技に詳しい者が」
「なるほど。ではそれは誰だというのだ? 格闘技をやる者と格闘技に詳しい者は違うぞ?」
「それは」
近衛隊長の視線は、謁見の間の片隅で救急箱をもって待機していた宮廷医エルザ・フォーチュンに向けられた。
万が一またしてもアスベルが暴れた際、近衛兵たちを手当てするために常勤となった彼女。そんな彼女が、平日の夜でももっぱらファイティング・ショーを観に行くほどの格闘技好きだということは、王宮の人間なら誰でも知っていることだった。
「えっ、わたしですか!? いやそんなの無理ですよ! だってわたし観る専門ですし!」
「だが君にはコネがあるだろう? 闘技者から食事に誘われたといってたじゃないか」
「た、確かに何人か食事くらいならしたことありますけど。でも、王様と試合してくれなんて頼んだらどんな見返りを求められるか……」
どうやら彼女はその美貌から、多くの闘技者たちに言い寄よられていた。今年で二十八歳となる彼女だが、本人としてはいまだ独身貴族を謳歌するつもり満々である。変に言い寄られても迷惑なだけだ。
「頼むエルザ。今度特別ボーナスを支給するように検討するから」
「でも」
「金がいるんだろう?」
「うっ……」
彼女は大の格闘技好き。同時に熱心なコレクターでもあった。衣装やサインはもちろん、試合で使われたバンテージや古くなって買い替えられた練習機材まで集めている。そのため、常に金欠に喘いでいたのだった。
「どうだ? 一試合組むたびに十万リラでどうだ?」
「そ、それなら」
「余が満足できる相手を連れてくるのだぞ。中途半端な奴では逆にフラストレーションが溜まるのでな。それなら近衛兵らと遊んだほうがよい」
「んー、やっぱり」
「三十万! 三十万リラでどうだ! 頼む! 俺たちを助けてくれ!」
リンゴ一個がおよそ百リラ。エルザの月々の給与がおよそ十八万リラである。一人呼ぶごとに月の給料の倍近い額をもらえるとなって、エルザは
※ ※ ※
「さあて、どうしようかな」
夜の町を歩きながら、エルザは考えた。
知り合いは駄目だ。借りを作ったらなにを要求されるかわからないし、負けるであろう相手に挑ませるなんて申し訳なくてできない。
なによりアスベルが求めているのは強者ではなく
「はーあ、町を歩いてたってそうそう見つかるはず……お?」
異様に威圧感のある男を視界の端にとらえた。
試合ではいつも上半身裸で服を着ている所など見たことはないが、あの特徴的な赤髪。あれは間違いなく、先日の城下町格闘技大会で優勝したマルシス・カルバドスだ。
「ナイスタイミングだわ!」
エルザは足早にマルシスに近づいた。面識のない人なら変な要求をしてくることはまずないだろう。仮にされても適当に断ればそれっきりだ。
それに相手は城下町一の腕自慢。実力も折り紙付きだし、きっとアスベルのお眼鏡にかなうだろう。
「なにより、観たい。アスベル対マルシスのカード。観てみたいっ!」
期待で胸が高鳴る半面、国王と試合してくれだなんていう突拍子もない話を信じてもらえるだろうか、という不安もある。
なるべく自分が王宮の人間であるとわかるように、頭の中で礼儀正しい自分をイメージしながら彼女はマルシスの大きな背中に声をかけた。
「んっんー……。もし、そこの方----」
こうして、各々の思惑が絡み合った模擬試合が組まれたのである。
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