第3話

 深夜の酒場。間接照明の発光魔道具から放たれる橙色の光だけが照らす店内。

 カウンター席に、先日アスベルの暗殺に失敗した女暗殺者と黒いコートの男が並んで座っていた。


「任務は失敗、ということか。君には失望したよリリィ」


 無精髭を生やした黒コートの男は、グラスに入った酒を一口あおった。彼のバリトン・ボイスは、店内に流れるピアノの旋律と非常にマッチしていた。


「失望させられたのはこちらのほうだ。あの王子が子猫のようにか弱いと聞かされていたからこの依頼を受けたのに。いったいこれのどこが信用にたる情報だというのだっ!」


 カウンターに羊皮紙を叩きつけるリリィ。そこには王子に関する情報が事細かに記されていた。


「悪かった」

「悪かったではない。あれでは子猫どころか猛獣だ。寝込みを襲ったはずが逆に襲われてしまったぞ!」

「まさかヤったのか?」

「ば、馬鹿なことをいうなっ! 馬鹿!」


 女暗殺者リリィは、火が付いたように顔を赤く染めてグラスの酒を一気に飲み干した。


「赤面症を誤魔化すために過剰に酒を飲む癖。まだ治ってないみたいだなぁ、リリィ・エルレガーデン」

 

 背後から呼びかけられ、「むぅ?」、とちょっぴりへべれけ気味にうつろな視線を向けるリリィ。

 彼女の視線の先には、丸テーブルに足をのせた無礼な男が座っていた。

 獣のように逆立った赤髪に頬に刻まれた巨大な傷跡。さらけ出された腕には厳つい筋肉を搭載しており、荒々しい雰囲気を漂わせている。

 

「貴様は、【狂獣】マルシス!?」


 その男を一目見て酔いが吹き飛んだのか、リリィの額に汗が浮かんでいた。


「俺が呼んだんだ。君のおかげで情報が更新されたからな」

「なぜこんな奴を! こいつは表では城下町一の格闘家なんて言われているが、実際は禁術と違法薬物による肉体強化に頼った武闘家の風上にも置けないやつだぞ!」


 リリィの訴えに、黒コートの男は火をつけたばかりの煙草を指に挟んだまま額を掻いた。


「君の言いたいことはわかるよリリィ。たしかにこいつは屑だ。全身余すところなく改造して、公式大会じゃバレないように反則行為ばかりしてやがる。最近じゃ魔物の細胞まで取り込んでるって噂だ」

「わかっていながらなぜ! こいつが求めているのは金でもなければ国への忠義でもないぞ! ただ相手を蹂躙することだけが目的の快楽殺人鬼サイコパスだ!」


 リリィの話を聞いて、マルシスは「酷い言われようだ」とせせら笑う。


「だからこそだ。こいつは殺しのためならなんでもする。徹底的に無駄を省いたスマートなお前のり方は好きだがなリリィ。今回はそうもいっていられない。なにせこの国の未来がかかっているからな。だいいち、殺しに奇麗も汚いもないだろう? 違うか?」

「くっ……まぁいい。どうせ無理だ」

「ほう、【眠れる森の魔女】とまで呼ばれるあんたにそこまで言わせるとは、その王子ってのはいったい何者なんだ?」


 ぐびり、と酒瓶から直接酒を飲むマルシス。豪快な性格のようで、敵の情報を少しでも得ようとするその姿勢に抜け目のなさが滲んでいる。


「天使のような悪魔だ。年は十代半ば。性別は男。艶のある黒髪と黒曜石のような澄んだ目をしている。まぁ、それなりに顔がいいということだな。それなりだがな」

「あんたの主観的な情報はいらねぇんだよ。もっと肝心なところがあるだろう? なぁ?」

「わ、わかっている! あとは、一見中肉中背だが、奴に触れた時に感じたあの重みからしてかなり鍛えている。それと、妙な術を使う」

「妙な術? 魔術か? それとも、あんたが使う暗殺術みたいなものか?」

「そんなんじゃない。あれは武術だ。それもとんでもなく高度な。わたしは三日間も胃がひっくり返ったような気分を味わわされたぞ」

「武術ねえ。面白いじゃないの。これまでいろんな武闘家と戦ってきた。だがそのすべてを俺は力でねじ伏せてきた。太く、強く、頑強であれば、どんな拳も通じない」


 めきめき、とマルシスの体が変形していく。

 壁に映る彼のシルエットは歪な姿に変貌し、その手は酒瓶を包み込むほど巨大になっていた。酒瓶をテーブルに置くと、酒瓶もテーブルも無残に砕け散った。


「ま、あんたの尻拭いは任せておけよ。それじゃあな」


 マルシスはぎしぎしと床を軋ませながら店を出ていった。


「くっ、嫌な奴だ。わたしはああいう傲慢な男は嫌いだ」

「俺も欲望に忠実過ぎる男は好きじゃないねぇ。ところで」

「む?」

「触ったのか? それとも触られたのか? どっちなんだ?」

「は?」

「王子の体」


 黒コートの問いかけにリリィは瞬時に赤面してグラスを握りつぶすと、両手でカウンターを叩きつけて立ち上がり、無言で店を出ていった。


「やれやれ、若い子を見るとついセクハラしちまうぜ。俺も欲望に忠実すぎるか?」


 黒コートの男が紫煙を吐き出すと、マスターがにっこりと微笑んできた。


「お会計はご一緒でよろしいですな?」

「まったく、おっさんは安月給なのに最近の若いのときたら。いくら?」

「グラスとテーブルの代金もよろしいですな?」

「……やれやれ」


 ふぅ、と吐き出した紫煙が、間接照明の柔らかい光に照らされて踊った。

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