ストーリー・オブ・チョコレーツ・ライフ

たひにたひ

チョコレート・ジェントルマンからあなたへ




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『ぼくがチョコレートおいしい!って言ったらお父さんとお母さんが毎日おやつにチョコレートを用意してくれる様になりました。板のミルクチョコレートです。


ぼくは一日を、午前中はチョコレートを食べるために頑張り、午後はチョコレートのヨイン(お父さんが言うにはこれをヨインと言うらしいです)で頑張る事にしました!』


『チョコレートのおいしさを周りのみんなにも知って欲しいから、ぼくはお母さんにたのんでチョコレートを買ってもらい、まずはぼくの友達からチョコレートを配る事にしました。


ぼくの友達の祐介くんにまずあげる事にしました。祐介くんとは昨日ケンカをしてしまって、話しかけにくかったのですが、勇気を出して「祐介くん、昨日はごめん。これ、あげる」と思い切って渡しました。


そうするとぶっきらぼうだった祐介くんの顔がみるみる明るくなり、「ありがとう」と、言ってくれました。チョコレートには不思議な力があるんだと思いました。


チョコレートで満たされた世界はきっと幸せなんだろうなと思いました。ぼくはきっと、この世界の全員の人たちにチョコレートを食べさせるんだ。こうしてぼくの夢は決まりました』


それが『ミスター・チョコレート』の壮大な物語の始まりでした。


***


『チョコレートは百円なので、僕は毎日二千円のお小遣いを貰っているので、一年で僕はチョコレートを二百四十人に配る事が出来ます』


彼が父と母から初めてお小遣いを与えられた時考えた事だ。

かれは早速チョコレートを買いにスーパーマーケットに出かけた。


結局、チョコレートはそれ程多くの人には配れなかった。たかだか二十枚の板チョコでは学校の一クラスの人にチョコレートを配るのが精一杯だった。


チョコレートで世界平和なんて夢のまた夢で、それだから彼は仕方が無いので今度は板のチョコレートを三つに割る事にした。


ガーナのミルクチョコレートは六×四なので、丁度八ブロックづつ、これより小さくなると彼は何だかチョコレートを配っているという気がしなかった。


彼の父に彼が「チョコレートで世界を平和にする」なんて言うと父は何とも言い難い顔をしました。

その度に母が、「良いじゃない、献身的な事は」と言い、「それでも、もう少し現実的な夢をだな」と父が言い返す。


暗い顔になる二人に彼はチョコレートを差し出して、「これ、食べて」と言った。


二人は何処か呆れた様な笑顔を浮かべ、それを受け取り口論は収まるのだった。

そんな事が彼の中学生時代に繰り返された。


***


中学生の国語の授業とは難儀なもので、中でも特に酷いものは作文である。完成したものを教室で読み上げさせるなんてもっての外である。

今回は『何か主張をしてみろ』とのことだった。


けれど彼は迷わなかった。書く事は決まっていた。それはもちろん『世界の人々にチョコレートを食べてもらい、世界を平和にすること』

発表当日、発表を行なった彼に向かい、先生は物凄い剣幕でこう捲し立てた。


「お前の考えている事は甘すぎる!世の中を舐めるな!」

ええそうですとも!チョコレートは甘いのです!世の中にチョコレートを舐めて貰うのが彼の夢です!けれどどうにも先生は不機嫌な様で、彼は廊下に立たされて先生のお話を数十分聞くことになったようだ。


次の日、彼はどうして先生がそこまで怒るのか不思議だったので、登校中にコンビニで彼がおやつの時間に毎日食べている板のミルクチョコレートを買っていった。


先生に渡せば溜息をついてそれを受け取りました。大人とは、時に頭が硬く、優れた子供の考えを頑なに受け取らない時がある。


彼は先生に『今ここで食べてみてください』こんな砂糖菓子に一体なんの力があると言うのだ?先生は最後までチョコレートの事を信用せず、それを口に入れた。


先生の表情はみるみる緩んでいき、最後には極上の笑顔へと変わっていった。錆びきった大人でも、こんなみずみずしい表情が出来るのかと、彼の力に驚いた。


***


『十七歳になった。高校生になっても僕の夢は変わらない。寧ろその情熱は高まっている。世界にチョコレートを届けて、世界平和を実現する。


3時20分、5時限終了のチャイムが鳴り、僕は板のミルクチョコレートを取り出した。三段目まで口の中に突っ込み、噛み砕く。


小気味いい音が聞こえ、チョコレートが割れる。世界平和の鐘が鳴る。きっと、この音は世界に届くだろう』


高校生になって彼が一番に始めたのはアルバイトだった。アルバイトは勉強とは違い、ある程度の知識と技術を身につけると、それをひたすら洗練される事を求められた。


彼にとってそれなりに大変な事だったが、その分お小遣いの比じゃ無いくらいお金は手に入った。

彼は早速スーパーマーケットに行き、チョコレートを買い漁った。


下校中、僕は帰りの電車の駅のホームに鞄を下ろし、そこから五枚程度の板のミルクチョコレートを取り出し、辺りを見渡した。


そうするとサラリーマン風の男が一人、お洒落な私服の女性が一人、地味な格好をした女性が一人、それと高校生の三人組がいる。


「あの」

地味な格好をした女性に話しかける。

「何でしょう?」

「チョコレート、食べませんか?」

彼はとびきりの笑顔で持っていた板チョコを一つ彼女に差し出した。


「すいません、知らない人から変なものは受け取れません」

変なもの?彼女はチョコレートを知らないのか?それってすごく不幸な事じゃないか?彼女の顔は曇っていた。暗く長い人生を憂慮し、皺を深めた。


「お姉さん!チョコレートっていうのはね!甘くて、クリーミーで!人を幸せにする食べ物なんだ!」

彼女は何も答えを返してくれない、それどころか僕の方に顔を向けようとしてくれない。僕は彼女の足元にチョコレートを置いて彼女を後にした。


二人目はスーツを見にまとったサラリーマン風の男だった。今はまだ4時半だ。社会人は働いている時間じゃないのだろうか。だからサラリーマン風の男だ。


けれど喜ばしい事が一つあって、彼は手に持って何か食べ物を口に運んでいた。それは紛れもなくチョコレートだった。


「お兄さん!チョコレートを食べているんだね、僕もチョコレートを食べているよ!お揃いだね!お揃いで幸せ者だ!」


彼が僕に気付く。呆れた様に口を開き、歯にこびりついた真っ黒なチョコレートを顎を露骨に上下に動かし、『くちゃくちゃ』言わせた後、呆れる様に口にした。


「同じにしないでくれるか。私にとってチョコレートはね、苦しみの結晶だよ。

君のチョコレート、ガーナのミルクチョコレートだろう?ミルクチョコレートはチョコレートじゃない。元来チョコレートは甘い食べ物なんかじゃ無い。君の持っているのはおこちゃま御用達の単純な味覚の砂糖菓子だよ」


彼にはサラリーマンの言っている事が理解できなかった。彼にとってチョコレートは甘いものでなくてはならなかったし、サラリーマンにとってチョコレートは苦いものでなくてはならなかった。


「チョコレートが甘くない?何を言ってるんだい?チョコレートは何よりも甘いんだよ!だからこそ世界を平和にする力があるのさ!お兄さん!そんな黒いチョコレートなんか吐き捨てて僕のミルクチョコレートを食べなよ!」


そう言っていつも人にする様にに彼はサラリーマンにチョコレートを差し出す。

サラリーマンは未だに『くちゃくちゃ』という咀嚼音をあからさまに彼に聞かせながらまた彼に応答する。


「あのね、成分表を見たまえ。君の言うそのチョコレートとやらにカカオがどれ程含まれている?カカオの量がチョコレートの苦味を決める。チョコレートはカカオから作られるもの。お前の食っているものはチョコレートではない。砂糖だ」

「そんなんじゃない!話のわからないお兄さんだな!」

「私がどうしてチョコレートを食べるか知っているか?」


彼は黙っていたが返答を待たずサラリーマンは勝手に語り出した。しかし、そんな事、甘くて美味しいから意外に彼が見つけ出せる答えなど無かった。


「ストレス発散だよ」

サラリーマンは小箱から一つアルミに包まれたチョコレートを摘み、彼に見せびらかす。


「優越感に浸るとも言える。

君は、カカオがどうやってチョコレートになっているか知っているかね?

そう。アフリカ人が作っているんだよ。アフリカのカカオ加工工場はどんな労働環境かねえ。そりゃ酷いもんだそうだ。これはね、カカオの粉はアフリカ人の苦労と、血と汗の結晶なんだよ。

私は!人が苦しんでいる所が大好きだ!」


サラリーマンは悶えながら続ける。

「カカオの純度はアフリカ人の苦しみの純度だ。だから私は90%以上のカカオ濃度のチョコレートしか食べない。それだけ私はアフリカ人の苦しみをこの口で!味わう事が出来るから!」


サラリーマンは歯にこびりついたチョコレートを舐めとっていく。

「ああ、苦しそうだなあ!私がこうして呆けて電車を待っている間にもその乳酸でパンパンになった腕を、死ぬくらいの痛みを伴いながら動かし続けている!」


彼にはサラリーマンの言っている事がよく理解できなかったが、チョコレートが彼の元で何か醜悪な目的によって食されている事は何となく察した。


「その人、可哀想な人なのよ!なんて可哀想なの!チョコレートの甘さを理解できないなんて!」

ホームにいたお洒落な女性が近寄ってきた。どうやら黒いチョコレートを食べる彼を敵視しているらしい。


「誰だあんたは!」

「これで口を塞ぎな!」

彼女は彼の持っていたミルクチョコレートをサラリーマンの口に強引に差し込んだ。彼は暫くじたばたしていたが、やがておとなしくなった。


「これでやっと話が出来るわね」

彼女は彼に向き合い、話し始める。

「私も板のミルクチョコレートが大好きなの。貴方が熱心に毎日チョコレートを配ってるから私絆されちゃった。手伝ってあげる、チョコレートを配るの。


でも、どうして貴方はそんなにも必死でチョコレートを配るのかしら」


「世界平和…」

「素敵ね!」

彼女は晴々しく笑った。ミルクチョコレートの様に甘い笑みだった。


ミルクチョコレートを口に差し込まれたサラリーマンはいつの間にか退散し、電車がプラットホームに入り、そしてまた出ていく。


ホームに新しい人が二、三人降車したからまた、彼は鞄からチョコレートを取り出しにかかった。今度は彼女も一緒に。

そういえば彼女の名前をまだ聞いていなかったな。


「そうね、チョコレート・ガールとでも名乗っておこうかしら?宜しくね、チョコレート・ボーイ」


***


チョコレートガールとチョコレートボーイは毎日駅のホームでチョコレートを配り続けた。快く受け取ってくれる人もいれば、頑として無視し続ける人もいた。いつかのサラリーマンのようにチョコレートについての持論を展開する人も暫しいた。それでも二人は配り続けた。


「ねえ、世界平和にはどれ程のチョコレートが必要だと思う?」

「分からない。きっと途方もない量のチョコレートが必要だろうね」

「それでも続けるの?」


「当たり前だよ、チョコレートガール。ついて来てくれるかい?」

告白は18の頃。彼女は快諾してくれた。


彼のチョコレートを受け取った人々は当然幸せになるわけだけれど、このチョコレート配りはそうやって彼のチョコレートの虜になった人々も参加して、拡大していった。


スーパーのレジの五人に一人は大量の板チョコを抱え並んでいる。学生はお小遣いで買えるだけ、社会人は給料で買えるだけ、老人は年金で買えるだけ、それぞれ買えるチョコレートの量は違うけれどきっとその愛情はミルクチョコレートばりの甘さ加減だ。とびっきり。


***


そんな事を四年程、続けていたらチョコレートボーイとチョコレートガールは県中に認知されることとなった。新聞にも取り上げられて、公式にこの活動に支援金が降りた。


『君の活動は素晴らしい!今後も活動を続けてくれたまえ!チョコレートで世界を幸せにしてくれたまえ』


県知事は冗談ぽく笑いながら応援の言葉を発信したが、彼の胸ポケットにはちゃっかりと板のミルクチョコレートが差し込まれていた。


これを毎日おやつの時間に一枚、食べなければ心がどうも落ち着かないらしい。


『目の前の世界が崩れてしまう幻覚を見るのですよ。でも、チョコレートはそれを防いでくれる。これは素晴らしいものです』


県はもうチョコレートで溢れかえっていた。

駅のホームで電車を待っていれば、チョコレートを渡される。電車に乗ってもチョコレートを渡される。電車を降りて、駅を出た所で渡される。何も惜しむ事はない。食べればいい。


***


チョコレートボーイは大学生になった。それでチョコレートガールと少しの別れを告げて東京へと旅だった。


東京は人が溢れていて、彼らはチョコレートを持っていなかった。地元の光景がまるで嘘の様に、この東京という街にはチョコレートがなかった。


彼の元いた街では例え本を扱う店だって店頭に先ずミルクチョコレートが置かれていたと言うのに。この東京という街ではチョコレートはコンビニの端っこに追いやられていた。


それはこの東京という街が悲哀に満ち満ちているようで、とても悲しいことに見えた。

相変わらず彼は駅のホームからチョコレート配りを始めた。


東京の人々は他人に無関心で、それどころかイヤホンとか、ヘッドホンで耳を塞いしまっている。彼のアプローチなんかには答えもしない。

取りこぼした板のミルクチョコレートがパリパリと小気味良い音を立てて踏みつけにされている。


彼はそれでもやはりチョコレート配りをやめる気にはならなかった。毎日駅のホームに立った。人混みの中からこちらを覗く男がいる。

彼がよく見ればいつかのサラリーマン風の男がそこに立っていた。


サラリーマン風の男は相変わらず真っ黒なチョコレートを『くちゃくちゃ』音を立てて噛みながらこちらに歩いて来た。


「よう、お坊ちゃん。どうだい東京は。君のせいで私が元いた街は住めなくなっちまったからね、こうして東京にまで来た訳だが、どうして君がここにいるんだい?」


男は彼の手に持っている板のミルクチョコレートの束を見つけた。全く、まだこんな事を続けているのか。


「無駄だよ。東京の人間にそういうやり方は通用しない。諦めてとっとと田舎に帰るんだな」

「嫌だよ!だって、僕は東京の人たちにもチョコレートの味を知って欲しいんだ!」

「だから!それはチョコレートじゃねえって言ってるだろうが!」


あの時確かにこの男はミルクチョコレートの味を味わったはずだ。それなのにここまで激しく未だチョコレートを嫌うのか。


「私はな、人が苦しんでいるところを感じるのが大好きなんだよ!だって私は毎日苦しんでいるから!他の人間だって苦しむべきだろう?例外なんかない!このカカオ純度90%のチョコレートを噛んでいるとアフリカ人の悲鳴が聞こえてくる様で凄く、凄く気持ちがいいんだよ!」


また、男は真っ黒なチョコレートがこびりついた歯を噛み合わせ、『くちゃくちゃ』と音を立てた。


「最低です!苦しんでいる人がいたら世界平和が実現しないじゃないか!」


「いいんだよ、それで。大体本当にチョコレート如きで世界が平和になるとでも?人の嫉妬がなくなるとでも?戦争が無くなるとでも?机上の空論以外の何者でもないんだよ、そんなもの!律儀に机にナプキンを敷いてせいぜい溢さずチョコレートを食べていればいい!おぼっちゃま!」


人の苦しみを望むサラリーマン風の男、人の幸せを願う彼、同じチョコレート好きだがここまで違いが出てしまう物なのか。


束の間、また男の口にミルクチョコレートが突っ込まれた。男はそのまま苦悶の表情を浮かべ、その場にへたり込む。


人だかりに塗れた駅のホームに凛々しく立っている彼女がいた。

「チョコレートガール!どうしてここに?」

「チョコレートボーイ!東京てキラキラしていてとっても素敵ね!」


「いいやチョコレートガール、この街は病気だ。今までの僕じゃあ歯が立たないよ、チョコレートを配ってもまるで誰も見向きもしてくれないんだ」


珍しく落ち込む彼、普段見せない表情だけにそれは普通の人のそれよりも一段深刻に感じる。

彼女は見兼ねて寄り添う。励ます様にその笑顔を崩さない。


「大丈夫、何かきっといい方法があるわ。探しましょう」

「うん、うん、そうだよね」


悲しくても、絶望しそうだけれど、そんな時こそ笑顔を作ろうよ。東京には笑顔が足りないから、僕が笑顔を分けてあげるんだ。


「ねえ、チョコレートボーイ。おやつはしっかり食べている?」


思い出せば、やけになってチョコレートを配っていた。3時を越しても挫けず配り続けた。おやつの時間なんかとっくに忘れていた。

彼女は彼に、いつも見るものとは違う、ハートに形取られたお洒落なミルクチョコレートを渡した。


「貴方にこれを渡すためにここまで来たのよ」

「そりゃどうしてさ」

「だって今日、バレンタインだもの」

こんな形のチョコレートも偶には悪くないと思った。


***


結局、二人はその後頻繁に連絡を取り合い、あの手この手を駆使して、なんとかチョコレートを東京の人々に配ろうと試みた。


インターネットを通じてチョコレートを配ろうとしたり、オフィスビルの一室を借りてチョコレートを配る事を呼びかける講演を行ったりした。けれども全ては上手くいかず、東京の人々は頑なにチョコレートを受け取らないのだった。


東京で見つけた数少ない友人、彼は度々二人のチョコレートを配る活動に参加したが、こんな事を言った。


『チョコレートを渡す事に少し対価を与えればいいんじゃないか』そうすれば人は安心してチョコレートを受け取っているのではないか、と。


彼曰く東京は欺瞞の街なんだそうだ。あの手この手を駆使して人を騙くらかして金をせしめる。だから無償で何かを与える事にあらぬ悪意を見出してしまう。だからなんでもいいから対価が必要なのだと。


実際、彼のいう通りにしていればチョコレートは東京の人々に受け入れてもらえたのかもしれない。


「でも、それじゃあ意味がないよ。僕はチョコレートをあげたいんだから。チョコレートを売りたいわけじゃない」

その意見には彼も、彼女も三人共が納得する所だった。


だから、また駅のホームに戻って来た。そうして二人で、偶に三人でチョコレートを配り続けた。


***


チョコレートボーイは大学を卒業して会社に就職した。変化した事がある。


良い事があった。お金は学生だった頃よりも多く手に入ったから沢山チョコレートを買う事が出来た。


けれどそれ以上に、時間がなくなってしまった。以前よりチョコレートは多く手に入るのに、人に配れるチョコレートの量は少なくなった。家に帰れば食べ切れないほどのチョコレートが溜まるばかり。


ついには仕事に黙殺され、彼がチョコレートを配れる時間はなくなってしまった。


『どうして、あの時チョコレートを売らなかったのだろう』そうすれば東京人々は少なくとも幸せになれただろうか。


隣に眠るチョコレートガールと考える。いいや、もうガールという年齢ではない。僕もそうだ。

チョコレートレディとチョコレートジェントルマンだ。チョコレートで世界を平和にするなんて甘い現実なのかもしれない。子供の頃先生に言われた言葉が蘇る。


そうか、そんな意味で言われたのか、と。


「最近、チョコレートを配れていないんだ。時間がなくて」

「そう」


彼女は布団をかき分けて僕の腹に手を回す。慣れた仕草で、滑らかな肌が彼の裸を取り巻いていく。


「それでも仕方がないんだ。生きるためだ、働くしかない。


僕の夢って何だったんだ。高校生の時、地元でチョコレート配っていた時、みんな笑って受け取ってくれたんだ。その笑顔が忘れられなくて、それで僕は自分の夢が間違ってないって信じ切ったんだ。


でもいつからか、チョコレートを受け取って笑顔になった人を見なくなったんだ。皆が皆、疑念を抱いた顔で僕のチョコレートを嫌々ながら受け取る。


僕は、僕のやってきた事って本当に正しいのか?迷惑がっているじゃないか、皆」


彼女は彼の背中を見て考える。彼の顔は窺えない。彼が彼女の方を向かないのはその自信がないからだ。今までみたいに挫けずチョコレートを配り、元気な笑顔を振り撒くあの『彼』を今の彼は再現出来ないかもしれなかったから。


「ねえ?貴方がしたかった事って何だったかしら」


暫く暗い部屋が静かになった。

「チョコレートを世界中の人に配って、世界を平和にする事」

「それって、貴方がしたい事よね」

「独りよがりだったと言いたいのかい?」

「違う。


世界って、人によって大きさを変えるものだと思うの。私にとっては貴方と私、それと周りのごく少数の人たちがいる、それが世界。テレビのニュースキャスターが読み上げる昨日のお話なんてやっぱり今日私の世界が変わらなければただの絵空事だもの。


ねえ、貴方が元いた町を去って東京に行った後、私はあの町に暫く留まっていたじゃない?あの街は、貴方がいなくたって皆がおやつにチョコレートを食べて、駅のホームでは多分さっき知り合ったばかりの二人が仲良く談笑しているの。


ねえ、貴方は世界を変えたのよ。たとえ小さな町一つでも」

「もう十分だって言いたいのかい?」

「意地悪しないで、私の気持ちを分かってよ」

「君の問いかけは難しすぎてよく分からないよ」


彼には本当に彼女の言っている事がよく分からなかった。

「あの町に留まって私が確信した事、貴方は貴方の意思一つで世界を変えちゃえる位凄い力を持った人って事。


だから、きっと貴方の思う世界だって変えてしまえる。誰もが甘いミルクチョコレートを食べて幸せになれる世界があるって事」


それが、本当だったのならどれだけ良かった事だろうか。

「最初は貴方の独りよがりだって良いの。そのうち絶対に皆が、世界中隅々まで、残らず全員貴方の夢を願うようになるもの」


「仕事なら、私が貴方の分まで働く。だから貴方はチョコレートを配り続けて」


彼女は、苦しむのだろうか。あのサラリーマン風の男と同じ様に。世界中の人々の幸せを願っていたはずが、一番近くにいる最も大事にするべき彼女を犠牲にして世界平和を実現しようとしている。


一番近くの人を幸せに出来ないでどうして世界を平和にするなどとほざけるのだろうかこの男は。


「そんなに心配しないで、私、貴方のこんな落ち込む姿見たくないの。それに今の仕事、結構気に入ってるのよ」


「ねえ、それでも一つ、お願いがあるの」

二人の間で二度目の告白は彼女からだった。彼は勿論快諾した。


チョコレート・レディはミズ・チョコレートになって、チョコレート・ジェントルマンはミスター・チョコレートになった。



***


東京に来てから七年目の冬を迎えた。

稼ぎを彼女に頼みっきりにしたまま、ミスター・チョコレートはチョコレートを配る。


貼り付いた笑顔を剥がしたら、あるのは哀愁と後ろめたさばかりで、手が寒さに震えてしまう。

東京の人々は彼を殆ど無視して、残りの人々も相変わらずぶっきらぼうに彼のチョコレートを受け取るのだった。


終電の時間になり、最終列車が出発した後も、暫くそこに佇んでいた。

雪が舞う、積もる雪が冷たいブーツに踏まれ、溶けて泥に塗れたみぞれになる。そんなものがプラットホーム散らばっている。


汽笛の音の様な、変な音がした。

彼の前、電車が止まる筈の場所には今更見慣れない木製のソリが止まっていた。それを六頭ばかりの鹿が曳いている。


「どうしたんじゃ若者。何か困った事でもあったのか」

先の汽笛みたいな音はその老人の雄叫びである事が分かった。


「いやあ、チョコレートを配っているのですが、誰も笑顔になってくれないもので。僕はチョコレートで笑顔になる人を見たいのに」

「ははは!世知辛いのう!全く、見てられんわい」

「そんな事言って、貴方誰なんですか」

「儂?儂の事覚えておらんのか!全く、お前さんなら未だ覚えているなんて思っておったんじゃがのう」


ありったけの白い髭を蓄えて、全身赤い奇抜なコーデ。背に沢山の箱を持ってトナカイを走らせ雪の降る夜空を駆け回る。いつしか忘れてしまった、彼の名前は何だったろうか。


「サンタクロースじゃよ。思い出したか?」

彼はふとして、思い出した。十二月の二十五日、朝起きれば枕元に知らぬ間に置かれている玩具。子供の頃、僕の憧れだった誰かさん。


「お前さんの力に少しでもなれればと思ってのう。ほれ、そのチョコレート貸してみい」

サンタクロースは彼からチョコレートを取り上げ、荷物が詰まっている荷台に押し込んだ。


「サンタクロース!それだけじゃ足りないんです!もっと、もっと配って欲しい!貴方が配れば誰だって喜ぶのだから!少しだけ待っていて下さい、家に帰ってあるだけのチョコレートを持って来ますから」


サンタクロースの熱い抱擁に彼は涙を流した。けれどそんな少ないチョコレートじゃあ足りない。もっと沢山、自分の両手が届くまで、それもサンタクロースが配ってくれるのなら世界の果てにだって手が届く。だからありったけのチョコレートを、僕の力だけじゃ届かない、貴方の力を貸して下さい。


「まあ焦るでない。明日も来もから」

「でも、明日はもうクリスマスじゃないですよ?」


「いいや、明日もきっとクリスマスじゃよ」

老人は髭の隙間から歯を見せて笑った。老人のくせに、子供みたいな笑顔を浮かべる人だった。


***


その夜、彼はサンタクロースの隣に座り、ソリで世界中を駆け回った。


世界は想像を絶する程に広かった。アメリカがあり、ヨーロッパがあり、中国があり、東南アジア、インド、南米、アフリカに行ってカカオ工場も見た。


こんなもんじゃない。人は何処にだっている。人里離れた山々の更に奥の方、丸太で作られた古屋に老人と小さな子供が住んでいた。


太平洋に浮かぶ四方を見渡しても平坦な、青色の大地が広がっている島、そこに五人の家族が奔放に生きていた。夜は外で焚き火をして、親が見守る中子供は寝息を立てていた。『おはよう、イオラニさん。今年もプレゼントを届けに来たよ』子供の親であろう二人が手を振っている。


何の言葉を発しているか彼には分からないが、サンタクロースは流暢な発音で二人に応答する。簡単な挨拶を済ませた後、小包みを渡す。

『そうそう、今年からは彼からもプレゼントがあるんだ!』サンタクロースが彼の肩を叩いて合図する。彼は父と母の二人と子供たちに五つの板のミルクチョコレートを渡した。


『ありがとう、きっと幸せになるよ』

そうして、ソリは浜辺の砂を巻き上げ、再び空に舞い上がる。







ここは世界チョコレート協会のスイス支部。


スイスの首都ベルンの石造りの道を一人歩く人がいる。五十手前と言った所だろうか、もはや若いとは言えないがその目には未だ少年の日の輝きを称えているようだった。


他のヨーロッパの都市もそうだが、ベルンを見ていると歴史を感じるのだ。丘の上に建っている教会だとか、家を支える柱の石だとか、何百年も前からあるであろう物が建ち並んで、それらの隙間を縫う様に最新式の電気自動車が駆け抜けて行く。


サンタクロースがクリスマスにチョコレートを世界中に配ってくれる筈もなく、彼はあの後、駅員に倒れている所を担がれ、病院に運ばれた。何のことはない、ただの疲労だった。


クリスマスに起きたこのごく小さな事件は、話題に窮していた新聞社の目に留まり、彼の病室に一人の記者がやってきた。知名度のない新聞のごく小さいコラムに彼のこれまでの人生が詳らかに記されることとなった。


記事はインターネットにも掲載され、クリスマスの素敵な少年として、少しだけ話題になった。それがもしかしたら本当の彼へのサンタクロースからのプレゼントかもしれなかった。


彼がまた駅のホームでチョコレート配りをしていると、記事のおかげか、笑顔でチョコレートを受け取ってくれる人が僅かだが増えていった。結局は水滴岩を穿つという事だろうか、彼のいる駅では、彼はミスターチョコレートとしてマスコットキャラクター的な位置に置かれることとなった。


けれど、それは東京のごく一部でチョコレートが受け入れられただけで、東京人々の殆どは未だにチョコレートを嫌々受け取った。


結局、ここまで世界にチョコレートが受け入れられる状況になったのは、彼が元いた町の方からだった。


町の人々は他の町まで行き、チョコレートを配った。そうして隣町にチョコレートが溢れるのにそう長い時間は掛からなかった。こうして県を跨ぎ、地方から地方へとチョコレートは流れていった。そうして小さな地方都市を軽く飲み込んでしまうくらいにチョコレートを受け入れる勢いは強くなった。


それから、ミスターチョコレートはその噂を聞きつけ、元の町に帰る事にしたのだった。

彼はそこで、世界チョコレート協会の会長として再出発をすることとなった。


そうしてチョコレートを配り続けて早三十年、世界で殆どの人々がチョコレートをおやつに食べ、受け入れる中、このスイスの住民においては比較的チョコレートを受け入れない人々が多いという。


いや、正確に言えば世界中のチョコレートを受け入れない人々がこのスイスに逃げ込んでいるのだ。

なんと、彼の絵空事の様だった夢が叶いかけている。こんな事、彼本人だって具体的に予想出来た訳ではなかった筈だ。


ベルン大聖堂のある通りを歩き進めばチョコレート協会のある建物が見えてくる。しかしどうやら、門前で人だかりが出来ていた。


彼らは言葉にならない言葉を吠え叫び、両手を挙げ、チョコレート協会の門戸を激しく叩く。それで何やらプラカードまで掲げている。


『チョコレートとは名ばかりの違法薬物の配布を辞めろ』『チョコレートを食べない権利を保障しろ』『チョコレート協会は世界滅亡の旗手』全く、酷い言いがかりだ。チョコレートは違法薬物ではないのに。ただ笑顔になるだけなのに。


ここスイスを最後の砦としてチョコレート反対運動は我々チョコレート協会に牙を剥いている。その名も"ブラックチョコレート・キャンペーン"。


人だかりの外側に、歩いて来る彼の方を向いて、不倶戴天の仇を見つけたように睨む奴がいる。そいつは日本人で、今ではスーツを着ていないがそれはいつかのサラリーマン風の男だった。


「お前。やっぱりお前か。お前のせいで世界がおかしくなってしまった。世界の半数はもう、チョコレートを片手になしでは生きることは出来なくなった。


苦しむ人々が世の中から消えていき、誰もが狂ったように笑顔を作る。私がかつて生きていた世界がお前のせいでなくなりつつある。


いったいこの状況どうしてくれる?」


彼に嘗ての剣幕は感じない。もう歳をとって怒る体力もないのだろう。だが、彼の事を決して許さないという決意をその深々と刻まれた皺から感じ取れる。


「世界が一歩前に進んだんだよ。工場で苦しみながらカカオを加工するアフリカ人はもうじき居なくなる。戦争だってそのうちチョコレートの前じゃあ意味をなさなくなるさ」


「だったら、だったら私はどうなる?お前は何の為にこんな事をしているか忘れたわけじゃあないだろう?」


「そうだよ。取りこぼしたりなんかしない。他人の苦しみを糧に生きてきた人間は苦しみが無くなれば苦痛な人生を送るしかない。でもさ、そんなこともないと思うんだ。僕は」

「馬鹿な事を」


男は相変わらずコートのポケットから小箱を取り出し、更に中の小包みを開く。真っ黒なチョコレートを口に放り込んだ。


『くちゃくちゃ』『くちゃくちゃ』と音がする。けれども老人はその音がどうしてもアフリカ人の悲鳴には聞こえなくなってしまった。この咀嚼音は、ただ苦いチョコレートを噛み潰す音だ。


世界にはもう、苦しみながらカカオを加工するアフリカ人は消えようとしているのだから。

「もう駄目だ。聞こえない、聞こえない、聞こえない、聞こえない」


ミスターチョコレートが世界中に甘いミルクチョコレートを配っていた間、彼もまた数十年、真っ黒なチョコレートを優越感に浸りながら噛み潰していた。彼は泣きながら嘆いた。聞こえない、聞こえない、耳には空虚な咀嚼音が響くばかり。


やがて老人は咳ごんだ。呼吸はみるみる荒くなり、やがて血を吐いて倒れた。ミスターチョコレートは彼に急いで駆け寄り、彼の上体を肩で支えてやった。ミスターチョコレートの背中は温もりに溢れていた。


「大丈夫かい、お爺さん」

「お前なんかに、助けてもらう必要なんかない。大きな世話だ」


ミスターチョコレートはそのまま彼を近くの病院に連れて行った。


***


老人は病院で入院することになった。心労から重い病気が最近発覚したそうだ。けれど彼はこの世界の危機にいても建ってもいられず、毎日反対運動に明け暮れていた。そうしてガタが来てしまったという訳だ。


ベットに寝込む彼の隣にパイプ椅子を置き、ミスターチョコレートは座る。

「どうしてお前がここにずっといる。お前がいると私はストレスで血管が切れて死んでしまうかもしれない」


ミスターチョコレートは老人の手を優しく握り、彼を愛情たっぷりの眼差しで覗き込む。

「大丈夫、貴方は強い人だから、それは僕が一番よく知っているだろ?病気にだって負けないさ」


「やめろ、気持ちが悪い。お前は、お前だけは私に手を差し伸べるなよ。私に手を払いのける力なんてもう無い。だから世界中の誰が私の手を握ろうとどうだっていい。だがお前だけは別だ。頼むから、頼むからその手を退けてくれないか」


老人は絶望した。その絶望は老人にとって、今まで幾度も襲いかかってきた物だった。けれど、最早その老体は絶望を払いのけるには脆すぎた。


ミスターチョコレートは畳み掛ける。彼は老人に絶望の言葉を吐きかける。


「貴方は嘘をついた。生まれたての頃、一番最初に一番大きな嘘をついた。


きっと、貴方のいた世界は苦しみに満ちていた。苦しみに満ちていたし、苦しみを食い物に笑う人々が大勢いた。それは露骨ではなくても貴方は鋭いから、人々の腹の中にある魂胆を見抜くことができてしまった」


「ぶざけるな。私の人生を何一つ知らな癖に。私の人生に説教を垂れると言うのか」


「だから、苦しみを優しさで紛らわす事が出来る事を知った時、貴方はもう他人の苦しみを笑う事を覚えてしまったから、ひたすらに都合のいいように見えるその現実を自分の心から隠した。無いものと、嘘をついたんです」


「それは、私の人生の全否定だ。貴様は私に今最大の加害しているのだぞ。分かっているのか」


「確かに、今までの事が全て無くなる訳ではありません。その事は一つの現実に目を背ける以外に、現実を見据え続けた貴方が何よりわかっている筈です。否定はされどもなくなりはしません。ましてや償う事なんてない。


でも、貴方が甘いミルクチョコレートの味を知らないなんて、僕はその事こそ芯から許せないですよ」


寝込む彼のを傍に、ミスターチョコレートはポケットから甘い板のミルクチョコレートを取り出した。そうして、包み紙を剥がし、茶色い割れ目が刻まれた表面が剥き出しになると、老人は恐怖に震え出した。


「さあ、受け取って下さい。勇気を出して」


「お前は悪魔か」

「ならきっと、貴方の世界では悪魔が唯一、今幸せになる方法を知っているのですよ」


「そうか、対価は私の人生か。

妻も、子供も居ない。友人もいつの間にか無くしてしまった。それで私の最後を看取るのは悪魔か」


老人は震えながらもそのミルクチョコレートを口元に運んで、弱い力でやっとの事チョコレートを噛み砕いた。


「さようなら。ミスター・ブラックチョコレート」


真っ白な病室で、ミスター・ブラックチョコレートはたった一人の介添人をやりきれない表情で見つめてから、ゆっくりと目を閉じた。







『初めて貴方に出会った時の事が忘れられなくて、やっぱり時々思い出して、未だに余韻に浸るの。


駅のホームには私と、女の人と、サラリーマンと、高校生と、それと貴方がいて、貴方があまりに必死にチョコレートを配っているものだから、見兼ねて貴方の方へ駆け寄ってしまった。


真っ黒なチョコレートを食べていた彼も、きっと本当は悪い人じゃなかったんじゃないかと今では思う。貴方は誰でも見境なく手を差し伸べた。


私にも同じようにしてくれたけれど、少しくらいは贔屓してくれてもいいんじゃないかなんて時々思っていた。


けれど、仕方が無い事なんだと毎回諦めるの。貴方が私を贔屓するようになったら、それはもう私の好きな貴方じゃないもの』


***


彼が東京に来てから八度目の春、それは彼女と二人の記念すべき二回目の告白の日から三度目の春という事だが、二人は子宝に恵まれる事となった。


男の子だった。白い布に包まれて安らかに眠っている。


二人はチョコレート・ジュニアを抱えて、明日のことから老人になった時の事まで、お互いの未来の事について語り合った。チョコレートジュニアはそれを眠りながら聞いていた。


***


コンクリートの道に、タイヤ痕が焼き付いていた。その痕が迫ってきて、それは逃れようもなく、彼女の腹を横断した。


暖かい晴れた昼の出来事だった。


彼と彼女の記念すべき二回目の告白の日から七年が経った時の出来事であった。


彼女は車に轢かれた。幸い一命は取り留めたものの、最早彼女の下半身は使い物にならず、車椅子か、病室でのベット生活を強いられた。


「ごめんなさい、もう貴方の力になる事ができないわ」

「良いんだよ、チョコレート・レディ。君はもう、休んで良いんだ」


彼女はもし自分がこんな状況に陥った時、彼が自分のことを何の躊躇いもなく受け入れてくれることを知っていた。自分が何の役に立たなくても、自分が彼の大事にしている物を折ってしまうことになったとしても、彼は自分を受け入れてくれるのもだと、どうしようもなく予想できてしまっていた。そして実際、そうなったのである。


それは何だか、今まで彼女が行ってきた彼への献身があってもなくても彼には何の影響もないように見えた。彼の完全無欠さが、彼女へ向けられる愛への不信へとなりかけていた。


「ありがとう、チョコレート・ジェントルマン」

彼女は彼の手を取る。彼はその手を大切にに両手で包み込む。今までに何度も繰り返された動作だ、自然と彼女は彼の方を手を向けてしまう、彼はそれを両手で包み込むのだ。


それでまた、折れてしまう。彼を信じないなんて事が出来なくなってしまう。


「提案があるんだ、僕らの故郷に帰ろう。そこでまた、新しく生活を始めないか?」

長らく戻ることのなかった父母がのいる家や、最寄りの駅までに続くやたら高低差の激しい道。風に煽られ自転車を走らせた広い田畑の畔道が彼女の頭を駆け巡る。


東京に来て、もう十年が経つだろうか、目まぐるしく動く電車も、早足で歩く人々も遠くに聳える高いビルも大分見慣れたものになった。


最初はキラキラしていて素敵な場所だと思っていたけれど、それは星々を眺める時のように遠くでこそ美しく見えるものだったのかもしれない。都会の喧騒はとことん冷酷だ。


地面に落ちたチョコレートは容赦なく踏みつけにされる。


無感情な人々が隣り合っても挨拶すら交わすことすらなく過ぎ去っていく。目まぐるしく、そんなことすら出来ない。


「そうね、私も少し、疲れちゃったみたい」

ミスターチョコレートは、車椅子を押してミズチョコレートと二人で元いた町に帰っていくのだった。


***


先に話した通り、二人が帰った町ではチョコレート協会というものが出来ていて、町中で二人が帰ってくることを心待ちにしていた。


「みんな!チョコレートボーイが帰ってきたよ!」「本当に?私達にチョコレートを配ってくれたあのチョコレートボーイが!」「もう帰ってきているらしいぞ!迎えに行かなきゃ!」

「そうだ!彼をこのチョコレート協会の会長に据えよう!何より人とチョコレートを愛しているお方だし」「そんな事、当たり前じゃない!」


チョコレートジェントルマンは町に来てから間も無く、チョコレート協会の会長になった。


彼は、生活費をチョコレート協会からの支援という形で受け取ることとなった。最初、彼はお金を受け取る事を渋ったが、チョコレートレディの説得によって乗り気ではないが確かな感謝を込めて支援金を受け取った。


これで二人は生活に困る事は無くなった。彼は世界にチョコレートを配る事に一層精を出したし、彼女も車椅子でしばしば彼に同行した。

事業は順調に拡大していった。


***


チョコレート・ジェントルマンの母が死んだ。


それは彼がチョコレートレディと東京から帰ってきてから五年が経とうとしている時だった。


彼が東京で記念すべき二回目の告白を受け入れた頃、母の危篤の知らせが届いていた。病床に伏せる母は、そんな状況にいても彼の足を引っ張らない様、彼を応援するのだった。


父もその母の様を見て絆されてしまったようだった。移行父は彼のやっている事の無謀さについて特に煩く言う事をしなくなった。


棺に映る母の顔は、いつも見ていた母とは別人の様だった。無表情で、思ったより皺が多くて、禿げていた。


葬式にはそれなりに多くの人々が参列した。


父と母の親戚、それと友人、チョコレートジェントルマンにチョコレートレディ、チョコレートジュニアそれと、チョコレート協会からも母と顔を合わせた子のがある幾人かがいた。


亡き母の顔写真を抱え、父は泣かずに俯いている。涙が枯れてしまっているのだろうか、泣くまいと必死なのか、それは彼の周りに漂う、唯々陰鬱な空気からは読み取る事が出来なかった。


チョコレートジェントルマンが式場の前に出て、悼辞を述べる。


「母は、私にとって母は、とにかく母でした。幼児の頃は私を持ち上げ抱え、少年の頃は私の頭を撫で、青年になれば温かい言葉で私を抱擁しました。母は私がどの様な表情をしていても、変わらず微笑んで怒ることをしませんでした。


『父が私を叱るのなら、私はひたすら抱擁しよう』という心持ちだったのかもしれません。


しかし、私がどんな悪戯をし、過ちを犯し、それを隠そうと、母は私の細かい所作から全てを見抜いていたのだと思います。それでも変わらず母は私に微笑みかけてくれました。信じてくれていたのです。私がどんなに道を外れようと、結局は正しく歩き出してくれることを。


そして、限りない応援を無償でくれました。そんな母を私もまた愛していました」


今こそ母にありったけの抱擁を。少し遅かったかもしれないけれど。


***


「また、心が折れてしまいそうだよ」


葬式が終わった後の夜、いつかの時と同じ様にチョコレート・レディに背中を向けて語りかけるのだった。


「母が死んだ事、それは僕がチョコレートを世界中に配って世界平和を実現する事に何も関係ない。現に、徐々に世界中にチョコレートを配る事が出来そうなんだ。僕の夢が叶いかけているんだ。このまま進めばきっと叶うはずなのに、どうしてか今更投げ出してしまいそうなんだ」


彼女はまた、背中からゆっくり親しみを込めて彼に触れる。車椅子に座って立てないから、あの時と同じ様には出来ないが、精一杯の温もりを込めて彼に触れる。彼女の経験上、彼はとても真面目な人間であると知っている。


だから、あの時の自分の吐いた言葉を反駁し尽くしてその上でも今は弱音が漏れてしまったのだろう。


「それが、貴方のやりたい事だとしても?」

彼女は嬉しかった。彼が弱みを見せてくれた事が。彼女は自分が彼の役に立てているという実感が欲しかった。だからこれは、彼女にとって心から望んだ瞬間でもあった。


「違うんだ。僕は、やりたくないんだ。やりたくない。僕がこんなにも不幸な思いをしているのに、僕が配ったチョコレートで他人が軽々しく笑顔になんてなってほしくないんだ。


多分、時間が経てば僕は元通り性懲りも無くチョコレートを配り始めるのだろう。でも今だけ、今だけはチョコレートを配りたくなんかないんだ」

「そう」


チョコレート・レディは腕を振り絞って一人で車椅子から立ち、倒れ込む様にチョコレートジェントルマンの背中に寄りかかった。


「貴方を愛しています。心の底から。私は意地悪だから、今になって一つ、言っておきたい事があるのです。


貴方と出会ったばかりの時、『私もチョコレートが好きで、チョコレートを配りたい』なんて言ったじゃないですか。貴方の事だからその事を今でもはっきり覚えていて、その言葉を愚直に信じているだろうと思うのです。


私、本当はチョコレートを配ることなんかより全然、貴方と一緒にいられる事が好きだった」







チョコレート・ジュニアは自身の二十回目の誕生日に身を投げた。


『死とは迫り来る、人間にとって最大の重石であり、人間はそれに逆らう事が出来ない。自殺とは、刹那的であり、人間が扱うことの出来る最も重い贖いであると考える』


彼の残した長い長い遺言の中のごく一部を切り取ったものだ。


これより語るのは、断片的ではあるが、彼が生まれてから二十歳になるまでの思い出の記録である。


チョコレート・ダディと、チョコレート・マミィと、チョコレート協会の面々、その他にも多くの人々が彼の死を悼んだ。


チョコレート・ジュニアが六歳の頃、彼はチョコレート・ジェントルマンと同じくおやつの時間にはチョコレートを食べ、同じくチョコレートを世界中に配ることを夢見ていた。


彼はチョコレート・ダディの事をお父さんと、チョコレート・マミィの事をお母さんと呼んだ。それが二人にとっては信じ難い事で、それが現実である事が何より二人の愛の証明となった。


だからこそ、三人はいつも一緒にチョコレートを口にした。母が病院にいても、父が外国にチョコレートを配りに出かけても、三人は電話でつながり、チョコレートの甘さについて語らいながら、チョコレートを食べたのだった。


***


チョコレートジュニアが十二歳、詰まる所中学生になった時、彼には学校から作文が課された。しかも発表つきである。


しかし、彼が迷うことはなかった。彼は作文の発表において、憚ることなく父と同じ夢を口にした。


『僕の夢は、チョコレートを世界中に配り、世界を平和にすることです。僕の夢には、偉大な先駆者がいます。


それは他ならない父です。父は凄い人です。僕と同じ少年の頃からチョコレートを配り、今では世界中に支部をもつチョコレート協会の会長で、世界中の人々全員にチョコレートを配ろうとその闘志絶やさず日々チョコレートを配り続けているのです』


この頃の彼の父への憧れはそれは凄かった。彼はなるべく長い時間、父と一緒に居ようとしたし、父と同じくチョコレートを人々に配り続けた。


***


チョコレートジュニアが十五歳の時、彼のこの後の短い人生を決定づける出来事に遭遇する事となる。


高校の課外授業という事で、彼はこの町を離れて東京に行く事になった。東京でも、相変わらず人々はどこでも笑顔で溢れていて、談笑しながら歩いている。そんな光景を見て彼は父への憧れを深めていった。


課外授業では、ある上場企業の社内へとお邪魔し、仕事内容がどの様なものか職員に教えてもらうというものだった。ここまでは、彼にとってもいつもと変わらない楽しい日常に過ぎなかった。


午後では、三人程度の班に分かれて自由行動という事になった。


チョコレートジュニアはこの東京という、人の溢れる街で、他にも父の痕跡があるのではないかと重い、班の二人を残して母から渡された少しばかりの小遣いを全て交通費に使い、昼飯も食べずに東京のそこら中を歩き回る事にした。


山手線の、代々木という駅に降りて、駅を出てみれば、何やら人だかりが出来ていた。彼は、間違いなく父の痕跡だと思い、人だかりを掻き分けその中心へと向かっていく。


そこには、この代々木駅のマスコットキャラクターである『チョコレート・ジェントルマン』の銅像があった。


彼の顔は、最初は怒りでもなく、悲しみでも悔しさでもない、驚きに染められた。


それだけではない、銅像には石が投げられていた!手足には綱が巻きつけられ、今にも引き倒されようとしていた。彼の憧れで、誰もが認める偉大な父である筈の『チョコレート・ジェントルマン』の銅像が!


民衆にある筈の笑顔はなく、怒りで満ちていた。彼にとって、人間とは、朗らかなものであった、いかなる時でも笑顔で、仲良く話している。彼は産まれてからそんな人々をずっと見続けていたから、長く、人がこの様な表情をする事に驚きっぱなしになっていた。


彼は人に揉まれ、足が浮いても動けずにいた。自分の父は、世界平和を実現すると言った。世界の人々に残らずチョコレートを配り、誰もが笑って過ごせる世界を作りたい、なんて。


ここにいる民衆の怒りに満ちた表情は、間違いなく父が作り出したものだ。そして、父は彼らの存在を知っているであろう事も理解した。


そこで少年は分からなくなった。チョコレート・ジュニアの父への憧れと、彼自身の夢が砕けた瞬間だった。


彼がもう少し馬鹿だったら、あるいはこの状況を押し通してしまう程の情熱の持ち主だったとしたらまだ、彼の夢は砕けなかっただろうか。

しかし、そんな現実はなかった。


チョコレート・ジュニアが代々木駅前で目撃した出来事は、『ブラックチョコレートキャンペーン』の参加者によるデモ活動であった。


彼はブラックチョコレートキャンペーンの参加者達がどの様な人々なのか深く興味をそそられ、やがてこの運動に参加するようになった。


ここで一つ、あくまでも勘違いしないで貰いたいのだが、間違っても彼は父への反抗心が芽生えたり、ブラックチョコレートキャンペーンの人々の掲げる理念に共鳴しだわけではなかった。


***


ブラックチョコレートキャンペーンは都市部を中心に活動が活発だったため、高校時代の彼はそこまで頻繁に活動に参加出来た訳ではなかったが、既に甘いミルクチョコレートで溢れていた彼の住む町において、彼の観光目的でもないのに都市へ電車で行く彼は異様に映った。


彼が十七歳の頃、受験勉強の傍ら遥々兵庫県神戸市へブラックチョコレートキャンペーンに参加すべく行った時、ある人物に出会った。


チョコレートジュニアは彼に対して、怒りと悲しみに満ちていたブラックチョコレートキャンペーン参加者の中でも一段儚い印象を受けた。顔からは生気が失われ、気の抜けた間抜けな表情で小箱を片手に持っていた。


「貴方も、ブラックチョコレートキャンペーンの参加者なんですか?」

チョコレートジュニアが話しかけると、消え入るような声で返答が返ってきた。


「そうそう、私も参加者の一人だよ」

男はこちらを向いて、チョコレートジュニアに迫る。しかし、その筋肉が弛緩して爛れた顔面は、光のない真っ黒な目玉は、彼に迫る情熱など等に無くしてしまった。


「君には、このブラックチョコレートキャンペーンという運動がどう映ってる?」

彼は、課外授業で見たあの衝撃に感化され、その後すぐに図書館に足を運び、思想書を机に積んで、本を読み漁った。


それらの知識は彼に多大な影響と思考の進化をもたらしたが所詮、本で読んだだけの実感のないただの言葉の羅列だった。


けれど、彼には今持ちうるものがそれしかないため、それを目の前の男に披露するしかなかった。


「必然的に起こりうるものなんだと思います。今、人間社会はチョコレートによって大きく変革が起こっています。しかもそれは人間にとって最も身近な、感情というものに。だから変化する事を恐れる人が出てくるのは当然です」


「まるで、我々の活動が正しくないかのような口ぶりだな。


でも、必然生まれてくるものであるという意見には私も同意するところだ。そしてやがて淘汰されてしまう物なんだろう。

名も無い少年よ、折角話しかけてくれた君に言うよ。


いま私の考えている事を。私はね、このブラックチョコレートキャンペーンという運動に参加して五年になるが、私はもうこの運動には絶望しているんだ。絶望しかない。坊や、絶望の意味がわかるか?絶望というのはな、這い上がりようの無い暗闇の奥底にいる事だ。それが絶望なんだよ。もう取り返しがつかないから絶望なんだよ。


私はね、気付いてしまった。いま世界にばら撒かれている甘いミルクチョコレートってやつはな、完全無欠と言って差し支えない代物だ。幾らか憂慮すべき点があるが、それもすぐに対策が取られ、解決される程度の物だろう。あのチョコレートは人間にとってどうしようもなく救いそのものなんだ。人類が足並み揃えて一歩前に進める物だ。だからこうしてチョコレート反対運動をする奴なんざ、人類の足を引っ張っている厚顔無恥な連中に他ならないんだよ!こんな愚昧が!頓馬が!もはや世界に存在する余地など無いんだよ!」


その男は手に持っていた小箱を地面に叩きつけた。そうして男はその小箱を何度も、何度も何度も踏みつけにした。


箱がボロボロになっても止めることはなかった。


やがて男はそのボロボロになった小箱をやっと地面から取り上げ、その中から最早中身が粉々に砕けているであろう小包みを取り出した。

それは真っ黒なチョコレートだった。


男はそれを口に入れ、『くちゃ、くちゃ』と噛み鳴らし、悲哀な表情を浮かべるのだった。


その男の顎を動かす力が何処からきているのか、チョコレートジュニアには分からなかった。


彼が十九歳の時、つまり彼が自殺に及ぶほんの数ヶ月前の事なのだが、東京に上京したきり戻ってくることのなかった彼はやっと、父母のいる町に戻って来た。


***



『拝啓、偉大なるマイ・チョコレート・ダディへ。


短い人生でしたが僕は自分の人生をそれなりに楽しめたんじゃないかと考えております。


と、言うのも今まで考えに考え続けて、分からなかったのですが、ようやく分かったのです。僕がこの世に生を受けた訳が。


もう二年程前になりますが、例の如くブラックチョコレートキャンペーンに参加するため神戸に行った折に、一人の男に出会いました。


そこで彼が語ったのは、貴方に対するどうしようもない怒りではなく、ただただ自分という人間が生まれながらにして間違っていたと認める嘆きでした。彼には謝罪することも、許しを乞うことも許されないようでした。


お父さん、お父さんが今やろうとしていることは大きすぎて、大きすぎて僕にはお父さんが分からず、いつも向けてくれている親愛の笑顔が時々気持ち悪く思えてしまう事がありました。


彼の嘆きから僕が得たものは、彼に対する同情もそうでしたが、お父さん、貴方が許せないなんて感情では決してありませんでした。


この目の前の男はどうしようもなく世界から必要とされておらず、やがて何もしなくても淘汰されていく仕方のなく生まれてしまった人間なんだな、という考えです。だから彼が何処かで野垂れ死のうと僕は何も感じないのだと思います。我ながら悪魔のようだと思いますが。


それは僕が今まで見てきた人々の圧倒的多数がチョコレートのお陰で笑顔に満ち溢れ、前向きに生を謳歌しているという事実からでした。


僕が導き出した結論としては、お父さん、今貴方が長い時間をかけてしている所業は神の御業に他ならないという事です。


それでもお父さん、僕は我慢ならないのです、僕の憧れのお父さんが、大好きなお父さんが人ではなく神のようになってしまうのは。


世界中にチョコレートを配るお父さんの姿はかっこいいし、勿論僕の憧れですが、それ以上に僕に向けてくれている親愛の笑顔が、僕はお父さんの他の何よりも愛おしいのです。


 そこでお父さん、お父さんは僕を愛していますか?と聞いたところ、お父さんは何よりの愛を込めて僕を抱き止めてくれたので、そこで僕は分かったのです。


僕が、僕だけが父が人である事を留めるための唯一の楔になれるのではないかという事にです。お母さんにそんな酷な事、任せられませんから。


お父さん僕を今まで通り愛してください。そしてどうか僕を許してください』







老人が、公園のベンチに座り、子供達が元気に遊んでいる所を眺めている。


いつしか彼は、チョコレートを配る事を辞めた。チョコレート協会はチョコレート・ジェントルマン無しでも存続してける様でなければならない。


仮に世界中の人々がチョコレートを食べ、世界平和が実現したとしてもだ。その後彼が死に、チョコレートを未だ知らない人々が出てきた時のためにチョコレート協会は必要なのだ。


だからチョコレートジェントルマンはチョコレート協会から身を引く必要があった。

チョコレートジェントルマンは、チョコレートオールドマンになった。


ベンチの隣の木では小鳥達が憩う。

彼は新聞を広げた。何故か紙の新聞は今でも発刊されている。未だにレコードでジャズを聴く人々がいる様に、紙の新聞を好んで読む人間が一定数いたと言う事なのだ。彼もそんな中の一人である。


新聞一面の見出しはどうだろう、まず一つ、大きな事件が記されていた。『チョコレート協会設立六十周年』チョコレート協会はどうやら今日で六十周年を迎える様だった。


次の見出しにはこうある『コーヒーにチョコレートは入れるべきか、入れないべきか』さて、それは悩ましい。コーヒーを苦いまま楽しみたい人も中に入るだろうし、コーヒーにチョコレートを入れることによって人はもっと多くの幸せを享受できるかもしれない。いや、そんな事、もうしなくて良いのだろう。


ミスターブラックチョコレートの手を取った時、彼は彼と同じ人々が、どうしても報われないのだとどうしようもなく知った。それは全くミルクチョコレートの甘さとは正反対の現実だった。


それでも世界平和が実現した後、世界から消えかけていたブラックチョコレートをまた作るよう提案したのは他でもない彼だった。


だってもう、苦しみながらカカオを加工するアフリカ人はいないのだから。


それに、ミルクチョコレートを食べるのはおやつの時間だけで十分だ。


ミルクチョコレートの甘さは、多くの老人にとって頻繁に口にするには耐え難いくらいの甘さだから。


公園でかけっこをしていた子供達が、二人ばかり老人の元へ寄ってくる。

老人は新聞を下ろし、温かい笑顔で彼を迎える。


「おじいさん、元気してる?」

「大丈夫、まだ元気だよ」

「おじいさん、年を取ると甘いものが食べられなくなっちゃうって本当?おれのおじいちゃんが言ってたんだ!」

老人は皺を作りながら笑う。


「そんな事ないよ。僕は未だに甘いものが大好きだよ」

老人はコートのポケットから板のミルクチョコレートを三つ取り出した。


「一緒に食べよう。そうしたらまた、二人で遊びなさい」

二人の子供は喜んで老人からのプレゼントを受け取った。


「ありがとう!おじいさん」


***


子供がチョコレートを食べるのを待って、二人がまたかけっこを始めると、老人はやりきったようにベンチから立ち上がり、あてもなく散歩を始めた。


やっぱりこの町が自分にはよく馴染む。そんな感慨に耽りながらかつて学生の頃によく通った道を歩く。


もう少しで十年になるだろうか、チョコレートレディの葬式を行った。葬儀には親類、それと彼女と親交が深かったチョコレート協会の面々が参列した。百人以上が彼女の葬式のために遠くから遥々やってきて、彼女を悼んだ。


彼は葬式で涙を流した。老人になれば、涙は枯れる、幾ら感動したって涙は流れない。彼の大粒の涙はよれて凸凹になっている肌を伝い、衣服へと染み込んだ。


老人になると、考える事が大変になる。歩くことすら、ままならなくなる。でももう十分だ。ここまで幸せな老人そういないだろう。


『沢山のことを経験したよ。小さい頃からチョコレートを配って、チョコレート・レディ、君に出会って、チョコレート・ジュニアも出来た。


チョコレートジュニアの笑った顔は僕にそっくりだと君はよく言っていたっけ。ジュニアのことに関しては、僕は取り返しがつかない事をした。子供の育てる事がどれだけ大変か、ジュニアの事に関しては僕は後悔ばっかりだ。ジュニアは多分、僕が後悔ばっかりしていることを知ったら怒るだろうな。


前を向けって、全くその通りだよ。今までだってそうだったじゃないか。


ねえ、君はもう十分知っている事だろうけれど、僕はそうよく出来た人間じゃない。すぐに傷つく。しかもそれが顔に出てしまうから救いようが無い。いや、救われていたね、いつもいつも。


ああ、ミスター・ブラックチョコレート、彼に関して僕が後悔や懺悔でもしたら彼もまた僕を凄い剣幕で怒鳴り散らすだろう。


信じられない時があるんだよ。未だに信じ切る事が出来ていない。彼が今際の際にミルクチョコレートを口に運んだのが、何より彼自身の意思によって為されたのか、彼にとって僕は本当に悪魔で、恐怖によって彼はミルクチョコレートを口に運んだんじゃないか?なんて疑惑が僕の中でずっと燻っているんだ。


チョコレート・レディ。やっぱり、君が支えてくれないと、杖なんかじゃ僕は転んでしまう。


今日も、チョコレートを配ったよ。もう辞めようと思っているのに、やっぱり配っちゃうんだ。笑顔で受け取ってくれるのが嬉しくて、何よりチョコレートがおいしいから』


ふと、彼の胸がとても熱くなった。胸から赤いものがこぼれ落ちる。彼の胸は冷たく鋭い金属によって刺し貫かれていた。


近くを歩いていたら人々が口々に叫ぶ。『人殺し!人殺しだ!』『警察!警察だ!警察に追放しないと!』『血が出てる!血が出てる!早く救急車を!』


溢れ出した血は止まらない。彼を刺した人間については全くどうでも良い事で、恐らくは彼の手の届かなかった別のミスター・ブラックチョコレートだったのかもしれないし、そんな事全く関係なしに、甘いチョコレートは世界の果てまで届くことはなく、世界平和の実現なんて未だに絵空事だったのかもしれない。


でも、そんな事、どうでも良い事だと彼の人生をここまで辿ってきてくれた人には分かっている筈だと思いたい。


些細な事なんだ。彼がチョコレートを振りまいて、チョコレートを手の届く限りまで届けようとして、結局チョコレート・オールドマンは生まれてからずっとチョコレートに包まれたまま死んだのだから。



それが揺らがぬ事実だったのなら、世界平和がどうとかなんて、些細な事に過ぎないのだ。




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ストーリー・オブ・チョコレーツ・ライフ たひにたひ @kiitomosu

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