第15話 この世で最も嫌いなもの
翌日。
私は陽が傾きかけている時分に屋敷を出た。
(本当に出てきちゃった。大丈夫かなぁ……)
小走りに屋敷を離れていく私は自分の心臓がバクバクと音を立てるのを聞きながら不安を口にする。
一階にある食堂からバルコニーへと出るだけでもかなりの緊張を強いられたというのに、いざ出てみれば、無断で外出したのがバレてしまったらという恐怖に手足の震えが止まらなかった。
『バレたとしても命までは取られませんよ。怒られるだけです』
「その怒られるのが嫌なんでしょう!?」
そんな私にナビィがさらっと言ってきて、私は堪らず反論した。
「怒った師匠を目の前にしてるのは私なのよ!あなたは私の目を通して眺めてるだけかもしれないけれど、どれだけ怖いことか!あれは実際に怒った師匠を直接前にしない限り分からないわ!……ぁぁ、どうかバレませんようにっ!せめて魔物を仕留めて帰ってくるまではっ!どうかっ!!」
私は数日前に自分を叱りつけてきた師匠の顔を思い出しながら、遠ざかっていく屋敷の師匠のいる部屋の方へと念を送った。
おそらく師匠は今頃、自室のベッドでぐっすり寝ているはずだ。
と言うのも。
食堂で一人、ご飯を食べていた時だ。
どうやって師匠の様子を窺おうか悩んでいると師匠がそこへやってきた。食堂の扉を少し開けてこちらに顔が覗く程度の接触だった。どうしたのかと私が尋ねる前に師匠は「今日の夕食は要らぬ。我は眠る故、来なくていい」と短く言ってきた。疲れ切ったような眠たげな声に私は師匠の様子が心配になった。しかし、声を掛ける間もなく彼女は食堂の扉を閉めると自室へと歩いていってしまった。その後、しばらくしてから恐る恐る師匠の部屋の扉越しに聞き耳を立て、実際に物音一つしない事を確認したのである。
「やっぱり師匠の様子、ちょっと気になります」
これが終わったら少し様子を見に行こう。
そう思ったのだが、ナビィがそれを聞いていないはずもなく茶化すように言ってきた。
『そうですね。どうせ魔物を仕留めた成果を見せびらかしにいくんです。無断外出した件について早々に自首することにしましょう。何をしたって一度は必ず怒られることになるのですから、まあ心中お察しします』
「ぐぅ……ナビィ、いつか覚えてなさいよ」
そうして平原を駆け抜けていくとやがてナビィの言っていた森の前まで辿り着いた。
「ほ、本当にここに入っていくの?……大丈夫?」
私は息を切らしながら言うと平原と森の境を前に立ち尽くしてしまう。
鬱蒼と生い茂る草の間から背の高い木々が密集するように生え、少しの風で木の葉を揺らしかさかさと音を立てていく。傾いていた陽は茜色に空を染めていくが、木々の隙間からはその片鱗すら見ることが叶わない。森の奥へと視線を向けるが、木漏れ日一つない暗闇が見えるのみ。人が手を付けていない事など言うまでもなく、中へ立ち入っていく道さえ存在しなかった。
これを見れば大人だって少しは抵抗感を覚えるだろう。ましてや子供なんて以ての外だ。この体になってからというもの、見るもの全てが大きかった。屋敷にあるものであればもう既に見慣れてしまったが、低い身長で見上げるその場所のなんて怖いことか。
そして、なにより。
「虫とか、……いないよね」
私は虫が大の苦手だった。
『いますよ。当然です。むしろいないわけないじゃないですか』
「ひぃっ、無理、無理無理……」
ナビィのどうでもいいと言わんばかりの回答に私は一歩、また一歩と後ずさった。
虫の巣窟。
私にはもうそう言う場所にしか見えなかった。
『いきなり何を言い出すかと思えば。虫くらい手で振り払ってしまえばいいでしょう。ほら、さっさと進んでください。そんなんじゃ魔物の一つも狩れませんよ』
「いいです!無理なものは無理ですから!マダニに毛虫に蜘蛛にムカデ……あんなのが
『そんな大袈裟な。せめて魔物の方を怖がってくださいよ』
「ま、魔物だって十分怖いわよ!で、ででででも、あいつらは気付いたら体に登ってきて這いずり回って噛んでくるのよ!!寄生されちゃうかもっ!そうなったら、私は」
気付いた時には肌の上を這いずり回っているあの恐怖と不快感。そして、間近で見てしまった時のグロテスクな造形は精神を軽く破壊してくる。魔物がどうとか言っている場合ではない。まずは虫の対策だ。それを万全にすべきである。
「かっかかかっ完全に迂闊だったわ。今日のところは一度帰りましょう!そして、作戦を練り直しましょう。ナビィには虫除けと殺虫の魔法の作成をお願いするわっ!」
『ここまで来て戻るのですか?あなたって人は……』
「何と言われようと構わないわ。あなたが指定したこの森のレベルが高すぎるのが悪いのよ」
『無茶苦茶を言いますね……。てっきり私は虫は平気なのかと』
「はいっ!?どうしてそんな。あるわけないでしょう」
『だってほら』
「ほら……?なに……ょ…………ひっ」
首筋に髪の毛が触れる感触とは違うものを感じ、私は完全に動きを止めた。
「……………………………」
『ターフ・ヤタイロトですね。四本の長い足と四本の短い足を持った肉食の虫ですね。走っている途中で草の間から髪に飛び移ったのでしょう。ずっとそのままにしているから、私はてっきり虫が好きなのかと思ってましたよ。髪の毛に纏わり付かせたままだなんてお茶目さんだなーって』
「……………………………」
『おや?そこは「何がお茶目さんよーー!」と突っ込むところでは?』
「……………………………」
『何をいつまで固まっているんですか。ターフ・ヤタイロトは虫相手の肉食ですが、ごく稀に飛び乗った動物に毒牙を振るうこともあるそうです。早く振り払う事をお勧めしますよ』
「………………………とっ……」
『すいません、聞こえませんでした。なにせ、あなたの心の叫び声がうるさ過ぎてそちらの音声が聞き取れないんですよ』
「………て、って言ってんの……やく、お願い……」
『まったく、よくまあ並列して色んな事を叫べますね。この才能を普段から術式構築に使ってくださればいいのに』
「取って……早……私、触れ……ひっ!!?」
『おや、動き始めましたね。ターフ・ヤタイロトは心音に敏感ですから。一説には【エンジャー曲線】を辿って心臓を狙っているとも考えられていまして、この虫を元にした魔物がーーー』
「そんなこといいからっどうにかしてぇえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええっ!!!!!!!!!!!!」
私は鎖骨から下へと這っていく感触に耐え切れず、まるで爆発でもしたかのよう暴れ転げ回ると猛ダッシュを決め込んだ。
「いゃやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!」
牢獄に入れられていた時、うねうねする虫がいっぱいいて碌に眠ることもできなかった。そして、奴らは決まって私が気絶した時に群がってきたのだ。耳の中に入ってきた時なんて、この世の終わりかと思ったほどに発狂し大絶叫したものだ。そうすると必ず看守の男が私を黙らせにやってきて本当に酷い目に合いっぱなしだった。前世の虫も嫌いだが、この世界の虫はそれを軽く凌駕する気持ち悪さだ。それが今、体に纏わりついているなんてありえないっ!
『ちょっと!いったいどこまで走るおつもりですか!?いい加減止まってください!』
「いやよ!!私は止まらないわっ!動きを止めたらあいつら襲ってくるものっ!這いずり回ってくるもの!私を止めたければ殺虫剤でも出しなさいっ!!」
『無茶を言わないで下さい。そんなくだらない魔法あったとしても絶対に用意しません』
「ばかっ!ひとでなし!」
『人じゃないですから、結構です。それとあなた体力が乏しいのですからそれ以上息を切らすと魔法を使った時に倒れますよ』
「う、うるさいわね!家に帰るまでの辛抱よ!そうすればどうってことないわっ!」
『そうですか。では、もう何も言いません。ああ、因みに家は反対ですよ。体力、保つといいですね。では』
「え…………………!?」
ナビィに言われて私はズザアッと足を止めた。
息をゼェハァと吐きながら辺りを見回す。気が付けば数メートル先を見るのがやっとな暗闇の視界。周囲から絶え間なく聞こえてくる葉の擦れる音。近くで鳥が羽ばたく音に肩を跳ね上げ振り返る。そして振り返ったその先にも同じ景色があって、私は息を止めた。視線だけが忙しなく動く。服から露出した手脚に葉や枝で切ったのだろう複数の切り傷を目にする。
そうして私は片手で額を抑えると、すぅっと細く息を吐いていった。
(やってしまった……)
暴走するあまり、いつの間にか森の奥地へと来てしまっていたようだった。
「な、ナビィ?……ナビィさーん?ぁぁ、あのぉ………………助けて……」
立ち尽くした私はナビィに助けを求めることしかできなかった。
ぐすんっ……………。
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