第3話 明日の不安と過去のバッドスタート

 明日からこの家を離れ、旅に出る。

 漠然とした期待と、わずかな不安で気持ちが落ち着かない。


「眠れない」


 星明かりを遮っていたカーテンを開けて、ベッドに寝転がりながら窓の先に映る夜空を見上げる。

 すぅっと息を吸ってゆっくり吐いていった。

 東京の空とは大違い。

 満天の星空はこの半年間何度も見てきたが、未だに見飽きない。

 徐に手を伸ばし、幼く小さな手が青白い光に触れる様を見つめる。


「私は……ほんと、なにしてるんですかね」


 前世、一般的な社会人男性だった俺は、半年前に呆気なく死んだ。そして、同じく半年前、俺は私としてこの世界に転生してしまった。


「小さな手。この体は、本当は誰のものだったのでしょうか」


 その不思議な物言いは他人が聞けば意味の分からないものだろう。だが、私はそれを考えなかった日は一日もない。



 ーーーてめぇッ!死んだんじゃなかったのか、あ?死んだ振りして逃げようとしてたんじゃねぇだろうな!



 あの言葉は多分そういうことを意味している、と私はそう確信していた。





 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜





 車に撥ねられたあの時ーーー。

 自分に起きた正確なことは全く思い出せないが、体で味わった痛みは驚くほど鮮明に覚えている。

 脇下から下半身に掛けて受けた衝撃。その時にフロントバンパーの下部に巻き込まれたらしい右脛の骨折した感触と激痛。吹き飛ばされた先で壁に叩きつけられたことによる左肩の破砕音。頭部を打ちつけた際の意識の明滅。音も視界も一気に遠くなっていったあの形容し難い瞬間。体の自由はもう効かない。それを悟ったのは、目の前に例の車が間を置かずにまた突っ込んできた時だ。撥ね飛ばされて壁からずり落ちる最中、俺は反射的に手を前に出して身を守ろうとした。だけど、腕は上がらなかった。それどころか首も腰も足も。なんだこれは。そう思った時にはもう、体が壁と車の間でくしゃりと潰されてしまった。


 ーーーぷつん。


 今思い返せば死の瞬間は、まるでテレビの電源が突然落ちた様なそんな感覚に似ていた。

 そして、すぐに。

 全身にスタンガンで電気を流し込まれた様な感覚に襲われた。

 強制的に意識を覚醒させられた俺はーーー。





 気付くと、そこにいた。




「……っ…………ぅっ……」


 喉が焼ける様に乾いていて、なのに口の中はべっとりとした血の味で満たされていた。

 息をするたびにひゅうひゅうと喉が鳴る。

 立ちあがろうにも身体中に力が入らない。

 手足が激痛に苛まれていた。

 体の感覚があるだけマシだったのかもしれない。

 うつ伏せに倒れていた俺は首をなんとか動かして自分がいる場所がどこなのか探った。開き切らない瞼が視界を遮るが、それでも辛うじて目が見えていたのは幸いだった。

 薄暗いその場所に見えたのは、凹凸の激しい荒れた石畳み。その僅か先にある鉄柵。その奥でか細く灯っている火の灯り。その灯りを遮るように目の前に突然現れた人影。


 ーーー人影?


 そう思った時には既に、その人影は鉄柵を乱暴に開けてこちら側に入ってきていた。ここが事故現場なのか、それとも病院なのか、もっと違う場所なのか、そんなことを考える暇もなかった。

 それは俺の前で立ち止まるや否や俺の髪を掴んでそのまま引っ張り上げてきた。地面に這いつくばっていた俺は無理矢理相手の目線まで持ち上げられ、ごつい顔をした男と対面した。


「ぁ、…………あ、っ、ぁ…………」


 頭皮の痛みに声が自然と出てしまう。

 それが気に入らなかったのかは分からない。

 俺は鳩尾に拳が叩きつけられた。

 反射的にえずく。口から胃液と唾液と血がぼたぼたと溢れでる。

 ああ、だから喉が焼かれる様に痛かったのか。

 俺は呑気にもそんなことを思ってしまった。

 なんだこの男は。

 俺はどうした。

 この理不尽はいったいどういうことだ。

 途端にようやく思考が機能し始める。

 ここが牢屋で、自分を引っ張り上げているのは誰だ?看守か?それにしては身なりがひどい。三流舞台のモブ衣装の様なザ・盗賊ですみたいな格好だ。腕の筋肉なんて日本人とは全く違っていた。

 しかし、そんな思考はこの男の前では意味を持たず、極悪な表情で激しく恫喝された。


「てめぇッ!死んだんじゃなかったのか、あ?死んだ振りして逃げようとしてたんじゃねぇだろうな!」


 死んだ?

 そういえば、たしか、ああ…………俺は死んだ……死んだ、よな。


「おい黙ってねえでさっさと答えろ、カスが!!」

「ッ!!!」


 また同じところを殴られた。

 体が痙攣した様に咽びく。


「チッ、胸糞悪りぃ。てめえはもう終めぇだ。せっかくのエルフだからって甘やかしすぎたか?散々可愛がってやったってのにまだ逆らうってのか。クソが!あ?文句あんのか畜生が!てめえみてぇな使えねぇ奴は高山奴隷って決まってんだ」


 可愛がる?奴隷?

 ……そういうことか。

 成り行きは全く分からない。だが、今置かれている状況はなんとなく分かった。

 男に乱暴に投げ捨てられた俺は数日後、牢獄から出されると雨雲の垂れ込む薄暗い外に連れ出され、見慣れない生き物が引く荷車に放り込まれた。走る荷車の中で草木が通り過ぎる景色を見て、見慣れた物があることに少し安堵を覚えた。しかし、それも束の間。雨が降り始め、道が時間経過とともに悪路へと変わっていく。そんな中、走行する荷車に悲劇が起きた。


『ギィイイイイアアアアアアアーーー!!!!』


 聞いたこともない雄叫び。次いで横転する荷車。体を色んなところに打ち付けながら辛うじて上げた顔の前に、見たこともない巨大な生物。四足歩行で漫画やゲームに出てくる様な獰猛な獣だ。

 車に轢かれたのはマシな方だったんだな。

 冗談にしては趣味の悪い思考が浮かび上がる。


(よく分からない間に、俺はーーー私はまた死ぬのか)


 その時、確かに思った。

 死を、覚悟した。

 自分に喰らいつかんと駆け出してくる巨大な生物。


「……たす、けて……」


 口が勝手に動いていた。


「助けてぇっ!いやぁあっ!死にたくないっ!!!!」


 掠れた声。それでもなりふり構わず叫んでいた。

 獰猛に牙を剥く獣が目と鼻の先まで迫っていたその間際に命乞いなんて何の意味もなさない。でも、叫ばずにはいられなかった。意識とは関係なく、そうしてしまったのだ。

 そして、私は。


「ぁ、……ぁぁ」

「これでよいか?」


 そこに長い金髪を靡かせながら振り向く凛とした美しい少女が立っていた。少女は自分の数十倍も巨大な生物を細い片手一つで動きを止めていた。


「貴様、エルフかや。こんないたいけな女子おなごを奴隷にするとは。うむ、其奴らは助けんでよいな。待っておれ。今、片付ける」


 少女は言うと、まるで風船でも握り潰す様に手の平を握ると巨大な生き物がそれに合わせて爆ぜ、四散した。

 雨が赤に染まり、足元もその色に染まっていく。


「我は、カルティエ・ロエ・マヌエル」


 長い髪を手で払いながら彼女はそう名乗った。


「名前の通り、【ロエノシタン】の化身……ぉ、おおい、これ、貴様しっかりせい!?」


 意識を保つのが限界に達してしまった私は、カルティエと名乗る少女から差し出された手を掴もうとしたところで事切れてしまう。

 次に目覚めた時は、ふかふかのベッドの上で暖かい毛布に包まれていた。

 傍らには私の窮地を救ってくれたあの少女。

 私はその少女の世話になることになり、いろいろと教えてもらう内になんとなく先生ではなく、師匠と呼ぶ様になっていった。





 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜





 この家を出て外に行くのは少し抵抗があった。

 地球とは全く違った外界。

 あの時襲ってきたのは魔獣というらしい。魔法が使えるから魔獣なんだそうだ。ちなみに、植物や無機物が魔法を駆使して生物化したのがモンスター。魔獣とモンスターを合わせて、魔物と総称するらしい。

 まあ、師匠からは簡単にしか聞いていないからこんなかんじだが、本を読む限りではもっと厳密な理由と区分がある様だった。

 それはさておき、あんなのがいる外の世界に行きたくないというのが本心だ。

 それに。

 あれから結局、師匠からは旅の目的地やら旅程やらの具体的なことは何も教えてもらえなかった。唯一言われたことと言えば、常に使う物だけカバンに入れておけということだけ。

 ざっくりし過ぎて、不安しか湧かない。

 旅先で路頭に迷うこと必死な気がする。

 計画性が皆無過ぎやしないだろうか……。

 そんなこんなで。


「キリア。隈ができておるぞ?」


 朝になっていた。

 とりあえず朝食を作り、私は師匠と向かい合わせに座ると気怠さを朝食と一緒に飲み込んで行った。


「本当に行くんですか?」

「行く。これは決定事項じゃ」

「大丈夫なんですか?なんか、路頭に迷う未来しか思い浮かばないんですが」

「そんなことはない。ほれ、シャキッとせい。さっさと飯を食え。荷物を持ったらすぐにくぞ」

「そ、そんなすぐですか?私……実は荷物の準備が」


 うぅ、と言いづらそうに言うと、師匠は小さくため息を吐いた。


「仕方ないやっちゃな。それなら荷物は持たんでよい。どうせ貴様は路銀も何も持っておらんしな」

「え、でもそんな」


 食い下がろうとしたが、しかし、師匠はそれ以上取り合ってくれなかった。

 そうして私は戸惑いながら師匠と家を出た。

 手ぶら。私、手ぶらで旅するの!?

 洗い物が終わった途端に手を引かれて連れてこられた私には用意の暇も無かった。なんでもいいからカバンに詰めておけばよかったと酷く後悔した。


「まあ、見ておれ」


 家の方に振り返った師匠は赤い瓦屋根が特徴の二階建ての屋敷を手で隠す様に薙いだ。

 瞬間。


「き、えた……?」


 目の前から屋敷がーーー師匠と私が住んでいた家が一瞬にして消えてしまった。


「ほい、終了」

「あの、これはどういう」

「どうもこうも、しまったんじゃよ」


 しまった?


「【擬位界層フェイクテクスチャー】という術者固有の位界層に物質を移す魔法じゃ。これで宿がなくても家で寝れるぞ」


 必要な物だけカバンに入れる意味がやっとわかった……。


「こんなことできるなら早く言ってくださいよ」

「ん?言わんかったかや?」


 言ってないですよ、もう……睡眠時間返して。

 師匠を先頭に私はその後について行くのだった。


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