挿話 その3「善は善なり。悪は悪なり」
「だ、大丈夫ですか!? ああ、そんな……! きゅ、救急車が来ます! 気をしっかり!」
それは、あまりに突然だった。
月に一度、隣県で行われる担当者会議。私――
だが、この日だけは違った。
車通りの少ない見通しの悪いカーブを曲がった際、突然対向車線から一台の軽自動車が猛スピードで突っ込んで来たのだ。必死にハンドルを切ってかわそうとしたが駄目だった。耳をつんざくスキール音を鳴らしながら軽自動車は、私の乗る社用車をかすめ岩壁に激突した
「す……すみません……よそ見をしていた……みたいで……ごほっ……!」
「あ、あの、喋らない方がいいですよ? 怪我、されているので……ううっ、出血が
私は、額から流れ落ちる汗を拭いながら、潰れた運転席に挟まれぐったりしている軽自動車の運転手の傷の深さに震えていた。シートとハンドルに挟まれた右足が、ありえない角度に曲がっている。
「ご迷惑……かけちゃいました……。僕が……悪かったんだって……言ってくださいね……」
「い、いやいやいや! 駄目ですよ! きっと助かります! ほら、がんばって! ねえ!」
くそっ――救急車はまだ来ないのか。ここは町の中心地からは外れ、店や住宅もぽつりぽつりとしかない。事故の後、ここを通りすがった車さえ一台もなかった。心細い。不安が募る。
「あ、あの……ペン、あります……?」
「ありますけど……何に使うんです?」
「ちゃんと……書いておこうと思って。あなたにご迷惑を……かけたくないんです」
「ですから! 絶対に助かります!
「万が一……ってことも。ね? お願いですから」
彼の決意は固い。私は仕方なしに社用車に戻ると、ノートを一枚破り取り、社名の入った黒ボールペンを
「ありがとう……ございます。ええと……すみません、血で、手が……支えてもらえますか?」
しっかり握れるよう彼の右手に手を重ねる。そして、彼の動きに合わせて重ねた手を動かした――この人に、セキニンはありません。ボクのカシツです――そう書いた。
「ほ、ほら、もういいでしょう? じっとしてなくちゃ。安静にして待ちましょうよ」
「は、はい………………」
ずっと申し訳なさそうな顔をしていた彼がようやく、にこり、と笑った。
かすかにサイレンの音が聴こえた。私は音のする方向へと走り出ると、大きく声を上げ、両手を頭の上で振り続けた。次第にサイレンの音が大きくなる。私は急いで彼のもとへ向かった。
「き、来ましたよ! 救急車が! これでたすか――」
安らかな顔つきで、彼は目を閉じていた――そして、再びその目が開くことはなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「――判決を言い渡します。主文――被告人を禁固三年に処する」
裁判長がそう告げた途端、弾かれたように弁護人が立ち上がった。
「し、執行猶予なしですか? 被告は初犯で、本件においての被害者でもあるんですよ!?」
「当裁判所は、被告の行為は極めて利己的で、自分本位の身勝手な行動と判断しました」
「しかし、裁判長!」
「……この判決に不服がある時は、十四日以内に控訴することができます。知っていますね?」
目の前で起きている出来事が理解できない私に冷ややかな視線を送り、裁判長は告げる。
「では、これで閉廷します」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「ど、どういうことなんでしょうか……? これ、何かの間違い……ですよね? おかしいじゃ……ないですか。だって、私は……私は事故に出くわしただけで……なのに」
次の瞬間、私の弁護人である
「おかしいじゃないかですって? それはこっちの
「く、苦し……!?」
私はすっかり動転してしまい、八馬川が握りしめる手をなんとか解こうと必死にもがいていた。その目と鼻の先で、喰いつかんばかりの勢いで八馬川はなおも声を荒げた。
「
「ど、どういう……? ま、まさか……あなたまであのメモを、私が無理矢理書かせたと――」
「誰が見たってそうでしょう!」
八馬川は乱暴に私を突き飛ばすと、裁判資料が並べられた机の上を平手で叩いた。
「被害者の手の甲から、あなたの指紋が綺麗に出てきたじゃないですか。それも両手ともだ!」
「か、彼が言い出したんですよ? 迷惑かけないように書き残しておきたいんだ、って……!」
「……一体どこの間抜けがそんな見え見えの嘘、信じるって言うんです?」
「う、嘘じゃない!? うまく力が入らないから、支えて欲しいって言われて、それで……!」
「そ・れ・で・? 代わりに書いてやった、そう
ようやく解放された私は、げほげほと咳込みながらパイプ椅子に座り込んだ。八馬川は言う。
「目撃者なし。こちら側のブレーキ
私には返す言葉がない。
最後に八馬川は、吐き捨てるようにこう告げた。
「あなたは……悪魔だ。人間の
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
『もうあなたとやっていける自信がありません。娘は私がひとりで育てます。さようなら』
三年の刑期を終えて出所した私を待っていたのは、震える文字で書かれた一枚の手紙と、何もないがらんどうの我が家だった。
玄関には『人殺し』とスプレーで落書きされ、窓ガラスは投石で割られていた。まだ3歳の娘が笑顔で駆けずり回っていた庭には投棄されたゴミが散乱し、ポストには私を非難する文面の手紙と請求書、ローンの返済書が溜まりまくっていた。
「……ははは。……だよな」
妻の
「……もしもし?」
「桐原か? 私だ、
青海部長は私の直属の上司だ。
私は慌てて受話器に向かって何度もお辞儀をする。
「こ、このたびは本当に申し訳ございませんでした。……仕事復帰であれば、二、三日中には」
「はぁ? ……何を勘違いしてる? 犯罪者を雇うところなんぞあるわけないだろ? 首だ!」
「い――いやいや! 話を聞いてください! 私は本当に何もしてないんです!」
「そんな話、通じる訳がないだろう!? ……荷物は宅急便で送る。最後の情けだと思えよ」
通話終了を示す継続的な電子音を耳にしながら、私は、へたり、と座り込んだ。
「私は……私は何も……何も悪くないのに……! どうしてこんな目に遭わなければ……!」
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