挿話 その2「天使と呼ばれた女」

「――天藤てんどう博士! よろしいでしょうか?」


 私は高々と挙げられた手に向けて、どうぞ、と続きを促した。

 フラッシュがまたたく。


「――今回の、この『人工多能性幹細胞』の樹立によって、病に苦しむ多くの人々が救われると、そう考えてよろしいのでしょうか?」

「先程もお伝えしましたが、『』、そう命名しました。その方が呼びやすいでしょう?」


 おどけた口調で私がウインクすると、集まった記者席からひそやかな笑い声が漏れる。一転、私は表情を引き締めると、淀みない滑らかな口調でこう告げた。


「そして――先程のご質問への回答は、イエス、です。この分化万能性を有した細胞『アイセル』は、理論上、身体を構成するありとあらゆる組織や臓器に分化誘導することが可能です。つまり、患者自身から採取した細胞から、まったく拒絶反応のない組織や臓器を複製することが可能になるのです。従来の『再生医療』における課題がクリアされたことにもなります」

「その……ええと、従来の『再生医療』における課題……っていうのは……なんなんです?」

「い、いわゆる『クローニン――」


 私は隣の席に座る死人のごとき顔つきをした助手――砂川さがわの前にあるマイクを奪い去った。


「……失礼しました。今のご質問への回答ですが――」


 行き場をなくした言葉のせいで、ぽかん、と口を開けたまま固まっている砂川の間の抜けた表情を横目に、私は込み上げる怒りと苛立ちを隠すので精一杯だった。




 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆




「砂川! さっきのは一体なんのつもり!? 誰が勝手に喋っていいって言ったのよ!?」

「で、ですが、し、質問をされたので……。つ、つい……」


 ――ばん!


 私は怒りのままに机を叩き、今にも消えてなくなりたい、と言わんばかりの砂川の目の前に腰掛けると、その脂汗を浮かべた額に穴を開ける勢いでタイトスカートから伸びた足を組む。


「ふざけないで! あなた、『クローニング』って言おうとしたでしょ? いくらあなたでもわかってるはず。それが世間の風潮では禁忌タブーの言葉だって! あなたは馬鹿なの? ねえ!」

「で、ですが、こ、今回の『人工多能性幹細胞』においては――」

「『』! そう命名したのよ! あたしが!」


 ばん!――もう一度椅子代わりに腰掛けている机を平手で叩きつけた。その衝撃で今朝キレイにしたばかりのターコイズカラーのネイルが欠け――気に入っていたのに!――余計苛立ちがつのった。


 そしてこの、うだつの上がらない男の粘りつくようないやらしい視線にも。


「……どこ見てるの? 気持ち悪い……!」


 砂川は慌てて私のスカートと太腿の間にできた隙間に向けていた視線をらす。


「あなたが余計なことを言ったせいで、何度訂正したと思ってるの!? 最後まで伝わらなかったじゃない! 『アイセル』という名前には、重要な意味が込められてるの!」

「『セル』は細胞……。そして、『アイ』はアルファベットの『i』……『Induced(誘導する)』『Inform(情報を与える)』『Inspire(ひらめきを与える)』の三つと……あ、『愛情』の『アイ』」


 最後のワードを口にした途端、いかにも不健康そうな砂川の土気色の顔にさっと朱がさした。


「ぜ・ん・ぶ・! この私が考えたの! 軽々しく口にしないで欲しいわね、あなたごときが!」

「す、すみません……。どうか……どうか、お許しください、天藤博士、いえ、叶依かなえ様……」


 唐突に砂川の口から私の名前が転び出たことだけでも耐え難いというのに、あろうことか恍惚とした表情を浮かべさえしていることが私の臓腑ぞうふを締め上げ、吐き気を催させる。


「どうか……。なにとぞ、この卑しいわたくしめにご慈悲を……叶依様……」


 砂川はまるで何かに憑かれたかのように、そのまま地味なタイルカーペットの上に這いつくばるようにひれ伏すと、目の前でゆらゆらと揺れる私の黒いロエベのヒールに釘付けになった。その手がそろそろと差し伸ばされて――ううっ――私はその手が触れる寸前に足を解いて立つ。


「も――もう、いいわよ! ただし……に、二度としないで頂戴」


 私は戦に出立する軍馬のごとくヒールを高らかに鳴らし、近くの椅子に置いてあった黒のショルダーバッグを引っ掴むと、会見会場の控室をあとにする。


 山のような資料なら、その法外な重さに愉悦の表情さえ浮かべながら砂川が抱えて戻ってくるだろう。本当に、本当に――気持ちが悪い男。






 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆






 私は夢を見ていた――もう二度と戻らない、あの頃の夢を。


「なあ、天藤君!」


『あの人』の曇りのない笑顔、その愛しい声。


「もし――もしもだ、この『ヒト人工多能性幹細胞』の樹立が成功したならば、僕たちは世界中で今なお苦しみ続けている患者たちを救えるのかもしれない! そんな奇跡が起こるんだ!」

「『僕たち』ではないでしょう、■■博士。あなたが苦境に耐え、なお諦めなかったからです」

「それは違う」


『あの人』は照れたように頭を掻き、怒ったようにむっつりとした子どもじみた仕草で言う。


「……君がいてくれたからだよ、叶依君。僕のそばに、ずっと。こんな貧乏研究所住まいの、まるでぱっとしない僕なんかのそばにいて、ずっと支えてくれた……ずっと見守ってくれた」

「■■博士……」

「おいおい、こんなシーンで『博士』はひどいな。いつものように、●●、と呼んでおくれ」


『あの人』の手が、私の長い髪を優しくくしけずる。その髪の一本、一本にまで伝わる暖かな感触。私はうっとりと、夢の中でなお、ゆっくりと目を閉じ、夢の世界へと誘われていく。


 が――私が目を閉じると、静かにしかし徐々に廻りの空気が淀み腐っていった。冷たく湿り気を帯びた、ぬたり、と気色の悪い粘着質の音を立ててそれが近づいてくる。そして、いよいよそれが言葉を発した。


「ああ……あなたは私だけの主人……。この卑しく矮小なわたくしめは、あなたのご慈悲に報いるためならば、なんでもいたしましょう……そう……それがたとえ……禁忌であろうとも」


 たまらず私は目を開き――肺の中の空気が枯れ果てるまで、長く高い叫びを上げていた。






 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆






「………………ルポライターですって?」

「え、ええ。これを」


 砂川が恭しい態度で差し出した名刺を手に取りなぞる。毒島ぶすじま宏行ひろゆき――まるで記憶にない名だ。


「はぁ……記者会見なら昨日やったじゃない。帰ってもらって」

「そ、それがですね……あ、あのう……」


 まったく、使えないんだから!――仕方なく、研究室の隅のパーテーションで簡易的に区切っただけのスペースへと急いだ。少しばかり強く言わないと――私は夢のせいで疲れていたのだ。


「私が天藤ですが――?」


 どこか見たことのあるような顔が、にやり、と笑った。


「聞いてた話と随分違うな。もっと澄まして気取った、クールな天使様だと思ってましたよ」

「……昨日の記者会見で疲れているのよ。放っておいて頂戴」


 確かにこの男――毒島の言うとおりだった。元々くせっけの髪はぼさぼさで、白衣にも皺が目立つ。ストッキングは伝線していて――高かったのに!――おまけにネイルも欠けたままだった。


「そういう訳にはいかないんですよ、こっちもね。是非、お聞きしたいことがありまして――」

「……勿体ぶらずに、さっさと言ったらどうかしら?」

「『■■博士の自死の真相』と言ったら、も少しおとなしく聞く気になってもらえますかね?」

「………………っ」


 私のとってつけたような仮面はたちまちがれ落ちた。心臓は早鐘を打ち、息が詰まって呼吸がしにくくなる。喘ぐように息をついてとげとげしい塊となった唾を呑み下し、毒島を睨む。


「そう怖い顔で睨まんでくださいよ、天藤博士――いや、叶依さん。俺はね、に復讐しようだとか、そんな愁傷しゅうしょうな男じゃない。兄と言っても、あいつとは腹違いでね」

「あなた……●●さんの義弟なの……?」

「どこか似ている――そんな顔されてましたよ、さっきね。伊達にルポライターで喰ってない」


 くく、と毒島は笑いを噛み殺しながら、ちら、と上目遣いで私を見た。


「――にしてもだ。あいつにしてはいい趣味じゃないか。貧乏で、地味で、研究にしかまるで興味を示さなかった、あの堅物が。……なあ、天藤さんよ、あいつと『』のかい?」

「な――っ!?」

「そんな小娘ぶった態度は鼻につくぜ? なあ、あいつと『』のか、って聞いてるんだ」




 毒島がテーブル越しに手を伸ばし、私の顔に手を添えた。


 その手があまりにも不愉快に生温かくて。

 その手があまりにも『あの人』を思い出させて。




 ――ばしん!




「い――いやっ!!」

「……痛えな。あいつの研究を自分の物にするために、身体まで道具に使った売女のくせによ」


 ずい、と身を乗り出し私の右手をつかむと、毒島はあっさりと捻り上げた。


「あいつには銭がなかった。あんた――いや、にはあった。だろ? あいつの手元にある限り100年経ってもどうにもならなかっただろうな。人類の進歩のため――なんとも泣ける話だぜ」


 この男は一体どこまで知っているのだろう。

 私に何をさせようと言うのだろう。


「なぁ、叶依。俺と組め。あいつより俺は何倍も良い男だぞ? お前だけを愛してやる。嫌というほどやるさ。研究しか能のない初心うぶな甘ちゃんには、お前の身体はさぞ持て余しただろうよ。そして、お前の研究結果がこの世界を一変させる! すべてがひれ伏すんだ!」


 まるでダンスのように私の身体はくるりと回り、やすやすと毒島の腕の中に囚われてしまった。もがけばもがくほど、その腕に力がこもる。そこに私は『あの人』の影を見ていた。




 馬鹿な――女。




 と、次の瞬間――ぶつん。




「て、てめぇ……。俺を……この俺を……刺しやがったな……!」

「ふ……っ! ふ……っ!」


 砂川だった。そう、


 私の身体を戒めていた拘束を解き、深々と右の脇腹後ろあたりに突き立てられたナイフにじれったそうに何度も手を伸ばす毒島は、よろよろ後ずさりながら、足をもつれさせ転倒した。


「くそ……っ! あいつを殺ったのは、てめぇだったのか……! くそ……っ……んぎぃっ!」


 何度も足蹴にされようとも砂川は怯まない。サンショウウオのような、ぱかり、と開けられた口からは激しい息遣いが――やがてそれは喜悦の喘ぎとなってのたうち回る毒島を嘲笑った。


 ぶつん、ぶつん――まるで悪夢だ。


 巧妙に手が届かない位置に突き立てられたナイフに毒島がもたついている間に、這うようにして追いついた砂川がそれを握ると、無邪気な子どものように加減なしにこねくり回した。そして、大きくなったうろの中に遠慮なく再び突き入れる。はじめこそ悲鳴に聴こえた毒島の声が、次第に獣の雄叫びのように、そして、最後には、ぼこり、ぼこりと、濁って粘ついた沼の水音のごとく変わっていく。びゅる――と腹圧に耐えかねた腸が飛び出し、狂ったように暴れ回る。




 私はそれをじっと見ていた。そう、


 そして、やがて静かになる。




「す、すみません……。どうか……どうかお許しください、叶依様……どうか……どうか……」


 返り血で全身を真っ赤に染めた男が足元で許しを乞うている――愉悦の笑みを浮かべながら。


「か、叶依様の、お、お進みになる道を阻む者は……こ、このわたくしめがすべて退けます。あ、あなたこそが、こ、この世界を救うべくつかわされた聖女なのですから……必ず……!!」


 私は感情を失くした顔で、聖女に遣えるために身も心も、全財産をも投げうった男への褒美を与える。


 その顔を。

 その背中を。

 その欲望の塊を踏みつけ、いたぶり、罵倒して――。


「ああ……本当に、馬鹿な――女」


 もはや私は、止まることなどできないのだ。




 もし立ち止まれば、その時はきっと――私の番なのだから。



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