生き仏となりて

敬二郎が目を覚ますと、扉が叩かれていた。

「どうかしましたか」

敬二郎が扉を開けると、村人が家の前にいた。

「敬二郎様。何かお示しを下され。でなければ我々は路頭に迷うことになります」

先頭で声を張り上げるのは雲海僧侶だ。

その喋り方にも、手の動きにも狂気が満ちている。

まだ米はあるはずなのに、彼らは救いを求めているのだ。

「皆さん。分かりました。とにかく時間を下さい」

「では我々はここでお待ちします。いつまでも」

林蔵がその場に座り込むと、笑いながら言った。その頬は痩せこけている。

「いいですが、皆さん米はありますよね」

敬二郎は確認した。すると、米という単語に異常に反応を示した。

「ああ!敬二郎様が次の策をくれると信じて食べてしまいました」

与一郎が笑顔で言う。彼にとって敬二郎は心の拠り所以上の存在となっていた。

「なんてことだ。しばしお待ちを」

敬二郎は素早く扉を閉めた。

いとはあまりの騒ぎに起きてしまったようだ。

「敬二郎さん。村人はみなどうかしてしまったんですか」

「そうかもしれない。何かが狂ってしまった。僕が母子を助けた事か、雲海を救った事か、策を与えた事か見当はつかないが、僕はどうしたらいいのだろう」

敬二郎は困っていた。食糧を与える事は出来ない。それはいとと産まれてくる子供を殺すことを意味するからだ。

「敬二郎さん。二人で逃げましょう。白沢村に行くのです。もし追って来るのであれば私はどこまでも逃げます。必ず御一緒します。だからお願い」

いとは必死に懇願した。

しかし、突然苦痛の表情を浮かべ始めた。

「いと。どうした」

「お腹が、痛い。産まれるかも知れません。お医者さんをお願いします」

しかし、医者も狂った村人の中にいた。白沢村に運ぶしかない。

その時、雨音が聞こえ始めた。

「おお!恵の雨!生き仏様が降らしてくださったのだ」

家の中まで響く村人の声。いとの恐怖を増長させた。

「生き仏様!姿を見せて下さい。我々に啓示を下さい」

敬二郎の前には苦しむいとがいる。

外には村人。医者もその中にいる。


ドンドンドンドンドン


扉や壁な叩かれる。早く、そして大きな音で。

「皆さん!これを食べて下さい」

敬二郎は米の入った袋を持つと、扉を開けて群衆の中央に投げ込んだ。

袋に群がる人々。

雨の中、生の米を泥と共に貪る用に食べている。

「我々のために、ご自分の食糧までくださるとは、まさに生き仏だ」

聞き慣れた竹吉の声がする。

彼も狂ってしまったのだ。親友が恩人に変わり、やがて神格化されてしまった。

竹吉は自慢の怪力で人を投げ飛ばし、米まで辿り着くと地面に這いつくばって米を食べた。その顔は笑顔である。


その騒ぎに乗じて敬二郎はいとをおぶると、裏の抜け穴から外に出た。目指す先は白沢村だ。

雨でいとが体力を減らさないように、傘を持ち、布団でくるんだ。

雨はまだ強く無かった。しかし、不穏な風が吹き荒れていた。

時々、苦しそうに呻くいとのために敬二郎は吊り橋まで走った。

濡れた木製の吊り橋は風で揺れ、足元も滑る。

敬二郎は恐怖と慎重さをもって渡りきった。すると、どのような経緯で伝わったかは分からないが、異変を知った白沢の村人達は吊り橋付近で大倉村の方を眺めていた。


「僕は、大倉村の清山敬二郎と言います。いとさんが産気づいてしまいました。大倉の医者は役にたちません。いとさんをお願いします」

すると、白沢村の庄屋の志本幸左衛門が現れて、人をさらに呼び始めた。

「敬二郎くん。大倉村はどうしたんだ」

いとが吊り橋近くのに入れてもらうと、幸左衛門は敬二郎に聞いた。

「狂っているとしか言いようがありません。とにかく『生き仏』がどうとか、よく分からないことを言って僕を追って来るのです」

「わかった。いとはこちらで面倒を見よう。君が追われているなら、吊り橋を落とす事もできるが、どうする」

吊り橋を落とせば山を超えて白沢村に来るしかない。

3日は時間を稼ぐことができるだろう。

「いとの顔を見て考えます」

既に敬二郎の意思は固まっていた。


敬二郎は布団に寝かされているいとの枕元に近づいた。

いとは目を覚ました。

「いと。頑張って元気な子供を産んでくれ」

いとは敬二郎の腕を力強く掴んだ。

「離さないわ。あなたが消えてしまうかもしれない」

すると、すぐに腹を抑えて苦しみ始めた。

「敬二郎さん。あなたがいなければ私は生きて行けない」

敬二郎はいとの手を握りしめた。

「大丈夫だ。君は強い。誰にも何にも負けない。僕も負けないよ。必ず帰ってくる。約束しよう」

いとは、涙を流しながら泣いた。そして痛みに苦しんだ。


「幸左衛門さん。斧を貸して下さい」

「ああ。それでいいんだな」

幸左衛門は敬二郎の決意の表情を見た。

そして雨に打たれながら、薪割り用の斧を渡した。

「ええ。でも大丈夫です。必ず帰ると約束しましたから」

すると敬二郎は滑る吊り橋を走って渡った。

大倉村側に着くと、斧を振り下ろした。

何度も振り下ろし、ついに吊り橋を落とした。

「生き仏となった男の末路か、いたたまれんな」

幸左衛門は一人でつぶやくと。落ちた吊り橋を眺めた。

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